10章-魔女との内緒話-
シオンがルリアと共に部屋を出て数秒。
ミランダはゆったりと手を動かすと、立てた人差し指を軽やかに振るう。
その指先にほんのわずかにだが光が纏っているのにアキトは気づいた。
「さてと、これでシオンはしばらく戻ってこないわね」
たった今出ていったのだからという話ではなく、おそらく何かしらの魔術でシオンが戻ってこれない状況にしたのだろう。
「やはり、意図的にシオンを遠ざけたんですね」
「あら、気づかれてしまったのね」
気づかれてしまったとは言いながらもミランダに焦った様子はない。
ここまでの何も変わらずのんびりとした動作で紅茶を口にしている。
「なんとなくそうかもしれないとは思っていたけれど、ミツルギさんはなかなか鋭いのね」
「いえ、あくまでただの勘のようなものでしかありませんでしたから」
「それならなおよいことだわ。少なくともわたしたちはそういった感覚を大事にしているもの」
それから彼女はアキトたちのことを軽く見渡した。
「それじゃあ、シオンが戻ってくる前に内緒話をしましょうか」
「シオンにだけは聞かせたくないということなのですか?」
「聞かれて困るわけではないけど、本人の前で話すのはちょっとね。怒られたり邪魔されたりしちゃいそうだから」
そうならないように適当な理由をつけて部屋から追い出したということなのだろう。
「じゃあ、ここで聞いたことあとでバレても大丈夫っすか? ……俺、シオンに隠し事できる自信ないんですけど」
「大丈夫よ。どうせシオンも、内緒話をしてることは察してくれてるみたいだからね」
「……まあ、確かに俺が気づくことに気づかないシオンではないですね」
アキトが勘だけとはいえ予測できていたのだ。ミランダのことをアキトよりもよく知っているシオンであれば気づいてもおかしくはない。
その上で許容しているということは、ミランダがアキトたちに何かを話すことをシオンは大して嫌がってはいないらしい。
「さて、いろいろと話したいことはあるけれど……まずはお礼を言わせてほしいの。シオンと仲良くしてくれてありがとう」
ミランダの口からまず出てきたのは、そんな母親からでも出てきそうな言葉だった。
彼女からすればシオンは孫のような存在とのことなので、祖母という立場に近いのだろうが。
「あの子はどこまでも自分の正体を隠して生き抜くつもりでいたみたいだけれど、あなたたちというありのままの自分を見せられる相手に出会えた。……それはわたしたちのような存在にとってとても幸運なことよ」
どこか遠くを見るような瞳をしているミランダが何に思いを馳せているのかはわからない。
しかし、彼女が千年以上の時を生きる“魔女”である。
アキトたちには想像できないような長い時間を生きる中で多くの経験を重ね、そして先程口にしたそれが幸運であると理解したのだろう。
「神子としてのあの子を受け入れてくれたこと。そして何より、あの子を“人間”として扱ってくれていることに、感謝を」
そう言ってミランダが頭を下げるのにアンナが慌てたように手を振る。
「そんなことで頭を下げられたら困っちゃいます。アタシたちは別にそんな大それたことしたわけじゃないですし」
「俺も、アンナと同意見です。……確かにシオンには力がありますが、それでも俺はあいつを人間だと思った。それだけのことですから」
アキトの言葉にハルマやナツミたちもはっきりと頷く。
「……それが何よりも尊いことなのだけれど、そういうあなたたちだからこそあの子も心を開いたのかもしれないわね」
頭を上げたミランダはそれから背筋を伸ばして真剣な表情になった。
ここまで基本的に朗らかに笑ってばかりだった彼女の表情の変化にアキトは思わず身構える。
「そんなあなたたちだからこそ、ひとつお願いしたいことがあるの」
「それは、なんですか?」
「あの子のこと、よく見ていてあげて。それから――どうか生き抜いて」
それはあまりに意味不明な言葉だと、以前までのアキトであれば思っただろう。
実際アキト以外の面々は後者の言葉に困惑しているのがわかる。
しかしアキトは、アキトだけはその言葉の意味も重みもよくわかっている。
「シオン・イースタルという神がこの世に誕生した最大の理由にして、最も忌み嫌い恐れること。それは“愛する者の喪失”よ」
十年前のテロによって家族や友人の全てを失った悲しみと絶望が、ひとりの子供を神子たらしめた。そしてその傷跡は未来永劫癒えることは決してないだろう。
でなければシオンはアキトに「おいていかないでほしい」などと願わなかったはずだ。
「シオンを傷つけないために、ですか?」
「今はもう、それだけじゃないわ……あなたたちもシオンの今の状態については知っているでしょう?」
シオンの今の状態とは、すなわち神子でありドラコンであり魔物であるという異質な人外へと至ったことだろう。
「とても、複雑な状態であると理解しています」
「ええ。とても複雑で……危うい状態」
「……危ういん、ですか? シオンは全然いつも通りに見えるんですけど」
「≪天の神子≫の性質とあの子のさっぱりとした性格のおかげで安定しているだけで、常人であればとっくに肉体か精神のどちらかが壊れていると思うわ」
アキトは小声で「あのバカ」と毒づく。
あの一件以降、シオンはどこまでも今まで通りだった。本人も大丈夫だと言っていた。
もちろんアキトはそれを完全に信用はしていなかったし、異常がないか注意はしていたのだが、ミランダの言うような状態はどう考えても大丈夫ではない。
「あまりあの子を怒らないであげて、本人の感覚ではあまり危ういと感じていないのも事実だろうから。決して大丈夫とウソを言っているわけでもないの」
アキトの小さな声はミランダに聞こえていたようで、彼女はシオンのことをフォローした。
「しかし、ミセスが警戒する程度には危険なのでしょう?」
「否定はしないけれど、ある日突然危険になるような状態でもないの。たったひとつのことに注意すれば簡単に今の安定が崩れるようなことはないはずよ」
「その、たったひとつっていうのは?」
「“愛する者の喪失”、よ」
念を押すようにミランダは先程口にした言葉を繰り返す。
「あの子は好き嫌いがはっきりしているから、“弱い者いじめ”みたいに他にもいくつか心を乱れさせる地雷はある。けれど“愛する者の喪失”だけは別次元なの。それひとつであの子は一瞬にして怒りと絶望に狂い出す」
大袈裟なようにも聞こえるが、アキトたちは十年前の出来事をもう知っている。
幼いシオンは事実として家族や友人を奪われた怒りのままにテロリストやその身内、そしてたまたまその身内たちが暮らしていた町に暮らしていただけの無関係の人々を軒並み焼き殺した。
前例がある以上、ミランダの言葉には信憑性がある。
「今まではただ怒り狂って愛する者を奪った相手を蹂躙するだけで、落ち着けば元のシオンが戻ってくるだけだったけれど」
「……今のシオンがそうなれば、魔物に堕ちてしまうんですね」
ガブリエラの言葉にミランダは大きく頷く。
「あの子が魔物となれば、それは冗談ではなく世界を脅かす厄災になる。わたしですらそうなったシオンを止めることができる自信はないわ」
だからミランダはアキトたちに「生き抜いて」と言ったのだ。
「あなたたちは、間違いなくシオンの“愛する者”なの。……その命が近い未来に潰えてしまったならば、あの子は悲しみ、絶望し、魔物に至る。――そしてその先で世界を壊す厄災に成り果てるわ」
冗談のようなことだが、ミランダが冗談を言っているわけではないのははっきりしている。
「きっとあなたたちが生きている限りあの子は魔物になることはない。けれどあなたたちが死んでしまったその時には驚くほどにあっさりと魔物へと堕ちていく。……どうかそれを忘れないで」
ミランダの願いはアキトがすでにシオンに誓ったことでもある。
しかしそれは、アキトが思っていた以上に大きな意味を持つことだったようだ。




