8章-月の下、砂浜にて②-
「シオン、少し話をしよう」
少しの間笑ってからアキトはシオンにそう告げた。
唐突すぎる言葉に彼はほんの少しだけ驚いた素振りを見せてから、「はい」と冷静に応じる。
それを確認してからアキトは誰もいない砂浜に腰を下ろし、シオンもまたそのすぐ隣に足を投げ出すように腰掛けた。
「さてさて、アキトさんは何を話したいんですか?」
「茶化すな。一応は真面目な話なんだ」
二〇センチも離れていない距離からアキトを見上げるシオンはイタズラを思いついた子供のような顔でこちらを見つめている。
それを嗜めつつ、アキトは言葉を選ぶために少しの間だけ目を閉じた。
「……お前は、俺にどうしてほしい?」
口から出てきた問いは非常にシンプルだった。
ただ、シオンがアキトに対して何を求めているのかをアキトはまず知りたい。
「どうしてほしい、か……。ふわっとしてて答えにくいですね」
「できるだけシンプルな言葉で答えてくれ。お前の本音を、俺は知りたいんだ」
目の前の少年は頭の回転が早く、ひねくれ者だ。
たくさんの言葉を並べられたら、きっとその中に本当の思いを隠して、誤魔化して、アキトは煙にまかれてしまう。
「注文が多いですね」なんて笑いながらシオンは少しだけ考え、目の前に広がる海へと目を向けた。
「おいていかないでほしい」
静かに、シオンはそんな言葉をこぼした。
「できるだけ幸せに、穏やかに、笑顔を浮かべながら生き抜いてほしい」
「…………」
「本音を言えばずっと生きてほしいけど、それは無理だから。少しでも長く、せめて天寿を全うするその時までは、この世界から消えないで」
投げ出していた足を抱え込み、その膝に額をつける。
元より小さなその体が、いつも以上に小さく頼りないものに思えた。
「これが、俺の本音。大切なものを守りたいっていう綺麗な願いの底にある自分勝手なワガママ。俺はもう二度と、おいていかれたくない」
――だって、それはすごく苦しいから
シオンは消えてしまいそうな小さな声で、最後にそう呟いた。
シオンが口を噤んでしまった暗い砂浜に、ただ波の音だけが規則的に響く。
「(……そうか。コイツはただ失いたくないだけなのか)」
シオン・イースタルはかつて突然のテロによって故郷を、両親を、近しい人々を全て失った。
いくら普段飄々としていても、超常的な力を持っていようとも、当時まだ六つかそこらだった少年がそれに何も感じないはずなどありえない。
だから、大切なものが自分の前から消えてしまうのを恐れている。
別れがいつか必ず訪れるものだとしても、せめて少しでも先延ばしにしたいと願っている。
「(“誰よりも先に死にたい”のも、そういうことなんだろうな)」
大切な誰かと死別するくらいなら、失う痛みを再び味わうくらいなら。自身が先に消えてしまいたい。
そうすれば少なくともシオン自身が失う痛みを味わうことはないのだから。
だからシオンは自分自身の身を顧みない。
大切なもののためにためらうことなくその身を犠牲にすることができる。
彼にとっては、自分の死よりも愛する者の死の方が遥かに恐ろしいのだから。
「(……俺は、コイツに何をしてやれるだろう)」
あの日の言葉の意味はアキトにも理解できた。
彼がそのような考えを持つに至った経緯も推測できている。
けれど、それだけだ。
シオンの過去を変えることなどできない。
トラウマと呼ぶにふさわしい痛みの記憶を取り除く術はない。
そもそもここまでの言葉は、シオンの願いなのだ。
アキトに、大切な全ての相手に対してシオンが願うこと。
そのためであれば自分の命すらも投げ出せるほどの強い想い。
きっと肯定されようとも、否定されようともシオンの在り方は変わらない。変えられない。
よく言えば“信念”や“覚悟”、悪く言うのであれば“呪い”とも呼べる代物だ。
「(それなら、せめて俺は――)」
そっと隣の座るシオンへと手を伸ばし、その小さな頭に触れる。
意識して優しく、熱を分け与えるように夜の闇と同じ色の髪を撫でてやる。
「お前の気持ちを正しく理解できたとは思わねえ。……俺はお前みたいに何もかもを失ったことなんてないからな」
アキトもシオンと同じように両親を亡くしている。
けれどそれはアキトの周囲を取り巻く全てではなく、血のつながった家族も、家族同然の従者も、心を許せる友人もいた。
そんなアキトがシオンの痛みを理解することなどできないし、自分を捨ててまでアキトたちを守ろうとする在り方を認めることもできない。
「それでも、お前は本音を言葉にしてくれたから。俺は少しでもそれに応えたい」
秘められていた願いは今、言葉にされた。
目の前の少年が本当の想いをアキトにぶつけてくれた。
それならば、ひとりの大人として、シオンに恩のある者として、そして何よりシオンを大切な存在だと思う者として、それに応えたい。
「約束する。俺は絶対にお前より先に死なない」
アキトの宣言にシオンは弾かれたように顔を上げてこちらを見た。
こぼれ落ちそうなほどに見開かれた瞳を前に、アキトは目をそらさずに向かい合う。
「これからも〈ミストルテイン〉は戦っていかなけりゃならない。それは変えられないし、変えるつもりもない。それでも、死に急ぐことだけはしないって約束する」
戦いを避け続けることは決してできはしない。
状況次第で危険な賭けをしなければならないこともあるだろう。
それでもアキトは、シオンより先に死なないと誓う。
「お前をおいていかないために、俺にできる全部で生き抜いてやる」
「……それ、無茶苦茶言ってるのわかってます?」
この世に絶対なんてものはない。
しかもアキトたちがいるのは戦場だ。ほんの小さなミスで命を落とすのが当たり前の場所で、アキトは絶対に死なないと言い張っている。
普通に考えて無理でしかないことをアキトは堂々と宣言してみせたのだ。シオンも驚くに決まっている。
それでもアキトは揺らがない。
「もちろん。それでも生き抜いてやるって言ってんだよ」
「それ、根拠もクソもないですよね?」
「ああ。でも、できないって根拠だってないはずだ」
この世に絶対はないのだから、“絶対にできない”もまた成立しない。
そんなアキトの詭弁にシオンは一瞬ポカンとしてから、「そりゃそうだ」と笑った。
「アキトさんって、そんな無茶言うんですね」
「まあな」
「……でも、そっか。約束してくれるんだ」
噛み締めるように「約束、か」と呟いてからアキトの方を向いた。
「どう考えたって無理だろって思うし、この人なんかやべえこと言い出したなってちょっと不安になったりもしてますが――、」
「オイ」
「でも、嬉しいです」
嬉しいのだと言って見せた笑みは、これまで見てきたものとどこか違っているように思えた。
決して普段のような明るいものではない。静かで控えめなものなのだが、不思議とそこに秘められた喜びがこちらに伝わってくるような、そんな微笑みだった。
「うん、嬉しいです。だから、普段だったら絶対信じないけど、その無茶な約束信じちゃおうと思います」
「よっと!」と声を出しつつ立ち上がったシオン。
それに倣ってアキトも立ち上がり、改めてふたり向かい合う。
「俺、これでも神様なので。もしも神様との約束破ったらそれなりに酷い目に遭うんだってことは忘れないでくださいね」
「安心しろ、破るつもりはかけらもねえよ」
「ふーん、そーですか」
くるりとアキトに背を向けて歩き出したシオンだが、その足取りは何やら軽く、わずかにスキップしているようにも見える。
その姿を前に、この数日心の内にあったモヤモヤが消えていくのを感じた。
「とりあえず、休暇が終わったら俺にはちゃんと封印術教えろよ」
「まあいいでしょう。死なないでくれるらしいですしー」
そんな軽口を交わしながら、ふたりはホテルへの道のりを軽快に歩んでいくのだった。




