『人間たちの夜』2.狂い咲きは秋に(1)
「おーい!」
後ろから声が聴こえてきた。
俺は一度安易に振り返ったばかりに危うく退学になりかけた覚えがある。
「おいってば!」
今度こそ、ごめんだ。もう、テスト用紙盗人なんて疑いをかけられたり、デートを断られたり…。
「滝って!」
電柱にぶつかったり、三輪車のガキに馬鹿呼ばわり…。
すこーん!!
「!!」
次の瞬間、俺は景気のいい音とともに前のめりになっていた。俺の頭を思いっきりどやしつけたのは、どうやら前方に転がっている靴らしい。
「ってえなあ…」
ぼやきながら頭を摩る。いっつもこうだ、厄介事を引き込むの何のと言われるから大人しくしていれば、向こうから災難がやってくる。大体俺が何をしたって言うんだ、今なんか特にただ歩いていただけだ、何を企んでたわけもなく、真面目にただただ歩いていただけなのに、この善良な一市民に……。
「ひえっ」
思わず飛び退った。
「呼んでるだろうが」
目の前にいきなり突き出されたのは、宮田の牛乳びん底眼鏡だった。いつもむっつりしている顔に奇妙な笑みを浮かべている。
「な、なんだ」
「靴、返してくれ」
「はあ?」
前方を指差す相手に顔をしかめる。
「投げるからだろうが」
「立ち止まらんからだ」
「靴を投げなくても」
「じゃあ声だけでも立ち止まったのか」
「う」
「それみろ」
「……」
いろいろ言い返せる部分は一杯あるように思ったが、気力がなくなって仕方なしに靴を拾ってくる。
「何だ、何のようだ」
「佐野さん、どうしてる?」
にまりと笑われて不愉快になる。
「この間も聞いたよな?」
「あれからどうしたかと思ってさ」
にまにま笑いを全面に広げて宮田は続ける。
「ずっと寝てる。どうも風邪をこじらせたらしい。でも、ま、今日で三日目だから、あんまり長引いてもな」
「一人暮らしはいかんな」
「うん、病気だと心細いよな」
「一人暮らしはいかんよな」
「まあ、お由宇は強いししっかりしてるから」
「一人暮らしは女の子には無理だ」
「……何が言いたい?」
妙なところを強調する相手に不審感が募る。
「うん」
宮田は一つ頷いて、薄汚れた白衣のポケットから白い紙袋を取り出した。
「彼女に頼まれた風邪薬だ。効能書きをよく読んでから呑むように言ってくれ」
「…お由宇が頼んだ?」
「うん」
「お前に?」
「うんうん」
そんなことは言ってなかったが、と首を捻ると、宮田はまたもや不気味な笑いに唇を吊り上げた。
「一人暮らしが寂しいんだろうね、まあ、僕がいるけど」
「は?」
「それじゃ、彼女によろしく、研究が忙しくて訪ねられないのを謝っておいてくれ」
「おい…」
頭の中に疑問符が飛び交う。
お由宇が宮田に? 宮田がお由宇を? お由宇が宮田と? お由宇は宮田を?
「おい…っ」
冗談じゃないぞ。
こわごわと紙袋を開けて覗き込む。わけのわからない、とんでもない食べ物とか道具とかが入っているんじゃないかと心配したが、粉薬らしい包みが四~五袋、それに手描きらしいメモ一枚だけ。
「…薬、らしいな…」
何だか急に気落ちしてきた。
こんなものを親しく頼む間柄になっていたのか。
いつの間に。どうやって。
「………届けるか…」
どちらにせよ、俺にはそれ以外の選択肢はなかった。