『人間たちの夜』1.運命の日(2)
「はっはっはっはっ…」
荒い息を吐きながら、南島駅のロッカー前で体を折った。
これだけ必死に走ったのは久しぶりだったせいか、なかなか呼吸が元に戻らない。涼しいはずの空気にも汗だくだくで、体も一緒に溶け落ちそうだ。財布からロッカーの鍵を取り出して開けてみると、ぎっしり詰まったノートと教科書が目に飛び込んできた。
「…んなろっ」
一瞬呆然としたものの、とにかく片端から引っ張り出し始める。出したものは次々と放り出していくが、一体どこにしまい込んだのか、納屋教授の講義文献もノートもなかなか見つからない。
「このくそ、単なるロッカーのくせに俺に逆らって匿う気か」
だんだん自棄になってきて、ばさばさ本を背後へ放り出していっていると。
ばちっ!!
「へ?」
異様な音が背後で響いた。おそるおそる振り返ったとたん、毛が逆立った。高そうなスーツを着た男の顔を分厚い本が直撃している。探していた『文学論』だ。
「す、すみませんっ!」
慌てて立ち上がり、相手から剥がれ落ちてきた『文学論』を受け止め、顔を見て凍った。
「滝君…」
いつもなら深みのある穏やかな声がひんやりと呼びかけてくる。このまま四次元ホールに逃げ出したかったが、どこにもそんな救いの手はやってこない。
「…納屋先生…」
引き攣る俺に、珍しく憂鬱そうな顔で教授は続けた。
「ちょうどよかった、君に聞きたいことが」
強いて冷静になろうと努めている声。
「お、俺、いや、ぼくは決して先生に『文学論』をぶつけるつもりなんかなかったんです!」
「いや、そうじゃ…」
「本当です! 信じて下さい! 全く悪気はなかったんです!」
「違う、その」
「先生にはとても感謝しています! 本当です! 先生は神様です! お釈迦様です! 八百万の神々、いざなぎいざなみ、天地開闢の…」
「違うちゅうとるじゃろうが!」「ひえっ」
いきなり怒鳴りつけられて二倍驚いた。あの納屋教授が人を怒鳴るなんて。しかもなんつー言葉遣いだ。
俺が固まったのに、さすがにはっとしたのだろう、納屋教授は少し赤くなって咳払いし、
「だから。私はそんなことを言っているんじゃない。……この辺りで、私の娘を見なかったかと尋ねたかったんだ」
「は? 娘? あ、でもぼくは先生の家に住んでないし娘さんとお付き合いもしてなくて…」
納屋教授は目を細めた。怖いどころの騒ぎじゃない。普段上品な顔が凄むと魔王一歩手前の形相になるのだと初めて知る。
「…十八、九歳の娘が通りがからなかったかね、と聞いている」
「いいえ見てません」
頭の中でばさばさと『単位』の文字が羽根を生やして飛び去っていくのに、慌てて答えた。
「そうか。では、失礼」
「は、はい」
がっくりする俺を振り向きもせず、教授は周囲を見回しながら、早足で立ち去っていく。
「………ふぅ」
溜め息を一つ。足元に散ったノートや教材を見下ろし、手にした『文学論』を眺め、のろのろとノート探しを続ける。
(単位をくれる、かな…?)
どう考えても危ない気がする。これ以上ノートを探しても無駄な気もする。
(いや、違うぞ、まだ何か打てる手がある!)
きっと追試で少しでもいい点を取れば、何とか一縷の望みは繋げるはずだ、と懸命に自分を励ましたが、ついつい溜め息が重なった。そんなことができるなら、とっくにできているはず、いやそもそも追試になってないだろう。
「あ…」
ようやく見つけたノートを引き抜き、『文学論』と他の教材を抱え、放り出した諸々をもう一度ロッカーに突っ込んで、脚を引きずりながら歩き出す。と、向こうからぶらぶら暇そうにやってくる二人連れに気がついた。
(山根と宮田?)
何ともおかしな組み合わせだ。
朝の七時、あまり仲良しこよしとは言えない二人が、どうしてこんな時間にこんな場所でうろうろしているのか。
一瞬あいつらも追試かなと思いかけたが、世慣れして処世術の塊のような山根がそんな要領の悪い状況に陥るとは思えないし、宮田は宮田で学業だけは人並み優れているはずだ。
向こうの二人は俺には気づいていない様子だ。声高に話しながらやってくる。けれど一瞬こちらを見た気もして、慌ててロッカーの陰に隠れた。
「本当だな」
「本当だとも、勝ったら十万、期限は一週間。どうする?」
山根の気取った声が煽った。
「一週間、ねえ…」
宮田の考え込んだ口調、度の強い、牛乳ビンの底のような眼鏡の奥で瞳がきらりと光った気がする。
「よし、いいだろう。もし、君が負けたらどうする?」
「同じ条件さ、ぼくが十万払う」
自信ありげに山根は請け負った。
(十万っ?!)
隠れたまま、目を見開く。
どうやら二人は何かの賭けをしたらしいが、山根と宮田に共通のターゲットとなりそうな対象なんて、思いつかない。
「にゃあ〜〜〜ん」
(ルト?)
「っ」
猫の声が響き、山根が顔を強張らせた。
「じゃ、じゃあな」
そそくさと離れていく山根の後ろ姿をじっと見ていた宮田が、唐突にくるりとこちらを向く。
(見つかった?)
思わず首を竦めるが、どうやら宮田は気づいていないらしく、コツ、コツ、コツと怪奇映画の足音チックな歩き方で改札口に向かって行きながら、にたりにたりと妙な笑いを浮かべている。そればかりか、
「ふっふっふっふっ……」
おどろおどろしく笑った。
「見てろよ,おれだってやるときはやるんだ…」
狂気の科学者か医者か、なおも怪しげな笑みに顔を歪めながら、
「薬が……『おれだよ』とさえ言えば……ふっふっふっふっ…」
改札口近くで立ち止まる。天井を見上げる。
「ふっふっふっ……ふわっはっはっは!」
周囲の人間がぎょっとした顔で急いで距離を取るが、宮田は気にした様子もない。黙ってさえいれば、それなりに見られる容貌であろうと、両手を天に差し上げつつ高笑いをする怪しい男には、近づかない方が確かに無難だ。
(いいから、早く行けって!)
問題は俺が一刻も早く改札を通り抜け、お由宇のところに駆け込んで、追試のヤマを当ててくれるのは無理だとしても、ここだけは外すな程度のアドバイスをもらいに行きたいと願っていることだ。
(早くしろ、早く! 何ならトイレでも行ってくれ!)
時間はどんどん過ぎ去っていく。だが、結局さすがの宮田も、高笑いをし続けたのは十分ほどで、後はふらふらとそこから離れていった。
「よしっ!」
急ぎ改札口に走り込む。ほっとしたような周囲の微笑に無意識に同調しながら、折よく来た電車に乗り込み、これで何もかもうまく行くような気持ちになった。
妙なことが起こる日だ。
ぼんやり思っても、とにかく今日の追試を乗り切ればいい、これ以上おかしなことなんて起こるはずがない、と言い聞かせてひたすらお由宇の家へと急ぐ。
厄介事吸引器の俺が既にいろいろ関わってしまっているのに。
そして、後から思えば、お由宇もこの日からおかしかったのだ。