4章-小さな溝②-
ナツミがそれに気づいたのは偶然だった。
アジアへと向けて比較的安全な航路を進む〈ミストルテイン〉では船員たちは平常時よりもリラックスした状態で過ごしている。
それはナツミも例外ではなく、普段よりもゆったりと食堂で食事を取ることができる。
艦内全体がそうだったからこそナツミは食堂で食事をするアキトという珍しい光景を目にすることができたわけであるし、彼の異常にも気づけたのだ。
「……ん? ああ、ナツミか」
「珍しいね。食堂で昼食なんて初めてなんじゃない?」
「言われてみればそうかもしれないな」
そんな会話をしつつ、昼食をの乗ったプレート片手にアキトの正面の席に腰かける。
艦長と操舵手という立場の違いはあれど、人類軍は旧暦の軍隊のような細かな階級制度を意図的に廃止しているくらいに階級間の敷居が低い。
特にふたりは血の繋がった兄妹だ。そんなふたりが食事を共にしていようが気にする者はまずいない。
「ブリッジにいなくていいの? 普段は配達してもらってるのに」
ナツミが副操舵手と交代してブリッジから離れたとき、まだアキトはその場にいたはず。
ナツミは食堂に直行せずに自室に少し寄っていたのでその間に先を越されたのだろうが、そもそもこれまでのアキトは航行中は必要以上にはブリッジを離れず、食事は食堂の船員に頼んで運んでもらっていたはず。
それが突然食堂に足を運ぶというのはどういう風の吹き回しなのだろうか。
「俺はいるつもりだったんだが、アンナたちに行ってこいと言われてな」
「……それっと、顔が疲れてるから?」
ナツミの言葉にアキトは口を噤んだ。その目は丸く見開かれており驚きが読み取れる。
「参ったな。お前にまでわかってしまうのか」
「だってあたしは兄さんの家族だよ? 赤の他人が気づけることに気づかないわけないよ」
ナツミにとってのアキトは兄であり、親のような存在でもある。
そんな近しい存在の異変に気づけなかったらむしろ情けない。
とはいえ、普段のアキトであれば例え家族が相手でも簡単に疲れを見せるような人間ではない。
こうしてナツミがすぐに気づけたこともアンナたちが気づけたことも、要するにアキトがこれまでになく疲れているという証拠なわけだ。
「何かあったの? 〈ミストルテイン〉の航行だけならそんなに大変じゃないはずだよね?」
現在の〈ミストルテイン〉は船員たちが比較的ゆとりを持って行動できる状況にある。
そんな状況下でアキトがこうまで疲れる理由はないはずなので、それとは別の問題があると考えるのは自然だ。
「大丈夫だ。普段より休息は取れているくらいだし、疲れているわけではないんだ。……少し、気がかりなことがあってな」
苦笑しつつそう言ったアキトをナツミは静かに観察する。
ナツミの問いかけに対して「心配するな」というニュアンスで言葉を返してきたアキトだが、具体的な問題について一切口にしなかった。
はぐらかされたことくらいナツミでもわかるし、この調子なら多分他の誰にも相談などしていないのだろう。
言いたくないことならば無理に言わせるべきではない。
少なくとも少し前までのナツミであればそういう風に考えて追求しなかっただろうが、今のナツミは違う。
とある"魔法使い"とのあれこれで、相手が望んでいるかどうかわからずとも踏み込まなければならない場合もあるのだと身をもって理解したナツミは、今回の場合は踏み込むべき問題であるという結論を出した。
それにナツミにはアキトが気がかりに思っていることについて心あたりがあった。
だからこそ、オブラートには包まず直球で問いかける。
「それって、シオンのこと?」
この問いかけで、口元にコーヒー入りのカップを近づけていたアキトの動きは不自然に止まった。それはもう答えを言ったのと同じだった。
「……今の俺はそこまで余裕がないのか?」
実の妹にピンポイントで悩みを言い当てられてしまったのが堪えたのか、アキトは恥じるように片手で顔を覆った。
確かに、アキトの立場で考えていることがあっさりとバレるようであれば大変好ましくない。
ただ今回については、アキトがそこまであからさまだったわけではなく、単に運がナツミに味方していただけという話だ。
「見ただけでそこまでわかったわけじゃないよ。……あたしが知ってて、兄さんが悩みそうなことがそれしか思いつかなかっただけ」
シオンのこと――より具体的に言えば、中東でシオンがやったこと。
"数十人のテロリストを単身で死体すら残さずに殺害する"というシオンの行為は、もちろんナツミにも決して小さくはない衝撃を与えているのだから。
それが、ナツミがアキトの悩みを言い当てられたひとつ目の理由。
そして理由はもうひとつある。
「それに、ハルマ兄さんも同じような感じで悩んでるみたいなの」
「……ハルマが?」
意外そうにしているアキトにナツミは黙って首を縦に振る。
「あの日からアキト兄さんよりもずっとわかりやすく難しい顔してるよ……」
同年代と比較すればポーカーフェイスだってできる部類に入るハルマだが、それでもアキトにはやはり劣るということだろう。
特に【異界】や人外、シオンなどが絡んでくると感情や内心が外に出てきやすい。
「同じようなことが引っかかるのも、やっぱり兄弟だからなのかな」
「……そういうお前は、どうなんだ?」
突然アキトから投げかけられた問いに一瞬反応が遅れる。
「俺たちと違って、お前はあいつのことでは特に悩んでないみたいじゃないか。……正直、イースタルとも親しいお前ならもっと気にするかと思っていた」
アキトがそのように思うのもおかしなことではないと思う。
むしろ親しい相手がたくさんの人間を殺したとなれば衝撃を受けるのが自然だ。実際にナツミだって衝撃を受けなかったわけではない。
それでもナツミがこうして普段通りでいられるのは、ピンと来ていないだけなのだと思う。
「あたしはさ、シオンに命を救ってもらったこともあるし、あのホールで子供に優しくしてるシオンを見たりもしてたの。だから正直、まだシオンがそういうことをしたって実感がないんだ」
もちろんシオンが人を殺したという事実はちゃんと理解している。
しかしナツミの命を救い子供に微笑みかけたシオンと、数十人の命を奪ったシオンが結びつかないのだ。
「それに、あたしたちだって人類軍としてテロリストたちを殺してるのに、シオンのことだけとやかく言うのもおかしいんじゃないかなって」
仮にシオンの行動を問題だとするのなら、まずは自分たちのことを顧みなければならないはずだ。
実際今回のシオンの行動に関して、少なくとも人類軍からのお咎めはない。
むしろ人質を無傷で守りきった事実が評価されているくらいだとも聞いている。
お咎めがないからいいというわけではもちろんないが、人類軍の協力者としてシオンの行動は決して問題のあるものではなかった。
「……それは確かにその通りだ。多少やりすぎではあったが、テロリストの無力化自体に問題はない。俺もそのことを気にしているわけではないんだ」
「じゃあ、何が気になってるの?」
「自分の目に、自信がなくなった」
多くは語らず、最後に自嘲するように口元を歪めてからアキトは黒く苦そうなコーヒーを一気に煽る。
「情けないところを見せた。忘れてくれると嬉しい」
空になった皿を乗せたプレートを持って席を立ったアキトは、去り際にそう言ってナツミの頭を軽く撫でた。
それに答える間も与えずに去って行くアキトの背中をナツミはただ見つめることしかできなかった。




