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写真

作者: くまいくまきち

それは手のひらほどのフォトフレームだった。

 写っているのは、犬。

「――ハナ」

 美里が結婚してほどなく父が癌で亡くなり、ひとり暮らしの淋しさをまぎらわすために母が飼っていた小さな室内犬。10年と少し、ハナは母と暮らし今年の春に亡くなったのだ。


(……ハナの写真も一緒にお棺に入れてあげればよかった)


 ふと思いついて、美里はフォトフレームの背板をはずす。

(写真だけにして小さく折れば骨壷に入るかも知れない)


 四辺の留め具を廻すと、背板は中からの圧力に弾かれるように外れる。

 と同時に、一葉の写真がこぼれるようにして、落ちた。

 それは色褪せた、古いカラー写真だった。

 

 写っているのは母だ、まだ若い。そして男の人…。

 息を呑んだ。


 母の隣にはひとりの男性、父ではなかった。

 敷きのべられた夜具の上にふたりは座っている。男は精悍そうな面持ちで、どこか野心を秘めているような強い目線と、いたずらっぽい子供のような笑みを浮かべた唇が印象的だった。


 オートタイマーで撮ったのだろう。

 母は横すわりで上体を男にあずけ、彼の肩の頬を寄せている。ウェーブのかかった黒い髪が、肩の上で躍動している。

 白磁のように白い母の肌にほんのりと赤みが差している。

 カメラを見つめるその瞳は、潤んだようにきらきらと輝いていた。

 恋をする女、の目だ。


 見てはならないものを見てしまった、と美里は感じたが、写真の母から目をはなすことができない。

 何歳くらいだろか?

 30代後半から40歳くらいに思われた。

  

(……今の、あたしくらいだ)


 美里は今年で39歳になった。

 

 それにしても、相手の男はだれだろう? 

 

 まだ幼かった子供たちを残し、外泊するような母ではなかった。

 あの厳格な、亭主関白を絵に描いたような父が許すはずもない。


 しかしこの写真は、母が浮気をしていた、その動かぬ証拠だった。


 おそらく母は、少ない時間を紡ぐようにして、夫以外の男とつかの間の逢瀬を楽んだのだ。美里の知る母からは想像もつかなかった。


 母は、完璧な人だった。

 美里は思い返す。小学校の教師として、母として、妻として。それぞれの役割を完璧にこなしていた。仕事も家事も、一部のすきもない。家中はいつも整頓され、夕食には手料理が並んでいた。教師の仕事も定年まで勤め上げ、退職時は教頭だった。

 姑に仕え看取り、今度は癌に倒れた夫を支え、そして送った。

 

 それにしても、こんな写真を母は現像に出したのだろうか?

 すぐ思いあたった。

(ポラロイド写真だ……)


 その場でできるインスタント写真。むかしウチにもあった。

 美里はあることに思い至る。はっとした。冷たいものが、みぞおちのあたりを駆け抜ける。


(――写真は、これ1枚きりではなく、ほかにもあるんじゃ )


 ポラロイドカメラのフイルムは、10枚セットくらいがパッケージで売っていたはず。一度パッケージを開けてしまうとフイルムが劣化するとかで、使い切るために美里たち兄妹が互いに撮りあった。


 美里は立ち上がる。

 ここは母が生前寝室として使っていた部屋だ。

 ひとわたり見渡してみる。

 押入れの引き戸を開けてみる。布団やモーフのたぐいが圧縮パックに詰められて整然と重ねられている。

 ドレッサー。引き出しを全部開けてみる。化粧品や小物が細かに整理され、区分けされて収納されているばかりだ。


(ほかにどんな写真があるんだろうか。)


 寝乱れたシーツや掛け布団が目に浮かんだ。

 自分の想像に、唖然とした。

 顔を上げる。鏡面に、顔は写っている。

 母譲りの白い頬が、あかく紅潮していた。


(――もしそんなものが兄嫁の目に触れたら)


 考えるだけでも恐ろしいことだった。

 美里は和箪笥を開ける。

 写真はみつからない。


「美里さん」


 強く叩かれたような衝撃を、背中に感じた。

 美里は振り返る。

 兄嫁の由里子が立っていた。


「何をしてるの、美里さん」


 応えようとしたが、言葉にならない。

「呼んでも返事がないから。お義母さんの着物なんだけど、あたしたちでとりあえず分けちゃいましょうよ」

 兄嫁のその言葉にすがるように、美里は反応する。

「あ、はい。今降りて行きます」 

「早くね」

 そう言い残して、兄嫁は階段を降りていった。


 美里は、すとんとその場に座り込んでしまった。

 こうしてはいられない。

 べットの下から柳行李をひっぱりだす。蓋を開ける。夏物のブラウスや肌着が丁寧に畳まれて、仕舞われている。

 例によって完璧だった。怖いくらいに。


「いつ、誰に見られても恥ずかしくないように」

 思えばそれが母の口癖だった。 


(――写真はない)

 美里は直観した。

(――処分したのだ)


 おそらく1枚だけ、思い入れがあって残した。それを犬の写真の内側へ隠した。


 母の死は、突然だった。

 朝、倒れた。

 昼過ぎに兄から携帯へ連絡がはいった。危篤だという。

 小学校に連絡しふたりの息子を帰宅させ、新幹線に飛び乗ってふるさとの駅へ。

 タクシーで病院に着いた時には、母はすでに脳死状態だった。ほどなく生命維持装置が外されて、母は亡くなった。


 例えば癌で、死期の迫っていることが判っていれば、

 母は、あの残った1枚の写真をも処分したに違いない。


 美里は写真をハンカチにくるんだ。ジーンズのポケットに忍ばせる。和箪笥の引き出しを閉め、行李を元の場所に仕舞った。

 階段を降りて、階下へ向かった。  


「この着物なんだけど…」


 兄嫁が待ちかねたように声をかける。

 着物箪笥の観音扉は開かれて、桐の引き出しが見える。


「形見分けできるものは分けて、処分するものは処分しないと、片付かないからねえ」


 兄嫁はこの家屋敷もさっさと処分したいのだ。

 美里にとってはこの家は、ふるさとそのものだった。まさか兄嫁とその両親が暮らす家に帰省するわけにはいかない。処分したくないが、そんなことも言っていられない。


「ハナの写真、見つけたのよ」


 兄嫁は一瞬なんのことか判らなかったらしく、怪訝な表情をした。


「ああ、あの犬ね」

「お母さん、あんなにかわいがってたのに、お棺に写真を入れてあげればよかったと思って。急なことで、気がつかなかったから」

「あなた、犬の写真を探してたの? 」


 美里はこっくりと頷いた。

 寝室に飾られていたハナの写真を手にして見せた。

 

「てっきり、あたしたちの知らないへそくりでもあるのかと思ったわよ」

 

 兄嫁の実家は資産家だった。しかし、お金にはうるさい。権利はきっちり主張してくる。父が亡くなったときに思い知らされている。またあの騒動が繰り返されるのかと思うと、気が重くなった。

 だが、今はそれどころではない。


 美里は、庭に面した廊下の引き戸を開ける。突っ掛けを履いて、庭へ出た。

 軒先に立て掛けてあった竹箒で軽く掃き、落ち葉を集めた。庭には落葉樹が多くあって、この時期いつも枯葉があった。よくこうして掃き集めては焚き火をして、母とふたりで芋を焼いた。


 兄嫁が廊下の引き戸から、顔だけ覗かせている。

 

「焚き火をするの。ハナの写真も燃やしてあげようと思って」


 枯葉は十分に乾燥していたらしく、火はすぐに点いた。

 ハナの写真を枯葉の上に、目立つようにして置いた。

 後ろを振り返って兄嫁の視線がないことと確認する。ジーンズのポケットからハンカチにくるまれた例の写真を取り出した。

 最後にもう一度だけ、見た。

 

 肩の上で躍動する黒髪、赤みが差した白い頬。

 きらきらと輝く瞳。

  

 それはかなわぬ恋にその身を焦がし、短い逢瀬に命がけで愛した大人の女の、一瞬のきらめきだろうか。

 

 その瞳を、美里はみつめている。

 その時だった。まるで母の想いが、写真に触れた指先から流れ込んでくる。そんな気がした。


 この恋が露見すれば、すべてを失う。

 家庭も、仕事も。

 しかし、愛している。どうにもならないくらいに、愛している。その姿を、声、ちょっとしたしぐさを思い浮かべるだけで、胸が締めつけられ、息が止まるような想いがする。

 実るあてない恋は燃ゆく焔にその身を焼かれるほどに辛く、そしてひと時の逢瀬は女と生まれた喜びを身体の一番深いところで確かめるように、幸福だった。

 

 母の想いが美里の胸に、まるで閃くように去来する。

 その想いに強さに驚いて、思わず美里は写真を取り落としてしまう。


 紅い炎が、写真を包んでいく。まるで、母の情念を浄化するかのように。

 美里は両手で顔を覆う。

 声をあげて、泣いた。

 

 美里はゆっくりと顔をあげる。

 写真は燃え尽きて、灰となっていた。


(お母さんには、かなわない)


 美里は自らの人生をかえりみる。

 二人の兄たちには及ばないが、それなりに優秀だった。兄たちと同じ公立の進学校に進み、東京の女子大へ入学した。

 楽しかった大学生活。恋をして、別れた。大手商社に就職。仕事は好きだった。結婚などせずに、仕事に生きようと思ったこともあった。しかし今の夫と出会い、27歳で職場結婚。そして程なく退職。ふたりの男の子を産み、育て、少し手の離れた今、近くの小さな会社で経理を任されている。


 夫とは、燃えるような恋愛があったわけではない。20代も半ばになり、交際していた夫と自然に結ばれた。結婚当初こそ、甘い満たされた思いがあったが、最近は恋愛時代とは違った信頼で深く結ばれているような気がした。


 それを幸せと名づけるなら、幸せなのかもしれないと思う。

 

(お母さんはどうだったんだろう)


 当時は昭和40年代。今ほど不倫に対して社会は寛容ではなかったはずだ。とくに、女には。


 母だって、望んで苦しい恋愛に飛び込んだ訳ではないだろう。

 一歩、また一歩と罪悪感にさいなまれながら、引き返せない道を進んだのだ。


 先輩教師であった父と送った結婚生活は、どうだったのだろう?

 厳格な父や姑が望む完璧な妻、母、教師。母はそれを演じきった。しかしその生活は、あまりに潤いに乏しいものだったに違いない。


(きっとお母さんはとても疲れて、そしてほんの少しだけ手をついて、休みたかったんだ)


 もう一度、燃えるような恋をしてみたい。このまま、朽ち果てるのはいやだ。

 美里にもそんな想いが、時としてすきま風のように訪れる。

 とくに40歳を目前にした今…。


 でも、怖い。

 一時の衝動に身を委ねてしまう自分を想像することは、まるで深井戸のほの暗い水底を覗き込むように、不安だった。


 銀色のかたまりが二つ、焚き火の中に放り込まれた。

 美里が傍らを見上げる。兄嫁が立っていた。

「焚き火にはこれがなきゃね。お芋、お台所見たら、ちょうどあったから」

 兄嫁は、微笑んでみせた。

 美里も、笑みを返す。

 大きく、息を吐いた。

 夫の顔が浮かんだ。平凡だけど、優柔不断で頼りないけど、優しい夫だった。


 きっと女は心の中に、ピースの足りないパズルを持っているのだ。抜け落ちた最後のひとかけらを求めて、さ迷う。どうしても埋まらない空白を埋めようとして、泣く。

 その空白がぴったりと埋まることは、たぶんない……。


(これでいいんだ。わたしはこれでいい)


「この家も、もう少しこのままにしておこうかね」

 兄嫁が、母屋の軒を見上げて言った。

 泣き笑いしながら、美里は頷いた。

(了)



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