『長い坂』
これは8番目の番外編。なぜ最初なのかは、『14』の『坂』を読み解くため(笑)。
「あれ……?」
「どしたの?」
「うん……おかしいな…」
「え…どうしたの」
「どうしたの…和男君」
学級委員長の和男が、工作費を集めた袋がないと言い出したのは、2時間目の終わった時だった。今日が最終日で、和男はこの後、担任の先生の所へもっていくことになっている。
「朝はきちんとあったんだよ」
「みんなの分が?」
「うん……滝君以外…」
「ふうん…」
なんということはなしに、和男を囲んだ数人が志郎の方を振り返る。志郎は視線の意味を分かり兼ねて、きょとんと相手を見返した。
「そういえば、1時間目の体育、滝君、休みだったね」
「うん、お腹痛いとか言って……」
再び数人が振り返り、鈍い志郎もようやく気づいた。
「どういうことだよ」
熱くなる頬に、どう言えばいいのかわからず、繰り返す。
「どういう……ことだよ」
「滝君…」
和男が眉を寄せた。
「ぼく、困るんだよ」
「……どういうことだよ」
「先生には言わないから」
「だから…どう…いうことだよ!」
和男に比べて、それしか繰り返せない自分がもどかしい。和男が仕方なさそうに応じた。
「返してくれよ、お金」
「オレが…」
言いかけて詰まる。
工作費が遅れているのは、園のお金が回らないからだ。でも、明日には用意してくれると園長先生は言っていた。1時間目休んだのは、本当にお腹が痛かったからだ。トイレへ5回も行って、保健室の先生に薬ももらった。
それらを一度に話そうとして舌がもつれ、ますます頬が熱くなる。和男を囲んだ数人が、ポツリポツリと、やがてはっきりと志郎を責め始める。
「オレじゃない!」
志郎の口をようやく突いたのは一言だけ、それも和男に届く前に周囲の野次に消された。
「やーい、泥棒!」
「志郎が盗った、志郎が盗った!」
「白状しろよォ!」
場違いに凄むのまでいて、女子が慌てて先生を呼びに行った。
「こらこら……一体何の騒ぎだ…」
やって来た担任は、小さな目をきょときょとさせて事情を聞いた。これで疑いが晴れる、と志郎がほっとしたのも束の間、担任はくるりと振り返って命じた。
「滝、ちょっと来い」
「オレ…!」
わあぁい、と和男のグループが歓声を上げる。反論しかけた志郎の腕をぐいと掴み、担任は志郎の席でかばんの中身を全部出させた。決して上等じゃない、どちらかと言うとボロのかばんをパンパン叩いて、埃まで調べた。机の中やポケットも探した。一つ一つ空っぽにされるたびに、和男のグループは静かになった。最後にズボンのポケットもひっくり返されると、周囲はシンと静まった。
「…気が済んだか」
担任は和男に声をかけた。和男はどこか青い顔をして答えた。
「でも……ないんです! どこかに隠せるし!」
「そうだ、隠せる!」
再び周囲が騒ぐのに、担任は志郎に向き直った。
「どうなんだ」
「……」
志郎はじっと担任の顔を見た。きょときょとした眼と少し開いた鼻の穴を見ながら、長い坂、と考えていた。
長い坂。お陽さまのいっぱい当たっている、とってもとっても長い坂。
「滝……どうなんだ」
「………」
園長先生は言っていた。
『それ』は長い坂のようなものだよ。どんな昇り方をしてもいい。速くても遅くてもいい。どこでやめるのかも自由で、駆け下りてしまってもいい。ただ、そのすべてはいつもいつも、お陽さまの下にある。周囲には木陰も何もない。あるのは自分が落とす影だけ。
「滝!」
苛立った担任の声にも、志郎はじっと相手を見上げていた。
思うように歩きなさい。好きなように、その坂に向かいなさい。ただ、『それ』には、この世の中での制限時間がある。終わりが来た時、お前がして来たことのすべてがお前に還ってくる。ごまかしは効かないよ、お陽さまが照らしていたからね。坂のあちこちに、お前の『徴』をお陽さまがしるしておいでなのだからね。終わりの時に、その徴が恥ずかしくないように歩きなさい。
「こっちへ来い!」
担任は志郎の手を掴んで引っ張って行った。クラスの前の廊下を示す。
「ここへ正座しろ! 生意気な目をするんじゃない!」
「…」
志郎はゆっくりと座った。一番楽なように、長時間座っていられるように座った。
すべては自分に還ってくる。だから心して生きなさい、この長い……長い坂を。
目を閉じて、心の中の声に耳を澄ませる。
園長先生の言うことはいつもとても難しい。でも一つだけはわかっている。志郎は工作費を盗っていない。だから、そうだと言うことはできない。他の事は知らないけど、それは自分にとって確かなもの、だ。
1時間、2時間、3時間…。
夕方、みんなが帰る頃、和男のグループに入らなかった1人が、そっと耳打ちにしに来た。
和男が担任の所へ、泣いて謝りに行ったこと。勉強もできなくて、家も豊かでなくて、統率力もなくて、顔も体もカッコ良くない志郎が、それでもみんなに人気があるのが悔しかったと言ったこと。工作費は、それを入れた袋を振り回して遊んでいたら、川へ落ちてしまったこと。学級委員長の自分がそんな失敗をしたと言われるのが怖かったこと。
「だからね、もう座ってなくていいんだよ」
「ふうん……そうか……あ…いててて…」
志郎は伸びをして、そのままひっくり返った。足が痺れて立てない。足だけじゃない、腰も何か、おかしい。
「どうしたの?!」
「足…痺れて立てないや………園長先生んとこ、行ってくれないか? 痺れが治ったら帰るから、少し遅くなるって」
「うん、わかった!」
駆けていくクラスメートの足音を耳に、志郎は長々と寝そべった。ゆっくり深呼吸をする。空が夕焼けで紅に染まっている。息を吸い込む。何て綺麗な世界だろう。
「疲れたあーっ!!」
大声で叫んで、志郎はくすくす笑った。
終わり