第十話 夢の異
その日が来た。
山は一日ごとによそよそしくなっていった。それは銀狼も他の化者も変わらない。
何気ない日常において、時折見せる濃い影を誰もが抱いている。
風が起こす木々のざわめきにすら神経質に反応する緊張感が覆う。
暗く沈む者。空元気に笑う者。肝が据わり淡々と過ごす者。個の質の格差が露わになる。
私と昼夜を逆転する生活としていた旗下の兵は、夜間において数百に及ぶ襲撃経路を回り、鍛錬を積み、土地から感覚の全てを己がものにした。
夜明けに寝た時、ある夢を見た。
一人の少女の夢である。
その少女は泣きながら笑っていた。懸命に剣を振るっていたが、誰も彼女を見ることはない。
やがて少女は疲れの果てに崩れ落ちた。
肩で息をする彼女は頭をもたげ、こちらを見た。その瞳は赤く、赤く。
そして次の瞬間には醜い老婆の姿に変貌していた。
だが、その瞳だけは変わらず赤く、赤く。
目覚めた時、木々の匂いが落日の光と共に私を刺した。
「隊長、お目覚めですか?」
近くに立っている男が問う。
この男は旗下の十五人の精鋭の中でもひと際頑強で、また実直であった。
故に副官として、部隊の中で私に次ぐ地位を与えていた。
「何かありましたか?」
そう問い返したのは、この信頼できる男が顔を青くさせていたからである。
「……私は、一体なにを見たのでしょうか」
重々しく自問するように、副官は口を開いた。
「先ほどまで、昇炎祭が行われていました。」
「ああ、そうでしたね。今日でした。」
私はいまだ立たず、横になったまま言った。
昇炎祭は在真が山に鎮座するという奴らの主神――火の鳥の神に戦勝を祈願する祭りである。
八年に一度行われるそれは、朝廷軍の出兵の前日に催される習わしである。
つまり、遂に山に美貴共がやってくるのだ。
「あなたはもう覚悟を決めていると思っていましたが、やはり戦争が怖いのですか?」
「違うのです、隊長。
殺す覚悟も、殺される覚悟も、友や家族を失う覚悟もあります。
けれど、あれは一体……」
副官は一度言い淀んでから続けた。自らの心においても整理をするように。
「昇炎祭が行われました。それは例年通りに進行していました。――途中までは
私は部下を十騎ばかり連れて山からそれを見ていました。
奴らの神官が祝詞を大声で喚くだけのつまらないもので、山中の化者たちは吠え威嚇し続けていました。それは私たちを昂揚させ、敵に恐れを抱かせているように見えました。
けれどその時、敵が祭りのために設置した高台から何かが跳んだのです。
祝詞を唱える神官の横で、矢が射られる時の、その何倍もする音がしたかと思うと、天上に女が浮かんでいました。
そう、赤の鎧を着た女が」
私は目を瞑った。その光景がありありと瞼の裏に出てきて、心がざわつく。
「それは……あれは、確かに在真シウミでした。
女は左手に持った剣で天を指しながら山を越す勢いで宙へと踊りました。
言葉を失いました。化者だけでない。敵である醜下も、美貴もです。
やがて、それは台へと羽が落ちるように軽やかに降りました。
そして剣を使った舞いを踊りました。その間、私たちはずっと静止していました。
誰もが息を飲んで見惚れていました。まるで視線の支配を奪われたように。
我に返ったのは、女の剣先が私たちに向けられた時です。心臓を貫かれたと感じました。
強烈な痛みも、そして抗うことのできない後悔さえも沸いてきました。
破裂するような敵兵の快哉は、死体となった私たちの魂を蹴るごとくで、ただただ、こうして逃げるように退散してきました」
話しながら己が不甲斐なさを思い出したので、副官は目に涙を溜めていた。
不思議と、夢に見た老婆となった少女と、在真シウミが重なった。
努めて感情を消しながら立ち上がった。
その時、近くの水面に石が落ちる音を聞いた。
吸い寄せられるように足は其処に向かった。
「隊長!」
副官の慌てる声が聞こえる。
「隊長、そこは水飲み場ではありません。そこは……私たちの墓地です」
そう、ここは棄てられた銀狼の里の、その近くの死者の湖である。
「あなたも聞いているでしょう。私は母から殺された後、ここでまた産まれたのです」
私が湖の中に手を入れ、掬った水を飲んだ時、後ろの副官が息を飲む気配が伝わった。
なんと死臭のする、懐かしい味であることか。
「在真シウミに気を取られましたか。
無理もありません。至美貴は視線を奪って離さない。そういう生き物です」
近くに待機をしていた私の騎白狼の背を何度か撫で、そのまま乗った。
「覚えておきなさい。あなたは誇りある銀狼の騎狼隊。考えるべきは、与えられた名を遂行することだけ。もし悩むのであれば、私を疑うことをしなさい。私の剣が在真シウミの胸に届かないことがあるのかと」
「ッ……! 申し訳ございません。ついてゆきます。死へも、地獄へも」
「よろしい。では、やりましょう。まずは――」
――この旧来の銀狼の里を燃やし尽くしましょう。
私の言葉に副官は重々しく頷いた。
焼やす一義的な理由は敵の拠点となることを防ぐためである。
だが、数え切れぬ祖先を育んできたこの地を自ら灰塵に期す、そのことは銀狼の大きな転換点となるだろう。
背水。この戦は必ず勝たなければならない。
部下たちが放った火が夜空を彩る。
待ちに待った、戦争が、始まる――。




