EX04. 宝文34年のプレイボール
紀香のお母さんの過去のお話です。
宝文34年。空の宮市が天寿の企業城下町ではなく、星花女子学園の制服がセーラー服であった頃。高等部に進学したばかりの岡谷菜穂子は気持ちを新たに勉学に、部活に励んでいた。
この日は料理部で和菓子作りに力を入れすぎて、下校時刻ギリギリまで残っていたから早足で高等部桜花寮へと帰宅した。高等部に上がりたての頃は何度か癖で中等部桜花寮に向かいかけたものの、今ではそんなヘマはやらかさなくなった。
「ただいまー」
自室に入ると、ルームメイトの茅野香奈が片手を上げて「おかえりっ!」と元気よく挨拶した。彼女は何も身につけていなかった。
「ちょっと香奈、何で服着てないのよ……」
「へへっ、菜穂子があまりにも遅せぇから先に風呂入ったんだけど、風呂上がりにすっぽんぽんになるとすげー気持ちいいんだよ」
「もうっ……」
「お前、何で顔赤くしてんだよ。今までさんざんあたしの裸を見てきただろ?」
「時と場合を考えなさい。今はそういうことをする時間帯じゃないでしょ」
「今は? じゃあ、後でってことだな」
「あまり人をからかうもんじゃないわよ」
菜穂子は通学カバンで香奈の頭を軽く叩いた。
「い、痛ぇな……おしとやかで清楚な岡谷さんが暴力振るったってみんなが知ったら泣くぞ?」
「あなたに言われたくないわ」
香奈は空手部所属で、中等部時代には全国大会の舞台に立ったこともある。しかし血の気が多いのが玉に瑕で、何か腹が立つことがあれば空手技で建物の壁や備品を叩き壊すという悪癖がある。それがマイナス点となって、部活で好成績を収めながらも菊花寮に住むことは許されなかった。
そんな野獣じみた女に菜穂子はなぜか惚れてしまった。恋道よりも空手道と決め込んでいた香奈は最初はアタックをかわし続けていたが、とうとう折れて付き合うことになった。しかしいざ恋仲になるとかえって空手にますます磨きがかかり全国大会にも出られたから、香奈の方もすっかり菜穂子に入れ込むようになったのであった。
菜穂子はカバンからラップで包んだものを取り出して、香奈の机に置いた。
「今日は部活であんこ餅を作ったの。食後のデザートにどうぞ」
「おおっ、サンキュー! じゃ、あたしも実は菜穂子にあげるものがあるんだ」
「何かしら」
香奈はベッド横に無造作に置かれていた自分の通学カバンから二枚の紙切れを取り出した。
「今週の日曜に県営球場でプロ野球の試合があって、そのチケットを空手部の先輩がくれたんだ。一緒に観に行こうぜ」
「私、野球のことは全く知らないわよ」
「あたしがいろいろ教えてやるって! だから行こう、な!」
屈託のない笑顔を見せられては、いいえと言えない。わかったわ、と菜穂子は承諾した。
「そのかわり、今すぐ服を着なさい。食堂に行くわよ」
*
県営球場はたちまち満員となった。シャロンスーパースターズと浪鉄ファルコンズのデーゲーム。この両球団は不人気球団ではあったものの、プロの試合を間近で見る機会が少ない県民たちはここぞとばかりに球場に押し寄せてきたのである。
菜穂子と香奈は三塁の内野席に座った。この日は四月に関わらず五月後半なみの気温であり、日差しはきつく風も吹いていなかった上、密集した観衆の熱気に当てられたものだから否応無し汗ばんでくる。香奈のアドバイス通り、薄着にしてきて正解だったと思う菜穂子であった。
「それにしてもシャロンって野球チームを持っていたのね。全く知らなかったわ」
おやつで持ってきたプレッツェルをかじりつつ菜穂子は言う。大手製菓メーカーのシャロンの商品である。
「野球チームを持つのは一種の企業ステータスと言える。宣伝効果がすげー高いからな」
「じゃあ、この『浪鉄』も何かの会社かしら?」
「ああ、関西にある浪速鉄道ってとこだ。シャロンと違ってあたしらにとって身近じゃないとこだけどな。おっ、そろそろ試合が始まるぜ」
スーパースターズの選手がベンチから飛び出して守備位置に散っていく。ウグイス嬢のアナウンスが流れだすと、レフト外野スタンドに陣取ったファルコンズ応援団が旗を振り回し、太鼓を叩き、トランペットを吹き鳴らした。遠く離れた内野席で観ているからまだ良いものの、外野だったらあまりのうるささに観戦に集中できないのではないかと思う菜穂子であった。
試合は一進一退の攻防が続いて、野球の知識が皆無に等しい菜穂子でも点のやり取りだけ見れば面白いと感じた。いちいち香奈からプレイの意味について教わる必要があったものの、香奈は丁寧に自分の求めている以上の情報を教えてくれた。
スーパースターズが二点リードで迎えた七回の表、ファルコンズがランナー二人を置いてチャンスを作った。
この場面で打席に立ったのは下村義紀という選手である。香奈の情報によるとかつては甲子園の高校野球大会で優勝した投手であり、プロ入り後に打者に転向したという。野球に疎い菜穂子でもおぼろげに甲子園がどういう場所かは知っていたから、とにかく凄い経歴の持ち主だというのはわかった。
応援歌を背に受けて、下村がバットを構える。まだヒットは打っていないが「オレが決めてやる」と言わんばかりの気迫が、全身からみなぎっている。
初球が甘いコースに入っていった。下村は失投を見逃さず、フルスイングで叩きのめすと、木製バット独特のカーンという乾いた打撃音が響いた。
打球はグングンとレフトスタンドに向かっていく。
「わっ、わっ! これは行ったぞ!」
香奈が立ち上がる。彼女の言う通り、打球はフェンスを飛び越えていった。
球場全体が揺れた。何度も何度もガッツポーズをしながらダイヤモンドを一周する下村。香奈はもはやすげーすげーとしか叫ばなかったが、菜穂子もつい立ち上がって、逆転の一撃を放った下村を拍手で讃えた。
「一発大逆転! これが野球の醍醐味だぜ!」
「凄いわねえ……」
菜穂子はその一言しか出なかった。
*
「いやあ、すんげー面白い試合だった!」
「香奈にとっては、ね……」
球場最寄りの駅近くにある繁華街のファミリーレストランで夕食を取った二人は、駅へと歩みを進めていた。その最中に香奈はパンチをする仕草を何度もしていた。
試合は結局、スーパースターズが再逆転してそのまま勝利をおさめ、下村のホームランは報われなかった。しかし観客にとって印象が残ったのは逆転に次ぐ逆転の手に汗握る展開ではなく、最終回のファルコンズの攻撃で起きた事件であった。四番を打つ外国人選手がデッドボールを受けて激怒し、ピッチャーに突進、大乱闘に発展してしまったのである。
球技がたちまち暴力の世界に様変わりしてしまったことは菜穂子を不快な気持ちにさせたが、血の気の多い香奈はそんな自分の気持ちを察そうともせず乱闘も野球の醍醐味なんだと興奮しまくって、食事中もずっとその話題ばかりしていたから心底うんざりさせられていた。下村義紀の逆転弾の感動も台無しである。
「おい、そんな不機嫌なツラすんなって」
香奈が菜穂子の肩に手を回してきた。
「あたしが悪かったって」
「あなたね、わかってんなら最初からっ、んんっ……!?」
その先は香奈が言わせなかった。彼女の唇で、菜穂子の唇を塞いだから。
「もうごちゃごちゃ言うな、な?」
「あっ、あのねえ……人が見てたらどうすんのよっ……!」
幸いなことに、二人が歩いているビルの谷間の狭い路地には人の姿はなかった。
つくづく自分勝手な女だ、と菜穂子は呆れてため息を漏らした。悪意があるわけじゃないから尚更たちが悪い。もっとも、そんな女を好きになってしまった自分もある意味どうしようもない人間だが……。
「へへっ、この先の続きは帰ってからだな」
「んもう……明日は学校よ?」
路地を抜けようとしたときであった。三人のいかにも不良ですと言わんばかりの男たちが菜穂子と香奈の前に立ちはだかった。
「おーおー、お二人さん熱いねえ~!」
「あれ、こいつよく見ると女だぜ?」
「女どうしのカップルかよ!」
大きく下品な声三つがビルの谷間に響く。
「そこどきな」
香奈は菜穂子の前に出て、男たちを睨みつけた。
「おーおー、気の強い子だね~!」
「俺たちと遊んでくれるならどいてやるぜえ?」
「女どうしもいいが男と女だったらもっといいぜえ!」
菜穂子には、三人が人間の形をした何かしか見えなかった。来た道を引き返して逃げるために香奈の体を掴もうとしたが、振り切られた。
「じゃあ、望み通り遊んでやるよ!」
香奈は言うが早いか、回し蹴りを繰り出した。
「おっと!」
男の一人がかわすと、すかさず反撃に出た。両手で香奈の肩を掴み、建物に体を押し付けた。
「香奈ー!」
「うぐっ……」
「ふん、何か格闘技をやってるな。だがこっちもあいにくケンカ慣れしてるんでな、女ごときが俺たちに叶うわけねえ。このままたっぷり可愛がってやるからなあ~」
下卑た笑みを浮かべつつ、残りの二人が菜穂子の体の自由を奪った。人間はとてつもない恐怖に陥ると声が出せなくなる。今の菜穂子はまさにそのような状態であった。
「菜穂子っ……」
香奈の着ている男物のシャツが乱暴に脱がされる。香奈が汚される姿を見るぐらいなら、自分が汚される姿を見せられるぐらいなら、一層のこと目を潰して欲しい。声が出せたならそう叫んでいたことであろう。
しかしながら、二人は天に見放されてはいなかった。
「おう兄ちゃんたち、楽しそうにしてんなあ」
「当たり前だろ。こんな上玉を……?」
男たちが情けない悲鳴を上げた。
新たにその場に現れた男たちが十人ほど。いずれも不良どもより一回りも二回りも体格の良い者たちばかりである。人相もひときわ悪い。しかも全員が高級スーツを着ていて、かつサングラスやスキンヘッドやパンチパーマが威圧感を増幅させている。どう見ても「その筋」の人にしか見えなかった。
「だけど、お嬢ちゃんたちは全然楽しそうにしてないよなあ?」
変な柄が入った真っ赤なスーツを着た男がポキポキと指を鳴らす。
「い、いやオ、オレたちはただ……」
「さっさと散らんかいオラァ!!」
赤スーツの男が一喝すると、不良たちはたちまち脱兎のように逃げて行った。
「あ、あのっ……」
恐怖心が霧散した菜穂子は、声が出せるようになっていた。
「助けてくださり、ありがとうございます……」
「礼なんか要らん。それよりお嬢ちゃんたち、まだ子どもだろう? 子どもが夜にこんな暗く狭いところをウロウロしちゃダメだ。さあ、さっさとお家に帰りなさい」
赤スーツの男はさっきと打って変わり、優しく諭すように言いつけた。
すると香奈がいきなり、赤スーツの男を指差した。
「ええっ!? ま、まさかウソだろ!? 何でここに浪鉄の下村……」
「人違いだ。つーか人に指を差すなよ、失礼だぞ。さあみんな、次の店行くぞ!」
その筋風の男たちが野太い声で「おう!」と呼応すると、ぞろぞろと移動を始めた。
「気をつけて帰れよ!」
赤スーツの男が手を振った。
「行きましょう、香奈」
「あ、ああ……」
帰りの電車の中で、香奈は今までと違ってうなだれっぱなしであった。結果的に自分が菜穂子を守ることができず、第三者に助けてもらった悔しさ、惨めさが身に染みていた。
「情けねえ、あたしったら本当に情けねえよ……」
香奈はグスッ、と鼻をすすった。菜穂子は頭を優しく撫でてやり、手持ちのポケットティッシュを差し出した。
「お互いに無事でいられたんだから良かったじゃない。ね?」
「うん……」
「あの赤スーツの人って、本当に下村さんだったの?」
香奈は鼻を噛んでから答えた。
「間違いねえよ。他の人らも浪鉄の選手だったし。状況が状況じゃなかったらサインを求めてたところだったな」
「サインどころか、こっちからお礼をしなきゃいけないわ。今度の休日、仕切り直しのデートがてら御礼の品を選びましょ?」
「うん」
香奈に笑顔が戻った。
そんなわけで後日、手紙を添えてお礼の品物をファルコンズの球団事務所の方に届けたのだが、返事は返ってこなかった。しかし品物はちゃんと下村選手たちの手元に届いていた。そのことを確認できたのは、菜穂子が大学を卒業した直後にひょんなことから再会した、下村義紀本人の口から聞かされたときである。
『菜穂子ー! 元気してるー?』
「してるわよー。そっちこそ相変わらずね。瑞穂君は元気? 今年小学校に上がるのよね」
『おう、元気ありまくりだぜ。あたしに似すぎてな』
「うちの娘なんか、口調があなたそのものになっちゃったわよ。本当の父親はあなたなんじゃないかって思うほどに」
『マジかー。あたし、紀香ちゃんに一度会ってみたいなー』
「私も会わせたいのだけれど、なかなか娘の都合がつかないのよねえ。お盆と年末年始しか帰ってこないし、その頃はあなた、いつも海外旅行に行ってるでしょ?」
『あたしは別にどうでも行きたいってわけじゃないけど、連れ合いと義両親が行きたい行きたいってうるせーからな』
「家族づきあいも大変ねえ。ところで、来週末にそちらの方に遊びに行ってもいいかしら? 旦那が野球解説とバラエティ番組収録の仕事で三日ほど帰って来ないの」
『おー、いつもの不倫ごっこか。いいぜ』
「その不倫ごっこって呼び方はやめてよ、いい加減に」
『へへっ。でも、旦那さんと何かあったらいつでもあたしに相談しな。たっぷりと慰めてやるからさ』
「あなた、もういい年なんだから変な冗談はよしなさい」
『相変わらずお固いねえ。じゃ、来週末、待ってるからな』
「はーい」
菜穂子が通話を切った直後に、娘の紀香からメッセージが届いた。
ジャージ姿の女の子と肩を組んで頬を寄せ合っている自撮り画像。お相手は紀香を慕うあまり高等部に上がると、ソフトボール部のマネージャーになったと聞く。春が訪れて幸せに満ちている娘の表情を見ると、つい菜穂子も頬が緩んでしまう。
来週、この画像を香奈にも見せてあげよう。きっと昔を思い出すだろうから。