11章-顕現、蹂躙、後退-
空で急速に膨れ上がった漆黒はそのまま弾けるかと思いきや、まるで逆再生するかのように一瞬にしてその中心――少年の小柄な体に収束した。
同時に放たれていた禍々しい気配もいくらかその勢いを弱める。
そして一秒ほどの間を開けて、少年の背から漆黒の翼が広がった。
羽には覆われず鱗と皮でできた翼は悪魔のようにも見えるが、シオンの実情を知るアキトにはそれがドラゴンの物であるとわかる。
再び一秒開けて、今度は少年の腰あたりから一本の尾が伸びた。
硬質そうな鱗に覆われた太く力強い尾が一つの生き物のように少年の背後で蠢く。
さらに一秒程度の間を開けて、少年の肌もまたところどころが黒い鱗に覆われていく。
まずは両腕が、次いで両手が覆われその異形の腕に鋭い爪が伸びた。
続いて頬や顔の一部を鱗が多い、漆黒の髪の隙間から一対のねじれた角が生えた。
ゆっくりと閉じていた瞼を開けばそこには血のような赤い瞳が爛々と輝き、ぼんやりと虚空を見つめている。
そうしてほんの数秒ほどで、少年は人型の異形へとその姿を変えた。
「(第一人工島の時よりも変化が大きい……)」
あの日もシオンは異形の姿をしていたが、顔まで鱗に覆われていなかったし尾も生えていなかった。
その事実が前回よりも状況が深刻であることを否応なしにアキトに理解させる。
「マークス君! すぐにオープンチャンネルでの通信準備を」
「オープンチャンネルですか?」
「ああ。テロリストたちにも聞こえてかまわない」
人類軍だけに通信できれば十分ではあるが、人道的に考えるのであればその区別を今はきっとすべきではない。
「人類軍特別遊撃部隊〈ミストルテイン〉よりこの一帯で活動する全ての人々に警告する! 即時この場から離脱せよ! 繰り返す、すぐにこの場から離脱せよ!」
作戦本部や他の部隊から通信が届くが、今はそんなものに構っている余裕がない。
「たった今この場に出現した人間大のアンノウンは、これまでに人類が遭遇したどのアンノウンよりも強力な存在であると推測される。人類軍の所有する最新鋭の兵装であっても傷ひとつ負わせられない可能性が極めて高い。対する対象のアンノウンはこちらの防御を容易に突破できるほどの火力を備えている」
いくら〈クリストロン〉や〈グングニル〉が開発されたとはいえ魔物堕ちの防壁を突破できるとは思えないし、シオンが相手では〈ミストルテイン〉ですらも防壁を貫くことはできないかもしれない。
そして逆にシオンがその気になれば人類軍側の魔力防壁など紙を切り裂くかのような容易さで破壊されるのは目に見えている。
平常時でもそれだけの力を持つシオンが魔物に堕ちている今、朱月の言っていた通り人間の手で対抗できるはずがない。
人類軍はもちろん、この場にいる全ての人間は今すぐこの場を立ち去るべきなのだ。
「(そうすれば、シオンの奪う命も減らすことができる)」
人々のためにもシオンのためにもこの選択が最善だとアキトは考えている。
その警告を受けて、人類軍はすぐに後退を開始した。
意外にも思えるスムーズさだが、人類軍は過去にヤマタノオロチに挑んで傷ひとつ負わすことなく殲滅されたことがある。
その経験もあってアキトの警告をすぐに信じてくれたのは幸いだ。
だが問題はテロ組織の方だ、彼らはアンノウンを武器として使うことはしてきたが、その脅威と正面から戦ってきたわけではない。
アキトの警告を真剣に受け止めてくれるかどうかは賭けだった。
そしてどうやら、アキトはあまり賭け事には向かないらしい。
空にぼんやりと浮かんでいたシオンに向かって地上からミサイルが放たれた。
それは彼に接触することなく数メートルほど離れた位置で魔力防壁に阻まれた爆発する。
アキトの予想通り、旧型の兵器で彼の防壁を抜けるわけがない。
そんなことなど知らないテロリストたちは続けてミサイルと砲弾とビームをシオンに向かって浴びせかける。
普通であればその攻撃に晒されて爆炎ですっかり姿の見えなくなったシオンのことを心配すべきはずの場面だが、アキトはそんな気にはなれなかった。
それ以上に心配なのは、攻撃を受けたシオンがどのような反応を示すかだ。
しばらくの攻撃の後テロリストたちは一度手を止めた。
空中のシオンは依然として黒い煙に包まれていて彼の状況はわからない。
しかし次の瞬間、煙を貫いた赤い閃光がテロリストたちの拠点に落ちた。
そして一拍遅れて同じ色合いの閃光が着弾した地点から迸って真昼の青空を一瞬真っ赤に染め上げる。
そうして迸った閃光が消えたあと、そこにあったのは巨大なクレーターだけだった。
「人間大の存在の攻撃であれほどの威力があるなんて……!」
「……やばさで言えば確実にファフニール並みかそれ以上ってことね」
続けてシオンは両手に先程と同じ赤い光を生み出すと、無造作にそれらをテロリストたちの拠点に放った。
雑にも程があるその攻撃で、巨大なクレーターが新たにふたつ増える。
「攻撃はテロリストたちに向いているようですね……」
『あれはシオ坊だからな。喧嘩を売られりゃしっかり買うが、そうでなけりゃ易々とは手を出さねぇのかもな』
人類軍は〈ミストルテイン〉を除いてすでにこの場を離脱している。
それはシオンによる妨害がなかったことと、テロリストたちの注意がシオンに向いていたおかげなのだろうが……
「待て、アンノウンたちは?」
先程この場所では百個以上のアンノウン誘導装置が起動した。であればそれに反応してアンノウンたちが集まってくるはずなのに、その気配が少しもない。
普通に考えるならこの場にはアンノウンが溢れていて、人類軍の撤退だってそう易々とは済まなかったはず。
シオンが堕ちたことに気を取られていて気付くのが遅れたが、明らかにおかしい。
『……魔物どもも馬鹿じゃねぇってこった』
「どういう意味だ?」
『あいつらに考える頭はねぇが、獣みたいな本能はある。……とんでもなく格上のバケモノがいる場所にわざわざ来るわけねぇんだよ』
シオンという強大な存在に怯え、アンノウンたちがこなかった。
魔物に堕ちたシオン・イースタルはそれほどの存在なのだと朱月は語る。
『さあ、俺たちもひとまず下がろうぜ。……少なくとも今の状態じゃあシオ坊をどうすることもできねぇ』
「…………ああ」
それはアキトも薄々察していたことだ。
現状のアキトたちでは今の状態のシオンになんの対処もできない。
助け出す方法などわからず、かといってこれ以上被害が出ないように殺すという非情な選択すらできず、ただシオンに殺されるしかできないのだろう。
本音を言うのであれば、この場を離れる選択などしたくはない。
テロリストたちを蹂躙しているシオンのことも止めるべきなのだろう。
しかし、今ここでアキトたちが死ねば誰よりもそれを悔いるのが誰なのかくらいアキトにもわかっている。
「今は退く。……だが俺はシオンのことを諦めるつもりはないぞ、朱月」
『わかってら。その辺のことは俺様もちゃんと考えてやるよ』
意外にも協力の姿勢を見せる朱月にわずかな違和感を覚えつつ、〈ミストルテイン〉もまたその場を離れた。
そうしてテロリストたちとシオンのみが残された戦場では、堕ちた少年による一方的な蹂躙が静かに続けられるだけだった。




