第六話 守の鬼
声を掛けてくる者はいない。兵らは私たちが近くに来たのを認めるとさっと後ろを向いて、歩き出した。来たければ勝手に来いといった風である。
通されたのは、数多くある洞穴の中でも、ひと際大きく穿たれた穴倉であった。左右に設置された燈台の火が内奥を揺れるように映す。
まず見えたのは左右に五人ずつ座している化者だ。年若いものは一人もいないことが一見して見て取れる。その臭いは、先に打倒したトゥグとその取り巻きと同じである。澄んだ水も留まり続ければ腐る。
だが、そのさらに奥に座する三人の者たちの気は鋭い雄々しさがあった。
なるほど、これが鬼熊。
頂きに立つ者と、その者に全てを押しつけている者との差か。三人の鬼熊はどれもその名に「熊」を宿すにふさわしい巨人であった。
だが、その中心にいる者の大きさに比べるにおいて、左右の二人は童子の如くである。中心に座する大木の如き大熊。その大きさは我ら銀狼の倍を超えるだろう。
――守鬼。
黒の剛毛は天然の鎧となり全身を纏っている。岩石として手に、鋭いかぎ爪がついている。二百年前に、在真にすら届いた爪である。
その存在を一目見るに及んで、圧倒されたことを認めざるを得なかった。
守鬼がいる限り山は安泰である。目にする者にそう思わせるだけの雄姿である。
そこまで思い、ため息をついた。ここの化者どもを見た際の印象の中に、努めて入れまいとしていたことを意識してしまったからである。
どいつも、こいつも、あの守鬼すらも、今にも飛び掛からんばかりの怒気を隠す気すらもなく、私たちにぶつけてきている。
「裏切り者が、また裏切ってのこのこやってきたのか」
守鬼の第一声はそれであった。言葉は重々しく穴倉に落ち、満ちる。否、初めから満ちていたものを、守鬼が言葉に変換したのである。即ち、怒りと憎悪だ。
「我らは忘れん。お前たちの裏切りによってどれほどの同胞が美貴に殺されたかを。我らは確かにお前ら自身がその凶悪の牙で我が子らを噛み殺しているのを見ていた」
それは事実。
あの時の戦では、朝廷は降伏した銀狼を最前線に立たせるばかりでなく、虐殺も行わせた。
銀狼もまた、朝廷の信を得るために灰狼となりて必死に化者を殺して回った。対象は兵士だけでなく幼子も、老人もいたという。
出会い頭の暴言に、私はちらりとテムを見た。群青の瞳は守鬼を見据えている。そこに何の負い目も怯懦もないようである。
どかりとテムはその場に座った。そのまま、視線は変わらずに守鬼だけを見ていた。
居並ぶ化者どもの目つきがより鋭くなる。
「すまなかった」
テムはそう言って頭を伏せた。
驚く私の視界に、隣にいたアチェもまた地に伏せたのが映った。そして他の四人の銀狼も。
伏せたまま目を私に遣るテムの視線に気づいた。私もまた急いで平伏した。
場にあった対立の緊張は一方が全面的な降伏をすることで次の段階へと移ったようである。
矢が放たれたような勢いで罵詈雑言が空間を満たした。これまでの鬱憤を一度に晴らそうとしているかのようである。
やがて、各々が勝手にぶつけてきた悪口は集約され、一つの意思に変わってゆく。
「殺せ」
不穏な言が、大勢を占拠する。
だが、そのような中で、守鬼とその左右にいる鬼熊は黙しているようで、ただ強く光った目だけで私たちを見ているように感じた。
殺意の言葉の吐き出しは暫く続いた。
だが、やがては鉄の熱が冷めるように徐々に萎んでゆく。
そうか。ここいる者は老いた山の権力者ども。
血気盛んな若者が多勢を占めていればこのまま血を見る事態になったかもしれないが、実際にいるのは純とは程遠い老害である。
祖先の悲劇に盲目として怒りを感じ続けるには躰は脆く、猪突猛進とするには利に聡すぎる。結局、ここにいるのはどれだけの言を積もろうが、それしかできず、後は守鬼の決断を仰ぐのを待つだけのこけおどし共だ。
そうして、当の守鬼が動かない状態で徐々に声は潜まってゆき、沈黙が場に落ちた。
それを待っていたかのように化者の棟梁は口を開く。
「我らの怒りは十分に染みたか。お前たち銀狼とて、こうなることは分かっていたはずだ。……しかし、お前たちは来た。だから何をしに来たのかまずは問おう」
その言葉を聞いて、流れが変わった気がした。
守鬼は私たちを灰狼ではなく、銀狼と呼んだのである。そこには美貴に降った裏切り者ではなく、共に戦った同胞への音がある。
「未来のために」
テムは短く答えた。
「それは次の戦争のことを指しているのか?」
「無論。在真シウミは本気だ。二百年振りに美貴は自らの血を流す覚悟で真に征服せんと迫ってくる」
在真の征討は八年ごと。しかし、これまではそれは祭事の一部に過ぎなかった。
朝廷軍は山の裾野までいくと、満足して兵を退き、殆ど化者と矛を交えることはなかったのである。
だが、此度は違う。灰狼として在真側に立って戦の準備を進めていた故に分かる。在真シウミは山の化者の征服の栄誉を得るために全霊で攻め込んでくるだろう。
そして、もはやそれを受けきる力は化者にはない。
「だからこそ、俺たちが来たのだ」
テムと守鬼は暫く睨みあった。
その間、互いに何を思っていたのかは分からないが、少なくとも守鬼は私たちにより強く興味を持ったようである。
「在真の動きは、我々も分かっている。別根院からくる風は、余りに忙しいものだ。
確かに、一月後の戦にて、在真は我が首を狙って剣を伸ばしてくるだろう。
だが、それとお前たちに何の関係がある? 二百年前に降伏したお前たちを尻目に、祖先は在真を打倒した。故に、次の戦においても銀狼という存在がどれほど戦に影響をするのか、甚だ疑問なことだ」
論難する口調の守鬼をひらりと躱すように、テムは顔を横にそむけ、一人の部下がもつ、四方形の大きな箱を傍に置くように命じた。
「まだ土産を渡していなかった」
そう言い箱の一面を横に引くと、中に納められた首が露わになった。
「美貴の首か」
「守鬼よ、俺たちは銀狼だ。とうに覚悟はある。覚悟とは生よりも栄誉を勝ち取る不断の意思だ。他の化者が受け入れようと入れまいと、俺たちは自己を曲げたりはせん」
テムは周囲をぐるりと見回した。
「ここで剣を抜くのであれば抜くがよい。ただし、抜くからには己が首が落ちるのことも覚悟することだ」
その時、躰は自然と動いた。出番だ。
高らかに、刀身を鳴らすように抜いた。
敵は十人の老人に、それを護衛する兵ら。場に姿を見せていない者も含めれば数十人になるだろう。
目の前にいる二人の鬼熊に、守鬼。警戒すべきは前の三人だけだ。こいつらさえ引き留められればテムを逃がすことはできるだろう。
駆けまわる音が洞に響く。鉄の軋みが聞こえる。周囲は見渡すと、早くも老人どもは退散しようと背を向け、代わりに敵兵が乱入してきている。……よい。賜った紫色の剣が輝く。
銀狼たる化者がどういうものであるか、忘れ去った者らに今一度示してやろう。
「――やめよ」
剣より先に血より前に発せられた言葉は、この場を唯一穏便に収める力を持った者からであった。
「そこの銀狼、いや、テムと言ったか。お前たちの覚悟は分かった。美貴と手を切ったことも。さあ、剣を収めよ、銀狼の娘よ。お前の主もそれを望んでいる」
テムは私に頷いた。だから、行き場のない闘争心を抑えこむように剣を鞘に収めた。
「これで、ようやく話し合いができるか?」
テムの言葉に、しかし守鬼は首を振った。
「まだだ。お前たちはまだ自分たちの都合を言っているに過ぎない。
灰狼から銀狼に名を戻したのも、在真に歯向かうことを決したのも、我らに共闘を呼び掛けているいのでも、全てお前たちの勝手なものだ」
否定的な守鬼の言であるが、その中にある共闘という言葉は、よくこちらの意図を理解している証左に思える。
そう、銀狼は鬼熊とは対等。決してその旗下に入ることはない。故に、この場において守鬼以外はそもそもテムと話せる立場ではないのである。
「だからまずこちらから要望を一つ挙げよう。お前たちがそれを叶えられれば、少なくとも次の戦が終わるまでは手を取り合うことを約束しよう」
「何をすればよい?」
テムの質しに、守鬼はこちらを試すように意地悪く口を歪めた。
「なに、一つ在真の砦を落としてほしいだけよ」