1章-地獄と成り果てたどこかで-
――熱い。
夜の闇の中をゆらゆらと燃え盛る赤い炎。
ぱちぱちと音を立てながら焼け落ちていく様々なものの残骸。
辺りに立ち込める煙と熱は、まさに命を奪わんとしているようだ。
「ここは、あそこじゃないのか」
いつか見た、あまりにも現実感のない地獄のような世界。
しかしここの風景はあそこのように角ひとつ曲がるたびに見える風景が変わるようなおかしな世界ではない。
視界は広く、建造物は決して多くはない。
もしもこうして炎に包まれていなかったら、のどかな田舎町の風景が広がっていたことだろう。
否、実際にここはそういう場所だったのだ。
「なぁるほどなあ」
ねっとりと愉快そうな声に振り返れば、残骸のひとつに腰かけた朱月がニヤニヤとこちらを見ている。
「……なんでお前がいる」
「別におかしかないだろ。契約で結びついてる以上互いの意識には潜り込める」
「潜り込むかどうかはお前の意志の問題だと思うんだけど」
「……カカカ」
シオンの冷たい眼差しに対して笑ってごまかそうとする朱月。
この鬼に何を言っても無駄だとシオンは改めて胸に刻んだ。
「(でも、こいつが入りこめないあたりあの夢はやっぱり特殊なのか)」
あの女性に導かれた月下の社のことを朱月は知らない。
思えばあの時、シオンの意識がどこか別の場所へ行っていたと朱月は口にしていた。
異能の力があれば夢への出入り自体は難しくないだろうが、契約のように特別な繋がりのない相手の意識を呼び込むというのは少なくともシオンの知る魔法の中にはない。
そこいらの人間の仕業という訳ではなさそうだ。
謎の女性について考えを巡らせるシオンだったが、自身に向けられるニヤニヤとした視線に気づいた。
「なんだよ」
「い~や。ちょいとばかしお前のことが見えてきたと思ってなあ?」
そう言って腰を上げた朱月は愉しそうに笑いながら舞い踊るように大袈裟に腕を広げた。
「なかなか大層な地獄を味わってるじゃねえか! 肝が据わったガキだとは思ってたが、これなら合点もいくってもんだ」
燃え盛る世界を背景に満面の笑みで笑う姿はアンバランスで恐ろしくもある。
これこそが、鬼というものなのだと見せつけるかのようだ。
ただ、シオンにとってそれはとても不愉快だ。
「それで、ここでお前はいったい何を――」
なおも言葉を続けようとする朱月の小さな体に、突如として地面から湧き出した影が纏わりつく。
まるで意志を持った蛇のような無数の黒い影は瞬く間に朱月の体を腕ひとつ動かせないくらいにまで縛り上げる。
その影の出所は、他でもないシオン自身の影だ。
「人様の夢に勝手に忍び込んだあげく好き勝手騒ぐとか、ちょっと礼儀がなってないんじゃないか?」
絡みついた影はほんの少しずつだが朱月の身を縛り上げる力を強くしていく。このまま時間が経てば、幼い子供の姿の朱月の体くらいは易々とへし折れるだろう。
そんなシオンの本気を察したのか朱月の頬がわずかに引き攣る。
「わかった。降参だ降参、ひとまずは余計なことは言わねえさ」
「ひとまず、ねえ……」
明らかに含みを感じるワードが気にはなるが、それを追求しても煙に巻かれるだけの気もする。
結局は余計な時間をかけるほうが面倒と判断して朱月を縛る影を解いてやった。
「ふぅ……可愛い顔しておっかねえのなんのって」
「余計な口利かないんじゃなかったっけ?」
「へいへい」
拘束を解いた瞬間にこれである。
こういう態度を見ていると、やはりあのままへし折ってしまったほうがよかったのではないかとも思う。
どうせこれは夢の中なので痛みはあっても死んでしまうことはなかっただろう。
「おーい。なんか物騒なこと考えちゃいねえかお前」
「首と言わず全身へし折るか、影で縛ったうえで火あぶりか……」
「ゾッとしねえぞおい」
真顔で文句を言う朱月だが、すぐにまた性格の悪そうな笑みを浮かべ始めた。
「にしてもお前、やっぱり殺しの経験はあるんだなあ」
唐突な朱月の言葉に対してシオンは鋭い視線だけを返す。
何も言葉で伝えることはしない――つまり、否定もしなかった。
「誤魔化さないあたり潔いじゃねえか。まあ、ああも慣れた調子で殺し方が口から出てくるあたりで察しはついてたが……人間相手か人外相手か、どっちにしろひとりふたりでもないか」
「想像に任せるよ」
この鬼はシオンが思っているよりも勘も良ければ頭もいいらしい。余計なことが口にしないほうがいいだろう。
「何、どんだけ殺してようが別にいいじゃねえか。俺様の主ならそのくらいのほうがお似合いだろうしなあ」
「前からそうだけど、お前みたいなのとお似合いとか言われるのわりと嫌なんだけど」
「ひっでぇーやつだなあ」
別に傷ついてもいなさそうな軽い様子で「カカカ」と笑う朱月。
「まあなんだ。俺様は少し安心したぜ」
「安心?」
「シオ坊が甘ちゃんすぎて敵が殺せなかったらどうしようか、ってなあ」
ふわりとその場で浮かび上がった朱月が重力を感じさせない動きでシオンの正面までやってくる。
普段はシオンの腰のあたりに顔があるのだが、浮いている今は目線が同じくらいの高さにあった。
そして他の誰に聞かれるでもないのに、声を潜めて囁く。
「どうも船の中がにおう。俺様好みの物騒なにおいがなあ」
「…………」
「お前が死んだら困るんで忠告してやろうかと思ってたんだが……殺せるだけの度胸は十分あるらしい」
その直後、朱月は霞のように消えた。
気配もないので、この夢からは完全に去って行ったらしい。
「……殺す覚悟、ねえ」
決して消えることのない炎に包まれた地獄。
その中心でシオンはそっと呟く。
「そんなもの、一生持てなくてもよかったのにな」
ひとつ風が吹けばかき消されてしまいそうな微かな声は、朱月すらも知らない。




