EX07-4. 清水高校
合宿二日目は朝早くからみっちりと練習に取り組んだ。
合宿の狙いはチーム力の向上にある。紀香ばかり注目を浴びがちだが、ソフトボールはあくまでも団体競技、紀香一人が気を吐いて勝てるほど甘くはない。ニューイヤーカップでも紀香以外の者が頑張っていればもっと楽に優勝できていたに違いないのだ。
それは部員たち自信がよくわかっていたから大会以来奢ることなく、もう一歩二歩上のレベルを目指そうと努力を重ねてきた。とりわけ最後の公式戦を迎える三年生は下級生に抜かれまいとする意地もあり、間近に控えた受験や就職のことなど一切考えずひたすらボールを投げ、打ち、追ってきた。その姿勢が後輩たちを刺激し、やる気を掻き立てるという好循環を生み出していた。
全ての部員たちの目には闘志の炎が宿っている。後に新聞部の取材で、菅野監督はこう短く語った。
「インターハイ、行けるわよ」
*
濃密な鍛錬の時間はあっという間に過ぎ、宿舎に戻る頃にはみんなクタクタになっていた。それでも夕食の時間になり、宴会場に集まると目をギラギラとさせて、監督の挨拶が終わるのを待った。
「たった二日間、されど二日間ですが、あなた達は確実強くなっています。あとはインターハイ予選までどれだけ上積みできるか……」
ぐぅぅ~、と大きく間抜けな音がして、監督の挨拶が中断された。紀香の腹の音だとわかった途端、宴会場が爆笑に包まれた。
「す、スンマセン! もう限界っス!」
「わかったわ。私の言いたいことはみんなわかるだろうからもう挨拶はこの辺にしておきます」
「よっしゃー! じゃあいただき……」
「STOP!! ごめんなさい、肝心なことを伝えてなかったわ。美波さん!」
「はい!」
美波奏乃が前に出てきた。
「明日の予定ですけど、試合用のユニフォームに着替えて七時半出発、八時前には清水高校に着いて午前九時からダブルヘッダーで練習試合、終了後学校に戻って即解散です」
練習試合があるとは聞いていたものの、どこの学校相手かは知らされておらずこの場で初めて知らされた。対戦校の名前に反応した者は少なくなかった。
「清水って、この県でトップレベルの野球部を持つあの清水高校か?」
紀香が問うと、「そうだよ。この近くにあるの」と奏乃は答えた。
「あそこって男子校じゃなかったっけか?」
「今年から共学になったんだ」
「てことは、相手は全員一年生ってことか」
「そういうこと」
菅野監督が補足を入れる。
「一年生と言ってもただの一年生じゃないわよ。静水は女子の運動部に力を入れていて、スポーツ推薦で全国から生徒をかき集めているの。ソフトボール部も例外じゃないわ」
「でもチームができて一ヶ月そこらっしょ? こっちは修羅場くぐってきたんだ。ダブルヘッダー、二つとも勝ってやりますよ。なあ?」
みんな、口を揃えて喚声を上げた。菅野監督は目を細める。
「見違えるように逞しくなったわね……明日、勝って気分良く帰るわよ!」
「「「おおーっ!!」」」
「さあお話はここまで。それじゃ手を合わせて……」
「「「いただきまーす!!」」」
ソフトボール部員の食事量は並の生徒より多いが、紀香の食べ方は一段と際立っている。給仕の人におひつを持ってこさせて、しゃもじですくった山盛りご飯を直接口に入れるという、品が無いが豪快な食べ方を披露した。まさに「色気より食い気」の塊のようなものであった。
*
紀香の口からはすげー、の言葉も出なかった。
清水高校ソフトボール部専用グラウンドの存在。他部と共用している星花女子ソフトボール部とは設備面からして差をつけられている。さらに驚くべき点は照明設備があり、内外野ともに土でなく天然芝が敷かれていたことにある。二日目まで強化練習に使っていたグラウンドよりも遥かに質で勝っており、このような立派なグラウンドを見たことは誰一人とていなかった。
「さすがbudgetが豊富な学校は違うわねえ……」
菅野監督がぼやいた。公式戦で結果が出ていないという理由で、今年度にソフトボール部に割かれた予算は多くない。紀香の場外弾を防止するためにグラウンドに防球ネットをつける話も、たった一人のために金を使うのはいかがなものか、と反対意見が出てお蔵入りになってしまっていた。
「菅野さん!」
水色のスタジアムジャンパーを着た中年の女性が声をかけてきた。
「お久しぶりです、中野渡さん」
その名前を聞き、顔を見て驚かなかったのはソフトボールの世界に入ってまだ日の浅い黒犬静だけであったかもしれない。
清水高校女子ソフトボール部監督、中野渡彩子。かつて名門タイラ製作所ソフトボール部の主砲であり、日本代表の四番打者を務めたほどの名選手である。星花女子ソフトボール部では彼女に憧れてソフトボールをやり始めた選手も多くいる。
紀香の場合は父の影響が大きかったが、幼い頃にテレビの五輪中継で見た中野渡彩子のフルスイングは今でも目に焼き付いており、打撃とはこうだと教えてくれた師のような存在である。豪放磊落な性格の紀香でも声を震わせながら挨拶し、直立不動にならざるを得ない程に。
対して、菅野監督は全く物怖じする様子がない。
「試合を引き受けてくださってありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。しかし菅野さん、学校の先生になってたなんてねぇ。もう少し良い働き口があったんじゃないの?」
ものの言い方に、あからさまに棘が含まれていた。しかし菅野監督もニコニコと笑いながら、
「中野渡さんこそ、世界に名だたるタイラでコツコツと働きながらコーチやってた方がよく稼げたんじゃないですか?」
「清水高校に誘われた折にタイラより金出してくださいって言ったら気前よく出してくれたよ。やっぱりスポーツに金かけてる学校は違うわー。どこかの学校と違ってねえ」
「お金は大事ですものね。これだけ立派なグラウンドも作るのにも相当お金がかかったでしょう。選手たちも相当強いんでしょうね」
「ははは、試合でたっぷりとわかるよ」
「お手柔らかにお願いします」
殺伐とした空気の中、二人は握手をかわして別れた。こんなやり取りを見せられて黙っていられる紀香ではない。
「あの、中野渡さんと何かあったんスか……?」
「実業団でプレーしていたときにちょっと、ね」
それ以上何も言わなかった。
ただ、中野渡彩子の態度には幻滅していた。あんないやみったらしい人間だったとは思わなかった。自分は絶対にああならないようにしよう。そう紀香は心に決めた。
*
清水高校女子ソフトボール部は一年生だけとはいえ、二十名も部員を抱えている。しかも全員が中学時代で鳴らしていたプレイヤーで、ほとんどが全国大会経験者のソフトボールエリートである。
部創立後、対外試合はこれが初めてとなる。しかしエリートたる部員たちは星花女子学園を侮っていた。一流揃いのチームで、かつ元日本代表の指導を受けている身。試合前から勝負が決まっているようなものだと高をくくるのも致し方ないことである。
ただ、武藤球は違う。中野渡監督の命を受けて宮坂あおいとともに星花女子学園の偵察に赴いたが、想像以上の力を持っていることを知った。特に下村紀香の存在。彼女の恐ろしさは昔からわかっていた。中学一年生の頃に都道府県対抗で対戦した経験、といっても控え捕手でありペンチで見ていただけであったが、失投を捉えて大きな放物線を描いた白球がフェンスの遥か向こうに着弾した光景はいまだにはっきりと覚えている。
全国大会経験者の部員の中には、下村紀香の名前を知っている者もいるはずである。それでありながら星花女子などおそるるにたらずといった態度を取っていた。
「一人で勝てるほどソフトボールは甘くねえ」
と、投手で主将でもある平野悠が鼻で笑うと、
「お嬢様学校のお遊びとは違うってことを見せつけてやらんとね」
と、球と同じく捕手の杉村香穂が不敵な笑みを浮かべ、チームメイトは次々に首肯した。全員方言やイントネーションがバラバラなのが、全国からかき集めている証左であった。
関西圏出身の球は大きなため息をついた。
「そんなこと言うてナメてかかって痛い目会うても知らんからな。せっかく人がまとめたデータを一切読まへんし、監督指示で偵察してきたってのに……」
「お前もしつけえな。下村だけ気をつけりゃあええんじゃろ」
「あんたは黙って見ときんしゃい!」
全日本中学生女子大会でクラブチームを優勝に導いた悠と、全国中学校体育大会で優勝経験のある香穂は、都道府県対抗で一度だけ選ばれてしかも控え捕手でしかなかった球のことを下に見ていた。
「わかった。もう勝手にせえ」
球は吐き捨ててロッカールームを後にした。
「あっ、球やん!」
グラウンドへと続く通路を歩いていたら、宮坂あおいが呼び止めた。
「何や?」
「監督が呼んでる。てかあからさまに不機嫌なんだけど何かあった?」
球はあおいの肩に手を置いた。
「胃が痛い。みんながあおいっちみたいに素直やったらなあ……」
あおいはただ唯一地元の県出身の部員であり、全国経験も無い。それ故にプライドがやたらと高いということも無く、球はその点を非常に好いていた。
「ねえ球やん」
「ん?」
あおいは自分の肩に乗っていた手を取り、自分の両手で包み込んだ。
「私、誰に何を言われても球やんについて行くからねっ」
「あおいっち……」
あおいの励ましの言葉は、どんな胃薬よりも効いた。ただし、その副作用が頭と心臓に現れもした。
(そんな殺し文句言われたら惚れてまうやん……)
紀香とマネージャーが抱き合っていた光景が球の頭を掠めた。