7章-≪月の神子≫の異変-
――誰かが泣いている。
下手をすれば聞き逃してしまいそうな小さな小さな泣き声をBGMに暗転していた視界がゆっくりと明るくなっていく。
気づけばシオンは【月影の神域】に立っていた。
そしてシオンの正面では最後にここで見たときと比べれば少し成長した様子の男の子が社の階段に座り込むコヨミに縋り付くように泣いている。
「◼️◼️、大丈夫。大丈夫よ……」
やはりなんらかの魔術が使われているのか少年の名前は聞き取れないが、コヨミは優しい声色で慰めるように言い聞かせながら白い手で彼の漆黒の髪を柔らかく撫でる。
それでも彼はなかなか泣き止んではくれず、コヨミの胸に顔を埋めたままだ。
「ごめんね、心配かけたわね」
「お、かあさん、急に、」
「ええ、びっくりさせちゃったわよね。でも、本当に大丈夫だから……」
男の子は泣き止む気配がなく言葉も途切れ途切れ。コヨミも彼を慰めるのに必死でシオンには状況が少しも飲み込めない。
わかることと言えば、男の子にとってとても怖い何かが起こってしまったことくらいだ。
今回はコヨミの立場から見るわけではなく、シオンは第三者としてこの場に立つことができている。
おそらく朱月の記憶を覗いたときと同じで目の前の光景に干渉はできないだろうが歩くことも可能らしく、シオンはゆっくりとふたりのそばまで歩みを進めた。
問題の男の子は未だにコヨミにしっかりとしがみついてしまっていて顔が見えない。
名前は無理でもせめて顔が見られれば少しは彼を探す手がかりになるのではと思ったのだが、そうはいかないらしい。
目で見ることができるのは男の子の後ろ姿とそれを困ったように見下ろすコヨミだけだ。
「(……こうやって改めて見てみると、なんで初対面でナツミに似てるって気づかなかったんだろ)」
そう思ってしまうくらいにコヨミはナツミとそっくり――正確に言えばナツミがコヨミの生き写しのようによく似ていた。
言い訳するとすれば雰囲気の差だろうか?
ナツミがまだ少女らしく明るく活発な雰囲気であるのとは対極に、月明かりに照らされているコヨミは穏やかでどこか神秘的な雰囲気を感じさせる。
顔こそ瓜二つに近くとも、雰囲気の違いで与える印象は大きく異なっている。
長くナツミ・ミツルギという少女と近しい距離でかかわってきたからこそ、余計にそのギャップに惑わされたのかもしれない。
「(ナツミももっと大人になればこういう感じの美女になる、のか?)」
外見はともかくこういった大人の落ち着きを彼女が得られるだろうかと考えると、若干首を傾げたくなる。
本人にそんな話をすれば確実に怒りを買うに決まっているが、やはりシオンの中でナツミという少女は活発な印象が強い。
それに、そんなナツミだからこそシオンは彼女を好ましい人間だと思えたのだと思うのだ。
そんなことを考えていたシオンだが、ふとあることに気づいた。
「(コヨミさん、顔色悪い……?)」
月明かりしかないのでここまで気づかなかったが、よく見ればコヨミの顔に血の気があまりない。
色白という言葉では片付けられない色合いからして明らかに健康的な状態ではないだろう。
そこまで考えたシオンは、以前コヨミの身に何か問題が起きているのではないかと玉藻前が気にかけていたのを思い出す。
「(体調崩してるのか?)」
未だにコヨミから離れない男の子の様子からして相当に怖い思いをしたことだけは間違いない。
男の子の様子、明らかな顔色の悪さや、心配をかけたと謝罪しているコヨミの様子から推測するならば、コヨミが体調不良から倒れるくらいの事件は起きていたのかもしれない。
はっきり言って、それは相当に不味い状況だ。
この【月影の神域】はもちろん【禍ツ國】にはコヨミと男の子のふたりしかいない。
コヨミの体調不良に対処できる大人や専門家が存在しないのだ。
「(これがいつ頃の記憶なのかはわからない。最悪ここから悪化の一途を辿ってるんじゃ……)」
最悪のシナリオが頭をよぎる中、周囲の景色が朧げになっていく感覚に襲われる。夢が終わろうとしているのだ。
「(……俺たちが思う以上に、ヤバいことになってるのかもしれない)」
これがただの記憶でしかない以上、ここでシオンにできることなどない。
できるのは玉藻前の嫌な予感が当たってしまったという事実を迅速に伝えることくらいだろう。
その事実に歯痒さを覚えながら、シオンの意識は抗うこともできずにゆっくりと沈んでいくのだった。




