12章-知られざる取引-
雲ひとつない空に月が浮かぶ、太平洋のどこか。
とある船の甲板にひとりの男性が佇み、月を見上げている。
「……なるほど、思ったよりも大変なことになってしまっているようだね」
「報告ありがとう」と男性が言えば部下の男性がひとつ頭を下げて甲板を去っていった。
広い甲板にひとりきりになった男性は息を大きく吐き出す。
「まったく、人類軍は思った以上に困ったことになっているようだね」
「そんなもん、ずいぶん前からそうなんじゃねぇのか?」
ひとりきりのはずの甲板に響くはずのない他人の声に男性は少しばかり目を見開くが、それ以上驚くことはなく振り返る。
「急に現れないでくれ。心臓に悪いじゃないか」
「それほど驚いてるふうにも見えなかったがな」
「確かにそれほど驚いてはいないが、私は年寄りなんだ。心臓に悪いことをされるとぽっくり逝ってしまうかもしれない」
「安心しろ。テメェはそんなんであの世に行くたまじゃねぇ」
急な来訪者とポンポンと言葉を交わす。
それから男性は小さく笑った。
「それにしても、何やら興味深い姿じゃないか。朱月」
男性の視線の先、少年の姿の朱月がニヤリと笑う。
「まあな。俺様つーよりはシオ坊の鬼姿って感じなのがなんとも不思議ではあるが、これがまぁ人様の体とは思えねぇほどに馴染む」
「さすがは≪天の神子≫の肉体、というわけだね。興味深いことだよ」
言葉の通り興味深そうに朱月の姿をひとしきり眺めてから「さて」と男性は話を続ける。
「それで、私になんの用かな。見たところ今の君はあくまで式神を応用した分身のようだが、そうであっても〈ミストルテイン〉からここまで飛ばしたのならそれなりに大変だっただろう」
「まぁな」
「つまり、その労力を使うだけの話なんだろうが……〈ミストルテイン〉が拘束される件についてかな?」
「なんだわかってるんじゃねぇか」
「たった今、そのことについて報告を受けたばかりだからねぇ」
「じゃあとっとと話すぞ」
そこから朱月は〈ミストルテイン〉の状況。
そしてアキトたちがこれからしようとしていることを全て男性に話した。
「ふむ、すごいな。それなら確かに“推進派”を一網打尽にできるかもしれない」
「お前さんがそう言うなら実際悪くはねぇんだろうが……かもしれないじゃ困る」
朱月の提案から動き出したアキトたちの計画。
現時点でアキトたちに実現できるものの中では最も成功率が高いが、朱月としてはそれでは少々不十分に思っているらしい。
「この世に絶対なんてものはねぇが、やりようはある。俺様としてはあいつらが勝てるようにもう一手ほど打っておきたいわけだ」
「要するに、私たちにも手伝ってほしいというわけだね」
男性の言葉に朱月は頷いた。
「どうせそろそろお前さんたちも動く頃合いだろう? なら、俺様たちの策に乗っかってくれはしねぇかと思ってな」
「確かに、悪くないねぇ。私個人としても〈ミストルテイン〉の彼らを見捨てたくはないし」
「だろ?」
「けれど、そう言われてハイと頷くほど甘くはないよ?」
男性の言葉で、ここまで穏やかだった空気が一瞬にして張り詰めた。
「君たちの策に合わせて動くことでのこちらのデメリットが少ないのは事実だけれど、全くないわけでもない。……こちらの計画は数年かけて準備してきたものだからね。安易に予定を変えて失敗のリスクを高めたくはない」
「そりゃあそうだろうな。お前さんたちの計画ってのは今のまま進めばまず失敗しねぇだろう」
今のまま進めば問題ないであろうものをわざわざ変更して失敗のリスクを発生させるなど誰だってやりたくはない。
そんなことは朱月も重々承知の上だ。
「それでも、俺様はコヨミの子供たちを守らなけりゃならねぇんでな」
「彼らの身の安全という意味なら、クーデターをやめて一度大人しく拘束されてくれれば私たちが後から助けてあげられるよ」
「本当にそうか? 俺様から見りゃ、どう考えても今の人類軍は〈ミストルテイン〉を潰しにかかってるようにしか見えねぇんだが」
朱月の指摘に男性はわずかに言葉を詰まらせた。
「……確かに、拘束までの決断が早すぎるのは事実だね。シオン・イースタルの魔物化について説明を求めるのはわかるけれど、裏切りの嫌疑をかけるのは少し気が早すぎる」
魔物化したシオンはテロリストの拠点を完膚なきまでに叩き潰している。
その混乱でテロリストの逃亡を許した可能性は確かに否定できないが、だからといってそれだけで裏切りの嫌疑をかけるのは根拠として弱い。
しかもその判断が一日とかからずに出されたというのがまた怪しい。
上層部には多くの人間がいるのだから、意思決定にはどうしても時間がかかるものだ。
しかも今の上層部は最高司令官を置いていないのだから、リーダーの鶴の一声で決定というわけにもいかないはず。
最終的に拘束という結論になる可能性はあったにしても、いくらなんでも決断が早すぎる。
「ひとまず通信で聴取をするのでもよかったはずなのに、それもしないで拘束を決定するなんていうのは、明らかに「拘束したい」という思惑が先行しているように見える」
「不意打ちでとっ捕まえにかからなかっただけマシかもしれねぇが……」
「明確な証拠がない状態でそんなことをすれば、人類軍内外からいろいろと言われてしまうからねぇ」
どうあれ、上層部に〈ミストルテイン〉を拘束したいという思惑があるのはまず間違いない。
そうして拘束された後、主要メンバーがどんな扱いを受けるかはわかったものではないだろう。
「それらしい罪状をでっちあげられてもおかしくねぇし、今のタイミングでテロリストと通じてただの言われたら最高司令官暗殺の黒幕なんて濡れ衣着せられる可能性だってある。……お前さんたちが助け出すまで無事な保証ができるのか?」
「…………」
黙る男性に朱月は「まあそんなことはいい」と話を強引に変える。
「俺様は面倒な話は嫌いなんでな。手っ取り早く、お前さんがこの話に乗ることでどういう得をするかの話をしようじゃねぇか」
「ほう。何か報酬を用意してくれてるのかい?」
「報酬ってほどじゃねぇが、俺様やシオ坊にひとつ貸しておけばお前さんたちは得をするって話だ」
「具体的には?」
「シオ坊なら、大した労力なくコヨミをこっちに連れ戻せる」
朱月の言葉に男性は大きく目を見開き言葉を失った。そこにあるのはここまで見せなかった明らかな驚きと動揺だ。
「≪月の神子≫の犠牲で偽物の平穏に甘んじる状況をぶち壊して“この世界をあるべき形に戻す”。過去の愚かな人類の業を後世に残さないために溜め込まれた穢れを今の時代で精算する。それがお前さんたちの計画だったよな錬金術師殿」
「……ああ、そうだよ」
「元々“封魔の月鏡”を壊すのに大層な儀式をするつもりだったんだろうが、シオ坊がいればその必要はなくなる。それはお前さんたちにとって相当助かる話だろ?」
ここで〈ミストルテイン〉に恩を売れば、シオンの体を持つ朱月、もしくは朱月から体を奪い返したシオンにそれを頼むことができる。
逆にここで〈ミストルテイン〉を見捨てれば、朱月はもちろんアキトたちを大事に思うシオンも男性に何を言われようともそっぽを向くだろう。
だから〈ミストルテイン〉を助けろと朱月は迫る。そして――、




