11. 二年参り
紀香は県外にある実家に戻ってからも、自主トレーニングを続けていた。冬休み明け三連休のニューイヤーカップ。勝っても負けてもチームには特に影響はない大会である。しかし紀香は菊花寮残留という目標を目指し、一所懸命練習に励んだ。
大晦日も相変わらず練習、練習であった。閑静な住宅街の一角にある下村家。父・義紀が現役時代に建てた邸宅の庭で紀香は一心不乱にトスマシンを使い一人でトスバッティングをしていた。
バットを振るたびにボールがネットを揺らす。しかし振れども振れども静のことがなかなか頭から離れられず、いつもより集中力が落ちていた。昨年の夏に失恋を味わってからソフトボールに生きると誓ったのに、その硬派な意気もネットのようにグラグラと揺らいでいた。
球切れになって、紀香はボールを集めてマシンに再充填しようとした。すると、
「紀香、ちょっとは休憩したら?」
窓から声をかけてきたのは母親の菜穂子である。40代に突入しているが口元にはほうれい線が無く、実年齢より10歳以上若く見える。菜穂子の髪型をショートにして目元を少しきつめにすれば、紀香とほぼ同じような顔立ちになる。それぐらい母娘はそっくりであった。
「栄養補給にあんこ餅作ってあげたわよ」
「あんこ餅!」
紀香の胃袋が反応する。即刻、練習を一時中断して窓から家に上がり込んだ。
「うわ~うまそう!」
「つきたてホヤホヤのお餅よ」
ダイニングの隅にはついたばかりの餅が箱に入れられて並べられている。年末年始ならではの光景だ。
「いただきまーす!」
餅はよく伸びるし、あんこも程よい甘さで疲れに効きそうだ。
「ん~美味しい!」
「紀香、何か悩み事があるんじゃない?」
「!」
餅をあやうく喉に詰まらせそうになり、お茶で胃に流し込む。
「い、いや別にねえよ」
「嘘をついても私にはわかるのよ。去年の夏に男の子にフラれたときと同じバットの振り方してたもの。また恋に破れたの?」
「ううっ、うー……」
母はやはり娘のことは何でも知っているものだ。紀香は観念して、正直に伝えた。
「逆。好きな人ができたんだ……」
「まあ。先輩? 後輩? それとも同級生?」
どこの「男」かとは聞いてこなかった。
「何で星花女子の生徒だってわかるんだ……?」
「私も初恋の相手は星花女子の同級生だったからよ。あそこは女の子どうしの恋愛が盛んなのは知ってるわよね」
菜穂子は星花女子学園のOGである。
「え、でも母ちゃんは父ちゃんと結婚してあたしを産んだわけで……」
「別に女の子しか愛せないってわけじゃなかったもの。最初に好きになった子がたまたま女の子だったというだけ。ありきたりな言い回しだけど、実際そうだったの」
菜穂子は少しだけ過去の話をした。中等部から入学してすぐクラスメートの女の子に恋をして、そのまま高等部、大学と十年間一緒に過ごしてきた。良い意味で女性っぽくない豪快な性格で、一癖も二癖もあったがつきあって楽しかったという。
「でも結局別れちゃったってことだよな」
「別れたというか、自然消滅したってところね。クラスメートの子も男性と結婚して子どもだって産まれてる。だけど今でもLINEではやり取りしてるし、時々会いに行ったりもしているの」
「え、そうなの?」
「特に今年から紀香は寮暮らしでしょ? お父さんが仕事で家を空けたら一人ぼっちになっちゃうから、そのときに会いに行ってるの」
「友達付き合いは続いてるんだな」
「あの子と恋人だったとき、いろんなことを教わったわ。おかげでお父さんの操縦も簡単にできるのよ」
豪放磊落な父も、妻には頭が上がらず夫婦喧嘩で勝ったところを見たことがない。というより喧嘩になる前に父親の方から折れてしまうのである。
「紀香も女どうしだからとかいうのは考えず、好きだったら告白しちゃえば良いのよ」
「そうやって簡単に言うけどさ……あたし、本当に嫌な思いしたから……」
昨年の七月の暑い日。中学生最後の大会の前日に想いを寄せていた同級生の男子に思い切って告白した。そして貰った返事が。
――俺と付き合って欲しい? ははっ、冗談言うなよ。
お互いに野球の話で盛り上がるぐらい仲が良かったのに、向こうは友達以上の目で見てはくれなかったのだ。翌日の試合ではずっと男子の言葉が耳から離れず、そのせいで全く結果が出せずに屈辱の一回戦敗退を喫したのである……。
「あのときはわあわあ泣いて大変だったわねえ」
「うっ、言わないでくれよ、恥ずかしい……」
「お父さんも言ってるでしょ。『人間は恥かいてなんぼ』って。例え告白して失敗して恥ずかしい思いをしても、後々人生の糧になるから」
「そういうものなのか……? うーん……」
紀香は腕を組んだ。
「ま、紀香はまだ若いし。今はわからなくても良いわ。どうしても不安なら、今夜神様にお願いしましょうか」
今日は大晦日。父、義紀は正月番組の生中継に出演するために泊りがけでテレビ局の方に行っている。紀香は菜穂子と二人きりで、近くの神社へ二年参りに出かけることとなった。
*
立成17年があと一時間で終わる頃、境内は人で溢れかえっていた。紀香たちはまず今年分のお参りをして、神様に一年間ありがとうございました、とお礼を述べた。それから神社が用意してくれた焚き火に当たって暖を取りながら、新年を待つことにした。
スマートフォンの短い着信音。静からのメッセージだ。心臓がドキッとなる。
『起きてますか?』
静でも大晦日は夜更かしするようだ。しかし事務的なやり取り以外でメッセージを送ってくるとは。スマートフォンのメッセージ越しだと相手に動揺を悟られることがないのが救いであった。
『起きてるよーん』
紀香は冷静を装って砕けた返事をした。すると画像が添付されてきた。映っているのはロウソクが立てられたケーキである。まさかの飯テロならぬ菓子テロ。
『実は、私の誕生日は大晦日なんです。我が家では年越しそばではなく年越しケーキを頂くのです』
まさか、誕生日を祝ってもらって欲しくてメッセージをよこしてきたのか。ああ、なんて可愛いヤツだ。
「紀香。何ニタニタしてるの?」
「!」
紀香は身をすくめた。
「まさか好きな子からメッセージが来たとか?」
「へっ、へへっ。実はそのまさかなんだ」
紀香は『おお!』『マジで!?』『あめでとー!』と立て続けに連投して、その上クラッカーの絵のスタンプを送信した。
「本当に嬉しそうね。どうするの? このまま勢いで告白しちゃう?」
「えっ、それは……」
そこまでの勇敢さは持ち合わせていなかった。
「まあ……するんだったら、直接会ってするよ」
「それがベストね」
群衆からカウントダウンの声が聞こえだしてきた。
「そろそろ年明けね」
5、4、3、2、1。
立成18年の元旦を迎え、神社内は一気に祝賀ムードに包まれた。
「あけましておめでとう」
「あけおめー」
親子二人は笑いあう。
紀香は静にもあけおめメッセージを送ろうともう一度スマートフォンを取り出したら、静の方から先にメッセージが届いた。
『新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします』
定型文的な挨拶だった。紀香は返事しようと文字を入力していたら、続きが送られてきた。
『試合、楽しみにしています。下村先輩』
下村先輩。この四文字が紀香の心を否応無しにくすぐってきた。無機質な文字とはいえ、そう呼ばれたのは初めてであった。
ゴーン、と近くの寺から除夜の鐘の音がしている。紀香の頭の中では108の煩悩の代わりに静の顔でいっぱいになっていた。
「本当、感情が顔に露骨に出る子ねえ」
「しょうがねえじゃん。悪いか?」
菜穂子は本当にしょうがない子ねえ、と言いたげな苦笑いを見せた。
「さ、新年のお願いと恋愛成就祈願をするわよ」
紀香と菜穂子はもう一度参拝者の列に並んだ。焚き火から離れても寒いと感じることはなかった。