8章-戯れビーチサイド④-
「離さないでくださいね? 離さないでくださいね?」
「わかってるって! ほらやるぞ」
いっそ振りなのではないかと思うほど必死にギルに声をかけているガブリエラを横目に、シオンは影の中から取り出した大きめの浮き輪に乗っかってぷかぷかと浮かんでいた。
水位としてはせいぜい腰の高さくらいなのだが、それでもカナヅチであるガブリエラにとってはそれなりに怖いものらしい。
ファフニール相手にも怯む様子なんて見せなかった勇ましい彼女の反応としてはなかなか意外だった。
ギルに両手を持ってもらったガブリエラがそのままバタ足を始める。
まるで小さな子供のような練習風景ではあるが、その様子自体に危なげはなくガブリエラが沈むような様子はない。
泳げないこと自体が予想外過ぎたこともあって、もしかするとシオンたちの理解を超えたカナヅチっぷりと見せつけられるのではとこっそり魔法での救助の準備をしていたシオンの心配は杞憂で終わったようだ。
「やっぱり飲み込みいいな!」
「そうでしょうか?」
「んー、少なくとも小さい頃の俺よりは飲み込み早いと思う。ってわけでほら」
シオンはひょいと影から取り出した板状のものをガブリエラに差し出す。
「これは?」
「ビート板。まあ要するに泳ぎの練習の補助アイテム」
「ちょうどいいや、今度は俺の手の代わりにそれ持ってちょっとひとりで泳いでみようぜ」
じゃぶじゃぶと水をかき分けてギルが五メートルほどガブリエラから距離を取った。
「それじゃあ、ビート板使ってこっちまでバタ足で泳いできてみろよー!」
ぶんぶんと激しく手を振るギルを見て「あれで曲がりなりにも社会人か……?」と内心呆れていたシオンだが、ガブリエラが何も動きを見せないことに気づく。
「ガブリエラ?」
「えっと、あの……ひとりで泳ぐんです、よね」
「うん。……ビート板が浮くし、足つく水位だから大丈夫だと思うけど、不安?」
シオンの問いにガブリエラが少し迷ってから頷く。
先程バタ足できていたことを思うとそこまで不安がらなくてもいいのではと思うのだが……。
これは一度話をちゃんと聞いた方がいいかもしれない。
そう考えたシオンは離れた位置で不思議そうにしているギルを手招きして呼び戻す。
「ガブリエラ、もしかしてさっきのバタ足でどっか痛めたりしたのか?」
戻ってきて早々ガブリエラを心配し始めたギルだが、ガブリエラは慌てたようにそれに首を横に振った。
「そういうことはありません! 体調は万全ですから!」
「となると……気持ち的に万全じゃない?」
シオンがガブリエラの返答の裏を指摘すれば、図星だったのか彼女はこくりと頷いた。
「……もしかして、泳ぎなんて覚えたくないのに俺に気を遣ってくれたのか?」
「いえ! そうじゃないです! 泳げるようになりたいというのは本当ですから」
確かに「泳ぎを教える」というギルの提案に目を輝かせていたガブリエラの態度におかしなところはなかった。あの反応にウソはないだろう。
「……こういう聞き方するとアレなんだけどさ、ガブリエラとしてはどこらへんが不安なのかな? 無神経かもしれないんだけど、ビート板もあるし、足もつく水位だし、仮に俺たちが泳げなかったとしてもそこまで不安がらないと思うんだけど……」
さらに言えば泳いでみようという距離は五メートル程度でしかなく、何かあったとしても五秒とかからずガブリエラを助けに入れる位置にシオンとギルがいる。
幼稚園や小学校の子供だったとしても、きっと大多数は彼女ほど怯えはしない。
ただ、それは言ってしまえば人間の価値観によるものだ。
“天族”の価値観と一致するとは限らない。
シオンは今のガブリエラの不安の原因がそこにあると睨んだのだ。
「その、これは少々時代遅れな考え方なのかもしれないのですが……」
「気にしなくていいよ。人外界隈だと結構あるし」
不安そうに前置きをしたガブリエラに意識して優しく応えてやる。そのかいもあってかガブリエラが少しホッとしたような表情を浮かべた。
「私たち“天族”は太古の神々により使い魔として生み出された、という話はいぜんしましたよね」
「んー、確かに聞いた気がするな」
「その際、私たちの祖先を生み出した神々は主に天に住う神々であったとされています。そういった事情もあり、“天族”は名前の通り天空を領分とする種族なんです」
ガブリエラの話を聞いて、だんだん話が読めてきた。
「つまり……空を縄張りにしてる“天族”が海に入ること自体好ましくない。みたいな考え方があったりする?」
「そうなんです」
頷くガブリエラの表情はやや暗い。
「全ての神々がそうというわけではないですが、自らの勢力圏を脅かされることを嫌う神も少なくはありません。ですので、天空の住民である私たちが海に不用意に立ち入り過ぎると……」
「「立ち入りすぎると?」」
「海に住う神々に海の底へと引きずり込まれ、二度と戻れない。そんな内容の御伽噺や伝承がいくつか……」
ガブリエラの説明にシオンとギルは顔を見合わせる。
「泳いでみたい」という意思があるのは間違いないので、ガブリエラ自身その古い伝承を信じ込んでいるわけではないのだろう。
だが、いくら信じて無かろうが生まれてから常識として聞かされてきていたことを全く気にしないというのは難しい。
最初からやけに不安げだとは思っていたが、そういう事情があったわけだ。
「俺の手握ってる時は大丈夫だったけど?」
「“天族”の事情と無関係なギルなら神罰の対象にはなりませんし、万が一私が引きずり込まれそうになっても離さず助けてくれると思いまして……」
「つまり、一人っきりで泳ぐのは不安なのか」
ひとりで泳いでいるところを引きずり込まれるようなことがあれば泳げないガブリエラではひとたまりもない。
しかも相手が神の類となるとそれこそ一秒の隙もあるかどうかわからない。
だからシオンとギルの手が触れていない状況で泳ぐのは抵抗があるのだろう。
「そういうのってあるんだなー」
「まあ、日本でも盆の海には入っちゃだめなんて言うしね」
海という場所には神話や伝説の類が豊富に存在する。
人間が簡単に立ち入れない未知の場所だからこそそういった神秘があると信じられてきたからだ。
それに実際問題、海に暮らす人外は少なくない。
人間がやってこない場所というのは人外にとってとても都合がいいのだ。
「とにかく、ガブリエラが自信を持てるまでは補助あり確定だね」
「だなー。じゃあまた俺が手ぇ握ってやるよ」
不安そうなガブリエラの手を再びギルが握ってやり、水泳教室は再開された。




