異形の青年は眠れない
どうして忙しい時に限って、仕事というのは増えていくのか――。
大量に渡された資料に目を通しながら――と言いつつその目は滑っている――おれはぼんやり考えた。
「火之さん、何ぼーっとしてるんですか。それ、私が帰るまでにちゃんと読んでおいてくださいよ」
ちゃぶ台の向こう側に座っている夜子が、目を吊り上げ言う。この山ほどある資料は夜子が作ったものだ。
「……わかってる」
「どうだか。――私、明日も学校で日中はお手伝いできないんですからね。捜査の段取りも考えなきゃいけないし……。遊んでる暇はありませんよ」
ぴしゃりと言い放ち、夜子は自分で持ってきたノートパソコンに目を落とした。
「…………わかってる」
そりゃあ、おれだっておまえが帰るまでに読みきりたいとは思っている。
いるのだが……。
何分、量が多すぎる。
仕事を一与えれば十の成果となって返ってくるのは頼もしいが、頼もしすぎるのも困りものだ。
おれは目の前の少女にばれないよう、小さく溜め息を吐いた。
学校が終わってすぐ、うちに来て仕事を手伝ってくれるのはありがたい。
(でもなぁ……)
こいつがしっかりしすぎているのか、おれが未熟なのか……。
まるで口うるさい母か姉がずっとついているかのようだ。
(おそらく「どちらも」なんだろう)
けれども夜子はおれよりもずっと年下だから……引っかかる部分はある、というのが正直な気持ちだ。
「そういえば火之さん。晩御飯はどうするつもりですか?」
キーボードを叩きながら夜子が言う。おれに仕事をしろというわりに、この娘はさっきからよく話しかけてくる。
「んん……。考えてなかった」
晩飯……。おれひとりなら適当にカップ麺でも食べればいいが、一応今は「助手」という名目で夜子に来てもらっているわけだし、出前でもとったほうがいいのだろうか。
普段はひとりで仕事しているものだから、どうにもおれ以外の人間がいる時どうすればいいのかわからない。
「手。火之さん、手が止まってます」
さてどうしたものかと考えていると、夜子の厳しい言葉が飛んでくる。そう言うおまえはどうなんだ――と夜子を見やると、彼女の手は淀みなくキーボードを叩き続けていた。
「? なんです?」
「……いや……。器用だなぁと」
「そうですか? それより晩御飯どうします? 食べたいものがあるなら買いに行きますけど」
――ああそうか。
ここでおれは彼女の言葉の意図を察した。
おれはてっきり、夜子が腹を空かしたのかと思っていたのだが、そういうわけではなく……。今はおれの助手だからと、雇い主に気を利かせて言ってくれているわけか。
なるほど。さすがによく気がつく。
「じゃあ、コンビニで適当に弁当買ってきてくれ」
「はい、わかりました。作業が一段落ついたら、ちょっと出かけてきますね」
「ん。もう遅いから気をつけろよ」
おれが言うと、夜子はきょと、と目を丸くし「はぁ?」とのたまった。
「誰に向かって言ってるんですか、それ」
「あのな、おれだっておまえに何かあるとは思ってない。だが一応な」
夜子は一見すると儚げな少女だ。
(まぁ中身はまったくもって儚くはないし、むしろ気の強さの塊みたいなものだが……)
弱いところはもちろんあるが、それでも同じ年頃の娘に比べれば心身ともに強い。仕事であれば恐れることなく悪鬼羅刹に立ち向かう――胆力ある娘だ。
とはいえ鍛えた男を相手にするなら、身体能力向上効果のある《武器》を装備していなければ厳しい。
(大体《武器》は人間には使えん)
《異形の者》相手は強くとも、見た目が見た目だけに、変な野郎に狙われないとも限らない。
(だから気をつけろと言ったのだが……)
まぁ……。夜子ならなんとかなる――いや、するだろう。
なんせ初対面で、どう見ても異形であるおれに説教をかましてくるような娘なのだ。
「はいはい。わかりました。出かける時はなるべく明るいところを通りますね。――これで安心ですか?」
「ん」
小生意気な少女――夜子。
今回彼女と一緒に仕事をすることになったのは、やむを得ない事情……というか、おれが仕事を安請け合いしてしまったことがきっかけだった。
◇◆◇
「おれに頼みたい仕事、ですか。そりゃもちろん! 会長殿の頼みだ、断るわけがありません!」
大恩ある対異形探偵協会会長から依頼の連絡が来たのは、今月の初めのことだった。その時おれはすでに月末までに片さなければならない案件をいくつか抱えていたのだが――実はこの時点で「やばい」とは思っていた――、会長殿直々に頼まれては断れるはずがない。
こうして珍しく「《探偵》火之道間」は、あれやこれやと忙しく仕事をすることになった。
だがおれの体はひとつしかないわけで。すぐに手が回らなくなってしまったのだった――。
「参った……」
さて、おれは会長殿のご指導のおかげで探偵として独り立ちできたわけだが、仕事をするようになってから今に至るまで一匹狼で働いている。
仕事の内容によっては他の探偵と一緒に捜査をすることもあるが、「火之道間」のもとで直接働く人間はひとりもいない。
決して好んでひとりを貫いているわけではないのだが……。助手を募集しても雇うに至る人間が現れず――まず応募自体がなかった――、結果的におれは来た依頼をひとりでこなしてきたのだ。
そんな状態なものだから、今回のように期日が決められている仕事が立て続けに来ると……首が回らなくなる。
いつもならまずそこまで仕事がなかったり、来ても先に受けている案件を優先して断ったりしているのだが……。
今受けている仕事はどれも恩ある人から直々のものだったり、おれの恩人が仲介してくれた仕事だったりする。
彼らはおれに期待して依頼してくれたのだ。どれも断ることなどできなかった。
ならばやるしかない――が、手が足りない。現実的に考えて、ここは誰かに助けを求めなければならなかった。
しかし、おれがこういう時助けを求められる人間は少ない。
その数少ない人間というのは、例えば何かとつるむことの多い探偵協会の職員。
だがこの男はあくまで協会で働く人間だ。こいつにはこいつの仕事があるし、何より協会は今慌ただしくしているのだと先日会った時に話していた。
――こいつには頼めない。
次に警備会社の社長をしている男。
彼の警備会社には対異形を専門とする部署がある。頼めばそこのスタッフを貸してくれるかもしれないが……。
この男、一筋縄ではいかない人間なのだ。
おれに対する悪意はないと思うのだが……下手に借りを作りたくはないというのが本音だ。
――つまりこの男にも頼めない。
最後に昔馴染みの少女。
対異形探偵一家の末娘で、親の手伝いのため幼い頃から技術と知識を叩きこまれている。
この娘とは彼女が小学生の時から付き合いがあるが、そのせいかおれに物おじしないし鼻っ柱が強い。
――だが、高校生ながら頼りになる同業者でもある。
「…………もしもし、夜子か?」
おれに選択肢は無かった。
「悪いが、仕事を手伝ってほしいんだが……」
かくかくしかじか、と事情を説明すると、電話の向こうから大きな溜め息が聞こえてきた。そして『あのですねぇ……』という台詞を皮切りに、説教が始まる。
「……駄目か?」
おずおずと訊いてみると、『いいですよ』とあっさり返ってきた。さっきまでの説教はなんだったのか。
『暇してるわけじゃありませんけど、一ヶ月火之さんのところで働くくらいはできます。一応父にも訊いてみますけど、多分了承してくれるでしょう。――勤務は明日からでいいですか? 直接火之さんのお宅に伺えばいいんですよね?』
こうして、旧知の女子高生探偵とおれの、一ヶ月限定タッグが決まったのだった。
◇◆◇
「ごちそうさまでした」
夜子が買ってきてくれたコンビニ弁当を食べ終え、両手を合わせる。買い出しに行ってくれていた夜子はというと、もうすでに食事を終え仕事に戻っていた。こいつは飯を食べ終わるのがおれより早い。
「火之さん」
ゴミ袋に弁当箱を捨てていると、背後から声がかかった。
「なんだ?」
「このまま少し眠ったらどうですか? 食後すぐに眠るのは体によくないですけど、私がいる今しか横になるタイミングないでしょうし」
夜子は「急ぎでお願いしたことは終わりましたしね」と言って微笑んだ。
「ひとりだと眠れないでしょう?」
「…………ああ」
――おれは、「眠る」という行為ができない。
正確には眠ってしまい意識を失うことが「怖い」。
それもこれもおれをこんな姿にした原因のせいだ。
おれの体には、悪神と呼ばれる《異形の者》が封じられている。
そいつは隙あらばおれの体を奪おうと、体から脱け出そうと画策している。
とはいえおれの意識があるあいだは好き勝手にできないし、させるつもりもない。
だが――眠っているあいだは話が変わる。睡眠時はおれの意識が飛んでしまう。つまり奴にチャンスを与えてしまうことになる。
だからおれは、眠るのが怖い――。
我が師が命を賭しておれの中に封じた《異形の者》なのだ。絶対に外に出すわけにはいかない。
しかし、もしものことが起こり、奴に体を奪われてしまったらと思うと――。恐ろしくて仕方ない。
「……悪い。少しのあいだ見張ってもらっていいか?」
だが、夜子がそばにいる時は少し事情が変わる。
「はい、もちろん。ゆっくりお休みになってください」
おれは小さく頷き、壁にもたれかかった。
すると夜子は怪訝そうに眉を寄せ、座布団で枕を作る。そして干してあったおれの着替えの着物を手に取った。
「横になってくださいと私は言ったんです。――さ、こちらにどうぞ」
「お……、おお」
困惑しながらも言われるがまま座布団に頭を載せ横になる。――と、ふわりと着物をかけられた。
「ま、無いよりはましでしょう」
まるで子供にするように、夜子はおれの腹をポンポンと叩く。
「――何か起これば、すぐに対処させてもらいますから」
再びパソコンの前に腰を下ろした夜子は、おれを見ることなく言った。
おれは夜子の脇に置かれているスポーツバッグに目をやる。
「ああ」
――あれには夜子の武器が入っている。《異形の者》を屠るための武器が。
おれが悪神に意識を奪われた時。それはもう、おれはおれであってもおれじゃない。
ただ目の前にあるものを壊し、人をいたぶることを楽しむ《異形の者》に成り果ててしまっている。
けれども夜子がいれば、おれによる被害は、いくらか抑えることができるだろう。
――夜子の善悪は案外単純だ。
あいつはおれが見知った人間だろうと、もはや破壊の限りを尽くす異形になってしまったと判断すれば、容赦なく拳を振るう。振るうことができる。
それがおれには、頼もしく思える。
夜子の力だけでは、この身に封じた悪神を滅すことはできない。けれどもあいつは賢い娘だ。応援を呼ぶなりして、おれの始末をつけてくれるはず。
「おやすみなさい。火之さん」
「……おやすみ……」
キーボードを軽やかに叩く音を聞いていると、眠気が頭の芯から下りてくる。いつもならこれに抵抗するのだが――今夜は大人しく従ってみよう。
気づけばおれは、珍しく深い眠りに落ちていた。