『人間たちの夜』1.運命の日(1)
思えば、この日は初めっから妙だった。
「、…? んー?……まだ五時じゃないかあ…なんで今頃鳴るかな、おいっ」
目覚まし時計を掴んでまじまじ眺めた後、ぼかりと殴る。
「いてってってって…」
もちろん時計がめげるわけも凹むわけもなく、ずきずき痛んだ手に、より一層はっきり目覚めてしまっただけ、仕方なしに顔をしかめて布団の上に起き直る。
「何だってこんな早く目覚ましなんかかけて……」
ぼやきながらカレンダーに目をやる。
「……ひ、えええっっ!」
寝ぼけた目にも鮮やかな赤丸の下、間違いなく俺の字で追試と書かれている。慈しみ深い父親のような納屋教授(ナヤではなく、ノウヤだ)の笑顔が脳裏を奔り、ついでに身体中から血の気が引いた。
納屋教授は学内でも人気のある教師で、落ち着きと品格から英国紳士のようだと人気が高い。どこからどう見ても、落ち着きとも品格ともほど遠い俺のことを、なぜか不思議と気に入ってくれていて、いろいろ相談に乗ってくれる。
ひょっとすると、あんまり酷い状況になっているのを紳士としては見ていられなくなるのかもしれないが、今回の試験ももう留年決定だろうと言う状態の中、静かに穏やかに提案してくれた。
『滝君。君はやれば出来る生徒だと思っている。特別に追試をしてあげよう。一ヶ月後では? よし、それでもし、努力の跡が見られれば単位の考慮に加えよう』
教授の背後に後光が差し、ハレルヤ・コーラスが聞こえた気がしたものだ。
そして、その追試の日というのが、まさしく、今日。
「ノート! 本!」
うろたえながらベッドを飛び降りる。シーツに絡まって転がり落ちかけ、いろいろ縁起でもなかったが、そんな些細なことに拘っている場合じゃない。滅多に座らない机に突進して、残る数時間の奮闘努力にかけようとした、が。
「うっ」
今度は血だけではなく肉までもどこか遠い世界、四次元ホールにでも持って行かれた気がした。
机の上には数冊の小説とボールペンシャーペンとノート、しかも無関係なものばかりしかない。
「え? え? どこに俺……あ」
ちかりと頭の隅に駅のロッカーの映像が閃いた。
そうだそうだ、あの日、まだ一ヶ月もあると思って教材を放り込んだままだ。おまけに、あの日は宮田と映画を観に行く途中で、大学とは反対の南島駅だったはず。
じりりりりりっ。
茫然としていた俺は、再びの音に我に返った。五時半を示す目覚まし時計をベッドの中へ突っ込み、慌ててジーパンとカッターシャツを身に着けて部屋を出る。
「ととっ」
思い出して財布を取りに部屋に戻り、すぐに飛び出す。廊下を走っていると高野に出くわした。
「おはよう、ございます……いってらっしゃいませ…?」
訝しげに見送る彼を無視して、玄関から駆け出した。
そろそろ初秋、この時間はかなり肌寒い。体を震わせつつ、喘ぎながら駅に飛び込み、切符を買うのも焦りながら、ホームに向かって走っていく。