08. 夕飯タイム
紀香は黒犬家に戻ってから、筋トレに勤しんだ。
「よっ、ほっ」
「……」
静は紀香の頭の上をまたぐように立ち、跳ね上げられた紀香の足を掴んで、床に投げつけるようにして押し返す。紀香は足が床につくギリギリのところで踏ん張って上げると、静が受け止めてまた押し返す。これの繰り返しである。やり方は簡単そうに見えて、腹筋に相当な負荷がかかる運動である。
その他、両足を持ってもらった状態での腕立て伏せとか、足を抑えてもらって背筋とか、静をおんぶしてスクワットとか。静をパートナーにして紀香はありとあらゆる筋肉を動かしまくった。何もない部屋とはいえ、何もできないことはないのだ。
途中で休憩をはさみながら何セットも繰り返しているうちに、すっかり陽が暮れてしまった。部屋の中は寒いが、体が暖まっているから暖房は一切つけていない。
「よしっ、これくらいにしとこう。付き合ってくれてありがとな」
「……」
下の階から静の父親の呼ぶ声がした。
「おーい、二人とも下りてきてー」
ということで紀香たちは一階に下りたのだが、玄関にはパンツスーツ姿の女性が立っていた。いかにもバリバリ仕事しそうな印象を受ける。
「あなたが紀香ちゃん? まー、静ったらかわいい子連れてきて!」
「か、かわいい?」
そんなこと言われたのは幼少期以来だったから、紀香はどぎまぎした。
「あ、私は静の母です。夫から全部話は聞いてるよ。自分の家だと思ってくつろいでねっ」
「ありがとうございます。今日一日お世話になります!」
紀香は大声で挨拶した。
「さあさあ、みんな揃ったところで夕食にしよう。ちょうど料理ができたところなんだ」
父親が紀香たちをダイニングの方に案内した。
「うおおっ」
紀香が肉食獣のような唸り声を上げた。
テーブルの上には何種類もの料理が並べられているが、中でも一番目を引いたのが分厚いステーキであった。健啖家の紀香の一番の大好物である肉。もうもうと湯気を放つ牛肉の塊は紀香の食欲を刺激し、胃袋はぐうう、という大きな音とともに収縮運動を引き起こした。
「こ、こんな高そうなお肉を……いいんスか?」
「はいっ、遠慮なくどうぞ!」
これ程までに自分を歓待してくれることに感激を覚える紀香。もちろん遠慮などするはずがない。一同がテーブルに着いて「いただきます」の挨拶をするや、真っ先にナイフとフォークをステーキに突き立てた。
一切れ口にして咀嚼した途端、ほとばしる肉汁に目玉が飛び出そうになった。
「んんーっ! 美味いっス! やっぱりこれは並大抵の肉じゃない……!」
「良い黒毛和牛の肉が手に入ったんだ」
「和牛最高! なあワンちゃん!」
「ワンちゃん?」
「あ、静さんのあだ名っス。名字が黒『犬』なんで勝手にそう呼ばせてもらってます」
「あっ、そうかあ。ははは!」
静は黙々とステーキを口に運んでいる。相変わらず味の表現はしないが、ナイフとフォークを動かす手が止まっていないのが答えであろう。
「母さんはダイエットしているから分けてあげる」
静の母が自分のステーキを切り取って娘の皿に移した。すると静は食べかけを置いて、母親から受け取った分から先に切り出した。貰う、という意志表示であろう。
「普段はあまり食べない子なのに。やっぱり今日は特別だからかな?」
母親に視線を向けられた紀香は照れ笑いした。
ステーキはもちろん、その他自慢の料理は全て完食された。しかし当然これでおしまいではなく、いちごソースがかかったババロアが運ばれてきた。
「ババロアには自信がありますよ。得意中の得意料理だからね」
父親の強気なコメント通り、ほんのりと甘い味は肉汁にまみれた口内を潤すかのようであった。
「もう美味いしか言葉が出てこないっス~」
イブの日の寮のごちそうもなかなかのものであったが、今晩の料理はさらにその上を行っている。
「お父さんの美味しいご飯を毎日食ってんだもんな。羨ましいなあ~いやお世辞じゃなくマジで」
「……」
静はババロアに集中している。
チャイム音が鳴って『お風呂が沸きました』という音声が流れた。
「紀香ちゃん、お先にどうぞ」
母親が声をかけた。
「え、いいんスか? すみません何から何まで」
「だって、紀香ちゃんは静の大切なお友達だもん」
友達。静の母親に言われたその言葉には何かしら特別な響きを感じた。
「わかりました。ではお先に入らせて頂きますっ」
ババロアを食べ終わった後すぐに、紀香は一番風呂に入ることになった。
「♪湧き上がる闘魂~紅に燃えて~眼下の敵を焼き尽くせ~炎の男義紀~」
父、下村義紀の現役時代の応援歌を口ずさみながら、着ているものを全て脱いで洗濯カゴに入れる。それから自身の肉体を鏡で軽くチェックした。服を着ているときには目立たないが、彼女はかなりの筋肉質である。腕と足は並の女子高生の一回り太く、腹筋はもちろんバキバキに割れており、背筋も背中の縦線がくっきりと現れるぐらいに鍛えられている。背丈が160cmに届かない紀香がホームランを打てるのは、ひとえにこの筋肉の鎧のおかげであった。
「ううっ、さぶっ」
更衣室はあまり暖房が効いておらず、紀香は筋肉をブルッと震わせる。早くホカホカのお湯で暖まらねば。
浴槽のフタを取ると、中のお湯は入浴剤で真緑になっている。紀香は洗面器で目一杯すくい取って頭からかぶった。くう~、とおっさん臭い声が漏れ出るぐらいの心地よい暖かさであった。
早く浸かりたいが、まずはエチケットとして頭髪と体を洗ってから。また下村義紀の応援歌を口ずさみながらリンスインシャンプーで頭を洗う。
「ん? あれ?」
シャンプーを洗い流すために洗面器を掴もうとしたが、手応えがない。側に置いてあったはずなのに。
探そうとした途端、お湯が頭にかけられた。
「おおー、ありがとうッス…………………………!!!???」
後ろを向くと、不思議なことに洗面器が宙に浮いている。いや、よく見ると何者かが手に持っていた。紀香がその正体を知るや、つい大声を出した。
「お、おい! 何やってんだよ!」
「……」
物音を一つ立てず、名前の通り静かに浴室に入ってきた静であった。