3章-あしきもの-
――果たして何を間違えてしまったのだろう。
目の前で瞬く間にできあがった黒く大きなドーム。
そのそばでこちらを見向きもせずに背を向けたままの小さな背中を前に、男は自問する。
途中までは上手く進んでいたはずだった。
あるルートで手に入れた怪しげなアンノウンの誘導装置をこの数か月かけて何度もテストし、有効に使うための作戦を考えた。
実際に都市の四方で起動することでタワー警備の選任部隊以外を都市から引き離すことにも成功した。
予定通りに輸送機を使用した電撃作戦でこのホールを占拠することだってできた。
そのはずなのに、目の前の小柄な少年に全てが無に帰された。
一〇〇人近い人質も、都市を脅かすアンノウンの誘導装置もあっさりと奪われた。
精鋭であると誇れるはずの部下たちも、殺されることすらなくまるで相手にされていない。
特攻にも等しい男自身の行動すら歯牙にもかけられず、死ぬことすらも許されなかった。
何もかも、まるでちょっとした用事を片付けるかのような気楽さでひっくり返されてしまったのだ。
「――さてと、」
呆然と立ち尽くす男の前で少年はくるりと軽やかに振り返った。
何人もの武装した男たちに銃口を向けられているというのにその態度に怯えはない。
そのままなんでもない日常のワンシーンかのように少年は首後ろを掻いた。
「とりあえず、それ、邪魔なんで壊しますね」
ひとつ指を鳴らされた瞬間、少年の足元から槍のように伸びた影が男の顔面スレスレを横切った。
反応する間もなかった一撃は男のやや後方で未だに撮影を続けていた部下の持つカメラを貫いている。
運よく一緒に貫かれずに済んだ部下が悲鳴とともにカメラを手放すが、中心を貫かれたカメラは地面に落ちることもなく影によってブラブラと吊るされたまま、影ごと少年の手元まで引き寄せられていく。
「……あれ? これ結構いいカメラですね。最近のテロリストって結構お金あるんだ」
なんてことのない感想はこの場にあまりにも似つかわしくない。
そのはずなのに、少年はそんな違和感など微塵も感じていないように見える。
それから「まあいっか」と小さく零した少年がカメラを投げ上げれば、少年の影から先程と同じ影の槍が無数に飛び出してカメラをめった刺しにした。
原型をとどめることも叶わなかったカメラが無数の金属片に成り果てて地面に転がる。
その光景にぞわりと背中に嫌な感覚が駆け抜けていく。
「それじゃあ、貴方たちの掃除も始めちゃおっか。招待客の皆さん待たせたくないし、大人しくしててもらえると嬉しいんだけど」
それはとても軽い言葉だった。
言葉の通り"少し部屋を掃除してしまおう"とでも言いたげな気楽な調子で放たれた言葉からは、少年が男たちを簡単に片付けられるものと思っていることが嫌というほど伝わってきた。
ここまでのことを思えば実際にそうかもしれない。
しかし、祖国の正規軍から離れ、≪中東解放戦線≫として十年に渡って活動してきた兵士たちにとってこれ以上の侮辱はない。
「ふざけるな! 偽善を振りかざす人類軍の狗が!」
叫ぶと共に少年へ弾丸を浴びせかけたのは先程少年に投げ捨てられた大柄な男――正規軍の時代から男と共に歩んできた腹心の部下だった。
マシンガンから放たれる無数の銃弾。本来であれば少年をハチの巣にするはずのそれらはたったの一発も標的に届くことなく見えない壁に阻まれる。
見えない壁を挟んで最早聞き取ることも難しい罵詈雑言と銃声を響かせる男を少年は少しの間見つめ、小さくため息をついた。
その瞬間に途切れる罵詈雑言の嵐。弾が切れたのか何も吐き出さなくなったマシンガン。少年の足元から真っ直ぐに伸びる影の槍。
そして、一瞬の空白の後に地面に落ちた部下の首。
他の部下の内の誰かが、男の最も信頼していた男の名前を叫ぶ。
それとほとんど同時に首を落とされた巨体は倒れ、大理石の床に血だまりを広げていく。
「あ、まずった」
ひとりの男が死に絶えた場所に到底ふさわしくない。ここに来て初めて聞いた少年の少し焦ったような声。
小走りでふたつに分かたれた死体と血だまりのそばに駆け寄った少年は、頭を抱えた。
「まずい、汚しちゃった」
たった今少年自身が殺めた男のことなど、彼に見えてはいない。
彼にとってのそれは、"真新しいホールにぶちまけてしまった汚れ"でしかないのだと男は悟った。
「……やっぱり丸呑みがいいか。……ひー、お願い」
血だまりと死体を見下ろしつつ呟いた少年の影が大きく盛り上がり、そのまま形を変えていく。
また巨大な腕の形を取るのかと思われたそれは、巨大な獣の頭へと変じた。
少年の影から首から上だけを覗かせる影の獣は頭だけで大人の男よりも大きい。
その大きさに、男は"丸呑み"の意味を理解してしまった。
そして次の瞬間、まるで正解を示すかのように獣は血だまりと死体に食らいついた。
口を大きく開き床に飛び込むかのように食らいついたオオカミは床に触れる瞬間に溶けるように床にかかる黒い影に変わり、床を這う影ごと少し移動してからまるで水面から顔を出すかのように再び影から頭を出した。
影の獣が飛び込んだはずの床には傷ひとつなく、しかし血だまりも死体もまるで最初からそこになかったかのように消え去っている。
影の獣は血だまりと死体だけを選別して食ったのだ。
常識で考えれば到底あり得ないはずの超常現象だが、目の前で実際に行われてしまっては信じざるを得ない。
「……よし、これなら汚れないし、ミスっても掃除できるね」
血だまりのなくなった床を確認した少年は満足気に微笑んでからすり寄ってきた影の獣の首を撫でる。
そこだけを切り取れば和やかにも思える光景が、とてつもなく恐ろしい。
「ふー、みー。ふたりも頼むよ」
呼びかけに答えるように続いて現れた獣の首がふたつ。
これから為されようとしていることは明らかだった。
三つの獣の首が姿を現してから数分が経過していた。
ある者たちは数人で集中砲火を浴びせて対抗しようとしたが銃弾はまるで通用せず、一瞬だけさらに巨大化した獣によってまとめて食われた。
ある者は恐怖からホールから逃げ出そうと試みたが、何故か外へのドアは開けられず、そのまま食われた。
ある者は食われるくらいなら自害しようと米神に拳銃を押し当てたが、少年の伸ばした影で拳銃を貫かれ、絶望の表情のまま頭から食われた。
そうして数十人の部下は血の一滴すらこの世界に残すことも許されずに影の獣に食いつくされた。
ホールにはもう、リーダーの男ひとりしか残されていない。
戦うことも逃げることも自害しようとすることもせずに呆然と立っていることしかできなかった男だけが生かされている。
影の獣たちも三体とも少年の影に戻り、この場にはもう少年と男しかいない。
「どうしてだ? どうしてこうなる?」
口から飛び出した疑問の言葉は少年に答えを求めているわけではない。ただ口にせずにはいられなかった。
「祖国のために戦い、多くの血を流した。それを突然間違いだったと否定されて終わらされて、その先には何もなかった」
人類軍の発足によって全ての国家の軍隊は解体された――それまでの戦いで出た犠牲の全てを無視して。
それでも、その先で祖国が幸福になるのなら納得はできずとも受け入れることはできた。
しかし戦争に勝って豊かになることも負けて一思いに終わりを迎えることもできなかった祖国はゆるやかに死んでいくだけだった。
そんな世界は受け入れられなかった。血の流してでも異を唱えたかった。
それは、こんな惨めな結末を迎えなければならないほど悪いことだったのだろうか。
「お前たちは、そんなに正しいのか? 俺たちの祖国を地獄に変えておいて、それでも正義と言えるのか?」
絞り出された男の問いに、少年は少し考え――
「さあ?」
"そんなこと知らない"と首を傾げた。
「善悪なんて立場次第でころころ変わる。人類軍が良いか悪いかなんて考えるだけ無駄じゃん」
「……なら、どうして部下たちを殺した? 人類軍の敵だからか?」
もしもそうならばこの少年は人類軍を"善"だと考え、人を殺すことの大義名分にしている。
せめてそれを指摘して嘲笑い、一矢報いてやろう。
そんな男の企みに気づく様子はなく少年は答える。
「ああそれは、腹が立ったから」
なんでもないことのように言い放たれた言葉の意味を、男は一瞬理解できなかった。
「子供を殺そうとしたの見て胸糞悪かったから、あーこれ殺しとこう、ってなっただけ」
「……それが、お前の正義だと?」
「すーぐそういう仰々しいものにしようとする……どっちかというと"好き嫌い"の問題かな」
本人の中でも確固たるものではないのか、首を傾げたまま少年は続ける。
「何かのために武器を取るだけなら別に嫌いじゃない。そういう方法じゃなきゃ守れないものもあるだろうし、少なくとも否定はしない」
たった今殺し尽くしたテロリストという存在を否定しないと少年は言う。
これだけのことをしておいて何を言っているんだと思う一方で、目の前の少年が嘘を言っているようにも見えずに戸惑ってしまう。
「けど、戦う力も意思もない子供や母親に手を出すのは無理、最悪、俺が一番嫌いなやつ。艦長に"殺すな"って言われたけどこればっかりは殺しとかないとって思ったよね」
「……殺すなと、言われた?」
「まあ、聞こえなかったことにするけど」
人類軍の協力者でありながら人類軍の言葉を無視して殺した。
ただ自分にとって不愉快だったからというだけで殺した。
それだけのことだと語る少年が、男には理解できなかった。
しかし彼のことを形容するに相応しい言葉は自然と口から飛び出していた。
「この悪魔め……!」
正義と悪が簡単に入れ替わるものであることは男もわかっている。それでも、そうだとしても、この少年は疑いようもない悪だ。
自らの感情ひとつで数十人の人間を殺し尽くした存在が悪でないはずがない。
「いや、人間だし。……まあ悪いことは否定のしようもないわけだけど」
どこかズレた反応を返した少年はおもむろにひとつ指を鳴らした。
その瞬間彼の足元から伸びた無数の影が男の両手両足を拘束し、さらに口を猿轡にしてくる。
「誘導装置の入手元とか他の仲間のこととか吐いてもらわないとダメだから殺すわけにはいかないんだけど……俺は釈然としないんだよね」
唐突な拘束に驚きもがく男を見上げて、少年は少し不満そうに口を尖らせている。
「と、いうわけで、死なない範囲で好きにしようと思う」
さらりとそう言ってのけた少年に、血の気が引く。
恐怖を露わにする男の様子に、少年は喜ぶでもなく淡々と腕を少し動かす。
それに反応するように右腕を拘束する影がゆっくりと、それでいて強い力で動き、一拍遅れて何かが折れる音が鳴った。




