10. 就寝タイム
風呂から上がると部屋には戻らず、リビングに向かった。静の父親がソファーに座ってテレビを見ている。
「紀香さん、お父さんが出てるよ!」
「あ、ホントだ」
アスリートを集めて裏事情を聞こうという趣旨のトークバラエティ番組だったが、芸能人やアスリートに混じって紀香の父、義紀が自身の高校球児時代についてあけすけに暴露していた。
「……とうとう我慢の限界が来てましてね。ある日、そのいやな先輩が僕にジュースを買いに行かせたんですよ。で、僕は仕返ししてやろうと思って、買ったジュースを半分だけ飲んでそこにね、便器に溜まった水を継ぎ足してね、飲ませてやりました」
「「「ええーっ!?」」」
「そしたら案の定すぐに下痢ピーになって、ざまあ見ろ思いましたねえ」
心底悪そうな笑顔を見せる義紀と、ドン引きして引きつった笑顔を見せる周り。紀香はこの極悪非道なエピソードを本人から笑い話として何度も聞かされてきたが、電波に乗せて全国のお茶の間に垂れ流すのにはさすがに閉口した。
「む、昔の話っスから! 今は全然大人しいっスよ!」
紀香は弁解したが、静の父親はただ爆笑している。静はやっぱり無反応だが、実際はどう思われているかわからない。
「あたしは便所水を飲ませるなんてしてないからなっ」
「……」
静は無言でソファーに座り、紀香も隣に座った。
下村義紀はかつて甲子園を賑わせたスターであり、四番兼エース投手として全試合を完投して優勝をもぎ取るという輝かしい実績を残している。その後はドラフト一位でプロ野球の道に進み打者として活躍。残した成績は超一流のものではなかったものの、豪快な人格はファンに愛されていた。
紀香は義紀の現役最晩年の頃に生まれたから、プレーを生で見た記憶がない。知っているのは解説者兼タレントとして、トークで視聴者を楽しませる姿だけである。反面、家では厳しくも優しくもある、昔ながらの父親像そのものであった。
義紀の所属チームは不人気球団で待遇が良くなかった。その環境がかえって反骨精神を育むこととなり、それは娘にも引き継がれていった。星花女子のソフトボール部は強くないが、でモチベーションが落ちることなくプレーできているのは、自分より強い高校を倒してやろうとする気概に満ちあふれているからである。もっとも、星花女子に入ったのはそんな反骨精神が災いした面があるのだが……。
テレビを見終わったらいい感じに眠気が来たので、静の部屋で寝ることにした。親が敷いてくれたのだろう、マットレスと布団が二つ並べられている。
「ワンちゃん、おやすみー」
「……」
静はリモコンを押して常夜灯に切り替えた。
紀香の寝付きはとても良い。いったんまぶたを閉じればあとはすーっと夢の世界に旅立ち、いつの間にか朝を迎えるのがいつものパターンである。
ところがこの夜はふとした拍子に目が覚めてしまった。鈍っている頭でも、まだ夜中ということはわかった。もう一度まぶたを閉じて眠りにつこうとしたところで、何かしら暖かみを感じ取った。
その方向に寝返りを打ったら、静が自分の布団の中に潜りこんで寝息を立てていた。
「お、おまっ……」
言葉に出そうになったが、起こすまいという仏心がギリギリで押しとどめた。
静の掛け布団はぐちゃぐちゃになっていた。恐らく寝相が悪すぎて布団からはみ出てそのまま隣の布団に入ってしまったと考えられるが……。
常夜灯にほんのり浮かぶ静の寝顔。まぶたを閉じて口は半開きになっている。静は常に無表だから、口が開いているのを見たことがない。だからこそなのか、可愛く見えてくる。
急に風呂場のときと同じく、心臓が高鳴りだした。まるで試合前に訪れる緊張感のような。いや、やはりこれは。
中学三年の夏。あの苦い思いをするまでに抱き続いていた感情と全く同じだ。
紀香はたまらず、寝返りを打った。顔は火照りに火照って、もはや眠るどころではなくなっていた。
――あたしはワンちゃんのことが好きになってしまっている。
自分はいわゆる百合ではないと思っていた。星花女子で百合カップルを数多く見ているうちに感化されてしまったのだろうか。
とにかく、下村紀香は黒犬静に恋をした。その事実は受け入れなければならなかった。
*
「おはよう。あら紀香ちゃん、何だか元気なくない?」
静の母親に声をかけられた。すでにスーツに着替えていて出勤の準備を整えている。
「おはようございまっス。いやー、昨日はよく眠れなくて……」
静の父親も心配そうに紀香を見つめた。
「枕が合わなかったのかい?」
「そうじゃなくて、でっかいお肉を食べられた嬉しさのあまり寝つけなかったんス」
紀香は適当にごまかした。
「あははは、そうだったのか! いやーそれだけ嬉しいとボクも嬉しくなっちゃうよ。さあさあ、朝ご飯を食べて元気出しましょう!」
ハムエッグトーストにサラダにコーンスープ。どれも手間暇かけて作ったものだと伺える。紀香は昨晩あれだけ食べたにも関わらず、たちまち胃袋を鳴らした。瞳にみるみる生気が漲っていく。
「いただきまーす!」
やはりプロ級の腕前を持つ人間が調理する食事はたまらない。食べ終わった頃にはすっかり元気になっていた。
「ああっ、いいよ紀香さん! ボクが洗うから!」
「美味しいご飯を食べさせてくれたお礼っス。やらせてください」
お世話になった人にはきちんと恩返しをする。父・義紀の教えを実行したまでのことだ。
皿を運んでいたら、静の母親が「あっ」と声を出した。何事かと思ったら、静がテーブルを布巾で拭いている。ただそれだけだったのだが。
「静がお手伝いしてくれるなんて……」
「……」
黙々とテーブルを拭く娘を、両親は愛おしそうに見つめている。それから紀香の方を微笑ましげに見てきた。あなたのおかげですよ、とばかりに。
「ワンちゃん……」
静の内面に大きな変化が起きている。その起爆剤となったのは、間違いなく自分だ。そして静は、紀香の内面すら変えようとしていた。
忘れようと思っていた感情を思い起こさせてくれた静。だけど想いを伝えようとして、またあのときと同じようなことになったら……。
今は、皿洗いに集中することにした。
出勤する静の母とお別れの挨拶をした後、しばらくして静の父親の車で星花女子学園まで送り届けてもらうことになった。今度は後部座席に静と一緒に乗る。
静は前の方をじーっと見つめている。その横顔を紀香はつい横目で見てしてしまう。今までと変わらない無表情なのに、いつも以上に愛おしく見える。
何か静にしゃべらなければ、と頭で考えているのに口がついていこうとしない。もっぱら父親と会話ばかりしているうちに星花女子学園に着いてしまった。
「じゃあね紀香さん。絶対にまた遊びに来てくださいよ」
「はいっ、もちろんっス」
「……」
里帰りで静とはしばらく会えなくなる。何か最後に一言を、と必死に考え抜いて出た言葉は。
「ワンちゃん、あのさ……冬休み明けの三連休に試合があるんだ。もし良かったら、観に来て欲しい」
「……」
静はコクッ、コクッと二度も首を縦に振った。
今は、これで良い。
「ありがとう! 約束だからな!」
「……」
車から降りて手を振ると、静も振り返してくれた。
もはや機械のような静ではなくなっていた。紀香は静に対する想いをどう扱うかそれを考えるのは後回しにして、とにかく今は静の変化を喜ぶことにした。




