18. 衝撃
平成最後の更新です。令和もよろしくお願いします。
午後一時を回ってついに強豪、海谷商業との対戦を迎えた。明日の優勝決定戦も含めて二連戦となるが、菅野監督はcomplete victoryを目指せとより一層強く檄を飛ばした。今のチームの勢いであれば決して不可能ではない。
先攻は星花女子。紀香はもちろん四番DPで固定だが、その他はちょくちょくとメンバーを入れ替えていた。今回は三番サードに帆乃花が入って、一年生二人がクリーンアップを務める。元々打撃に定評があるから、紀香に繋ぐ役割を期待されての起用であった。
試合に先立ち両校はホームプレートを挟んで礼をしたが、紀香は極力薫を視界に入れないように努めた。静の言うこと(言葉にしてはいないが)を聞いて、怒らないようにするためである。ただし打席に立つと話は別だ。とあるメジャーリーガーが残した言葉ではないが、向こう三十年は手を出せなくなるぐらい叩きのめすつもりでいた。
だがその直後、紀香は信じられないものを目の当たりにした。
ピッチャーズサークルへ投球練習に向かった薫は、右手にグローブをはめていたのだ。
「あいつ、右投げだったのに……!?」
断片的に雲宝薫のことを知っているはじめも、驚きの眼差しでピッチャーズサークルを見ていた。
「えっ、何で左で投げてるの!?」
「そうか、これか……」
「何が?」
「実は、昨日飯屋でたまたま雲宝と会ったんだわ」
「ええっ……乱闘してないよね?」
「してねーって! ……ま、それはともかくだ。何か見てて変だなと思ったんだ」
左手で「あーちゃん」の腕にしがみついて、左手で「あーちゃん」と手を繋ぐ。かつて右で投げていた頃の記憶が違和感を生み出していたのである。
「球は見た限り、そんなに速くないけどなあ」
帆乃花だけは冷静に受け止めていた。事実、球の速さは中学時代とは比べ物にならないほど遅い。むしろ午前中に対戦した報恩学院の投手の方が速かったぐらいだ。
しかし、あの自信に満ち溢れた薫の顔つきは何なのか。昨日の挑発は何だったのか。
一番打者は前試合までと変わらず、俊足の新浦不二美である。左打席に入ると、球審がプレイボールを宣告した。
第一球。
「ストライク!」
カーブが外角低めギリギリ一杯に決まった。続いて第二球。
「ストライク!」
カーブが一球目と全く同じところに決まった。まるでリプレイを見ているかのようである。
「あいつ、左の方がコントロールいいじゃねーか……」
右投げの頃は球がよく荒れており、直球で三振は取れるものの四死球の数も多かった。
三球目、また同じところにボールが投じられた。新浦が一塁側に歩き出しつつバットを出す。得意のスラップ打法である。
だがボールはまるで意志を持って自分から避けたみたいに、バットの下をひょいとくぐるようにして落ちた。ワンバウンドするほど変化量の大きなドロップ。スイングを取られ、かろうじて捕球したキャッチャーが新浦にタッチしてアウト。
尋常な落ち方ではなかった。紀香を含め、ナインたちが絶句したことがそれを如実に物語っていた。
「しゃー!」
気合の咆哮で沈黙を破ったのはユニフォームナンバー24、二番打者のライト頼藤花子である。紀香と同じ一年生であり、午前の報恩学院戦では九番で出場してタイムリーヒットを打っている。
「よりふじー! いけー!」
紀香がメガホンを通じて腹の底から声援を送る。しかし頼藤は初球に手を出してサードゴロに倒れた。内角ギリギリの際どいところを突いてくるいやらしいスライダーであった。
ドロップもスライダーも、三年前の雲宝薫が投げてきたことは一切無い。速い荒れ球でグイグイ押す右腕から、制球力と変化球で勝負する左腕へ。何もかもが正反対に入れ替わっている。本当は雲宝薫ではなく双子の姉か妹のじゃないのかと、紀香が錯覚するほどの変貌ぶりであった。
そしてそれは、紀香にとっては厄介な敵の出現を意味していた。紀香が現在最も苦手にしている投手は、チームメイトの有原はじめである。低めへの制球力に優れ、球種もカーブドロップチェンジアップとバリエーションに富んでいる技巧派。右投げと左投げの違いはあれど、薫とはじめはタイプが似ている。
しかし素質は、悔しいがはじめより薫の方が上だと認めざるを得なかった。類稀なる身体能力とセンスを持っていなければ、いくら努力しても投げる腕を変えることなどできはしないし、試合に出ることなど尚更のことだ。
だが現実に、雲宝薫は自信満々にピッチャーズサークルで左腕を振るっている。三年前の復讐を果たすために。
三番打者の帆乃花。薫は今までの投球が嘘のように急にコントロールを乱し、ストレートの四球を与えた。初出塁に喜ぶナインたち。しかし紀香は確信していた。
――こいつ、あたしと今すぐ勝負したいがためにわざと歩かせたな。
紀香の心の中を読んだかのように、薫の口角が上がった。
『4番、DP、下村紀香。ユニフォームナンバー3』
アナウンスを受けて、紀香は大きく素振りをしてから左打席に立った。尻ポケットの上からお守りを触り、スタンドから見守る静の力を借りる。
サイン交換を終えた薫が身を沈め、左腕を一回転させてボールを投じた。
外角に逃げる緩いカーブ。紀香は身がねじ切れんばかりに思い切りバットを振ったが、まったくかすりもせず。勢い余って右打席側に倒れ込みそうになるも、踏みとどまった。
返球を受け取った薫は白いサンバイザーから覗き出ているるツインテールを揺らし、得意げな笑みを浮かべた。紀香は腹を立てるより前に、カーブのキレに驚いていた。
全国レベルを体験してきた紀香は、レベルの高い投手と何度も対戦してきたし、打ち砕く技量も持っている。現に薫もかつては紀香のバットの犠牲者の一人であった。
しかし今の薫は、昔より格段に上のレベルに到達している。
二球目。ボールがリリースされた瞬間、一塁ランナー帆乃花が走り出した。緩いカーブだったことが幸いして悠々セーフ。盗塁のサインは出ていなかった。変化球を多投するから「行ける」と判断したのだろう。菅野監督は自分から特に指示しない限りは、自己の責任において自主的なプレーを許していた。
これでシングルヒットでも一点という状況となった。とはいえ先程のカーブは外角低め一杯に決まっていた。ノーボールツーストライクのバッターインザホール。
薫は帆乃花に目もくれず、前かがみになってサインを覗き込む。野球と違いボールがリリースされるまでランナーの離塁が禁止されているので、打者に集中することができる。
二度、三度と首を横に振る。何を投げるつもりなのか。紀香はバットを大きく構えながらも、狙い球を絞りきれないでいた。
薫が投球モーションに入り、投じられた三球目。
「!」
インハイギリギリのストレート。球は中学時代よりも遅かったはずであり、実際帆乃花の目線で見れば遅いストレートであった。
だが打席では全く違った。外への緩いカーブを二球見せられた後のインハイ。カーブとの球速差が中学時代と変わらぬ豪速球と錯覚させ、紀香の体を金縛りに合わせたのである。
「ストラック、アウッ!!」
球審が右手を高々と上げて三振を通告すると、薫はしてやったりとばかりに、グローブをバシバシと叩いて一塁ベンチへ軽やかに走っていった。
紀香はしばらく、その場に立ち尽くした。見逃し三振は彼女にとって最大の恥辱である。しかもかつて完膚なきまでに打ち負かした相手に、良いように手玉に取られてしまったのだ。
悔しさや怒りといったものでは説明がつかない、悪い感情が紀香を蝕んだ。
*
気がつけば試合が終わっていた、そんな感じであった。
先発は左腕の宇喜多秀美で、完投して四失点という内容であった。相手の力を考えると御の字といえる成績である。しかし打つ方は、全く良いようにされた。
帆乃花に四球一つ与えただけのノーヒットノーラン。三振は十三個も取られてしまった。そのうち三つは紀香が献上したものである。
どんよりした曇り空の下、バスは学園目指して走る。しかし車内の空気は、告別式の後に火葬場に向かう遺族たちを乗せたバスのそれと何ら大差なかった。
菅野監督は、今日は残念だったが明日勝てば良いと励ましてくれた。しかし監督の激励は星花女子ナインの耳の奥まで届いていなかった。ぽっと出の一年生投手に叩きのめされて、実力差を思い知らされた一日であった。
紀香は散々な結果に終わった己の不甲斐なさを心底情けなく思った。最後の打者となり、空振りの三振。薫とまったく立場が逆転して、静に無様な姿を晒してしまった。
静からは昨日みたいにお疲れ様メッセージが来ていない。幻滅させたかと思うと、ため息しか出なかった。後でごめんなさいメッセージを送るつもりでいたが、既読無視されたらどうしようかなどといつになくネガティブな気分に陥っていた。
九歳からソフトボールに触れて、今日みたいに酷い結果に終わったことは何度もある。しかしここまで精神状態が悪化したのは、中学三年生の最後の公式戦、あの初恋が無残に散った後の試合以来であった。
その日の晩は大人しく菊花寮で食事をしたが、いつもご飯三杯は食べるのに二杯しか入らなかった。自室に戻ってからも何かをするわけでなく、ベッドの上で大の字に寝転ぶだけであった。
菊花寮の部屋は個室でありながら二人部屋の桜花寮よりも広く、個室風呂までついている。学業や部活その他で著しい成績を上げたものだけが、全国一の学生寮と言っても言い過ぎではない菊花寮で暮らすことを許されるのである。
福利厚生面に限れば、どのソフトボール強豪校も星花女子学園には叶うまい。しかしもし仮に強豪校に進学していれば、と思うことは時折あった。自分と同じレベルの選手がうじゃうじゃいる中厳しい競争にさらされて、果たしてどこまでやれたのか。
もちろん紀香はいくつかの高校から推薦入学の誘いを受けていた。中学二年の夏、全国中学校女子大会準優勝。同三年の春、都道府県対抗全日本中学生女子大会県代表選出。このような輝かしい実績を強豪私立校が放っておくはずがなかった。もし最後の大会でも活躍していたら、オファーの数はもっと多かったかもしれない。
紀香は寝返りを打って、気を紛らわせるために少し過去を振り返ってみることにした。
頼藤花子のユニフォームナンバーを31→24に修正しました。
31はコーチがつける番号だったので…