7章-ニセモノの凶兆①-
――それは突然のことだった。
まだ日の出を迎えたばかりの早朝。
北欧のとある片田舎では農園を営む老夫婦が、とある都会では日課のジョギングをしていた若い女性が、とある人類軍基地では見張りを交代したばかりの若い軍人の男性が、同じ時刻にそれを目にした。
前触れは、小さな歌声だったそうだ。
どこからともなく聞こえてきた美しく、どこか現実味のない少女の歌声。
聞き覚えのない言語で紡がれていく歌声がどこから聞こえてくるのだろうと周囲を見回した人々は、ふと見上げた空の異常に気づく。
最初、多くの人は空に淡く光る線が一本あることに気づくだけだった。
しかしよくよく見れば線は決して一本などではなく、見る範囲を広げれば広げるほどにいくつもの線が様々な角度で空に刻まれていることがわかっていく。
目一杯に見渡しても、人の目ではその線の果てを見ることは叶わない。
広大な空に刻まれた淡く光る幾何学的な紋様。
自然現象であるはずもなく、かと言って人の為せることではないと一目でわかるそれを前に人々はすぐにひとつの結論に至る。
――人類の敵である人ならざるものたちの仕業に違いない、と
『――本日未明。北欧の国々の上空に謎の巨大な円形の紋様が出現しました』
モニターに映るニュース番組ではスタジオにいる女性アナウンサーが深刻な表情でそう語り出している。
『問題の紋様の直径は推定一〇〇〇キロメートルとされ、北欧の複数の国家を跨ぐほどに巨大なものとなります。……紋様が出現した原因は未だわかっておらず、北欧の国々も人々の間では不安が広がっています』
続いて映像は現地の取材に向かった男性アナウンサーのものへと切り替わった。
『現地での取材によりますと、問題の紋様の出現時に活動していた人々は一様に少女のものと思われる歌声を耳にしたと証言しているとのことです。また、問題の歌は聞いたことのない言語で歌われていたらしく、人々の間では【異界】の人ならざるものの歌声なのではというウワサが広がりつつあります』
再び映像が切り替わり、今度はリュックやスーツケースを抱えた人々や渋滞している道路などの様子が変わるがわる映し出されていく。
『現時点で北欧各国の政府や人類軍から避難指示は出されていませんが、不安を覚えた人々の自主避難の動きが高まっています。……現場からは以上です』
再び女性アナウンサーのいるスタジオに画面が戻ったところで、シオンはモニターの電源を切った。
「予定通り、効果覿面って感じですね」
「まあそうではあるが、ここまでやるとは思っていなかったぞ」
〈ミストルテイン〉の艦長室にて、シオンは満足気に微笑み、アキトは眉間にシワを寄せて頭を抱えていた。
そんなふたりの温度差にミスティやアンナもなんとも言えない表情を浮かべている。ちなみにふたりにはシオンがアキトの承認のもとでルリアと交わした契約のことは説明済みである。
「……避難を促せているのは事実ですが、これはこれでパニックによるケガ人がでてしまうのでは?」
「かもしれませんけど、魔物堕ちに食べられたり踏み潰されたり燃やされたりするよりはずいぶんとマシでしょう?」
ミスティの指摘に対してそう返せば、不満そうな表情こそ崩さないが彼女は口を閉じた。民間人の死とケガを天秤にかけられれば後者を選ぶしかないのは言うまでもない。
「にしても、これを頼んだの昨日の夕方なんでしょ? それで今日の明け方にはやってくれるなんてすごいわね」
「ルリアは仕事はきっちりこなすし、やるべきことはさっさとやるタイプですからね。教官だってなんとなく覚えあるでしょ?」
「あー、確かに。レポートとか翌日に出してくるような子だったわね」
金銭にうるさい彼女の座右の銘の中にはもちろん“時は金なり”という言葉も含まれている。
レポートなど一秒でも早く終わらせて、その分できた時間をアルバイトや他の金策に回したい、というのがルリアという人間の思考パターンである。
「細かい部分は結構おまかせって感じにしちゃってたんですけど、巨大魔法陣に謎の少女の歌声とはなかなか凝った演出してくれてますね」
ニュースなどでの明言はなかったが、ある程度ファンタジー小説や映画などのエンターテインメントに触れたことがあれば魔法陣という概念は知っている。
大昔ならともかくテレビやインターネットといったものを誰でも気軽に楽しむ現代であれば、それこそ老若男女が知っていてもおかしくはないだろう。
そして魔法陣という概念を理解していれば自然とそれを描いたのは人ならざるものたちであるという考えに行き着く。
加えて歌声を聞かせたというのも大きい。
歌声を聞かせることであの魔法陣は何者かが明確な意図を持って生み出したものであるということを知らしめたのだ。
本来であればあの魔法陣を空に刻むのは深夜のほうが都合がよかったはずであるし、歌声なんてものも必要はなかったはずだ。
さすがにあれほど巨大な幻を作り出すのには遠隔操作というのは難しい。
おそらくは魔法陣の中心あたりでルリア本人が魔術を行使する必要があったことを思えば、夜の闇に包まれているのに加え大半の人間が寝静まっていて目撃されるリスクが最も低い深夜が理想だ。
にもかかわらずわざわざ日の出や早起きな人々が動き出すのを待ち、しかも必要のはいはずの歌声なんてものまで披露したあたり、全て狙ってやったことなのだろう。
「アンノウンなんて割とみんな慣れちゃってて少し危機感薄いし、あえてまだわからないことだらけの【異界】のほうが原因だと思わせにかかったってとこですかね」
「戦略としては確かに合理的だな……」
そんなアキトの言葉からは「しかしやりすぎだ」という気持ちが如実に感じられた。
確かにシオンから見ても予想よりもずいぶんと派手な演出になってしまってはいる。
ただ、アキトの胃には少し申し訳ないが派手であれば派手であるほど良いというのがシオンの考えだ。
「(多少ケガ人が出ようが、ひとりでも多く避難してるのが一番だしね)」
魔物堕ちの出現までにどれだけ時間が残されているかはわからない。
下手すれば今この瞬間に現れるかもしれないことを思えば、大袈裟にやって一秒でも早く自主避難を決意させるべきなのだ。
「あとは、国や人類軍が早めに避難指示出してくれるといいんだけどね」
「そうですね。やっぱり自主避難だけだと効率も悪いですし……」
自主避難となると交通機関のチケットの奪い合いや、道路の渋滞、国境を越える際の手続きがパンクするなどの事情から効率が悪すぎてその分避難に時間がかかる。
国や人類軍が少しでも早く腰を上げてその辺りの統制を取ってくれることを祈るばかりだ。




