-プロローグ- 異形の青年と空から降ってきた女子高生
「ハアッ、ハアッ」
夜の繁華街をひとりの女が走り抜ける。
人混みをかき分け走るその女は――追われていた。
「おいっ、待て! とりあえず話を聞け!」
追っているのはがっしりとした体つきの青年だ。
「ハアッ、ハアッ……!」
女は背後からかけられた声に振り向くことなく、丁寧に巻かれたロングヘアを揺らし走り続ける。
「聞こえないか!!」
道を行きかう人々は振り返り、時には指をさしてふたりの追走劇を目で追った。
髪を振り乱し、夜の街を駆ける美女。そしてそれを追うのは「奇妙」な恰好の大男。
「何か」が起こっているのは一目瞭然だった。
――そう。男は変わっていた。
緩く着崩した丈の短い着物。
ハーフパンツの下にレギンス。
履いているのはスニーカーだが、首からは大きな数珠をさげている。
そして手に持っているのは金に輝く錫杖で――彼が走るたび、錫杖は涼やかな音を鳴らした――、極めつけに褐色肌の額からは二本の「ツノ」を生やしていた。
男が「普通の人間」ではないことは明らかだ。
服装についてはともかく、額から伸びるツノは、彼が街を歩く大多数の人間とは「違う」ということを示している。
「クソッ……。どこまで行く気だ……!」
男は自身に突き刺さる視線を無視して走る。好奇の目に晒されるのは不快だが、もう慣れた。それにそんなことを気にしているより、今は女を追うほうが先決だ。
「待てと言っているのに……!」
女は人気のない道を選び、どんどん繁華街から遠ざかっていく。どこへ逃げるつもりなのか男には皆目見当がつかなかったが――これはチャンスだった。
(これなら追いつく……!)
女にとってこれは誤算だったのだろう。
道を遮る人間がいなくなったことで有利になったのは、男のほうだった。道を阻む者がいなければ、ハイヒールで走る女より、男のほうが足は速い。ふたりの距離はじわじわと短くなっていった。
「悪いようにはしない! いい加減止まれ!!」
男は声を上げ、錫杖を女の足に向かって伸ばした。
「――あ、」
錫杖の先が、女の履いているパンプスのヒール部分にコツリと触れる。たったそれだけではあったが、走っていた女を足止めするには十分だった。
「きゃあ!!」
女はバランスを崩し、コンクリートの上に勢いよく転がった。
「……そう簡単に、逃げられると思うな……っ」
男は肩で息をしながら言う。そして転がっている女を一瞥し――顔を顰めた。
「い、った……」
転んだ時に破れたのだろう。女の履いているストッキングはズタズタに破れ、太ももからは赤い血が流れ出ていた。
「…………」
女は髪の隙間から恨めし気に男を睨んだ。
「す、すまん」
男は詰まりながら短く言うと、小さく頭を振る。
「……悪いがおれも仕事でやっている。お前にはいくつか聞きたいことがあるんだ。――立てるか」
そう言って男は、女に右手を差し出した。――だが。
「……なっ!?」
男の手が掴まれることはなかった。代わりにパシンと痛々しい音が小路に響く。
「何をする……!?」
男はジンジンと熱を持つ右頬――男は女に頬を叩かれたのだ――を押さえると、目を見開き女を見やった。
「……あんた《探偵》だね」
女は男のことを《探偵》と呼ぶと、ゆっくりと立ち上がる。
「……その通りだ」
「……やっぱりねぇ……」
女は不安と憎しみがないまぜになった目で男を睨んだ。そして睨みながら、じりじりとうしろへ下がっていく。
「あたしは『この顔』の持ち主に迷惑をかけるようなことはしてないつもりだよ。誰に依頼されたかは知らないけど……、あたしだってタダでやられる気はないんだからね」
「ま、待て……!」
女の物騒な雰囲気に、男は焦りながらも錫杖を体の前に構えた。――が、それがよくなかったのだろう。
女は美しい顔を歪ませ、歯をむき出して男を威嚇した。
「とりあえず話を――!」
今にも飛びかかってきそうな女に向かって、男は焦りながら言った。――その時だった。
「そういうところですよ、火之さん」
ふたりの頭上から、凛とした少女の声が降ってきた。
「――!?」
男も女も、思わず空を見上げる――と、小路脇に立つビルの屋上に誰かが立っているのが見えた。
「誰!?」
女が叫ぶと、その人影はふらりと揺れる。そして影は屋上の手すりを飛び越え――そのままビルから飛び降りた。
(星……流れ星……?)
女は降ってくる人間を見ながら思った。というのも、その人影が腕に鈍い銀の光を放つ、「何か」をつけていたからだったのだが――。
彼女がそんなことを考えていられたのは、時間にして数秒のあいだだけだった。
「え――!!」
女が声を上げると同時に、ゴシャリと重い音が小路に響く。
それは骨が折れ、肉が潰れ破裂した、嫌な音だった。
「……はぁ」
流れ星――いや、女をクッションにして地上へと飛び降りてきた少女は、大きく息を吐き、潰れてしまった女の体からぴょんと降りた。
「まったく、火之さんときたら……」
彼女の動きに合わせ、彼女が手に付けている銀の籠手が光を弾く。これが「星」に見えた一因だったのか。
「――火之さん、ちょっと甘すぎるんじゃないですか?」
彼女はあんぐりと口を開けている男を火之と呼び、溜め息混じりに言う。歩くたびに揺れるのは流れ星の尾ではなく、艶めく黒髪だ。
「よ、夜子……。ついてきていたのか」
「はい。あんまりにも帰りが遅いので何事かと思って。今夜は簡単な仕事だったんじゃないんですか?」
「いやまぁ……。そのはずだったんだが……」
男――火之はそう言って踏みつぶされた女を見やる。すると。
「この……クソ野郎……」
女は体をふらつかせながら、ゆっくりと立ち上がった。五階建てのビルから落ちてきた五、六十キロ程度の物体を体に受けたはずなのに――だ。
「……やっぱり、人間じゃなかったか」
火之は言って錫杖を女の首元へ当てた。すると、電気の弾けるような音と閃光が錫杖から放たれ――。
「悪いようにはしないって言ったくせに……」
そう呟く女の首から、皮膚が溶けるように落ちていく。そして――。
「お前……、鬼女か」
いまや美しかった女の顔は、見る影も無かった。
口は耳まで裂け、大きな牙はむき出しになっている。こめかみからはツノが生え、目はすっかり落ち窪んでいた。
「嘘つき……」
声まで変わり果ててしまった女は、じろりと火之を睨みつける。
「い、いや……。おれは本当に危害を加えるつもりは……」
火之は言葉に詰まり、夜子をちらりと盗み見る。――と、今度は夜子から鋭い視線が飛んできた。
「なんですか。私のせいだっていうんですか」
「せいっていうか……」
「だってあのまま黙って見ていたら攻撃されていたかもしれませんし。私だっていつもは《異形の者》の話を聞いてから本性を暴くようにしてますけど?」
言って夜子は軽く咳払いをすると、鬼女へと顔を向けた。
「あなたの上に飛び乗った私が言うのもなんですが、我々は戦いに来たわけではありません。あなたから話を聞きたくて追いかけていたんです。――ですよね?」
火之の顔を見上げ夜子が確認すると、火之はこくりと頷いた。
「そういうことです。あなたに戦う意思がないのであれば、あなたの話を聞かせてください」
鬼女は訝しむような目で火之と夜子を交互に見やる――が、観念したのか溜め息を吐いた。
「……わかった、話すわよ。あたしだってあんたらに『排除』されたくないしね」
鬼女が両手を上げたことで、火之は錫杖を下ろし頭を下げる。
「すまん。本当に荒事にする気はなかった。――体は大丈夫か?」
「全然平気よ。これでもあたし、《異形の者》のなかでは力あるほうなのよ。体も丈夫だし――今も体内から再生してんの。こんな小さなお嬢さんに乗られたくらい、なんともないわ」
鬼女はひらりと手を振った。
「あーあ。こんなことになるなら、山で大人しく寝ていればよかったかしらね。ちょおっと人間の暮らしが気になって都会に出てみればこれだし……。やっぱ都会ってあたしらにとって暮らしにくいとこだわ」
俯き、つまらなそうに鬼女が言う。だがすぐに顔を上げると、彼女はニィッと口の端を引き牙を見せた。
「それよりお嬢さんの言う通りよ」
「……は?」
「老婆心で言わせてもらうけどね、あんた甘すぎ。あたしがもっと好戦的な《異形の者》だったらどうしてたのよ? あたしだって殺す気は無かったけど、逃げられるならあんたの手足を折るくらいやってたわよ。あんな態度ばっかじゃあ、いつか痛い目見ることになるんだから」
鬼女はそう言って、くつくつと喉を鳴らす。
「それはまぁ……。お前が被っていた女の『面の皮』が、持ち主を殺して奪ったものではないとわかっていたから……。少しは話が通じる奴なんじゃないかと思っていた」
「……あたしのことを調べたの?」
鬼女の眉間の皺が深くなる。
「まあな。そういう依頼だった。それでお前がどういう異形かわかれば、話をしてみてほしいと」
火之が言うと、夜子が「ええ?」と声を上げた。
「なんでそのこと私に言わないんですか。最初から教えてくれていたら、私だってもうちょっと違う手伝い方にしたのに」
火之は夜子の言葉に納得できなかったのか、なんとも微妙な表情で小首を傾げる。「違う手伝い方」とは……。話したとして、本当にそうしてくれたかどうだか。
だが夜子は火之のそんな仕草を見ていなかったようで、それには触れずに話を続けた。
「てっきり『排除』を視野に入れた依頼かと思ってました。もう、そうならそうと先に教えてくださいよね」
夜子は両腕を組み、頭を振った。
「ま、火之さんに抜けたところがあるのはいつものことですしね。――それよりあなたの今後についてですが……」
「ああ、あんたらに任せるわ。《異形の者》のことは《探偵》に――。でしょ? 山育ちでもそれくらいは知ってるわ」
鬼女は口角を持ち上げ笑う。そして鋭利な爪を火之に向け――。
「ところであんた、《異形の者》? それとも血を引く者?」
鬼女の目は、火之の額のツノを映している。
「どちらでもない」
これにフッと息を漏らし、火之は薄く笑って言った。
「こんな形だが、おれは人間の《探偵》だ――」
◇◆◇
――それは何十年前のことだったか。
ある時から、《異形》が人間を襲い、襲った人間に成りすますといった話を聞くようになった。
その当時、ある老爺はこう話した。
「あの人ら《異形》は、もうずうっと昔からこの世界にいた。それが表にも出てくるようになっただけだ」
《異形》――。それは人間とは違う姿形を持ち、奇妙な力を持つ者。
ある者は影のように人の側に潜み。
ある者は鬼と呼ばれ恐れられ。
ある者は神として奉られていた。
彼らはある時を境に、積極的に人と関わるようになった。
それは主に人を喰らい、喰らった人の姿を奪い、何食わぬ顔でその人のようにして暮らす「人に《成り代わる》」という形ではあったが――。
どうして彼らがそうするようになったのかは、現在に至ってもわかってはいない。
だが彼ら《異形》の出現により、少しずつ社会は変わっていった。
人を喰らう《異形》がいれば、人に寄り添う《異形》もいる。そのため今では血が混じりあい――。
人。《異形の者》。人の姿をとる《異形の者》。異形の血を引く者。
それらが共に存在するようになり、社会はこれに適応した
人が人として生きられるよう守り、《異形の者》と橋渡しをする職業――彼らは《探偵》と呼ばれた――が生まれ。
異形の者から身を守り対抗するための研究が発展し。
わからないことだらけの異形の者という存在について調べ、彼らが人の社会で暮らせるよう手筈を整える機関もできた。
しかし。
残念ながら、おかげで人間と《異形の者》の暮らしやすい社会になったというわけではない。
なぜなら今でも人は《異形の者》に殺され喰われ、《異形の者》はそれを理由に殺され、人と異形の血を引く者への差別もあるからだ。
けれども《異形の者》に怯えるだけだった人間が彼らに対する力を得たこと、人間と共に生きることを望む《異形の者》やその血族が表へ出てこられるようになったこと。
これらは両者にとっての確かな一歩であったと――信じたい。
この世界はそんな微妙なバランスのうえ、なんとか成り立っている。