4章-月の神子-
ふと目を開けば、シオンの視界には大きな満月と星の輝く夜空が広がっていた。
周囲は静かで、空気は清浄で、優しく吹く風が心地よい。
「(……あれ? でもなんか頭の後ろが柔らかいような?)」
心地よさに身を任せてぼーっとすること十数秒。
地面に仰向けに転がっているにしては自身の頭に角度がついていることと、その頭の下にある温かく柔らかな感触にようやく気がついた。
「あ、目は覚めたかしら?」
真後ろ――シオンの視界としてはちょうど真上からひょっこりと顔を出した女性の顔にぎょっとするが、彼女はのんびりとした調子でシオンのことを覗き込んでいる。
そこでようやく自分が彼女に膝枕されている状態なのだと気づいた。
「えーっと?」
「……えっと?」
状況が飲み込めないシオンと、そんなシオンの反応に首を傾げる女性。
互いになんとも言わないまま意味もなく時間だけ過ぎていく。
「……とりあえず、ありがとうございます?」
「いえいえ、お礼を言われるようなことなんて何もしてないわ」
よくわからないが膝枕されている以上、意識のなかったシオンを介抱してくれていたのだろうと結論づけてお礼を言えば、変わらずのんびりとした調子で答えが返ってくる。
どちらにしろ膝枕されたままで話をするのもなんなのでシオンは体を起こすことにした。
「(目眩、とかはないな。それに体もだるくない)」
少し落ち着けば自分が現在どういった状況にあるのかもおおよそ把握できた。
オボロとの約束を果たし体力も魔力も持っていかれた後に〈アサルト〉を動かしたり結界を張ったりとした結果、シオンは疲れ果てて寝落ちた。
そして今、シオンの意識は肉体を離れてすでに来慣れた月下の社にいる。
意識だけの状態なので体の追っていたダメージなどからは完全に解放されている状態なわけだ。
「まあ、それはそれとして――」
体を起こし、敷物の上で正座した状態でこちらと向かい合う女性を見る。
巫女装束、腰まである艶やかな黒髪、そしてこちらをまっすぐに見つめる金色の瞳。
この場所と彼女の持ついくつもの特徴を考えれば、彼女が誰なのかはともかく何者なのかはわかる。
「こうしてちゃんと話をするのは初めてですね。俺を呼んだ誰かさん」
「……ええ。正直に言えばこんなチャンスが巡ってくるとは思わなかったわ」
シオンの呼びかけに迷いなく答えた彼女こそが、これまで度々この場所にシオンの意識を招いた張本人。
シオンに助けを求めている誰かだ。
「これまでこんな風に話せなかったのに、どうして今回はこのスタイルなんですか?」
暗に最初からこうすれば早かっただろうという意図を含んだシオンの指摘に彼女は困ったようにぎこちなく微笑む。
「本当はこうして話すのは難しいの。今これができてるのは、幸運が重なっただけだから」
「幸運、ですか?」
シオンの問いかけに正面の彼女はこくりと小さく頷く。
「あなたが深く眠っていること。それから世界の境目が少しだけ曖昧になっているおかげでこうして話ができているだけで、なかなか次の機会はないと思うわ」
「なら、話はさっさと進めてしまったほうがいいですね」
これが偶然生じたチャンスであって次があるかもわからないというのならこの機会に聞くべきことは聞いておきたい。
このまともに会話できる状態がどれだけ続くかもわからないので尚更だ。
「ひとまず自己紹介を。俺はシオン・イースタル……≪天の神子≫です」
「あなたは?」という意味をこめて視線を投げかければ、彼女が丁寧な所作で居住まいを正した。
「私は、月守暦。≪月の神子≫よ」
凛とした佇まいの彼女を月の明かりが照らす。その姿は神秘的で≪月の神子≫という名にふさわしいと感じた。
「……驚かないのね」
「お互い様でしょう? なんとなく予想してましたし」
シオンの記憶すら覗き見ることのできる朱月ですら干渉できない特殊な場所にシオンを招くという芸当をやってのけていた時点で、コヨミが強い力を持つ存在であることは予想していた。
その場合に候補にあがるのは神としての格を持つ人外、あるいはシオンと同じ“神子”のような特別な人間に限られる。
それに加えて初めてコヨミを夢で見たときに感じた親しみのような感覚。今になって思えば、あれは互いに“神子”であったからこそ感じたシンパシーのようなものだったのだろう。
「次の質問です。ここはいったいどこなんですか?」
コヨミが何者なのかはわかったので次の質問に移る。
時間があればもう少し話を聞きたいところだが、いつ終わるともわからないこの時間を使うのは惜しい。
そんなシオンの考えはコヨミも読み取ってくれているようで、質問に対してすぐに答えを返してくれる。
「ここは、【月影の神域】。この【禍ツ國】の要となる聖域よ」
「どっちも聞いたことないですけど……」
「それでもいいわ。私がお願いしたいこととは関係ないから」
いかにも仰々しい名前が飛び出したというのにコヨミはそんなことはどうでもいいのだとあっさり切り捨てた。
そしてそんな彼女にとって本当に重要なのは――
「あの小さな子のことが一番重要ってわけですか」
「ええ、もちろん。大切な我が子だもの」
はっきりと言い切ったコヨミは表情を引き締める。
「私はあなたにあの子を助けて――いえ、あの子を止めてほしいの」
「……止める? あの子を?」
「ええ。……今あの子は、何かとてもよくないことをしようとしてる」
決して具体的ではないが、何かを起こすということだけは不思議と確信しているような口ぶりだ。
しかしシオンからすればどうにもそのイメージが湧かない。
「あなたの記憶で見たあの子はとてもなんかやらかしそうな感じじゃなかったですけど……?」
少なくともシオンの中には、コヨミの言葉をしっかりと聞くとても素直な子供だという印象しかない。
それがすべてとは思わないにしろこうしてシオンに助けを求めるほど大きな事件を引き起こすとは到底思えない。
しかしコヨミは黙って頭を横に振るだけだった。
「確かにあの子は素直ないい子に育ってくれた。……だけどあの子は、◼️◼️は、◼️◼️だから」
「……すいません。もう一回言ってもらえます?」
シオンは暦の言葉の後半を聞き逃してしまった。
風が強いわけでもない静かな社でどうして聞き逃したのかと疑問に思いつつも、一言詫びを入れて聞き直す。
「だから、◼️◼️は、◼️◼️だから……」
「……ちょっと待ってください。今なんの話しようとしてますか?」
「……あなたに止めてもらいたい息子のことだけど、もしかして聞こえてないの?」
コヨミからの確認に黙って頷けば、彼女の表情が驚愕とともに険しいものになる。
シオンもおそらく似たり寄ったりな顔をしていることだろう。
「魔法による情報の制限、でしょうか? そうなってくると、確かによくないことしでかしそうな気がしてきますね……」
隠しておきたい情報が術者以外から広がらないようにするための魔法。
コヨミの口から発されたあの子供の情報が言葉としてシオンに伝わらないのはおそらくそれによるものだ。
口で言うのは簡単だが、その魔法は相当強い力がなければ扱えない高等魔法に位置している。
そんなものまで使って情報を隠そうという時点で、問題の子供が何か不穏なことをしようとしているのは間違いなさそうだ。
さらに不味いことに、シオンの視界が若干だが白くかすみ始めている。どうやらタイムリミットが近いらしい。
「……あの子は男の子で、十歳くらいで、今は地球にいるはず」
「それだけで見つけられれば苦労しませんが……」
十歳の男の子なんて世界にどれだけいるかわからないし、そもそも高等魔法を使えるほどの力を持っているのだ。姿を変えることだってきっと容易い。
コヨミが魔法に邪魔されない範囲で情報を伝えようとしてくれているのはわかるが、名前などの決定的な情報が聞けない時点で止める以前に見つけ出すことすら厳しい。
だが、コヨミはそんなシオンの不安を否定するように首を横に振る。
「きっと、あなたはあの子に出会う。……誰にも届かないはずだった私の声があなたに届いたように、きっと縁はつながってるの。だからどうか、お願い」
――あの子を、助けて
確信と不安と悔しさと祈り。様々な思いの混ざり合った金色の瞳。
その輝きと向き合い、いつか投げかけられた言葉をもう一度聞きながら、シオンの視界は白に染まっていった。




