4章-夜は明けて-
「――ああ、もう夜明けか」
薄暗い社に差し込む光に目を細めたオボロは少々名残惜しそうに体を起こすと、自らの下で力なく横たわるシオンを抱き上げ、胡座をかいた自身の足の上に乗せる。
シオンの目はどこか虚ろで、体にも力が入っていないのかだらりとオボロにもたれかかっている。
「確かに一晩楽しませてもらった。約束通り昨日の一件は水に流してやろう」
オボロが優しげな声でそう告げると、シオンは安心したように息を吐いてからそのまま目を閉じる。
「イースタル!」
「騒いでやるな。疲れて寝ただけだ」
思わず声をあげたアキトを冷静に嗜めたオボロは、シオンの首元から肩までにかけて残る無数の噛み跡から滲み出た血をもったいないとばかりに舐めとってからシオンを抱きかかえてアキトの前まで歩いて来た。
同時にアキトの移動を制限していた足元の魔法陣も消える。
「…………」
「本当に、最後まで目を背けないとはな」
オボロを睨みつけるアキトを前にしても彼は気にすることなく自身のペースで口を開く。
「貴方が目を背けるなと言ったのではありませんか」
「ああそうだ。だとしても、そこいらの男ならあっさり目を背けてただろう」
そう話しながらアキトのことを見るオボロの目に侮蔑や呆れなどの感情はない。
むしろ、何か眩しいものを見るかのように細められていた。
「お前の名は?」
「……アキト・ミツルギ。いえ、貴方には御剣秋人と名乗るほうがいいでしょう」
「ほお、いい名前だな」
悪意なく微笑んだオボロの目は真っ直ぐにアキトを見つめてくる。
改めて近くで見れば、オボロの瞳は間違いなく人のものとは違う。
鋭い獣の瞳を前に恐怖すら覚えるが、目を背けてしまえば心までも負けてしまう気がして、アキトはあえて正面から見つめ返すことを選んだ。
「御剣秋人。お前は無力な人の子にすぎない。それこそ俺がその気になれば指一本動かさずとも殺せるくらいにな」
オボロの言葉に反論などできない。それが紛れもない事実だと理解できてしまっているからだ。
「だがな、お前は強い。俺という恐怖からも自らの業からも目を背けなかったお前の魂は、強く、眩い」
「それは、」
それはどういう意味かと尋ねようとするアキトの言葉をオボロは首を横に振って遮る。
これ以上話す気はないと語る目を前に、アキトは何も言えなかった。
「さて、お前はこの小童を清めてやってくれ。社の裏にある石段を上がれば温泉がある」
アキトにシオンを預けたオボロはやることがあると言って去って行った。
素直に従うが少し迷ったが、何も纏っていない上に血やその他の液体に濡れているシオンをそのままにしておくわけにもいかないというのは確かだったので、アキトはオボロの言う温泉に向かうことにした。
山奥の古めかしい社の裏にある温泉ということで、あまり整備された温泉を期待していなかったアキトだったが、その予想はいい意味で外れた。
大きな岩で囲われた湯船は整えられており広く、周囲から見えないように竹の囲いで覆われている。
シャワーこそないが木でできた風呂桶などもあるので、十分に整備されていると言っていいだろう。
アキトはひとまずシオンのことを湯船を囲う岩のひとつに寄りかからせると軍服の上着と靴を脱いで、濡れないであろう場所に置いておく。
インナーの腕をまくって準備を済ませ改めてシオンを抱えたアキトは、風呂桶で掬い上げた温泉の湯を使ってシオンの体をゆっくりと洗い流していく。
「(……首元は痛々しいな)」
首元から肩にかけては噛み跡や鬱血した痕などが非常に目立つ。
決して深い傷というわけではないが、完全に消えるまでにはそれなりに時間がかかることだろう。
確実に滲みるであろうそこに湯をかけていいものか悩んでいると、かすかにシオンの体が動いた。
「イースタル?」
「……艦長?」
まだぼんやりとしてはいるがシオンの意識は戻った。その事実にひとまず安堵する。
視線が定まっていないシオンはのろのろとした動きで周囲を見回し、続けて自身の状況を確認する。
言葉を発することもなくその一連の動作を終えたシオンは、最終的に片手で顔を覆った。
「イースタル、どうかしたか? 頭が痛むのか?」
「いや、そうじゃないです。ある意味頭は痛いですが……」
アキトの問いに絞り出すように答えたシオンは一度大きく息を吐き出すと、気怠げにアキトの顔を見上げる。
「とりあえず、死ぬほど気まずいのでこの介護スタイルはやめてもらえません?」
アキトは昨晩のシオンとオボロの様子を一部始終見ていた人間だ。
そしてそんなアキトにその後始末をしてもらっているという今の状況は、シオンにとってはこの上なく気まずい。
アキトがシオンの立場であれば、状況を把握した時点で逃走を図っているレベルだ。
それを考えればシオンの要望はもっともであるし叶えてやりたいところではある。――しかし、
「イースタル。お前体にちゃんと力は入るか?」
「……見ての通り腕は動きます」
「聞き方を変えよう。自分の体重を支えられるか?」
シオンは押し黙るばかりでその問いには答えない。
答えを聞くまでもなく、シオンは昨晩の一件の影響でまだあまり動けないのだ。
眠ることもできず体力を使ったというのももちろんであるし、首の噛み跡の数からして少し血も足りていないのだろう。
アキトの手を離れれば即座に地面に倒れ伏してしまうだろうことは想像に難くない。
「だとしてもこれは精神的にキツ過ぎるでしょ……」
「気持ちはわかるが、とりあえず俺に任せてくれ。……俺にはこれくらいしかしてやれない」
大型アンノウンを相手にしても、テロリストたちの企みを打ち砕いても、シオンがここまで弱ることなど一度もなかった。
そしてこうなったのはあくまで人類軍の失敗のせいであり、本来であればシオンがここまでしなければならない理由などない。
「本来俺たちがしなければならない償いをお前ひとりに押し付けた」
「……別に押しつけられた覚えなんてないですけど」
「ああ。お前からすればアンナや十三技班の人々を守るためというだけだったんだろう」
だとしても、アキトたちがシオンを犠牲に守られたことは紛れもない事実なのだ。
「何もできない情けない俺だが、せめてこれくらいはさせてくれ」
アキトの言葉にシオンは反論しなかった。それはアキトの言い分を認めたというのと同義だった。
喋らない、というよりも喋ることすら億劫なほど疲労しているらしいシオンをアキトは意識して丁寧に清め、その体を支えてやりながら湯船へと浸からせる。
「艦長もびしょびしょじゃないですか……」
「濡れるくらいどうとでもなる」
シオンのように体ごと浸かってはいないが、アキトの膝下までは湯船の中にある。開いた両膝の間でシオンを湯船に浸からせてやっている状態だ。
そんなどうでもいいことを指摘する余裕がでてきたあたり、シオンも少しずつ普段の調子を取り戻しつつあるようだ。
「湯加減はどうだ」
「いい感じです。それにこの温泉、魔力が豊富に含まれてるみたいです」
「そんなことがあるのか?」
「この山に龍脈でも通ってるんですかね? そのおかげかさっきよりはだいぶ体もマシになりました」
それは何よりだと思うのだが、しばらく浸かっている間に血行が良くなったせいか、シオンの首元の噛み跡から再び血が滲み出してきている。
シオンは名残惜しがったがこれ以上はやめておいたほうがよさそうだと湯船から引き上げる。
タオルなど持ち合わせていないので体を拭いてやることはできない。
それは仕方がないと諦めて濡れたままのシオンに先程脱いでおいた軍服の上着を着せる。
幸い、アキトのように艦長や部隊長などの立場にある軍人が着る軍服は通常のものより丈が長い。
それに加えて元々の体格差もあって、アキトの上着だけでシオンの膝下あたりまで覆い隠すことができた。
妙な格好であることは否定できないが少なくとも隠すべきところは隠せている、といった状態だ。
「絵面がヤバいし男のプライド的にアレなんですが」
「全裸で出歩くわけにもいかないだろ」
不本意であることを隠さないシオンは口こそ回るようになってきたが歩くのはまだ厳しい。
その自覚があるのかさして抵抗もしなかったシオンを抱え、アキトはひとまず社へと戻ることにした。




