19. 紀香の過去
二年前の秋のこと。いまだ失恋の生傷が痛々しく残っている中、ソフトボール部の監督をしていた教師に呼び出された紀香は分厚い資料を渡された。
「どれがいい?」
教師は飲食店でメニューを尋ねるように軽く聞いてきたが、中身は紀香の人生を左右するものであった。スポーツ推薦による特待生制度がある私立高校に関する資料で、中には紀香が知っている強豪校の名前もあった。
部活引退と失恋が重なったことでセミの抜け殻のようになりかけていた時期であったが、この時ばかりは自分を必要としてくれる高校が複数あると知りやる気を取り戻した。
紀香は資料を持ち帰り、隅から隅まで目を通して熟慮した。授業料減免ないし免除を謳う高校はたくさんあったものの、家は裕福だったので学費面は度外視した。一番の判断材料にしたのは「女子校であること」であった。異性のいない環境であれば、三年間ソフトボールに集中できる。恋愛をする暇がない環境に身を置きたかったのである。
そうして選んだのは関西にある某女子校であった。そこには体育科が設けられていて、スポーツ推薦で入学させた生徒で固めていた。体育大学に強豪私大、実業団チームとも強いコネがあり、卒業後のキャリアを描きやすいのも魅力的であった。
紀香は推薦入試に備えて黙々と練習に打ち込み、年明けに受験した。午前の実技試験では守備、走塁は受験生より抜きん出る成績を収められなかった。しかし打撃は紀香の得意分野。二死満塁という想定で実戦形式のシート打撃を行ったが、クラブチームの全国大会を経験している投手から走者一掃の三塁打を放ち強烈なアピールを見せつけた。
そして午後は面接試験。監督と部長とその他教員数名が面接官であったが、終始和やかな雰囲気で面接は進められた。監督からは「あの三塁打は凄かったで。中学生の打球とは思えんわ」と褒められて、紀香は合格を確信した。
しかしある教員の不用意な発言が、紀香の運命を大きく変えてしまう。
「えーと、君のお父ちゃんは元プロの下村義紀なんやってな」
「はいっ、そうです!」
「君のお父ちゃんが現役やったとき、よう試合に観に行っとったわ。お父ちゃんが干支一周分以上の年下の女と結婚した年は球場のヤジがほんまに凄かった。『コラ~ヨシノリ~! お前低めの球にはようバット出さんくせに年の低い女にはバット出すんやの~!』ってなあ。ガハハハ」
この教員にすれば単なる冗談で悪気はなかったかもしれない。だが言われた本人にすれば悪質な侮辱に過ぎなかった。
次の瞬間、紀香は自分が座っていたパイプ椅子を教員目掛けて投げつけた。パイプ椅子は教員のハゲ頭をかすめて、後ろの窓を直撃し大きな音とともにガラスを粉砕させた。
尻餅をついて失禁した教員に向かって紀香は目を吊り上げ、ありとあらゆる罵声を喚き散らした。周りの者に羽交い締めにされて退室させられたあたりから記憶があやふやになっており、どうやって家に帰ったのかもわからなかった。それだけ怒りが凄まじかったということに他ならない。
翌日、学校から下村家に謝罪があったが、教員に手をあげるような生徒を誰も欲しがるはずがなく不合格にされた。二万円の受験料は五十万円もの慰謝料兼口止め料を添えて返還されたが、紀香のキャリアは閉ざされたに等しかった。
父親の怒りが暴力沙汰に及んだ娘ではなく、娘に対して自分のことを平然と侮辱するような教員がいる学校に向いたことであったのがただ一つの救いと言えた。
「ごめん父ちゃん、あたしどうしても我慢できなかったんだ……」
「お前は悪くない!」
父親は首を横に振った。
「父ちゃんなんかのために、父ちゃんなんかのために……本当にスマン!」
「父ちゃん!」
父娘はお互いに号泣しながら抱き合った。
*
それから一ヶ月も経たないうちに、紀香は星花女子学園のグラウンドにいた。星花女子OGである母親のツテで、急遽高等部の推薦入試を受けることになったのである。願書受付期間は過ぎていたが、この年は珍しく推薦入試枠が一名定員割れしていたという幸運も重なり、受験者名簿に名を連ねることを許されたのであった。
先日受けた高校とは違い、午前が筆記、午後が実技と面接という流れであった。紀香はまともに受験勉強はしてこなかったが筆記を一夜漬けでどうにか乗り切り、午後からの実技に臨んだ。
ソフトボールで推薦を受けるのは紀香一人だけであった。母親曰くソフトボール部は強くないとのことであったが、強くないからこそ人が集まらなかったのかもしれない。
最初はピッチングマシン相手の打撃。紀香の得意分野からだった。
「よろしくお願いしまーす!」
マシンを操作するのは、坂崎と名前が刺繍されたジャージを着た生徒である。紀香はヘルメットを取り、頭を下げつつ坂崎に負けじと声を張り上げた。
「よろしくお願いしやーーーーッス!!」
「おっ、おおっ。良い返事だねー……」
と坂崎は口で言うものの、紀香の気合に押されてびくついていた。
紀香は左打席に入って二回素振りをすると、バットを大きく構えた。
「それじゃあ、一球目行くよー」
坂崎がマシンの投入口に三号球を放り込んだ。左右のローターによって力を加えられたそれが射出されると、13.11メートル先のホームベース目掛けて飛翔していく。
紀香の目に映ったボールには、失恋相手の顔が張り付いていた。彼とは一切口を聞かなくなったが、人づてに別の同級生の彼女ができたと聞かされていた。まだ紀香が告白した時点で彼女がいたのであればさっぱり諦めがついていたかもしれない。
彼にはもはや悪感情しか抱いていなかった。バットを握る手に力を入れて歯を食いしばり、テイクバックを取ると、彼の幻影めがけてフルスイングした。
「うわっ!」
坂崎が声を上げ、打球の方向を見やる。国際ルールに従って60.96メートル地点に設けられた簡易フェンスより遥か遠いところに着弾した。
「うわ……ソフトボールってあんなに飛ぶもんなんだ……」
坂崎がぼーっと見とれていると、紀香はバットを坂崎に突きつけて吠えた。
「さーこいっ!!」
「は、はいっ!」
二球目が射出された。今度は父親を侮辱した教員のハゲ頭がボールに張り付いていた。紀香はそれを目一杯しばきあげた。打球は先程よりも遠いところに着弾した。
その場に居合わせた者たちが唖然としている中、三球目が投じられた。ボールには何も映っていない。その代わり、頭の中で両親の顔が不意に浮かんだ。頑張れ! と声援を送っているような気がした。
「うぉらあああああ!!」
紀香が咆哮し、バットを一閃させた。
斜め45度の綺麗な角度で上がった三号球。このとき強い向かい風が吹いていた。その上グラウンド本体のフェンスもそれ程高いものではなかった。両条件が重なった結果、ボールは場外に消えていったのである。
ボコン、と鈍い音がした。何かにぶつかったらしい。
「うっそ……?」
坂崎があんぐりと口を開けている。紀香もこれ程打球がを飛ばしたのは初めてで、バットを持ったまましばらく固まっていた。
ここで「OKAAAY!」と声がかかる。ソフトボール部の菅野監督であった。
「下村さん、もうこの場で合格を言い渡す! 是非ウチに来て!」
紀香の手を取って喜ぶ菅野監督。坂崎も顔を紅潮させて「一緒にやろう!」と目で訴えている。
紀香もその場で「よろしくお願いしやす!!」と返事したのであった。
*
紀香はメッセージの着信音で我に返った。いつの間にか居眠りしていたらしく、スマートフォンの時計を見ると半時間ほど進んでいた。
送り主の名前を見た紀香の眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「ワンちゃんからだ」
紀香はおそるおそる画面をタップして、静からのメッセージを読んだ。
『先輩お疲れ様です。今日は残念でしたけど、まだ明日があります。一所懸命応援しますので、よろしくお願いします』
続けざまに、スタンプが送られた。何かのキャラクターが『ファイト!』とガッツポーズしているイラストである。紀香は心臓に清涼剤を入れられたかのような気分になった。
「ははっ、お願いするのはこっちの方なのにな……」
顔が自然とほころぶ。もし強豪校に進んでいたら静みたいな子とメッセージをやり取りできていたであろうか。
失恋の痛手はいまだ癒えてはいない。それなのに静に対する恋心はどんどん膨らんでいく。
――そうだ、明日こそは。
紀香は絵文字をいっぱい使って、感謝のメッセージを返信した。
「やるしかねえ!」
紀香はベッドから飛び起きると、バットを握って素振りをしはじめた。