二人の逃亡者
一体どれだけ走ったのだろうか。
追っ手はすぐにやってきた。
私たちは馬に乗っていたにも関わらず、一気に間合いを詰められてしまった。
恐らく、相手は駿馬だったのだろう。
夜目が効く訳ではない。
しかし、街灯の少ない街路は逃げ出すには格好の経路だったのだが、それは相手も同じだったようだ。
自分を追っ手の身に置き換えて考えても分かる。
きっと灯りの少ない、この暗がりを通るのだろうと。
「お嬢様! お急ぎ下さい!」
私は、私の後ろを走るアリシア様に向かって声を絞り出していた。
「エ、エリー! ちょ、ちょっとペースが……」
アリシア様はフリルがたっぷりついたドレスのスカートをたくし上げて馬にまたがっている。
さらに付け加えると、生地は真っ白だ。
とても逃走する者が着るような服ではない。
普通に考えれば、目立たない服装に着替えるのがセオリーだろう。
だが、現にお嬢様の恰好は「貴族のご令嬢」そのもの。
何故そんな格好なのか。
それは、夕食前に遡る。
アリシア様は、夕食前に旦那様に部屋に来るように呼ばれた。
時間になると旦那様の部屋を訪ねられたのだが、五分ほどすると血相を変えて部屋から飛び出してこられた。
私はダイニングで夕食の準備をしていたのだが、お嬢様は勢いよくそこに踏み込んできたかと思うと、
「エリー!」
と言って、私の手を強く引き、そのまま廊下へ飛び出すとご自分の部屋へと戻られた。
入ったところでお嬢様は膝に手をついて大きく喘いでいた。
無理もない。全力疾走で部屋に駆け込まれたのだから。
「はぁ! はぁ! エ、エリー!」
大きく荒れた息づかいを整えることもなく、お嬢様は私に話しかけられた。
「あ、あなたは、私に、つ、付いて来て、下さるかしら? はぁ、はぁ!」
お嬢様はとても大らかな方だ。
私はこの屋敷でお嬢様付きの召使いを言い渡されているが、そんな私へも丁寧に接して下さる。
私にだけではない。
この屋敷で働く全ての者に、お嬢様は笑顔で話しかけて下さる。
「あなた達のお陰で今日も廊下が綺麗だわ。ありがとう」
ある日の昼下がり。
廊下を歩くお嬢様は、掃除をしている者にそう話し掛けられていた。
声を掛けられた者ははにかみながら、けれども戸惑いながら……
会釈してからまた、黙々と作業を続けた。
またある時は、
「私たちだけいつも美味しい食事を頂いているわ。私たちを身近で支えてくれている者たちは普段どうしているのかしら?」
と、屋敷で働いている者たちの食事に気を配る始末。
それを聞いたフェルディナント様は、
「召使い共など、こき使って、使えなくなったら代えればいい。代わりなどいくらでもいるのだ」
と聞く耳持たんといった態度。
旦那様は、
「アリシアは優しいが、時にはそれが過ぎることがあるな。その辺りの線引きをしっかりできればいいのだが……」
と苦笑いを含みつつ、しかし嬉しそうな表情だった。
アリシア様はとても人当たりが良い。
人当たりが良いだけではただの「いい人」だが、声を掛けた者の境遇を思い、何とかならないかを考えるお人だ。
そういった人は「優しい人」なのだと旦那様はよく仰っていた。
対してフェルディナント様は強引に物事を解決されようとする。
旦那様もよく頭を抱えていらっしゃった。
同じ親で、何故こうも違うのか、と。
だからこそ、旦那様は決意なされたのではないだろうか。
「エリー、よく聞いて。お父様は私こそがこのカムリ家を継ぐにふさわしいと仰るのです。お兄様よりも……」
アリシア様は息を整えると、まっすぐな眼差しを私に向けながらそう仰った。
私も旦那様に賛成だ。
私のような一介の召使いが申し上げるのもなんだが、家督を継がれるのはフェルディナント様より、アリシア様がふさわしい。
だが、フェルディナント様のプライドはとても高い。
それこそ、山よりも高く、海よりも深く……
そんな驕慢の塊であるフェルディナント様が、ご自分が家督を継げないと知ったらどうなるか……
想像しただけでも恐ろしい。
ところがそれが今現実になってしまった。
こうして馬に乗って夜道を駆け抜けているのは、何も好き好んでやっている訳ではないのだ。
恐らく、フェルディナント様は、どこかでお嬢様が家督を継がれることをお知りになったんだろう。
そのことに納得がいかず、お嬢様をお探しになられ、屋敷にいらっしゃらないことを知り追っ手を差し向けたということか。
さすがフェルディナント様だ。
普段ならともかく、こういう悪知恵だけはよく回る……
旦那様は遅かれ早かれこうなることを予め予想されていたのではないだろうか。
だから旦那様はアリシア様をお呼びになり、ご自分の考えを伝えられたのだろう。
そしてすぐに家を出よと仰った。
恐らく、フェルディナント様がアリシア様に剣を向けると踏んだに違いない。
それを、アリシア様はご自分のお部屋で私に早口でまくし立てるように言うと、
「ど、どうすればよいのでしょうか?」
と私に問いかけた。
力があれば立ち向かえばいい。
だが、生憎アリシア様に剣の作法はなく、フェルディナント様は剣士団一の腕前とくれば、選択肢は絞られる。
――逃げるのだ。
「お嬢様。旦那様の仰る通りでございます。ことが起こる前に今すぐこの屋敷を出るのです」
「で、出るといっても……」
「先程、お嬢様は私に何があっても付いてきて欲しいと仰いました。私はカムリ家に仕える使用人の一人ですが、お嬢様専属を旦那様より仰せつかっております」
私はお嬢様に跪き、首を垂れた。
「私が……、お嬢様をお守りいたします」
その後だ。
何やら屋敷内が騒がしくなったのは。
何が起こったのか確かめても良かったかもしれないが、その騒ぎの発端がフェルディナント様であればこの場に留まっていてはまずい。
何もなければそれで済む話。
まずは行動に移すべきだ。
そう判断し、今度は私がお嬢様の手を引いて部屋を飛び出した。
何故、着の身着のままでの逃走なのかはこれで説明がつくだろう。
単に着替える時間がなかったのである。
そして、こっそりと家裏の厩舎へ行き、二頭の馬に鞍を乗せ、手綱を引き、夜道を走らせた。
お嬢様はさすが貴族の娘といったところか。
馬術は幼い頃より嗜んでおられる。
貴族令嬢とくれば、乗馬の際は横乗りが基本なのだが、お嬢様は違う。
馬の背にまたがってお乗りになることもできるのだ。
そこは旦那様の拘りで、
「いついかなるときにも、臨機応変が効くように」
と、貴族令嬢ではまず考えられない、普通にまたがって乗る練習もされていた。
ちなみに、お嬢様がお乗りになった馬は、いつも乗馬に使われる馬だ。
乗り慣れた馬だからこそ、扱いも容易と言える。
敢えてそれを選んだ訳だから当然といえば当然だが。
私はというと、お嬢様の乗馬にお仕えできるよう一通り旦那様から手解きを受けた。
旦那様曰く、「そこら辺の騎士よりも手綱の扱いが上手い」そうだ。
恐らくお世辞だろうが。
だが、それが今は功を奏した。
旦那様のスパルタとも言える、あらゆる場面を想定しての訓練は今になって活かされた。
まるでこれを予期していたかのように。
フェルディナント様は夕食後に旦那様に呼ばれる手筈となっていると聞いたから、十分程は時間はあるはず。
その間に行けるところまで走ろうと考えていたのだが、フェルディナント様の対応は思いのほか早かった。
追っ手はすぐにやってきたのだ。
全く、匂いを嗅ぎつけることだけに関してだけは秀でていらっしゃる……
「アリシア様を見つけたぞ!」
「早く捕まえろ――!」
私たちを追い掛けてくる剣士団の一人がそう叫んだ。
国一の貴族の娘を前に「捕まえろ」とは何事か……
無礼にもほどがあるだろうに!
私はギリリと奥歯を嚙み締めた。
「お嬢様、馬足を速めて下さい! このままでは追い付かれます!」
「で、でもエリー! 私、夜道を走るのは慣れていなくて……」
「慣れていないのは私も同じです!
「う、嘘おっしゃい! エリーはまるで昼間のように馬を走らせているではないですか!」
「お嬢様、今はそんなことを言っている場合ではありません! 今は逃げ延びることが第一です! お急ぎを!」
そうは言っても相手は訓練された兵士。
夜間の馬術も慣れたもので、グングンと距離を詰めてくる。
ふと前に目を向ければ、街の入り口である門が見えてきた。
ここを抜ければ平原に出る。
どこに向かうかはお嬢様と話さなければならないが、今はとにかく追っ手を振り切ることが先決だ。
私は何か良い手はないか思案しつつ、お嬢様の足並みは如何なものかとお嬢様にチラリと視線を走らせた時。
お嬢様の鞍に見慣れないものが載っていた。
あれは……
そして手綱から片手を離し、自分の座る鞍を弄った。
……ある。何故気がつかなかったのだろう。
私はお嬢様に叫んだ。
「お嬢様! 間も無く街の外へ続く門が見えます! そのままお進み下さい!」
「え? そのまま? エ、エリー!?」
叫ぶや否や、私は馬の歩みを少し遅らせ、お嬢様の後方へ馬を寄せた。
「私が逃走の時間を稼ぎます! すぐに戻りますから、早く前へ!」
戸惑うお嬢様を促しつつ、私は鞍の左右に手を伸ばし、それぞれを手にした。
手綱を握りつつ手にしたそれは狩猟用の弓矢だった。
急いでいたので気がつかなかったが、私は馬に狩猟用の鞍を載せていたようだ。
たまたまとは言え、すぐ手に取ったものがこれだったのは好都合だった。
私は身を捩り後方を向くと、弓矢を構えた。
狙うのは剣士団の馬だ。
私の弓の腕前は、恥ずかしながら上手いとはいえない。
だが、お嬢様を守ると決めた以上、それは貫かなければならない私の使命だ。
それに、当たらずとも足止め程度になればいい。
そう思い、弓を引きしぼり、矢を放つ。
ピュン! という小気味好い音と共に、矢は後方へ飛んでいった。
しばらくして馬の嗎いななきが聞こえた。
私はすぐに次の矢を取り、絞り、引く。
またピュン! と矢が飛ぶが、今度は嗎は聞こえない。
構わず放ち続けた。
そのうち、追っ手の馬の音が聞こえなくなった。
恐らく立ち止まったのだろう。
矢の残りを確認する。……十本程か。
この本数で残りをしのげるかは分からないが、逃走の時間は稼げたようだ。
私は弓を肩にかけると、手綱を強く握り、鞭をしならせて馬を叩いた。
馬が加速する。
前方を確認すると、お嬢様の馬が門を飛び出していくのが見えた。
馬の動きを見ると、やはり門の周辺にも兵がいたか?
だが、猛スピードで迫る馬に驚き、門を閉めるなどの対応は間に合わなかったのだろう。
好都合だ。
私はさらに馬を叩いた。
グン! とスピードが上がり周りの景色が後ろへと流れていく。
門が閉まり始めたがこのまま行く!
私はさらに馬の尻を叩いた!
いななき、それに答えるかのように私の馬は加速する!
あっという間に、私は兵が守りを固めている門を抜けて平原へと躍り出ることができた。
とりあえず脱出は成功だろう。
これからのことを考えなければ……
前を走るお嬢様の馬が近付いてきた。
良かった、ご無事のようだ。
こうして、お嬢様と私は逃亡者になった。
たった二人の逃亡者に……