EX07-8. 紀香の守備
久しぶりの投稿になりましたが百合シーンはないんじゃよ(ガッカリ
紀香はまたしても一塁守備についていた。一試合目は幸いなことにボールがあまり来なくてエラーはしなかったが、守備は不得手なので打撃に集中したいのが本音であった。監督の意図はわかりかねるが、やれと言われたからにはやるしかないのである。
横目で三塁ベンチを見ると、静がスコアブック片手にグラウンドの方を見つめている。奏乃曰く、なかなか物覚えが良くてもう一人で書けるのだとか。
「静にエラー記録を書かせないようにしなきゃな」
ボール回しが終わり、性根を入れて守備に着こうと気持ちを切り替えたところで、右打席に武藤球が入った。
「オラー、まずワンナウトとろーぜ!!」
出歯亀のような真似をしていたことに今になって無性に腹が立ってきたので、鬱憤晴らしのために大声を出す。
瞳は長身で手足が長く、左腕から繰り出されるライズボールは紀香も手こずるほどなので簡単に打たれはしないはずだ。しかも初登板にしては過度に緊張している様子もなく、良いパフォーマンスが期待できそうである。
「えいっ!」
気合いをつけて投じたデビュー戦一球目は、内角高めを突いた。だが打者に寄りすぎた。球が身をのけぞって避けようとし、ボールはギリギリ当たらずミットの中に収まったように見えたが。
「あいたーっ!!」
球は絶叫してバットを落とし、その場に倒れ込んでもんどり打った。
「あいててててっ!」
「あああっ、すみませんすみませんすみません!!」
瞳が帽子を取ってただひたすらに謝る。だがマスクを取った帆乃花の顔はしかめっ面になっていた。
清水高校ベンチからコールドスプレーを持ったマネージャーが駆け寄ってきたが、球は急に立ち上がって手で制すると、左手をプラプラ振りながら一塁に歩き出した。
死球が宣告されていないにも関わらず。
「おい君、待ちなさい! 当たってないだろう!」
球審は手招きして呼び戻そうとする。だが球は逆ギレした。
「ああん!? ウチが嘘ついてるとでも言うんですか! これ見てくださいよ! これを! ほれ、ほれ!」
バッティンググローブを外すと、左手を球審と帆乃花の眼前にもぐいっと押し付けた。
「あ、あー……確かに赤くなっているな。ヒットバイピッチ!」
球審が改めて宣告すると、さっきまで痛がっていたのが嘘のようにパンパンと両手を叩いて一塁に走り出した。帆乃花はどうも納得いかないと言いたげな顔つきになっている。
球は一塁にたどり着くと、帽子を取って紀香に頭を下げた。
「へへへー、ウチのこと覚えてますかね? 中学の都道府県対抗で対戦した武藤球ですよー」
「知らねー。つかテメー、当たってねえだろ。手が赤くなったのもこっそりつねったとかじゃねーのか?」
ファーストから見れば角度的にボールが手に当たったかどうかは判別し難かったが、もんどり打っていたときの動作が何やら怪しかった。紀香だけでなく他の選手もそう見えたはずだ。
「ほんならビデオ判定を要求しますか?」
球がニタァ、と笑うと紀香は舌打ちした。このニヤケ顔が「実はやってました」と言っているようにしか聞こえないが、いくらこのグラウンドの設備が整っているとはいえさすがにビデオカメラまではあるはずもなく、物的証拠が無いので抗議しても言いがかりにしかならない。
紀香は舌打ちして瞳に向かって声を張り上げた。
「切り替えて行けー! ランナー出ても後は大したことねーぞ!」
「エエ声してますねえ」
「お前、ごちゃごちゃうるせーんだよ!」
何とも耳障りである。バントシフトを敷くために定位置から前進したが、少しでも声を聞きたくないがためにさらに心持ち前の方に出た。
確かに都道府県対抗では初戦で大阪代表と当たったことは覚えている。だが武藤球という人物は全く記憶に無い。元々人物を覚えるのは苦手ではあるものの、雲宝薫のときと違って何かしらのきっかけでふと思い出すこともなかった。全くの赤の他人同然だが、そんな人間に自分やチームのことを把握されているのは全く気持ちが悪いとしか言いようがなかった。
さて、二人目の打者はバントの構えを見せていた。帆乃花はここで瞳の得意球、ライズボールのサインを出す。浮き上がるボールをバントするのは難しい。案の定、バットはグンと浮き上がったボールに当たりはしたもののフライになり、バックネットを直撃した。
「ほえー、すごいライズやなあ」
球がやや大きめの声で言う。わざわざ紀香に聞かせるように。
「覗き見しといて白々しいぜ、ったく」
紀香は苛立つ。ソフトボールでは盗塁のルールが野球と違うために投手が牽制球を投げることがないが、もしもこれが野球であれば牽制球を要求して、タッチをするフリをして頭をどついていたかもしれない。暴れん坊だった父親はきっとそうしていたであろう。
二球目もライズボールのサインが出ている。瞳は首を縦に振って二球目を投じた。
「走ったー!」
掛け声が飛ぶ。球が二塁目掛けて駆け出したのだ。打者がヒッティングに切り替える仕草を見せたので紀香はすぐさま後退したが、バットは空を切った。
帆乃花が送球し、ショートの純がカバーに入る。足は速くなくタイミング的には悠々アウトになるはずであった。ところがボールは高く浮いてしまい、伸び上がるようにして捕球したためタッチまでの動作に大きなロスが生じてしまった。
「セーフ!」
またもや自分で手を叩いて喜ぶ球。まだ攻撃が始まって間もないが、内野陣がピッチャーズサークルに集まる。
「ごめんね瞳ちゃん、私が慌てなかったらアウトだったのに」
「いえ、まさかあいつ走るとはこっちも思ってなかっですし……」
紀香はファーストミットで口元を隠しつつ、
「帆乃花は以前からスローイングの改善が課題だったろ。あれもばっちり見られてるってこったな」
「うええ、もっと練習しなきゃ」
帆乃花は顔を歪めた。
「まあデビュー戦だし一点ぐらいは仕方ねーぐらいの気持ちで行こうぜ」
紀香が瞳の尻をミットで若干強めに叩いて、輪がとけた。
プレー再開。打者はまたバントの構えを取った。ツーストライクまで追い込まれているがスリーバント決行か。それとも強行か。
帆乃花は外角に外すよう要求した。だが投げられた球が内に寄ってしまい、打者はバントを決行した。
無死二塁からのバントは三塁方向に転がして三塁手に処理させようとするのがセオリーだが、ボールは一塁、紀香の方に転がってきた。打球はじゅうぶん死にきっていない。
帆乃花が三塁送球を指示する。二塁ランナーの球と三塁との間にはまだ相当の距離があり、紀香の肩でも十分刺せる位置にいた。
「おりゃあ!」
と、紀香はボールを直接左手で掴んで三塁めがけて送球。
「あいたーっ!」
またもや球は絶叫したが、今度は確かに演技ではなかった。ボールは三塁に滑り込もうとした球のヘルメットにぶち当たって、レフト方向に転がっていってしまった。バックアップした左翼手の坂崎いぶきが拾い上げたときには既に手遅れで、球はホームベースに滑り込んでいた。
「ああ~、や、やっちまった~……」
紀香は恐る恐る三塁ベンチを見やると、腕を組んで微動だにしない菅野監督の後ろで、黙々と静がスコアを書き込んでいる。彼女は無表情だが、代わりに隣で指導していた奏乃が眉毛をハの字にして紀香の方を見ていた。
記録はもちろんファースト紀香のエラー。呆然と立ち尽くす紀香に瞳が駆け寄る。
「紀香先輩、ドンマイです!」
後輩に気を使わせたことで、余計に申し訳ない気持ちに陥った。