『人間たちの夜』1.運命の日(3)
「…お由宇? 何してるんだ?」
いつものようにお由宇を尋ねてぽかんとする。玄関にも出てくれなかったから、勝手知ったる他人の家、あちこち探してようやくベッドの上で横になっていた相手を見つけた。
「見てわからない?」
「わかるけど…何してんだ?」
くしゃん、とお由宇は小さなくしゃみをした。溜め息をついて額に手を当てる。
「風邪ひいちゃったみたいなの。ここのところ、急に寒くなったでしょ。うとうと、うたた寝してたら、ね」
ハスキーボイスで熱っぽい目で見上げてくるお由宇はおそろしく色っぽかった。布団を被った体の線が透けそうで、胸が不規則に打ち出し、落ち着かなくなって、かろうじて声を絞り出す。
「水…飲んでくる」
「私にもちょうだい?」
くすりと甘く笑う。脳天を百tぐらいの分銅でどつかれた気分になって、ふらふらとキッチンの方へ彷徨い出る。
(テストのヤマ、どころじゃねえ…)
お由宇とはそういう関係になったことはない。たぶんきっと、これからもないはずだ、うん、きっと。
目の前が妙にチカチカしてきて、乱暴に水を呑み干し、シャツの袖でぐいっと口を擦る。
(落ちる、落ちるぞ、このままじゃ絶対落ちる、留年して、ひょっとしてそのまま退学とか、そんなことになるかもしんないぞ)
努めて冷静になるべく、ブラックホールに吸い込まれていく単位数や、考えるだけでぐったりするようなことばを一所懸命に思い浮かべ、新しいコップに水を入れて戻る。
なのに、奮闘努力は報われなかった。
「悪いんだけど……飲ませてくれる、志郎?」
体が思うように動かなくて。
囁くように告げられて、どっかん、とブラックホールからいろいろなものが飛び出した。
(熱のせいだ熱のせいだ熱のせいだ)
呪文よろしく唱えながら、のろのろ半身起こしたお由宇の背中を支えてやる。淡いピンクのパジャマの胸元はふんわり優しく膨らんでいる。熱い体は俺の腕にしっとりしなだれかかるようで、弾む呼吸がとんでもない妄想に繋がる。
ああ、俺って健全な男子だったんだなあ。
遠い目で考えるほど救い難い気分で、俺はお由宇の唇にコップを当てた。こくこくとおいしそうに喉を鳴らして飲むお由宇、今更ながら、上気した頬が明るくほんとに美人だ。
「…じゃない」
「え?」
ぶるぶると頭を振った俺を、お由宇が可愛らしく見上げて首を傾げた。
「…なあに?」
「何でもない」
ほんとまずいぞ、テストとかそういう問題じゃない。
大きく深く息を吐いて、お由宇に尋ねる。
「もう足りたか?」
「そう、ね」
潤んだ瞳でお由宇は俺を見つめた。
「もう少し…欲しいかも」
「…水入れてこようか」
「そこに、ありそうだけど」
お由宇の視線は俺の口に向けられる。
「……もう一杯、汲んでくる」
「いいのよ、ごちそうさま」
うろたえる俺にお由宇は微笑んで、身を横たえた。急いで布団を被せ、ぽんぽんと、ことさら子どもにするように叩く。
「まあ、気をつけろ。また後で見舞いに来るから」
「何か用があったんじゃないの?」
「…もういいんだ」
こんな状態のお由宇に何を頼めと。そしてまた、頼んだが最後、俺はどこまで冷静に振舞えるかと言われると、見事なほど自信がない。
「別にたいしたことじゃないんだ」
ただ俺が留年して、いろいろ困った問題が起こるだけだ。
「大人しく寝てろ」
「そう?」
「玄関の鍵が開いてた。注意しろよ。じゃ、な」
「うん」
にっこりとあどけなく笑うお由宇に笑い返して向きを変え、一気に落ち込む。
部屋を出て、悩んだけれど玄関のドアをきっちり閉め、急ぎ足に歩き出す。始めこそ勢い良く歩いていたが、大学に近づくにつれ、足は重く気分は塞いできた。
(どうしよう?)
頼みのお由宇は極楽状態、他に助けてくれそうな知り合いとなると、ほとんどいない。
(どうする?)
潔く諦めるか。思い切り良く納屋教授にすがりつくか。
(留年…)
金が続く、のか…。
「よう、どした?」
「ん…」
声をかけられて顔を上げる。
「シケた顔してるな?」
「宮田…」
にこやかな、いやもう喜々とした顔で宮田が近寄ってくる。
「お前に用はない」
「こっちにはあるぞ?」
誇らしげに胸を張る。
「納屋教授からだ」
「納屋教授?」
うわあ、もう追試もなしに切り捨てか、と引き攣る俺に、宮田が続ける。
「追試は延期だそうだ。他の奴に伝言していたのが、何だか回り回って伝えることになった」
延期? 何が?
(追試が)
「宮田っ!!」「うわっ」
次の瞬間、宮田に思い切りしがみつく。
「俺、お前が大好きだ!!」
「ばっばかばかばかばかっ!!」
宮田はばかの発売元みたいな台詞を吐きながら、俺を引きはがした。それからじろりと睨み、この低能、と呟くと、
「どうして延期になったか、知ってるか?」
「いや」
宮田は声を潜めた。
「誘拐が、あったんだ」「ゆー!」
今度は宮田が飛びかかってきて、俺の首をもぎ取ろうした。無言で暴れて数分、口を押さえつけたままの宮田がゆっくりとことばを繋ぐ。
「納屋教授のお嬢さん、美和子さんと言って、一年の子なんだが」
「…」
「今朝、泊まっていた友達の家を出てから行方がわからない」
「……」
嫌な予感しかしない。
「何でも、教授は彼女にテストの監視を頼むつもりだったらしくて、今朝南島駅で六時に待ち合わせていたらしいんだが、いくら待っても美和子さんは来ない。心配になって友達の家へ電話をかけたら、とっくに出かけたと言う。不安を募らせていたところに、お決まりの犯人からの連絡だ」
南島駅。
南島駅なんだなよりにもよって南島駅。
「…はぁああ」
「?どうした?」
「いや……もう何て言ったらいいのか…」
つまり俺は、娘を探し回っている父親に『文学論』をぶつけ、馬鹿な問答をしかけたことになる。もしこのまま娘さんが無事に戻らないとなれば、俺はきっと永久に大学に出入りすることさえ許されないかもしれない。
「ところで滝くん」
「…何だよおい」
しなだれかかるように宮田がすり寄ってきて身を引いた。満面笑顔の相手に嫌な予感が膨れ上がる。
「佐野由宇子さん、どうしてる?」
全身に走った悪寒に、俺は宮田をまじまじと見返した。