EX03. 初◯ッ◯
百合小説版深夜の創作60分一本勝負第一回目のお題『初めて』より。
春休み終盤の日曜の朝、紀香が桜花寮のロビーを通りかかると、先輩の新浦不二美が一人でスポーツ新聞を読んでいるのに出くわした。いつも恋人の湯沢純と一緒に行動して人目も憚らずイチャイチャしているので、一人でいるのは非常に珍しい。
「おはようございますっ!」
紀香はそう言ったつもりでも、体育会系独特のしゃべり方だから「おざますっ!」に聞こえる。
「下村、おはよー」
「片割れはどうしたんスか?」
「片割れゆーなし。じゅんじゅんはまだベッドの上だよん」
昨日はちょっと夜の運動がハードだったからね、と、ものすごくいやらしい顔で堂々と不二美はのたまった。その不二美もカラオケで歌いまくった後のように声がかすれ気味になっている。この調子だと昨日は隣や向かいの部屋に相当迷惑かけたんだろうな、と紀香は心のなかでため息をついた。桜花寮は菊花寮と違って壁が薄いから、ちょっとした声でも筒抜けなのだ。
「下村こそ、静ちゃんはどうしたの?」
「昨日は実家で寝泊まりっス。なるべく週一で帰ってこいって親に言われてるらしくて。家近いとはいえ心配なんでしょ」
「ま、高等部に上がってソフトボール部に入ったらぐっと忙しくなるからねー。親孝行できるときに親孝行しといた方がいいよ」
「……新浦先輩って、湯沢先輩が一緒じゃないとまともなこと言うんスね」
「やかましいわ!」
紀香はゲラゲラと笑って、不二美が読んでいた記事を覗きこんだ。
「お、仲谷打ってんじゃん」
内容は、プロ野球武蔵野レッドソックスのドラフト一位ルーキー仲谷侑次郎がデビュー二試合目にして初ヒット初打点を記録したというもの。六大学野球ではスター選手であり、安打製造機と呼ばれていた。
不二美はまたいやらしい顔に戻って、見出しの「初H」の部分を指でなぞった。
「これ、絶対狙ってるよね?」
「先輩、マジ汚れてるっスねー」
紀香は冗談を言ったつもりだったが、新浦はすっくと立ち上がって顔を近づけてきた。こりゃヤバイ先輩いじりが過ぎたか、と身構えたものの、
「下村はもう初ヒット打った?」
「え!?」
話の流れからして不二美の言わんとしていることは、そういうことだ。紀香は今までとは打って変わって、態度がしおらしくなった。
「う、ま、まだ無安打っス……」
「うそー!? 静ちゃんと一つの部屋で暮らしてんのに!? ソフトで例えるならノーアウト満塁のチャンスなのに!? あんた何やってんの!?」
「ううっ、そこまで責めることないでしょ……静、そういうのにまだ興味なさげだから……」
「だーかーらー、あんたの方からシたくなるような雰囲気に持っていくのよ! 私だってじゅんじゅんと初ヒット打ったとき、いつも以上に念入りにスキンシップしてからベロチューしまくって、そのままベッドに押し倒しううっゲホゲホゲホッ!!」
不二美が咳き込んで喉を抑えた。
「あー喉が痛い……とにかくね、早いとこ初ヒット打ちなよ。静ちゃんがあんたの筋骨隆々な体無しで生きられなくなるぐらいにしちゃいな」
「う、うっす……」
*
「……って言われちゃったんス」
「紀香から入部以来初めて持ちかけられた相談がそれか」
主将の坂崎いぶきは苦笑いを浮かべた。その後ろでは不二美が純と突っつきあいをしているのが見える。練習中にも隙あらばイチャイチャするぐらいだから、休憩時間だと尚更のことだ。
「あの二人は恋愛と性欲が一セットになっちゃってるけど、本来は別物って言うからね。無理に体を重ねようとする必要はないと思うよ、私は」
「そうっスよねえ。やっぱ」
「ま、私も無安打記録更新中だから説得力に乏しいけどね」
「キャプテン、顔も性格も良いからモテそうなのに意外っスね」
「中学時代に付き合ってた彼氏はいたよ? 一応は」
紀香はついスポーツドリンクを落としそうになった。
「初耳っスよそれ!」
「私にとっちゃ黒歴史だから今まで黙ってたの」
「あー、酷い別れ方でもしたんスか」
「まあね」
いぶきが語ったところでは、元彼とはたった二週間で終わったという。その理由としては、元彼が恋人のいない友人に対して偉そうにマウントを取っていたのが耳に入ったこと。かつ、まだデートすらろくに回数を重ねていなかったのに事あるごとにエッチさせろと迫ってきたこと。自分がただの性的欲望を満たす装飾品扱いされているだけじゃないかと疑念を抱くのは当然であった。
「最後なんか学校の中で無理やり襲ってきたから、たまたま手元にあったバットで頭をかち割ってやったんだよ」
「えええー……」
いぶきは温厚篤実な性格であり、暴力を行使する姿は紀香には全く想像がつかなかったが、身に危険が及んでいる状況では話は別かもしれない。
「騒ぎが大きくなったから、そいつはどっか遠くに転校になっちゃったけどね。その事件がきっかけで私は男子が嫌いになって、女子校の星花に進みましたよと言うわけ」
同級生にフラれた紀香の中学時代とは天秤にかけられない程に重たすぎる坂崎の中学時代だが、いぶきは割りとあっけらかんな口調で話した。
「何か、すみません……嫌な思い出話をさせて」
「ううん。元々紀香の相談だったのに私の愚痴話になっちゃった。こっちこそごめんね」
休憩時間が終わり、部員たちはグラウンドに駆け出していく。不二美と純はお互いの頬にキスをするのが見えた。
「あの二人はいつも通りだね」
「本当っスよ。来月新入部員入って来んのに最上級生としての示しがつくんスかねえ。一度キャプテンからガツンとお見舞いした方がいいんじゃないスか?」
「いや、あれは二人なりの愛の形だから私らがどうこう言う必要はないよ」
いぶきはさあ行こうか、と促した。
「紀香も例え人がどうこう言っても、自分たちの愛の形を崩さないでね」
「……はいっ!」
紀香の胸が、スーッと軽くなった。
翌月入ってきた新入部員の一人に対して、坂崎いぶきの心に恋の花が再び芽吹くことになるのだが、それはまた別の話である。