23. 黙して静かに見守るもの
黒犬静視点のお話です。
加治屋帆乃花が出塁して、一塁スタンド全体が歓喜に揺れる。
耳をつんざく狂騒の中でも黒犬静だけは表情を一切崩さず一言も発さず、試合の成り行きを見守っていた。
チアリーダー二人がボードを掲げた。一人はデカデカと『ポパイ』という文字が書かれたボードを、もう一人は応援コールが書かれたボードである。
指揮者が指揮棒を振るとポパイのテーマ曲が流れだした。高校野球の応援でお馴染みの曲ではあるが、野球を見る習慣がない静はそのことを知らない。
「「(♪~)GoGo!(♪~)GoGo!(♪~)にうらーファイトー、オー!」」
紀香の応援についてきてくれた静の両親は、三日間の応援ですっかり星花女子ソフトボール部そのもののファンになっており、曲に合わせて大声でコールした。
静はすっかり音の洪水に囲まれてしまったが、不快には感じていない。名前の通り物静かとはいえ、本来は賑やかなことが嫌いではない性格である。それでも静は周りがいくら手拍子をしようとコールしようと、ジッ、とグラウンドの方を見据えていた。
次打者の新浦不二美がバントの構えをするのを見て、相手はバントシフトを敷く。だが不二美はヒッティングに切り替えて強攻。打球はシフトの間を破ってレフト前に転がっていった。昨日から続く不名誉な無安打記録にようやく終止符が打たれた瞬間だ。
「よーしっ!」
「いいぞー!」
父親も母親も、まるで自分の娘が打ったみたいに大喜びしている。生徒たちに至っては奇声に近い声を上げている。屋外にも関わらず、暖房がかかっているかのような熱気がスタンドを包んでいた。
雲宝薫に良いようにされてきた昨日とは違い、幸先の良いスタートを切った。相手のスタンドは「がんばれ猪俣」と蛮声を送るが、こちらには校内最大規模の部員数を誇る吹奏楽部の演奏がついている。しかも金賞レベルの腕前の。トランペットが、トロンボーンが、ホルンが、チューバが、サックスが、スーザフォンが、ドラムが、そして応援の声が。それぞれ一体となって秒速340mの弾丸を撃ち出して、味方を援護射撃する。
三番坂崎いぶきは不二美と逆に強打の構えから送りバントに転じて、見事成功。一死二三塁の場面で長距離砲の紀香に回ってきた。
「うおっしゃあああ!!」
紀香の気合がこもった叫びが、確かに吹奏楽の美しく壮大なサウンドをも突き破って静の耳に届いた。
打席に入る前に、尻ポケットにそっと手をやるのが見えた。そこは必勝祈願のお守りが入っている場所。正月の初詣で買ってきて、冬休み明けに手渡す前日まで一日中肌身離さず、願いを込めたものだ。
その献身的な行動は、もはやソフトボーラー下村紀香のファンの範疇を越えていた。
チアリーダーが『ファイト』というボードを掲げた。打者ごとに応援曲を決めているのではなく、『ポパイ』『Let's Go』『ファイト』の三曲を場面に応じて流す応援形式である。『ポパイ』はともかく他二曲は聞いたことがないが、生徒たちはノリ良くコールしていた。
「「(♪~)ファイト!(♪~)ファイト!(♪~)レッツゴー!(♪~)ノリカ! 星花勝・つ・ぞー、おー!」」
紀香がバットを大きく構えた。猪俣は警戒しているためか、一球目を投げるまでかなりの時間をかけた。それを紀香はいきなりフルスイングで叩く。
ボールは一塁線を切れていった。危うく一塁ベースコーチに当たりそうになったものの、すんでのところで避けた。遅れておおっ、とスタンドがどよめいたが、すぐさま応援に戻った。
バットが風を切る音がスタンドまで聞こえてきそうな程のフルスイングは、見ているだけでも静に気持ち良さを覚えさせるものである。
猪俣は三球続けてボール球を投げたが、紀香は落ち着いて見切った。一球投げるのに相当時間をかけているが、一発がある相手に対してはいくら慎重に攻めても慎重に過ぎることはない。
五球目。キャッチャーが構えたところより高めに浮いた。紀香のバットが容赦なくそれを捉えると、大歓声がブラスバンドの音色をかき消していった。
打球はセンターへ。中堅手は下がるが、やがて足を止め、助走をつけつつ捕球した。同時に帆乃花がタッチアップ。内野に良いボールが返ってくるも帆乃花は俊足であり、もう間に合わなかった。
犠牲フライとはいえ、待望の先取点。みんな飛び上がって大喜びしている。静の両親もやったやった、と娘に抱きついて小躍りしていた。
そのような中でも、静は人形のように表情を変えない。だが内なる感情は違う。心臓は破裂しそうなぐらいに、ドクンドクンと高鳴っていた。
あのときも、こんな風に胸を高鳴らせていた。だけど唐突に訪れた悲劇が、静をとりまく世界を無味乾燥の荒れ果てた野へと変えてしまった。耳に届くありとあらゆる声や音は何も心に響かず、ついには自ら声を発することすらやめてしまった。
――私はいったい何のために生きているのか?
その答えを見い出せず出口のない迷路をさまよい続けて、もう五年は経ったであろうか。
だけど閉塞の日々の終わりがすぐそこまで近づいていることを静は予感している。あの朝、下村紀香が打った大飛球をたまたま頭に受けたときが、荒れ果てた野に一粒の種が落ちた瞬間であった。
それはやがて芽を出し、大きくなり、つぼみがついた。下村紀香が一所懸命に水と肥やしを一所懸命与えてくれたおかげで。
豪快なのに優しい性格。鋼のような肉体。バットを振るう様。そしてあの人を彷彿させる、凛々しい顔……何もかもが愛おしくてたまらなかった。
想いを自分の口から伝えたかった。自分にもっと勇気と熱情があれば、凍りついた声帯が溶けていくかもしれないのに。もどかしい。
先制点を上げた紀香は、悔しさを滲ませた表情でベンチに戻っていった。初日の試合で内野安打を放ったときと同じ顔つきだ。きっとホームランを打てなかったことへの腹立たしさから来ているに違いなかった。
「……」
戻り際、紀香と視線があった。目で「ごめん」と言っているのが静にははっきりとわかっていた。
静は手を叩いた。感情を剥き出しにできないが、態度で示すことはできる。
――まだまだ打席に立つ機会はありますよ。
グラウンドには強い風が吹いていて、ポールに掲げられた国旗と空の宮市旗はセンターからホーム方向になびいている。これが無ければホームランだったのに。
静は心底、一月の寒風を恨めしく思った。
解説:
応援曲『ファイト』はかつて元巨人の元木大介氏がいた上宮高校の応援曲『ノックアウトマーチ』を元ネタにしています。何でこの曲なのか?
星花女子所在地の空の宮市→そらのみやし→そらのみや→うえのみや→上宮
バンザーイバンザーイ!……ってことです
ちなみに『ノックアウトマーチ』は関西学院大学の『タッチダウンマーチ』が原曲で、元木氏が在籍時の折は他にも関学の応援曲を取り入れていました。作中の『ポパイ』『Let's Go』の元ネタも関学の応援です。
『ノックアウトマーチ』はyoutubeで高校時代の元木氏の試合を探せば聞けるかと(16話の後書き同様著作権法にかかりそうなのでここでは紹介はしません)