『人間たちの夜』2.狂い咲きは秋に(5)
美和子が誘拐されて今日で五日目。
テストのヤマの安売り屋に捕まって、四科目分のヤマとノートを買わされ、なおも押し付けてくる『特売品』から何とか逃れて家に戻って来たのは、その日の夜だった。
夕飯を済ませ、ルトの件を確かめるべく、階段を駆け上がり周一郎の部屋の前で少し呼吸を整える。締め切ったドアは礼儀を押し付けてくる。
ノック、ゆっくり。
「誰?」
珍しく周一郎が誰何の声をかけて来た。気分が悪い時によくやる手だ。よっぽど自分の弱みをみせたくないらしい。
「俺だよ」
ガッシャンッ!!
「どうしたっ?!」
派手な音が響き渡るのに部屋の中へ飛び込んだ。
ガラスの置物が砕けて床に散らばっている。呆然としていた周一郎が俺の顔を見て、ハッとしたように破片を拾おうとしゃがみ込んだ。
「危ない! 手を切るぞ……いてってっ…」
周一郎の指を遮って破片を拾い集め、逆に俺が見事に指を切った。血が滲んでくる指先を振り回そうとして、次の瞬間、周一郎が取った行動にぎょっとする。
「??!!」
周一郎の指が俺の指に絡んでくる。当たり前のように血の滲んだ指をパクリと咥え込む。そのまま片手を伸ばしてサイド・テーブルのティッシュを抜き出し指先を包み、押さえながらちらりと俺を見た。硬直する俺の視線に恥じらうように薄く頬を染め、カットバンを取り出して傷に巻いてくれる。
応急処置だ。
ああ単なる応急処置のはずだ。
なのに、どうしてだろう、動作の一つ一つが妙に艶かしいというか色っぽいというか、っていうか、まずしないだろう、周一郎ならそんなこと!
「しゅ」
「大丈夫ですか?」
掬い上げるように見上げてくる、その瞳のまっすぐさ素直さに圧倒される。
おかしいぞ、と思った。
この同じような視線を俺は見たことがある。
ただし男じゃない、相手は女だ。俺に好意を持ってくれていると言った相手だ。
「え、あ、うん、あの、周一郎?」
「はい?」
小首を傾げる仕草が愛らしい、ってか! そうじゃない、そうじゃないだろう!
「あの、た、高野をっ高野をだな! 呼んでこないとだな!」
声が裏返ったのは緊急非常事態を体が感じ取ったせいだろう。
「呼ばないで下さい」
今度こそ確実に俺は総毛立った。空気の流れに巻かれたように、腕の中へ周一郎が体を滑り込ませてきたのだ。
「な、なにかっき、気分でも、わ、わ、悪いのかっ」
その気配が宮田にベタつくお由宇そっくりだと気づいて、俺は輪をかけて狼狽した。
「ええ…少し…」
低い囁きが胸のあたりで優しく漏れた。
「そ、そりゃあいかん! そりゃあいかんぞ! なっなっなっ」
必死に平静を装って頷き周一郎を見下す。周一郎も俺を見上げる。素直でキラキラした、俺だけを見つめる瞳に呑まれる……。
「ひ!」
(うわあああああ)
するりと首に絡みつけられる周一郎の腕に正気に返った。
「しゅ、しゅ、周一郎! お前は気分が悪い、だから寝る、俺は帰る、なっ」
「一人で?」
俺は真っ青になったに違いない。周一郎が不安そうに腕を緩めたのをいいことに、相手をベッドに放り込み、テレポーテーションまがいの素早さで部屋の外へ飛び出した。
「高野に言っとくから、ガラス、触んなよ!」
喚く声にどこか甘い周一郎の返答が重なる。
「はい。おやすみなさい、滝さん」
猛スピードで自室に飛び込み、うろたえてボストン・バッグに荷物を詰め出す。
(ああいう趣味だとは聞いてないぞ!!)
半泣きで『冗談じゃない』を心の中で繰り返す。コートまで詰めたところでやっと落ち着いてきて、ぐるぐる回る思考が止まってきた(尤もここを飛び出したところで、どうなるものでもないが)。
「本当にどうしたってんだ」
お由宇と言い、周一郎と言い……風邪熱で頭をやられたんじゃないだろうな。
「うわわ」
再びあの、周一郎の潤んだキラキラ瞳が戻ってきそうになって、慌てて両手を振り回す。
「散れ散れ散れ、散れっつーのに!!」
その動きで考えがうまい具合に混ざったのか、不意に一つの構造が閃いた。
周一郎 → 様子が変 → 風邪 → 薬 → 宮田
お由宇 → 同上 → 同上 → 同上 → 宮田
「まさか」
続いてもう一つ。
賭 → 山根 → 十万円 → 一週間内 → 今日は五日目 → 宮田 → 薬
「おい、まさか…」
(あんのクソ宮田!!)
その日一晩、俺はまんじりともせず、秋の夜長を過ごした。
周一郎のあの『瞳』を考えると、眠るどころの騒ぎじゃなかったのだ。