序章-逃走道中-
そっと目を開けば、目の前に広がった光景はあの月明かりに照らされた社でも真っ暗な空間でもなかった。無機質な天上は見慣れた学生寮のものではなく、初めて目にするもの。おそらくは人類軍関連の施設の一室だろう。
「(……やっと目が覚めたってわけか)」
どのくらいの間眠っていたのかは不明だがあの女性に呼ばれ朱月に呼ばれてと慌ただしかったので、もしかするとかなりの時間が経過しているかもしれない。
おぼろげな意識の中で気を失うまでの過程を思い出してみる。少なくとも安全圏と呼んでもいい防衛部隊本部の内側に降りられたのは、シオンがこうして生きたままどこかの部屋に寝かされている点から見て間違いないだろう。
「(だとすれば、とりあえず教官は無事だな……よかった)」
確認できたわけではないがシオンが無事なくらいなのだ、アンナなら問題なく無事でいることだろう。
「とりあえず、寝てる場合じゃな、え、あだっ⁉」
寝かされたベッドから普通に起き上がろうとしたにもかかわらず、腕が何故か思うように動かせなかったためにバランスを崩してしまったシオン。しかも横に倒れるままにベッドから落下する始末だ。
顔から落ちる羽目になってしまった結果無防備にぶつけた額の痛みに悶えつつうめき声をあげるが、そこで身体の違和感をはっきりと認識する。
まず動かせなかった腕だが、身体の後ろから動かすことができない。足も同じでまとめられているかのように動かせない状態だ。とにかく床に顔面を押し付けている状態から身体を横に転がし、自分の身体を改めて確認してみる。
纏っている衣服は記憶にある士官学校の制服姿ではない。全体的に白く、ところどころに黒のベルトと金具が取り付けられている――要するに、いわゆる拘束衣である。
「えっと……これはまた……」
目が覚めて早々このような状況、いろいろと思考が追い付かないのも仕方がないだろう。とりあえず、現状はシオンにとってあまりよろしくない状況であることだけは確かのようだ。
『目が覚めたようね、異界人』
ザザッという音が聞こえたかと思えば、冷静な女性の声がシオンに語りかけてきた。出所のわからない声に室内を見回せば、部屋の天井近くに一機のカメラとそれに付属しているマイクとスピーカーが確認できた。
「……ええ、ばっちり目が覚めてます。そちらは人類軍の軍人さんって認識でいいんですか?」
『敵に対して答える理由はないわ』
「わーお、クールですね」
質問の切り返しにしろ、茶化す言葉になんの反応も返さないことにしろ、シオンに対して非常に冷たい対応が目立つ。
「(いや、ある意味これが普通か)」
細かな経緯は不明だが、シオンが普通の人間ではないことはすでに人類軍には知られてしまっているらしい。まああれだけのことをアンナの前でしてしまったわけであるし、仕方がないと言えばそこまでだ。
となればこの拘束衣も冷たい対応も当然と言えば当然。むしろ、アンナのように正体に勘付いていながら信用して命運まで預けるなんて選択をする人間の方が希少だ。
「(さて、こっからどうしたもんか……)」
シオンも馬鹿ではない。夢の中で朱月に指摘される以前から自身の秘密――ただの人間ではないという事実が知られてしまえばこういった事態になることは予想していた。そしてそうなってしまった場合に自身が取るべき行動についても、ある程度のシミュレーションは済ませてある。
ひとまず室内をぐるりと見回してみる。室内の構造はシンプルな四角形で小さな覗き窓がついた鉄製の扉がひとつ。それ以外に窓はない。天井はシンプルな電灯と、その横のスプリンクラー。隅のひとつに先程も確認したマイクとスピーカーのついたカメラ。また別の隅には金網に塞がれた二十センチ四方あるかどうかという小さな通風口らしきものがあった。
『朱月さん朱月さん』
『なんだ、シオ坊さん』
『お前の力を借りれば、妖怪が使う術の類も使える?』
『まあ使えるな。俺様が使える術には限られるだろうが』
室内を観察し、朱月の答えを聞いた上での結論としては、この部屋からの脱出自体はかなり難易度が低い。早速朱月の力が役に立つというわけである。
「(とりあえずは、ちょっとだけ情報集めと……イジワルでもしてからにしますか)」
名前も知らない他人にどう思われようと正直どうでもいいのだが、ああもあからさまに敵意を向けられればさすがに良い気分ではない。多少の報復くらいなら許されるだろう。
***
人類軍所属の女性士官、ミスティ・アーノルドは正面のディスプレイに映された映像――シオン・イースタルを収容している独房内部の様子を注視していた。
今から約数時間前、この防衛部隊本部には大きな動揺が走った。
研究施設の集中する区画で突然起動した実験機に、それを取り囲む無数の中型アンノウン。そしてなにより、実験機から発せられた異常なエネルギー反応の与えた衝撃は大きい。さらに挙句の果てにはその問題の実験機が本部内に墜落するという怒涛の展開だ。ただでさえかつてないアンノウンによる襲撃に混乱している中でこのような事態が発生してしまえば、動揺するなと言う方が酷だ。
しかし、結果としてそれらの事象すらも直後に判明した事実によってあっさりと忘れ去られることとなる。
それがシオン・イースタルという人ならざるものの発見である。
厳戒態勢の中、実験機から救出されたアンナ・ラステルと気を失った状態のシオン。その後、実験機内のレコーダーに残された音声記録と同乗者であるアンナの証言により、彼が《異界》の勢力の使用する異能の力を発揮したことが明らかとなった。
こうしてシオンは拘束され、その監視の任がミスティとこのモニタールームに集められた数名の兵士に与えられたというわけだ。
「(……彼女は、相変わらずのようだったけれど)」
シオンの拘束に際して、アンナは強く反対するということはなかった。しかし彼女は絶えず「彼は敵ではない」と主張した。
シオンの行動に人類軍と敵対するようなものは見られず、むしろアンノウンと敵対している。拘束自体は彼の素性が判明していない以上仕方がないだろうが、敵と断定すべきではない。そういった主張だ。
しかしミスティはそんな主張に聞く耳を持つ必要はないと考えている。
確かにアンノウンとの敵対も事実であるし、レコーダーの音声記録からも人類軍に敵対するような発言などは見られなかった。だが、それはこちらを欺くためのものに違いない。そうやって油断を誘い、人類軍内部へ入り込んでから破壊工作などを行う算段に決まっている。
「(そうに決まっているわ。相手は人間ではない――不意打ちで多くの兵士を虐殺した、野蛮で狡猾なバケモノなんだもの)」
例え独房内の少年が、バランスを崩してベッドから落ちるという間抜けな素振りを見せようが、どう見ても人間としか思えないような見た目をしていようが関係はない。
シオン・イースタルはバケモノ。
一片の慈悲も情もかける価値などない、滅ぼすべき敵だ。
「貴方が拘束されていることについて理由を説明する必要はありませんね? 貴方に対してはこの後尋問を行い、その後然るべき施設へ移送します。貴方がすべきことは無意味な抵抗などせずにそれらを待つこと、それだけです」
事務的にこの後の流れを告げる。バケモノに声をかけるという行為自体に必要性は感じないが、こちらの優位を示すことは有効だ。
こちらがシオンは人外であると認知していること、暗に逃亡を企てるなど無意味であることを示して、抵抗する意思を削ぐ。そうして自身の不利を悟らせ、精神的に追い詰めておいた方が命惜しさに重要な情報を漏らす可能性も増す。
とはいえ、いくらシオンが重要な情報を漏らしたところで意味はない、なにせ――、
『うげ、尋問という名の拷問のあげく研究施設送りとか、マジであり得ないんですけど』
「なっ⁉」
さも当然のようにミスティが口にしなかった尋問の在り方やその後の移送先を言い当てて感想を漏らしたシオンに、思わず声を漏らす。
『ん? なんかビックリさせちゃいました? ……あれ? でも俺が人外だってそっちはわかってるんですよね?』
まるで世間話でもするかのような気軽な調子でシオンは問いを投げかけてきた。映像に映る彼は首を傾げていて不思議そうな表情を隠さない。
『俺が人外って知ってるなら、ちょっと心読まれたくらいでそんなに狼狽えなくてもいいのに』
なんら不思議ではない、むしろ当然とでも言いたげなシオンの発言に、ミスティは自身の血の気が一気に失せていくのを感じた。それはミスティだけではない。このモニタールームでミスティと共に彼を監視している全員が同じ状況にあるだろう。
「(読まれている? 私の思考が……?)」
だとすればどこまで読まれてしまうのだろう。今考えていることだけか? それとも現在の思考とは関係なくミスティが知り得る知識全てが読まれ得るのか? だとすればどうすれば――。
『あー、なんかグルグルしてる感じですね。 ……っと、そんなことより聞きたいんですけど、俺が乗って飛んできた実験機の〈アサルト〉は今どこにあります?』
シオンが搭乗していた機体となれば、本部に墜落した実験機に違いない。
「(あの機体は、確か第四格納庫に収容されたはず……っ‼)」
混乱の最中に投げかけられた問いに、咄嗟にその答えを頭の中で思い浮かべてしまった。人間相手ならばそれに何の問題もないが、今は違う。考えることすらしてはならなかった。
ミスティが自身の失敗を恥じる中、画面に映る少年はニヤリと笑った。
『なるほど。……この部屋からはちょっと遠い所にあるみたいですね』
彼の言う通り、この拘束室は地下のかなり深い階層にあり問題の第四格納庫はもっと地上に近い階層にある。距離もそれなりにあるはずだ。その事実が言い当てられた以上、もはやシオンがミスティの思考から情報を読み取っていることは疑いようがない。
「(どうやって、どうやって読み取られるのを阻めばいいの⁉ 私はスピーカー越しの声しか聴かせていない。まさかそれだけで、いえ、まさかそれすらなくても狙った人間の思考が読めるというの⁉)」
もし、何の制限もなく今のように他人の思考を読めてしまうのだとすれば、どうしようもない。ミスティは最早、自身の知り得る全ての情報をシオンの求めるままに開示するだけの存在。セキュリティのひとつもかかっていないデータベースも同然だ。
『ふーん、まあこれだけわかれば十分ですかね』
敗北感のあまり呆然としていたミスティの目線の先、映像の中のシオンは拘束衣で厳重に拘束されていたはずの両手をごく自然な動きで地面について起き上がり、両手両足を伸ばすようにのんびりと準備体操まがいの動きをしている。
「どう、して……」
『どうしても何も、ベルトの一本や二本、その気になれば念力的な力でちょちょいと外せますし』
思わず零したミスティの疑問の声にシオンは律義に答える。その内容と告げる声のあまりの軽さにミスティは足元が崩れ去っていくかのような感覚を覚えた。
彼はあっさりと情報を盗み出した上に、その片手間に厳重な拘束をあっさりと外してしまったのだ。そんな余裕のある振る舞いは、ミスティたちのすることなどシオンにとっては何の障害にもならないのだと嫌でも突きつけてくる。
『警備は厳重っぽいから正面からは出るのは面倒そうですけど、逃げること自体は難しくないですね~。……とりあえず、思いっきり見られてる中で脱走ってのもアレですし――』
カメラを見据えてそう言ったシオンの手に光の球のようなものが現れた。そのまま彼は手と球体をカメラへ真っ直ぐに向ける。
『それじゃあ、監視ご苦労様でした。もう必要ないからゆっくり休んでくださいね。名前も知らない軍人さん』
そう言ってシオンがニコリと人の良さそうな笑みを見せた次の瞬間、カメラからの映像も、室内の音声も途絶えた。
「……っ‼ 拘束室前の警護班に通信! 室内をすぐに確認して‼」
一瞬反応が遅れてしまったが、ミスティはすぐさま指示を飛ばした。急な指示を受けた兵士が若干まごついたが、すぐに拘束室内部が警護班によって確認される。しかし予想通り、室内にシオンの姿はないという報告と共に、もぬけの殻となった拘束室内部の映像が返ってくるだけだった。
「(なんて、恐ろしいの……)」
人の思考を容易く読み取り、拘束具すらもなんの意味も果たさず、最後には霧のように消えてしまった人ならざる囚人。
人ではないと知っていた。バケモノだと認識していた。
しかし実際はそんな生易しいものではなかった。彼はミスティのイメージしていたバケモノをはるかに超えたバケモノだったのだ。
「指令室にすぐさま連絡を……危険な異界人が脱走。おそらくは第四格納庫に向かっているはず」
シオンはわざわざ〈アサルト〉の収容先を確認した。理由は不明だがあの機体に何かあるのは間違いない。ならばそこで待ち構えればいい。そして――、
「指令室にはこう伝えなさい。――対象は極めて危険、会敵と同時に確実に排除しなければならない、と」
あんなバケモノをみすみす逃してはならない。この場で仕留めなければ。
見せつけられた力への恐怖と、出し抜かれたことへの怒りに支配されたミスティ・アーノルドは気づかない。警護班により送られていた映像の中で、拘束室の通風口の金網が外れていることに。
そして、今この時ですらもシオンの掌の上で踊らされていることにも――。
***
――中央管理塔。それはこの人工島の中枢である。
人類軍に関係しない業務――主に役所としての機能も持つため、便宜上防衛部隊本部とは別の扱いとなっているが、そもそも中央管理塔と防衛部隊本部は地上、地下ともに通路でつながっているのでほぼ同一の施設と言っても差し支えはない。
そしてアンノウンの襲撃により緊急事態を迎えた現在。中央管理塔地下に広がる地下シェルターは慌ただしくその役目を果たしていた。
そもそも住人の避難を想定して設計されているこの地下シェルターではあるが、万全の態勢で彼らを受け入れられたかと言えば、そうとは言い切れない状況にあった。
設計された当時の人口と現在の人口には決して小さくない差がある。ひとつの都市において発展と共に人口が増加するのは至極当然のことだ。
もちろんその程度のことはこのシェルターが設計された時にも想定され、それに対応できるように余裕をもって設計されていたのだが、結局のところその想定すら超えてしまっていた。これが頻繁に使用されていたならば増築改築などもあったのだろうが、訓練など以外で使用されるのは初めてのことであるため、そういった機会も今までなかったらしい。
そんな地下シェルター内の一角を、無数のダンボール箱を載せた台車と共に移動している集団があった。ハルマ・ミツルギ、リーナ・フランツ、レイス・カーティス、そしてナツミ・ミツルギの四名だ。
「リーナ、これは第三シェルターでいいんだよな?」
「ええ、ひとまずそこに届ければ一息つけるわ」
ガラガラと台車を押す足を止めないままハルマとリーナは言葉を交わした。そのやや後方でレイスが疲れたように息を吐く。
「ようやくひと段落かぁ……。避難してきた人たちのためとはいえ、結構ハードだったね」
突然のアンノウンの襲来の混乱の中、このシェルターに避難した彼らは人類軍の新兵として早速仕事を与えられた。とはいえまだ何の経験もない新兵に与えられる仕事となれば限られており、彼らに与えられたのは避難してきた民間人の統制と世話だった。
定員オーバーであるシェルター内部では当然避難民を統率しなければならず、加えて物資を行きわたらせるにも人手がいる。
そういった状況では士官学校のエリートも関係はない。卒業式に出席した時と変わらぬ制服姿のまま、台車を相棒に複数のシェルターに食料や衣類、薬品などの物資を運搬して駆けずり回っていたわけだ。
そんな激しい肉体労働の終わりに四名中三名の表情が緩む。しかし、ただひとり、ナツミの表情だけは曇ったままだ。
「……ナツミ、大丈夫?」
リーナの気遣うような言葉に対してナツミは答えられない。普段のナツミであれば例え空元気であったとしても笑みのひとつでも見せる場面なのだが、その余裕すらない。
――無理もない。
言葉にこそ出さないがハルマはそう思っている。
自身の片割れであるナツミがこのようになってしまった経緯については、本人から聞いている。アンノウン襲撃時に共に行動していたシオンのこと、彼に守られシェルターの入り口までたどり着いたこと、――そして、その場で彼とはぐれ、未だに安否がわからないままであること。
シオンは、ハルマにとってもナツミにとっても親しいと言える友人だ。その安否が不明であることはハルマにも決して小さくないショックを与えている。直前まで共にいたナツミが、しかも彼に助けられたという彼女が受けた衝撃も今感じている不安も、ハルマやリーナたちの感じているものと比べられないほど大きなものなのだろう。
「きっと大丈夫だよ。シオンのことだしね」
優しく、気遣うような声で語り掛けながらレイスがナツミの肩を軽く叩く。その言葉に確信があるわけではないが、シオンの無事を祈り、信じることしか現状のハルマたちにはできない。
「レイスの言う通りだ。きっと在学中みたいになんでもない顔で戻ってくるさ。……ほら、上級生と揉めた時みたいにな」
軍士官学校入学一年目、少々素行に問題のある上級生とシオンが諍いを起こしたことがあった。
問題の生徒が人類軍にそれなりの出資を行っている企業の御曹司ということで生徒はもちろん教師陣も対応しかねていたのだが、そんな上級生とシオンは敵対した――というよりも一方的に目を付けられていたというのが正しい。シオンの方はと言えば上級生に対して何の興味も抱いてはいなかったように見えていた。
そんな状況の中のある日の昼休み、校内の一角でその上級生と取り巻きの生徒数名にシオンが囲まれるという事件が起きた。
体格のよい上級生、しかも明らかな攻撃の意思を持つ何人もの男に囲まれるという状況。
しかしシオンはニヤリと笑みを浮かべ、次の瞬間にはどこから取り出しのたかわからない程の数のスタングレネードやスモークグレネードをばらまいて瞬く間に全員を無力化し、さらには事前に示し合わせていたように突入してきたギルの操る自転車に回収されてその場から颯爽と逃げ去った。
結局、騒音や閃光、大量の煙によって開校以来最大の騒ぎになってしまったこの事件は、教師たちが現場に駆け付けた時点での状況証拠により問題の上級生たちの起こしたものとして扱われた。
教師たちから見ればシオンの痕跡などまったくなく、相手も前々から問題となっていた生徒たちだったのだからこのような判断になるのもおかしくはない。
それに、これは問題のある生徒たちを追い出す絶好の口実だったのだ。
生徒たちの中には目撃者もいた。教師たちとて本気で調べたのであれば事実を確認できているはず。それでもそのような結論が出されたということは、つまりそういうことだ。
そしてそんな大事件を起こした直後、昼休みが終わり午後の授業が始まろうとする頃、シオンは何事もなかったかのように教室で席につき、のんびりと欠伸をひとつ零していた。
この一件に限らず在学中のシオンはいくつかの問題を起こしてきたが、例外なくそんな風に何事もなかったかのように日常の中に戻ってきた。
シオン・イースタルという少年はそういう人物なのだ。面倒事を嫌い、平穏な日常を好む彼は時折問題に巻き込まれつつも、必ずその日常に戻ってくる。
だからきっと今回も大丈夫だという意味を込めてハルマは片割れに微笑みかける。
「そう、だよね。……うん、きっと大丈夫だね。いっつもそうだったし」
「ああ、きっとひょっこり戻ってくる。それこそ、心配したこっちが馬鹿らしくなるくらい当たり前みたいな顔してさ」
「なにそれ、想像したらムカつく!」
ふざけた調子でわざとらしく怒ったような表情を見せるナツミ。その振る舞いは彼女の調子が普段のものに近付いてきた証拠だ。
「それじゃあ、私たちは与えられた仕事をちゃんとこなしましょう……あら?」
リーナの言葉に再び台車を押して歩きだそうとした一行だが、一番前にいた彼女が突然立ち止まったため、ハルマたちも止まる。何事かとリーナに尋ねようとしたハルマだったが、それより先に視界に入ったシルエットに注意がそれた。
「……ネコ?」
視線の先でちょこんと座っている小さな生き物は間違いなくネコだ。
全身を艶やかな黒い毛に覆われ、その目はこちらを観察するように見ている。汚れている様子もなく、さらにハルマたちを前にしても逃げないことから鑑みるに、野良猫ではなく飼い猫なのかもしれない。
「えっと……避難してきた人のペットとかかな?」
「かもしれないね……とりあえず捕まえて――」
疑問符を浮かべるナツミの言葉に答えたレイスがネコに近寄ろうと一歩踏み出すと、逆にネコの方から迷わずレイスの足元まで近寄ってきた。驚く四人を尻目にレイスのことを見上げたかと思えば何かを催促するように鳴き声を漏らす。
「すごく人に慣れてるみたいね……」
「逃げ回られるよりはいいんじゃないか? どうもレイスが気に入ったらしいけど」
足元で催促を続けるレイスがしゃがみこんで抱き抱えようとすれば、抵抗する様子もなくレイスにその身を委ねている。
「とりあえず第三シェルターに行くか」
「そうね。私たちの目的地だし、一番近いシェルターだからこの子の飼い主がいる可能性も高いと思うわ」
四人に一匹を加えたハルマたち一行は、再び台車を押しつつ移動を再開した。
***
両開きの一際大きなドアが機械音と共に開く。その先は機動鎧の格納庫としても使えるように設計されたかなりの広さを持つ空間になっているのだが、避難民に溢れた現在は少々狭く感じる。それほどの数の避難民がこの第三シェルターに集まっている証拠だ。
さすがに一万には届かないだろうが、数千の人間が集まっている状況だ。
見るからに頑強に見えるシェルターの中にいるからか、避難民たちは比較的落ち着いているように見える。しかし、不安や恐怖心が全くないわけではないのだろう。人が多くいるにも関わらず妙に静かな空間が、それを如実に表しているようにハルマには思えた。
そんな人々の様子を横目に見つつ、このシェルターを監督している兵士たちのそばまで近づく。
「おつかれさまです! ミツルギ班四名、物資の運搬に参りました!」
「あ、ああ。助かる。……ん? なんだそのネコは」
敬礼と共に声をかければ敬礼を返されつつネコについて尋ねられた。レイスが事情を説明する中、ハルマはあることに気づく。
何故かはわからないが、兵士たちがわずかに緊張しているように見えるのだ。
言い方は悪いが、このシェルターの監督というのは雑務と言ってしまえる任務だ。程度で言えば物資の運搬を任されているハルマたち新兵の仕事とそう変わらない。その任務の中で緊張するような事態はまずないと考えていいだろう。にもかかわらず地面から五メートルほどの高さに張り巡らされた機動鎧搭乗用の通路を、マシンガンを携えた兵士たちが何かを警戒するように巡回している。
つまり、監督任務以外で何かがあったということに違いない。
「ところで、君たちは無線機などを所持していないな?」
「はい、新兵に回せるほどの数がなかったそうで……」
「そうか」
軽い確認の後、目の前の兵士にハルマたちは手招きされた。直前にされた確認からして、上から何らかの通信があったのだろう。わざわざ避難民の盗み聞きを警戒して近くに寄らせることから察するに、悪い報せが。
「これは極秘の通達だが……現在、この地下施設内で異界人がひとり、逃走中だそうだ」
告げられた情報にハルマの呼吸が止まる。そんなハルマの様子に気づかない様子で、兵士は情報の共有を続けていく。
「人間のフリをして軍に紛れ込んでいた人外を今回の騒ぎの中で捕縛したものの、対象は脱走。現在地は不明のままだそうだが、第四格納庫へと向かっているらしい」
「第四格納庫、となるとここからはかなり離れていますよね」
リーナの確認に兵士は小さく頷く。
「ああ、だから基本的にここへは来ないはずだ。ただ、君たちもこの後はこのシェルターに残り、警備に当たってもらう。……対象は黒髪の少年の姿をしていて白い拘束衣を着ている。発見次第排除するようにとのことだから、銃はいつでも使えるようにしておけ。……以上だ」
通達を終えた兵士の敬礼に同じく敬礼を返し、その場を離れる。物資を避難民に配布するのは別の兵士の仕事なので、これからハルマたちはシェルター内を巡回しつつ警護任務に移る。
だが、ハルマの意識は完全にそれ以外のことへと向いている。伝えられた情報に思考を奪われているからだ。
今、この地下施設には現在もなお逃走中の異界人がいる。だとすればハルマは――、
「……ハルマ、落ち着いて」
冷静でありながら、どこか気遣うようなリーナの声にようやく意識が引き戻される。気づけば自分以外の三人ともが心配そうにハルマの顔を見ているようだった。
「あ、ああ。ごめん。……少し考え事してた」
「…………」
リーナの視線は真っ直ぐにハルマを見つめ、何かを探っている。そして彼女は少しためらいを見せつつも口を開いた。
「貴方ならわかっていると思うけれど……、私たちの次の任務はこのシェルターの警備よ。問題の異界人を探し出して排除することじゃないわ」
確認するように投げかけられた言葉に、ハルマは頷き返す。
「わかってる。……俺ももうれっきとした軍人なんだ。私情を挟んだりしないさ」
リーナたちにそう答えつつも、本音を言えば今すぐにも地下施設を駆け回って問題の異界人を見つけ出し、殺したいと思う。それだけの憎しみが自身の中にあることをハルマは理解しているし、それを否定するつもりもない。
ハルマにとって人外は殺すべき敵でしかない。あの《太平洋の惨劇》において、卑怯な奇襲により尊敬する父を殺した仇なのだから。
そんなハルマの内にある人外や《異界》に対する憎悪を彼らはよく理解している。だからこうして心配してくれているのだ。そして、自分のそんな感情を理由に避難民の警護を放り出すことなどあってはならないと、ハルマ自身も重々承知している。
ハルマは一度大きく深呼吸し、自身の中で燃え滾る憎しみに蓋をした。安心させるように仲間たちに微笑みかける。
「それじゃあ、警備がてらこの中を巡回することにしよう。そのネコの飼い主探しもしないとな」
ようやく安心した様子を見せた三人に背を向けて、歩き出すハルマ。その瞬間に浮かべていた微笑みは消え、その瞳に冷たい光が宿る。
「(けれどもし……もし、人外が第四格納庫に行かずに俺の前に現れるようなことがあったら――)」
そうなればハルマにとっては、願ったり叶ったりだ。
ハルマは迷わずに異界人へと銃口を向けて引き金を引くだろう。それは敬愛する父を奪ったモノたちへの復讐の第一歩なのだから。
少年の秘める仄暗い殺意に、彼の後ろを歩く仲間たちですらも気づくことはない。
ただ、一匹の黒ネコだけがその後ろ姿をじっと見つめていた。
***
至る所にシートが敷き詰められたシェルターの中を、間を縫うように歩いて回る。シェルターに逃げ込んでいる人々の中には士官学校の後輩や馴染みの食堂で働いていた顔見知りの店員なども散見された。そんな彼らの無事に安堵しつつ、黒ネコの飼い主を探して回る。
実際に近くでその表情を目にしたり時折会話を交わせばわかってくることだが、やはり避難してきている人々の不安は大きい。
全世界に目を向ければ一部地域ではそれこそ日常的にアンノウンの出現などが確認されているという話ではあるが、この人工島は幸運にもこの十年近い期間、一度もアンノウンによる被害を受けていなかった。そのためこの人工島で暮らしてきた人々にとって、アンノウンの出現は身近なものではない。アンノウンの襲撃の経験を持たない人間の方が多く、心構えもできていない。今まで享受してきた幸運が、ここにきて不安を大きくする原因となっているのだ。
それは決して避難民に限ったことではなく、新兵であるハルマたちや前線での戦闘経験のない軍人たちも現在の状況にかなりの緊張と不安を抱えている状態だ。事実、現在はなんとか機能しているものの、襲撃直後の指揮系統の乱れは相当なものだった。ハルマたちもひとまずシェルターに避難するのが精一杯で、指揮系統が機能するまでは何もできなかった。
「(そう考えると、やっぱり兄さんはすげぇな……)」
ハルマとナツミの兄、アキト。彼は今、卒業式典でこの島を訪れていた人類軍最高司令官のクリストファーや他の上層部の人々と共に、この場の指揮を執っている。
アキトは非常に優秀で、人類軍内でも若くしてかなりの地位についている。そして、早くにこの世を去ってしまった母と六年前に他界してしまった父に代わりハルマとナツミを守ってくれた尊敬できる兄だ。
今回、任務の関係でこの島に訪れると聞いてナツミと共に会えることを楽しみにしていたところでのこの騒ぎでまだ顔を合わせることもできていない。少しでも早く事態が収束し、家族水入らずで過ごせることを願うばかりだ。
逃走中の異界人という問題はあるが、優秀なアキトや人類軍の重役が指揮を執っているのだ。異界人の排除もアンノウンへの対処も、きっとそう時間を待たずに終わるに違いない。
「うーん……全然見つからないね、飼い主」
困ったように頭を掻きながらナツミがぼやく。黒ネコを抱えているレイスも同じような表情で唸っている。
かれこれ三〇分ほど黒ネコの飼い主を探して回っている一行だが、未だ手がかりは何もないままだった。飼い主本人をピンポイントで発見できるとは最初から考えていない。少し聞いて回ればペット探しをしている人物の情報くらいは見つけられると思っていたのだが、そういった話すらも出てこないのだ。
「そもそもこのシェルターの避難民のペットじゃないってことじゃないか?」
「でも、いくらネコとはいえ別のシェルターから逃げてきてあの辺りをうろついてるかしら? ……あそこに来る前に誰かに見つけられてそうなものだけど」
黒ネコを発見した通路はこのシェルターに最も近い通路であり、一方で他のシェルターからはかなりの距離がある。他のシェルターから抜け出してきたとすればハルマたちと遭遇する前に他の運搬担当の新兵と遭遇していそうなものであるし、あの人懐っこさであれば彼らに遭遇した時に大人しく捕まらずに逃げたとも考えにくいように思う。
やはりこのシェルターからきたものと考えるのが自然だが、だとすれば何故見つからないのだろう。
「とりあえずもう少し探してみて、見つからなかったら諦めて――」
不自然に途切れたナツミの言葉にどうしたのかと彼女を見れば、あらぬ方向を見て動きを止めている。
「ナツミ? どうしたんだ?」
「……何か、聞こえない?」
何か、と話すナツミの視線の先にあるのはこのシェルターで最も大きなゲートだ。
車両はもちろん機動鎧も通過できるように設計されているので、高さ十メートル、横幅も七メートルはあり、その先は外へと続いている。
――――ォォン
警戒を露わにゲートの方を見つめているナツミに倣ってそれを見つめていたハルマの耳がわずかに反響する音を拾った。それはどこか遠く、微かで、少なくともシェルター内で発生した音ではないと確信できた。そう考えればゲートの先が音源である可能性は高くなる。
「兄さん、今の……」
「ああ。俺にも今のは聞こえた」
ナツミの言葉に今の音が聞き間違えではないらしいと判断する。リーナとレイスには問題の音は聞こえなかったようだが、ハルマたちの様子から音が実際にしたのだと判断してくれたようだ。
四人で一度頷き合ってからゲートへと近づく。
巨大なゲートなのでそばに立ってしまうと全体を視界に収めることはできない。外部と直接つながる出入り口であるということもあり、ゲート前には何も置かれていないようだ。
「この先から反響するような音がしたんだとしたら……」
リーナはあえて言葉にしなかったが、もしもそうだとしたら非常によろしくない。
このゲートの先は地下通路が続き、最終的に地上につながる。地上とつながる出入り口には分厚い装甲の扉があり、ミサイルにも耐えられる強度を誇っている。そして現在、その装甲の扉が地上のアンノウンが地下へ侵入するのを阻んでいるはずだ。
現在も地上ではアンノウンたちが闊歩しているはずではあるが、仮に地上でアンノウンが吠えるなどしたとしても、分厚い装甲とコンクリートで覆われた地下シェルターにその音が届くことはない。
しかし今しがたハルマとナツミは音らしきものを聞いてしまった。それも反響したような音を、だ。
もしもその音が地下通路の中で反響したものだったとすれば、それは――。
――オオオオオオオ
突如として地下シェルターに響き渡った、獣の咆哮らしきもの。若干くぐもったその音の出所は紛れもなく目の前のゲートの先だ。
「リーナ、ナツミ」
「わかったわ」
名前を呼ぶだけで意図を汲んでくれた二人は静かに、しかし迅速に監督をしている兵士たちの下へと向かう。
地下シェルターの中にいる全員に聞こえてしまったであろう先程の咆哮により避難民は総じて不安気にしているが、幸いまだパニックにはなっていない。恐らくシェルターの強度を信じているからだろう。
今の内に避難誘導ができれば最低限の混乱で避難を進めることができるはずだ。
「(それまで地下通路で足止めできれば……)」
咆哮が地下通路に反響して聞こえてきている以上、恐らくアンノウンはすでに地下通路内まで侵入しているだろうが、地下通路内にはアンノウン対策として隔壁が何重にも存在している。アンノウンの反応を検知することで隔壁が閉まるはずなので、それによってここへ到達するまでの時間稼ぎはできるはずだ。
そう、確かにアンノウンはこのシェルターへと接近してきているだろうが、すぐにこの場に侵入してくるわけではない。自身にそう言い聞かせつつ、目を閉じて一度大きく息を吐いた。そうすることで早くなっていた心臓の鼓動が少し落ち着く。
それから目を開けば、自身の正面に立つレイスの手元――彼が抱き抱えている黒ネコがじっとゲートを見つめていることに気づいた。
その視線は非常に鋭く、一目で強い警戒心が伝わってくる。一瞬ひやりとするほどの鋭さはネコらしからぬものに見えた。そして突然身をよじった黒ネコはレイスの腕から逃れ、地面に降り立つと共に毛を逆立てゲートに向かって激しく威嚇を始める。
そして次の瞬間、ハルマの背後のゲートは轟音と共に大きく揺れた。
突然の事態に驚きつつ、レイスと共にゲートから距離を取り、同じくゲートから離れた黒ネコが威嚇を続ける中、ゲートを見やる。
断続的に響く轟音はまさしく外側からゲートの扉を破壊しようと攻撃しているものに違いない。しかし、早すぎる。
「こんなあっさり隔壁を全部突破してきたっていうのかよ⁉」
最低でも十枚以上の隔壁が地下通路にはあったはずなのだ。それらはそう易々と破壊できるような強度のものではないがずなのだが、こうして目の前の扉が攻撃を受けている時点で破られてしまったと判断する他ない。
しかも最悪なことに、ハルマとレイスの後ろでは今まさに大パニックが起きている。このような状況では迅速な避難なんて不可能だ。この調子ではゲートの扉が破られる方が避難よりも確実に先になる。
「……くそっ‼」
悪態をつきながら制服の上着に隠していた拳銃を手に取り、構える。
こんな銃では小型アンノウンの一体も殺すことなどできないのはわかっている。しかし今のハルマにできることはこれだけだ。後ろで避難民がパニックを起こしている以上、逃げようにも逃げられない。そもそもハルマには避難民を見捨てて逃げるなどという考えはない。
「レイス、逃げられそうなら逃げろ」
「……どう考えたって無理だよ。それにハルマを置いて逃げる気はないさ」
ハルマと同じく拳銃を構えたレイスが隣で微笑む。しかしその顔に色はなく、微笑み自体も無理をしているのが明らかなものだった。そういった状況についてはきっとハルマとて同じなのだろう。どう考えても、ふたりが生き残る未来は絶望的なのだから。
響く一際大きな轟音と共に、扉の中心辺りが大きくこちら側に盛り上がった。そうして扉が歪んだことで、扉の中央に一メートル強の隙間ができる。そしてその隙間からギラリと赤い瞳が覗いた。
その赤い瞳の主が飛び出してくるのとハルマが引き金を引くのはほぼ同時だった。
飛び出してきたオオカミのようなアンノウンの身体に弾丸は命中したが、効いた様子は欠片もない。そのままジグザグに走ってハルマとレイスの射撃を躱しつつ接近してきたアンノウンは最後に大きく飛び上がり、ハルマへと迫る。
血のように赤い瞳をギラギラと輝かせ、鋭い牙と爪でアンノウンはハルマを狙う。牙と爪のどちらを受けてもハルマの命はないだろう。自身に迫る死をただただ見つめるハルマ。その視界の端で黒い影が動いた。
「(黒ネコ?)」
つい先程出会ったばかりの小さな黒ネコはアンノウンに真っ向から挑むように飛びかかる。どう見ても勝ち目のない、無謀としか思えないその行為の最中、小さな身体が突如として膨れ上がった。
自身の目を疑う光景に目を見開くハルマをよそに、膨れ上がった黒いシルエットは気がつけば白に変わり、白に変わったシルエットはネコの形から人の形へと変わる。人の形へと変わりきったシルエットは空中でくるりと前方に向けて一回転し――
「だらりゃああ‼」
雄々しい掛け声と共に、組んだ両手を回転の勢いのままハンマーのようにアンノウンの頭部に叩きつけた。その一撃を受けたアンノウンは激しく地面に叩きつけられ、そのまま動きを止める。
そしてアンノウンを見事倒した黒ネコだったものは軽やかに地面に着地した。改めて目にしたその存在は、白い拘束衣を纏い少し長めの黒髪を着地の際にふわりと揺らした。
その姿は紛れもなく先程兵士から聞いた逃走中の異界人のものに違いない。黒ネコから現在の姿に変化したことも、目の前にいるのが人外である証拠として十分なものだ。
ハルマが殺したくて仕方のなかった、父の仇たる人ならざるもの。
しかしそれを前にしてもハルマはその手に持つ拳銃を向けることはできなかった。
目の前にいるのが情報通りの人外である以上に、黒ネコから人の姿に変わるというありえないことをやってのけた存在である以上に、ハルマは目の前にいる人物を知っている。
扉にできた隙間からの風で揺れる黒髪を、隙間から覗く無数の赤い瞳を前にしても平然としているその背中を、知り過ぎている。
「……シオン?」
やっと口に出すことができた名前に、目の前に立つ人物は顔だけをこちらに向ける。黒髪の隙間から覗く幼さを残した顔はハルマにとってあまりにも見慣れたものだった。
「シオン……お前は……」
ハルマは自ら核心を口にすることをためらう。それを口にしてしまうことは、認めてしまうことは、少年にとってあまりにも辛すぎた。そんなハルマから目を背け、シオンは彼に背を向ける。
「俺は……人間から見ればバケモノさ」
背を向けたまま、シオンはハルマが避けようとした真実をためらいなく口にした。そこには何の感情もなく、ただ事実を口にしただけかのように淡々した口調だった。
そんなシオンの、まるでどうでもいいとでも言いたげな態度にハルマの中で沸々と怒りが湧き上がる。
「それじゃあ、お前はずっと俺たちを騙してたってことなのか⁉」
怒りのまま、叫ぶように問う。
三年間、同じクラスで学んできた。共に笑いあった。時には馬鹿らしいことを共にしたこともあれば、士官学校の厳しい課題を協力し合って乗り越えたこともあった。
全てを理解しあった親友とまで言うつもりはない。それでも近しい友人なのだと、そう思っていた。だからこそハルマは隠すことなく自身のことを見せてきた。
故に、シオンもまたハルマの思いを――人外への憎しみを知る友人のひとりだった。それを知っていてなお、彼はハルマから離れることも真実を明かすこともなく友人としてあり続けた。
「俺の思いの全部を知ってて……それでお前はどういうつもりだったんだよ⁉」
再び叫び、問いを投げかけるハルマに対し、シオンは背を向けたまま何の反応も示さない。そしてそのまま、何も答えることなくゲートへと足を踏み出した。
ハルマの問いかけが聞こえなかったはずはない。それなのにまるで何も聞こえなかったかのように、まるで見えてもいないかのように自身から離れていくシオン。そんなこちらになんの関心も示さないシオンの行動に対し、憤りのままにハルマは彼の名を叫ぶ。
怒りに震えるハルマの叫びを背に受けながらも、シオンの歩みが止まることはなかった。