第四話 追の母
銀狼の里の東には湖がある。
太古の昔に放浪の末、この地に辿り着いて以来、一族の墓として利用されてきた湖である。その明確な理由はもはや消え去り、ただ慣習として残っているのみであるが、一族の者であれば、何とはなしに察することもある。
澄んだ湖は青々として、晴天を良く映す。そのため、夜においても天の残りは湖の其処かしこに残っており、微かに見ゆる爽やかな青光は、血に流れる遥か昔の故郷を思い起こさせる。
銀狼の心は空にあり、特に青空に郷愁を抱く。それは己が瞳では見たこともない光景。一族の始まりの者がみたであろう景色を、目ではなく継いできた血と肉で見る。故に、死後その空を地に映す湖の中に還るのは、とても当たり前のことと思うのである。
――私が母からその湖に突き落とされたのは、十年ほど前か。
母は美しい人であった。母の親は平凡であったというが、幼きころから母の美は抜きんでたものであり、その頃からそれを自覚していた母の周りでは、様々な悲喜劇が起こったという。とは言っても、所詮、母は己が美を見せつけることが重要であり、あくまで周りの男どもはその道具に過ぎない。故に、最終的には喜びを除いた劇になったというが。
魔性の女。母はそういわれることを何よりも誇っていた。目付として訪れる美の権化である美貴でさえも、母を見て息を飲んだと伝えられている。この逸話ほど、この女を喜ばせたものはない。やがては其処かしこから、輿に乗って都の美貴が母を迎えに来るとまで噂されていたという。
だが結局、母は同じ銀狼の男と婚姻を挙げることになった。それでも相手は代々一族の長を輩出してきた名家である。銀狼の里は丸く円を描いているが、東西南北に住む場所において、四つの派閥に分かれている。母の夫、即ちトゥグの家は西にあり、代々西の代表として知られている。そして、二百年前の朝廷への降伏を主導した家でもあり、美貴からの信頼は最も厚い。かつては四つの派閥から順に一族の長を出してきたが、朝廷への降伏後在真からの干渉が強くなると、長は西の、そしてトゥグの家が独占することになる。つまり、母は一族の中で最も親美貴であり、それ故に最も権力を持った家に嫁いだである。玉の輿と言えば、これ以上の成功はないだろう。
しかし、母の男を誑かす悪癖は、婚姻後も治ることはなかった。いや、治るという言葉は誤っているかもしれない。それは母の生の中で常に側にあったものであり、あるのが当然でなくすことなどできない、心の一部のようになっていたのである。
姦通の噂は瞬く間に広がった。トゥグはまだ長ではなかったが、嫡子であり、次代の銀狼を率いていくことは明らかで、母もまた美貌と奔放さで有名であった女である。
父は噂が広まるや早々と母の居を別にしたという。当初は母もそれに何ら後悔を抱くことはなかった。その女にとって、夫もまた己が輝きを彩るための色の一つに過ぎず、到底一人の男に貞操を貫くことなどできなかっただろう。
私の記憶は、褥で交じり合う母と見知らぬ男の音から始まる。
母の元に来る男はみな優しかった。それは後ろめたさの表れなのか、否、父を恐れてのことであろう。次期の長である父の力を使えば、破滅は免れない。特にここにくるようなろくでなしどもは。
転落はいつからか。正式に婚姻が解かれ、後ろ指を指されながら屋敷を追い出された時か。その時、本当の父親は誰かも分からないと、私も一緒に放逐された。
実家からも勘当され、里のはずれの襤褸屋に住まうことになった。夜になれば顔をこそこそと隠しながら、しかしひっきりなしに男たちが訪れた。まだ、この時の母には余裕があるようであった。己が放っておける男などいないという自信は、これまでの経験によって確信にまでなっていた。ともすれば迎えにきた父をけんもほろろに袖にする妄想に忙しかった。
だが、いつまで経っても父が訪れることはなかった。母に黙って一度父の屋敷に行った時、父は私に敷居を跨らせることもせず、乞食をみるような冷たい目で、金を投げつけ、二度と来るなと言った。
夜になるとどこからともなく現れる男どもは必ず何らかの食料を持ってきた。母と私はそれを食べて生き永らえた。
艶の衰えは確実に、毎夜毎夜母に染み込んでゆく。訪れる男たちの質が落ちてゆくにつれ、母の余裕も失われてゆく。身なりは何よりもその者の地位を表現する。男たちの服装が、何日間も着込んで垢と泥だらけのものになると、母もさすがに己が美に酔うことはできなくなったようだ。当の本人もまた、何年も前に贈られた着物を今や襤褸同然に着ているのである。彼女はもう、かつて里の女の嫉妬を一身に受けた、魔性ではない。もはや憐れみを受ける売女である。
男たちの私を見る目が変質してきたのも、その頃であった。いや、最も変わったのは母か。
母は己が美を娘に吸い取られていく妄想に駆られた。捨て石のように私を見向きもしなかった女が娘に初めて向けてきた感情は、憎悪に他ならなかった。
母を抱きにきた男の私を見る目。その男の目を見る母。男が来ると私は隠れようとし、母は隠そうとした。来訪した男たちは決まって部屋中をぐるりと見まわして、娘の痕跡を見つけようとした。そして、優しさの欠片もなく堕ちた女を嬲る。もはや、その程度の者しか残ってはいない。
それにつれ、母の私への打擲も激しくなってゆく。ついには火がついた炉の木炭を顔を押しつけられ、左目が見えなくなった。左頬も餅のように、しかしどす黒く膨れた。
母は立ち上がることもままならない私の手を取って、それでも歩けと連れて行った。
真円を描いた月が夜に謐としてあった。母の手は温かい。黙した母娘は忍ぶように歩む。村の外へ、他の者に見つからずに出るのは簡単だった。元より村の外れに取り残されたように住んでいたのだ。
はっしたのは、眼前に白美な湖が現れたからだ。母娘は暫く横並びにそれを眺めていた。現世の苦しみを超越する何かがそこに潜んでいる気がした。
突如、母は奇怪な笑い声をあげた。笑い皴のうえを、つつと涙が伝った。その瞬間、私は横にいる女を母と思えなくなった、ただの穢く気味の悪い売女だ。湖の水面は笑いを反響しているようで、そこかしこから聞こえてくる。
母は私の頭を掴んだ。伸ばした爪が頭に食い込むほどに異様な力で。
ずるずると私を引きずりながら湖に近づいていく。私は躰に力が入らず、成すがままであった。何故かは分からないが、いま思い返すと、何をされるのか察しがついて故に、抵抗もしなかったのかもしれない。
母は叩きつけるように湖の中に私の頭を入れた。数十秒後に一度引き上げ、すかさずまた水中に入れ込む。
それを幾度も繰り返すうちに、私の耳に、またあの奇怪な笑い声が聞こえきた。呼吸ができないよりも、その声がより苦しかった。
いよいよぐったりと意識朦朧となった私は、ふとすると、躰が宙に浮いていた。湖の投げ込まれたことが分かったのは、その数旬後に視界を覆った水のためである。
一瞬、頭から流れる血が水中にたゆたうのが見えたが、直ぐに水の中に消えていった。
地上に浮かぶ気力なく、またその気もなかった、あの声を聴くぐらいなら、いつまでもここにいたいと思った。
そう、その時にはもう私は苦しさから解放されていた。うっすらと青がかった湖の中で、そこが古来より一族の墓場であったことは知っていが、実際に堕ちたそこは、母胎に回帰するような懐かしい安らぎであった。息はできずとも問題はなかった。違和感すらなかった。
静かな時が流れた。水に溶けた無数の先祖たちの血肉が染み込んできて、何か大きな者の両腕に抱えられている心地がした。それは死の安らぎであり、死への回帰そのものであったのかもしれない。
いつの間にか寝てしまっていた。長い眠りのように思えた。まるでこれまでの生を坂巻に見てきて、ついに最初の地に帰ってきたよう。
目覚めは、とても清い何かに呼ばれた気がしたからだ。それは私を抱えていた死ではなく、もっと活力のある生の呼び声であった。
月だ。直感した。夜空に浮かぶ月が、月光を地に放ち、死に沈んだ私をまた救い上げようとしている。だが、その声は非常に優しく、全く強制の気はない。故に、生の苦ばかりを経験してきた私は、このまま死のゆりかごにいようと、目をまた瞑った。
――その時であった。
熱い、焼けるほどに熱いものが腹部に絡みついた。そして、横に生の気配を感じた。腕を回すようにして腹を掴まれたのである。誰かが、抱えるようにして私を湖から揚げようとしていた。もがいた。そのもがきは死へゆくときの何倍もの抵抗の表れであった。生きたくない。死んでいたい。だが、私を揚げようとしている者の熱い血潮が躰に触れると、そこから死では得られぬ温かさが広がり、抵抗の意思もまた薄れていった。
陸に揚げられ仰向けにされた私の眼前に飛び込んできたのは、月ではなく、月の光を瞳の中に閉じ込めたような、美しくも鋭い貌をした――
「まだ、ここにいるのか」
その声に、回顧は遮られた。
だが、もう十分であった。目の前に現れた男こそが、私を死から救い上げた人。
一度死んだ私は、もう一度の生を、この人に捧げると誓ったのだ。
「ええ、テム。ここが私の家であり、故郷でありますから」
テムの手により再び生へと戻った私は、そのまま彼が居候するバルの屋敷に連れられ、そこで一緒に住むことになった。話に聞くと、母はその後トゥグの屋敷に一振りの剣を持って襲撃し、捕らえられ、処刑されたという。私がテムに助けられた時には既に刑は終わっていることが考えると、少なくとも私は二日は湖の中にいたことになる。
一度だけトゥグの使いが私を引き取りにバルの屋敷に来たが、バルと弟子たちがさんざっぱらにきつく追い返した。鏡を覗いた時、かつて母という女から付けられた傷が完全に完治していることに気が付いた。あのころの自分は死んだと、そう確信をした。
「なるほど、父に分かれを告げていたのか」
私の手に持つ剣は、まだ先日の襲撃より血に塗れている。
「だが、あの日から二日経った。俺たちが実権を握ってから二日だ。その間お前は死体や壊れた家々の処理で寝ていないだろう。そろそろ、戻って休んではどうだ」
「ありがとうございます。ただ、訂正をさせてください。私はかつて父と呼んでいた者のことなどどうでもよいのです。ここで思いにふけるとすれば、それはテム、あなたとの出会いのことに他なりません」
湖面に剣を入れ、左右に振った。こびりついた血は簡単に水にとけてゆく。まるで還るべき場所を見つけたように。
銀狼族にて二百年振りに流れた大量の血による興奮は、それとは逆の夜の静けさの中において促進され、生き残った者たちの本性を目覚めさせている。己は銀狼。美貴を喰う化者であると。
「明日、山へ発つ。鬼熊と話さねばならぬからな」
「守鬼に会うのですね」
守鬼とは鬼熊一族で最も強者の称号であり、鬼熊の長であると同時に山の化者を束ねる存在である。二百年前に在真を一騎打ちにて撃退したのも当時の守鬼に他ならない。
「そうだ。今後について話さねばならぬからな。次の在真との戦についてな」
前途に控えた困難を前にして笑みを作るテムを見て、私の心も奮い立つ。
在真、在真シウミ。今代の別根院領主は特別な感情を山に対して抱いていることは分かっている。二百年前の大戦の後、在真は八年ごとに兵を出す慣例を作り上げたが、どれも見せかけのものであり、化者と対決を避けるように山の裾野で引き返していっている。それほどに至美貴に重傷を負わせた衝撃は大きい。
だが、今代の領主はその己が野心を剥き出しにしている。それは銀狼が灰狼として朝廷に這いつくばっていたころからひしひしと感じていたことだ。
高圧的なあの赤い気配を感じたことがある。至美貴ともあろうに、あの女は銀狼の里に来たこともある。里は山へ進軍の際の拠点として活用されていたが、そこを己が目で見たいとのことであった。
母譲りの、いや母を超えると言われた美しさと言われた私が、母のように有頂天にならなかったのは、当の母の末路を知っていたからであるが、あるいはそれ以上に、草陰からそっと覗いて里にきた在真シウミという女を見たからかもしれない。
それは美しいという言葉だけでは到底表現できない美であった。地にある日輪の如く、目を合わせることすら恐れ多い、この世の支配者であった。美貴においても至美貴は別格。それは戦場においても、平時においても。
だが、あの女の瞳がさっと周囲を嘗めた。その時、目があった気がした。今思えば、そこの叢に女子が隠れていることなぞ、至美貴が気づかぬ筈がない故に、あれはやはり目が合ったのだ。
そこにあったのは其処の見えぬ欲望であった。一体どれほどの醜下が、化者、美貴が、あの瞳に見られながら破滅へと進んでいったのであろうか。目は視線の先を映しているようで映していない。在真シウミが興味があるのは己だけであり、己しか見えていないだろう。
全てが終わる。そう直感した。この至美貴が成すがままにするほど、天に昇れば昇るほどに、他は地に堕ちてゆく。化者だけはない。醜下も、美貴もだ。
「私も、具せますか?」
「無論だ。お前はついてきてくれなければ困る」
見つめられた瞳は在真シウミとは異なり、確かに私を映してくれていた。