『人間たちの夜』3.すれ違い、入れ違い(1)
「みっみっみっ…」
息を切らせて、やっと宮田がいると聞いた研究室にたどり着いた。
白衣をだらりと引っ掛けた相手は、飛び込んだ俺を見るなり薄笑いを浮かべて言った。
「おれだよ」
「おっおっお前はなっ!!」
冗談口に一気に髪の毛が逆立つ。そのまま文字通り怒髪天を突いたまま、宮田に飛びかかる。
「何だ、お前飲んでないのか」
のうのうとした言い草で宮田が応じた。
「お前、じゃ、やっぱりあの薬…!!」
そういう趣味だったのか、周一郎が飲んじまったんだぞ、てめえがやっぱりあの薬、それじゃお由宇も、どうしてくれんだこの、俺はその気はないんだ、一気にそれだけを喚こうとしてことばにならず、宮田の胸ぐらを掴んで吊るし上げる。
「わ、訳を言え! 訳を!! お前のせいでこっちが…!」
口にした途端に今朝の周一郎の視線を思い出して、頭の中が爆発する。
「か、賭けなんだ」
「は?」
「うん、ただの賭け…」
「かけェ?」
掛声掛軸掛詞、掛金駆け落ち過激な発想……慌てて自分の頭を叩く。どっかショートしたかもしれない。
「山根とさ、一週間以内に佐野さんを落とせば十万円貰えるって…」
俺の剣幕にさすがにビビったのか、宮田がポロポロ語り出した。
「いつっ?!」
「えーと、六日前になるかな……あの時ちょうどいい薬があって。偶然に出来ちまったんだけど、催眠誘導薬?っていうか、あらかじめ暗示を与えてから飲ませると、あるキー・ワードでこっちに異常な関心を抱く、まあ早く言えば好きになるわけで…」
頭の奥で南島駅の山根と宮田の二人の姿が閃く。そうか、あの時だったのか、それならあの時、こいつをどうにかしてしまうべきだったんだなきっと! いや今からでも遅くないはずだなうん!
吊るし上げる手に力を込めた瞬間、ふと気になった。
「キー・ワード?」
「うん」
「そのキー・ワードってまさか…」
「うん、『おれだよ』って言えばいい」
ふふんと嬉しそうに唇を笑ませた相手に、再び脳裏のフィルムがコマ落としのように動く。
昨日ノックの後、俺は周一郎に何て言った?
『誰?』『俺だよ』
「…」
血の気が一気に引いていった。
じゃあ何のことない、俺があいつを引っ掛けたことになるんじゃないか。
「…待て」
続いてもう一つ思い出した。俺がこの部屋に飛び込んだ時に、こいつは何と言った?
『おれだよ』『何だ、お前飲んでないのか』
「てってってめえっ!!」
怒りのあまりことばが出てこなくなって、宮田の首を絞めにかかった。こんな危ない研究者を生かしておいては世の為にならない、人類の破滅を招くかも知れない。
「う…ちょ、ちょっと待て…」
「友人として始末してやる、ありがたく思え!」
「げ、解毒剤が…」
「あるのか?!」
思わず指を緩めた。これ見よがしにげほげほ咳き込んで見せた宮田が、ニヤリと笑いながら、
「お前の身近にね、探して…」
言いかけたが、俺の顔でこれ以上は無理だとわかったのだろう、慌て気味に机の中を探り、小さな瓶を取り出した。入っているのは、黄色がかった白くて細かな粉だ。
「こいつも偶然の産物なんだ、自然は神秘に満ちてるよな」
「お前の頭は怪異に満ちてるよっ、よこせ!」
「佐野さんの方はいいだろ、もう少し。明日が過ぎれば十万入るし、何か奢るから」
差し出された小瓶にそっと手を伸ばす。
これが解毒剤…宮田のことだから、そう幾つも準備していないだろう、慎重に扱わねばな。
その時、側の席を立った女性が、どうしたはずみか、抱えていたファイルを滑り落とした。
「あっあっあっ…!」
俺と宮田の悲鳴をよそに、ファイルは見事小瓶を直撃、あっさり宮田の指からはたき落とされた小瓶は哀れ重力の虜となって床に落下する。
「うわああああ」
カッシャーッン……。
透明な綺麗な音を立てて小瓶は砕けた。入っていた粉はガラス片とともに、いやもっと軽かったのだろう、サラサラスルスルと四方に撒き散らされて消えて行く。
「……宮田」
「なんだ」
「……まさか、解毒剤って、これ一瓶とか…」
「偶然の産物だって言っただろ? そう何度も奇跡が起きるわけじゃない」
「………」
俺はへたへたと座り込んだ。
確かに周一郎は嫌いじゃない。けれど、本質的に困る弱る対応できない。俺の好きな周一郎はあくまで友人相棒、せいぜい弟、そういう存在であって、恋人の範疇に含まれるものじゃない。
「…どうしよう」
どうしたら傷つけずに離れられる。どうしたら、そういう存在にはなれないとわからせられる。いや、わかったとは言うだろうし、俺が嫌がればそう言うアプローチは仕掛けてこないかもしれないが、一つ屋根の下で悶々とされても困る弱る対応できない。
「たださ…」
「ああ…」
「それじゃあまりにも無用心だったから、予備を預けておいたんだ」
ああそうか、そうだよな、そんなに偶然の産物ならば、予備ぐらいは宮田だって……予備?
「予備?」
「うん」
「予備だって?!」
急いで立ち上がる。
「誰にっ!」
「猫」
「…は?」
「ほら、お前んとこの、青ねずみ色の…ルトとか言う猫」
「何ィ…?」
「ついさっき、この辺りうろついてたんだ。妙にきれいな首輪しててさ、ガラス玉ぶら下げてたんだ。そのガラス玉、なんと中が空洞で、ちょうどいいやって、その中にさっきの奴の半分、入れた」
「入れ…た…?」
「すぐ姿消しちまったけど、家に帰れば戻ってくるんだろ、あいつから受け取れよ」
ぐわらぐわらと視界が砕けた。
宮田を力の限り怒鳴りつけたくなったが、すぐに気力が失せた。怒鳴っても叱っても宮田の行動が変わるとは思えない、いやむしろ面白がってエスカレートするかも知れない。そんな目には金輪際合いたくない。
これで何が何でもルトを探さなくてはならなくなった。
悲壮な覚悟を決めて立ち上がった俺に頓着せず、宮田はしれっとした顔で手を差し出した。
「?」
「これ、空洞に入ってた、返しとくな」
「…」
とすると何かそこには別のものが入ってたのか。なのに、お前はそれを取り出して自分のしたいように薬を詰め込んだわけか。いやもう何も言うまい。
俺は紙を受け取り胸ポケットにねじ込んだ。とにかく今すぐ帰ろう。ひょっとするとルトが気まぐれに戻ってることもあるだろうし、また姿を消す前に捕まえられるかも知れない。
「よしっ」
気合いを入れて走り出す。
「おい、別に慌てなくても」
追いすがる宮田の声は無視だ無視。
「あの薬は……一週間…」
流れ去った声は曖昧に途切れた。
研究室棟を走りぬけ、校門へと向かう。
とにかくルトだ、ルトを捕まえさえすれば、この無茶苦茶な状態に少しは収拾がつくはずだ。
「…待て!!」「待てと言ってるのに!」「誰かその男を捕まえてくれ!」
後ろの方でなぜか叫び声が響いた。しかも次第に騒がしくなってくる。
その男?
誰か何かやったんだろうか?
「…っっ!!」
ちょっと振り向こうかと考えた次の瞬間、ガツンと腰にタックルを喰らい、声を上げる間もなく前のめりにぶっ倒れた。
「ぎゃぶっ!」
「やっと捕まえたぞ!!」「尾行に気づいたのは大したもんだが、逃げるのが遅かったな!」
「なっなにっなにっ」
俺の上にのしかかった二人が交互に叫ぶ。人間のしイカでも作るつもりなのか、頭と言わず肩を言わずぎゅうぎゅう地面に押さえつけられ、息苦しさにバタバタ暴れていると、黙れ貴様とか国家権力を舐めんなよとか、ドラマの見過ぎ的な台詞が続いた後、一転朗らかな声が響いた。
「あ、警部、ここです!」「厚木警部!!」
厚木…?
「あっ顔上げんな、てめえっ」
「ぶがっ」
顔を上げかけた瞬間に叩きつけられ、目一杯額を打ってくらくらする。
「ってえ…」
「何だ、君か」
聞き覚えのある声が響いてのろのろ顔をあげる。
覚えがあるはずだ、厚木警部が吹き出しながら覗き込んでいた。首を振りつつ体を起こし、俺の背中に向かって話しかける。
「不審者じゃない、彼は違うよ、放してやってくれ」
「いやそんなことないでしょう」「絶対不審者ですよ、こいつ」
人の背中をクッションかラグと間違えてるのか、乗っかったままの背後の二人が不服そうに唸る。
「俺が保証するよ」
「ですか?」「仕方ないですねえ」
何だその、あからさまに何かなすりつけよう的な会話は。
それでも不承不承二人が離れて、ようよう起き上がると、厚木警部は苦笑まじりに話しかけてきた。
「いや早とちりにしてもひどいな、君がそんなことできるなんて、数分後に大地震が起きるぐらいの確率だよな。あいつらももう少し鍛えんといかんな!」
「警部…あんたね」
それは明らかに俺じゃなくてさっきの二人の心配だよな、と俺は相手を睨みつけた。




