Innocent Glory
彼女が本日最初の手術を終えたのは、開始より約三時間後の正午だった。
手術は成功。安静にさえしていれば、数日後には退院できるだろう。その知らせを聞き、何度も礼を言う患者の家族達……嬉しくないと言えば嘘になる。
しかし、安堵と喜びの混ざった表情で患者の病室へ向かう家族達を見る度に、彼女はつい思ってしまう。
どうして自分はあの時、彼らのように病室を訪ねられなかったのだろうか。
どうして、『彼』の亡骸と対面しなくてはならなかったのだろうか……。
「お疲れ様です、如月先生」
看護師の労りの言葉が、手術室の前で物思いに耽っていた彼女を現実へと引き戻した。
総合病院の一室。つい先程まで手術が行われていた場所に人気はなく、残っているのは彼女達だけだった。
「……うん」
僅かに微笑み、如月綾は応える。
わからない者が聞けば、冷たい反応だと思うだろう。しかしこれが、本人としては最大限の対応だった。
「あ、いいですよ先生、その表情。女性らしくて」
モデルのカメラマンのような発言をするのは花咲弥生。如月医師が『人間らしく』なるのに、大きく貢献した人間の一人だ。
彼女なくして今の自分はない。そう断言できるほど、如月にとって弥生の存在は大きい。彼女がいなければ、自分は今も人間性を失ったまま、ただ仕事をするだけの半機械人間だっただろう……考えるだけでも悍ましい。
「そうだ!今度一緒に化粧品とか服見に行きましょうよ」
「私は別に……」
いらない。そう言おうと思ったが、弥生に遮られる。
「だめです!先生美人なんだから、そんな眼鏡で隠してたら勿体ないですよ」
どこからかメモを取り出して、弥生はスケジュールを組む。
……結構気に入ってるんだけど、この眼鏡。
如月は多忙である。脳外科医なのだが、その実力を買われて専門分野以外の仕事も次々に入ってくる。それを全てこなしていると、いつの間にか一日が終わっている……と言うのが彼女の生活パターンだ。本人はあまり気にしていないが、それでは過労で倒れかねない。
そこで弥生の出番である。
仮に休みの日でも、如月は病院に来て仕事をしようとする。そうなる前に弥生が予定を入れ、休日らしい休日を過ごせるようにしているのだ。
家でゆっくりしているのが一番なのだが、本人の性格上休まないので仕方がない。
「そういうことで、次の休み空けといてくださいね!」
「……うん」
如月に選択権はなかった。もしあったら確実に仕事を選んでしまうからなのだが、自覚のない如月は少し困惑気味。
自分が疲れている事に気付かず、働き続けてパタン。如月は放っておくと確実にそうなる、ワーカーホリックタイプなのだ。
お節介やきの弥生が、危なっかしい彼女を放っておけるわけがない。二人がコンビ扱いされるのも、自然な流れだった。
キーンコーンカーンコーン……。
「あ……」
ふと、チャイムの懐かしい音が二人に届いた。
この病院の近くには中学校があり、そこから音が響いてくるのだ。如月は昔、あの中学校に通っていた。
――……彼と一緒に。
「先生……どうかしたんですか?」
時間的に昼休みだろうか。そう言えば、彼と初めて話したのも、昼休みの時間だった。
目を学校に向けたまま、如月は応えた。
「……うん、少し……」
昔を、思い出した。
昼休み……中学三年生の如月にとって、これほど憂鬱な時間はなかった。普通ならテストの時間だとか、嫌いな教科の時間に憂鬱を感じるものだが、彼女の場合は違う。
認識してしまうのだ。どんなに目を背けようとしても、どんなに自分以外の全てを遮断しようとしても、強制的に実感させられるのだ。
自分が一人である事を。
勉学に長けた彼女にとって、義務教育の勉強内容など、児戯にも等しく容易かった。当然、テストはいつも満点。学校でも優等生の一人としてカウントされている。
しかし、彼女には足りないものがあった。それは学生としてあって当たり前の存在……。
彼女はいつも一人だった。
昼休みになると、クラスメイト達はガタガタと机を動かし始める。それぞれのグループが固まって昼食を食べるのだ。
如月はその音が嫌いだった。それが耳に入ると、集中が阻害されるだけでなく、自分だけが机を動かす必要がないことを気にしてしまうから。
「……さん?」
我ながら情けない。友達がいないから何だと言うのだ。如月は内心鼻で笑った。一人……大いに結構じゃないか。
友達なんてものは、所詮自分が勉学に励む上での足枷にしかならない。そのときだけ楽しんで、後から勉強すればよかったと後悔する。そんな見え透いた未来など御免だ。
「――……さん!」
それならまだ、手に職つけてつまらない人生を送る方が、如月には有意義に思えてならない。つまらない人生のために勉強するというのも癪ではあるが、自分の力で食べていけなくなるよりマシだ。
そう考えたから、如月は一日の大半を勉強にあてることにした。『人との繋がり』を犠牲にして……。
「き・さ・ぎ・さーぁぁぁんっ!」
「……?」
さっきからうるさいな……。何の騒ぎかと教室を見回すが、意外と静かだった。
「如月さん、前、前!」
前……?言われて前を見ると、そこにあったのは紺色の壁……ではない。これは学校の制服だ。少し目線をあげてみる。
すると、困惑の表情で自分を指差している男子と目が合った。
「やっと気付いてくれた。まったく、前フリ長過ぎだよ!」
すみません……。
さっきから騒いでいたのはこの人物らしい。如月を呼んでいたようだが、何の用だろうか。
いや、それ以前に……。
「……誰?」
聞いた途端フッと、男子の姿が視界から消えた。妙だな……如月がそう思うのと、床がガタンとなったのは同時だった。
「ひどいなぁ。クラスメイトなのに」
消えたのではない。如月の発言があまりに根本的だったので、思わずずっこけてしまったのだ。なかなか古風な芸当である。そんなことをされても、如月はどうしていいのか分からない。
期待していたより反応が薄かったせいか、男子はやや不満げだ。それでも何とか気を取り直し、ゴホンと咳払いをする。そして、如月をさらに混乱させる行動に出た。
「じゃあ、改めまして。赤口一樹です。以後、お見知りおきください」
笑顔で自己紹介すると同時に、如月に手を差し延べたのだ。こうも次々に色々なことをされては、そもそも会話に不慣れな如月には、まともな対応をすることなど不可能だった。
どうすればいい?いきなり現れて暴走している男子に、自分はどう応じればいい?
「……何?」
悩んだ挙句、出てきたのはその一言だった。わりと普通な対応に見えるが、この言葉には様々な意味が含まれている。
一体何の用か、その手は何なのか、そして……。
……私にどうしろと?
「一緒に弁当食べよう?」
……は?
まぁ、待て。如月は混乱しているが、一樹の言葉は流れ的に間違っていない。
一樹の自己紹介に対し、如月は
「何?」と尋ねた。これは常識的に考えて、用件を聞かれていると思うだろう。そして実際にそう思った一樹は、用件を伝えてその返事を聞こうとしている。
ただ、それだけのことなのだが……。
「?……??」
如月は理解していなかった。
「だぁかぁら、一緒に弁当食べよう!」
要はそれを言いたいがための行動だったのだ。しかし、肝心の相手に何も伝わっていないため、全く意味を成さない。彼はさぞ歯痒いだろう。
混乱したまま動かない如月。それに痺れを切らした一樹が、次なる行動にでる。
「ほら、皆待ってるから!」
「……!?」
制服ごと腕を掴み、半ば強引に連れて行く。突然の接触に、如月はさらに混乱した。
しかし、それは熱湯につけられた氷のようにとけていく。一瞬にして如月の頭ははっきりし、腕から伝わる暖かさに驚かされた。
如月自身意外だったが、今自分の腕を掴んでいる手が温かく、心地よいのだ。家族以外と接触したことのない如月にとって、それは未知の領域だった。
「……!」
気が付くと如月は、机を寄せて作られた大テーブルの一角に座っていた。目の前には、満足げな表情の一樹が座り、如月と共に周りの視線を浴びていた。
「よし、いただきます!」
「いただきます、じゃねぇよ!!」
仲間から強烈な突っ込みがいれられた。
この机と机を引っ付けて作られた大テーブルは、一樹がいるグループの食事の場なのだ。
それぞれのクラスには複数のグループが存在していて、昼食の際にはグループごとに集まって食べる。不思議とそういうシステムが自然に形成されている。
そんな中で、グループに属さないタイプの人間がいつの間にか混ざっていたら、嫌でも気付くだろう。
「め、珍しい人を連れてきたね、一樹君……」
「あぁ、うん。今日は彼女も一緒に……ね」
答える一樹があまりにも嬉しそうで、穏便に話を聞こうとした女子は言葉が出なくなってしまった。
「ふ〜ん……まぁ、いいけどな」
先程全力で突っ込んでいた男子も、別段如月を追い出そうとはしなかった。若干嫌そうな顔はしているが……。
空気の読める仲間たちは、その後それぞれの会話を展開し、なぜ連れてきたのかを聞かなかった。皆分かっているのだ。
野暮な質問だ、と。
「如月さんってさ、頭良いよね。できれば教えてくれないかな?数学で分からないところがあって……」
弁当を食べ始めて十分ほど。静かに食事をしている如月に、一樹が話し掛ける。
まったく工夫のできない男だ。あまりにもわかりやすい誘い方に、仲間たちが不安そうな顔をしている。しかし、その言葉に込められた心情を、如月が探知する気配はない。と言うよりも、彼女は別のことで頭を悩ませていて、言葉を深読みする余裕はなかったのだ。
「……」
不可解だった。何故自分は、群れながら弁当を食べているのだろうか。何故、彼の誘いを断らなかったのだろうか。
いくら強引に連れてこられたとは言え、立ち去ることはいつでもできた。しかし、ここから離れようという気がまるで起らないのだ。
彼は何かが違う……。
「如月さん?」
「……!」
呼び掛けられ、如月はようやく現実世界に戻ってきた。
そう言えば、何か聞かれていたような……。確か、勉強を教えてくれと言っていたはず……。
「…………?」
どう答えようか迷っていると、急に息苦しさを感じた。
それは一樹の仲間たちが発しているものだ。楽しく会話をしているように見えるが、全員が如月の一挙一動に注目しているのだ。
どうしよう、この空気……。あまり沈黙が続くのはよろしくない。しかし決断しづらかった。
今日名前を知った人間に勉強を教えるのは嫌だ。しかし、どう言えば彼や仲間たちは納得するだろうか。当然一樹に悪意はない。自分の中で別に問題ないようにも思えるのが、かえって厄介だった。
いい加減沈黙も限界だろう。これだから他人と関わるのは……。
「ははは、フられたな一樹!」
助け船を出したのは、グループの男子だった。
「赤口君って、顔は良いのにモテないよね〜」 場を保とうと女子が続く。一樹は不満そうだが、反論する気はないようだ。本当にモテないのか。
……仕方ない。
彼らが騒いでくれている間にどう断ろうか決めるつもりだった。しかし、彼には形上今日という借りがある。ここは一つ……。
「……放課後、残ってて」
そう言って如月は自分の席に戻る。弁当は食べ終えたし、何よりも気恥ずかしくてたまらなかった。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。ただ一緒に勉強するだけなのに、何を恥ずかしがっているのだ。自分でもよくわからない。
不思議なことはまだある。誘いを断ろうと思わなかった。いつもの彼女なら、迷わず却下するはずなのに……だ。やはり一樹には、自分を拒絶させない何かがある。それを確信した時、心の中で彼への小さな興味がわいた。
「…………」
まだ顔は赤いまま。彼は友達と楽しそうに話していると言うのに……これでは勉強に集中できない。
――……違う。今だけじゃない。
如月は先見性に長ける。そんな彼女が、これからしばらくは勉強どころではなくなる。そう感じた。何故そうなるのか、彼のもつ違和感の正体と共に、彼女は知りたいと思っている。
勉強以外のことに興味をもつのは、生まれて初めてのことだ。如月の心には、年齢相応の期待と不安が同居していた。
少年は歓喜した。
気になっていた女子と同じクラスになったはいいが、これまで全くと言っていいほどきっかけがなかった。むしろ神懸かっていると思うくらいに。
「良かったな、一樹。まずは第一段階成功だ」
「時間が掛かり過ぎちゃったけどね……」
一樹は苦笑いした。うまくいったのは良い。しかし、もう少し早く声を掛けていたら……そう思わずにはいられない。
彼女は頭が良かった。それをネタに一緒に勉強しようと誘うことにして早三ヵ月……ようやく形になったのだ。
そう、その三ヵ月が痛手なのだ。
今は十二月。卒業まで約三ヵ月ある。親交を深める時間としては十分だ。高校に入ってからも、会うことはできるはずだ。
しかし、一樹には別のタイムリミットがある。それだけに、焦らずにはいられない。
「なぁに、大丈夫だって!最初が終われば後は早いもんだからさ」
高杉浩は中学生であるにも関わらず、かなり恋愛経験が豊富だった。彼が独り身であることは絶対にない。常に彼女がいるのだ。
正直あまり尊敬できることではないが、こういう時は誰よりも頼りになる。
彼がそう言うなら、そうなのかな……。友達が信用できないわけではない。しかし、一樹は安心できなかった。
「しっかし意外だな。お前がああいうのが好みだとは知らなかったよ」
ああいうの……彼流に言えば『ガリ勉ショート眼鏡』のことだ。ひたすら勉強しているショートカットの眼鏡っ子……言い方は悪いが、如月の特徴を確かに掴んでいた。
とは言え、一樹としては気分のいい物言いではない。軽く睨んでやった。
「へいへい、悪かったよ」
降参、と言うかのように友人は両手を挙げた。浩としても一樹はよき友人だ。下手に不穏な状態にしたくはない。
物分かりがいいこと……それは他人と行動する上で、かなり大切なことなのだ。
「ま、放課後を楽しみにしとけよ。何なら次の段階へ進んでもいいんじゃねえの?」
「如月さんが許せばね」
さすがにそこまで高望みはできない。向こうには向こうの考え方がある。それを蔑ろにするのは嫌だった。
「案外いけるかもしれないぜ?如月、結構ノリ気っぽかったしな」
そうだったのか。意外だったが、淡い期待はしていた一樹としては嬉しい限りだ。
「よく見てるね。ボクは全然気付かなかったのに」
「ま、それが取り柄なんでね」
浩は周りの空気を読んだり、人の心情を読み取るのが得意だ。それができるかできないかでは、形成される人の輪が大きく変わってくる。そういう事では、いつも感心させられる。
彼女も心の何処かで楽しみにしてくれているのかな。何となく、肩が軽くなった気がした。
「……ここはXを代入して」
放課後、二人の勉強は滞りなく進んでいた。
意外にも如月の教え方はわかりやすく、一樹も本来の授業より効率よく問題を解くことが出来る。
「凄いね。人に物を教えるの、向いてるんじゃないかな?」
「……そう?」
割りと反応が良かったので、一樹は安心した。
「うん。如月さんは将来の職とか考えてる?教師とか、上手くやれそうだけど」
如月は首を横に振る。
「……医者になろうって、思ってる」
彼女の表情は変わらない。しかし、言葉には確かな力が込められている。
「医者?どうして」
「……私でも、人の役に立てるかなって」
それは紛れもなく、十五歳の少女が抱く立派な夢そのものだった。
そうか……。一樹は心の中で納得した。
彼女は大人ぶっていたわけでも、一匹狼を気取っていたわけでもない。幼い頃から明確な夢を持っていて、それを実現させるために頑張ってきたんだ。ただ頑張り過ぎて、ちょっと周りが見えなくなってしまっていただけなんだ。彼女の心は一般中学生と変わらない。夢と期待に溢れた、とても綺麗なものなんだ……!
「……なれるよ」
最初は恐れていた。彼女は心に大きな傷を抱えているのかもしれない。考えれば考えるほどありもしない傷に触れてしまうことが怖くなり、声を掛けるのに三ヵ月もの時間を要してしまった。
何も恐れることなどなかったのだ。彼女に負の要素はない。頭のいい、少し感情の表現が下手なだけの、普通の女の子……それが如月綾だ。
「きっとなれる。あんなに頑張ってるんだ。なれないはずがないよ!」
一樹は力説した。報われないわけがない。これで報われないなら、医大に直接文句を言いに行ってやる。
彼の言葉を聞いた如月は少し驚いた顔をし、そして……。
「……ありがとう」
――……っ!!
笑った。初めて見る笑顔は、一樹が今まで見たことない輝きを放つ。
知らなかった。好きな子の笑顔を見るのが、こんなに嬉しい事だったなんて……。
見せてくれるかな?これからも、その笑顔を……。ほんの僅かな可能性でもいい。一ヵ月に一度でも、一年に一度でも構わない。彼女の笑顔を見ることが許されるなら、ボクは……。
「ねぇ、今度一緒に出かけない?」
気が付くと、一樹はデートの誘いをしていた。
一樹は決して器用ではない。それでも、ボールを投げずにはいられなかった。返ってくるかも分からないボールを、どうしても投げたかった。
変化球なんて技術は持っていない。だから、飾ろうと思っても無駄なんだ。できるとすれば……。
まだ全力ではない。自慢の豪速球を投げるのは、決戦の場を決めてからだ。
如月は驚いていた。やっぱりいきなり過ぎたかな。話の繋がりもなかったし……。
ゆっくりと、如月がドアの方を移動する。そして一樹の方を向かずに……。
「…………うん」
と言って、慌てて教室を出ていった。
向かなかったのではない。向けなかったのだ。あまりに恥ずかしくて。
「……や……」
その反応に、一樹は歓喜し、一人教室の真ん中でやったと小さく、しかし力強く呟いた。
なんだろう、このざまは。誰だ、一人でいいなんて大嘘を吐いていた馬鹿は。
帰宅途中の如月は顔を赤らめたまま、頭の中で自分を叱り付けていた。
今更気付いた?……違う。初めから分かっていた。如月の頭脳をもってすれば、人間が一人で生きていけない事など、呼吸に等しく容易く理解出来たはずだ。しかし出来なかった。自分の小さなプライドが、それの受け入れを拒否していたのだ。
何がプライドだ。それは本来、挫けないために……自分を支え、後押しするためのものだ。下らない意地を守るためにあるのではない。自分の寂しさに嘘を吐くような、他人を拒否しなければ生きていけないような、そんな下賤な者が発揮していいものではない……!
夢のために、ただそれだけのために勉強を続けてきた。それは確かに、如月に能力を与えた。しかし同時に、人として致命的な欠点を与えていたのだ。
なんと情けない姿だろうか。しかしそれでも、一樹の誘いを受けることにした。
今なら分かる。彼から感じた違和感の正体……それは真っ直ぐな心だ。
歪んだ心が氾濫している世界で、あれほど真っ直ぐな心をもった人が何人いるだろうか。
知りたい……もっと彼のことを。彼と共に、これからを歩んでいきたい……!
でも、それは後だ。今は彼に伝えなければならないことが別にある。
高鳴る胸の上で、如月はグッとその手に力を込めた。
数日後、一樹はデートの準備を進めていた。
約束は取り付けた。場所は隣り町の遊園地。時間は昼の一時だ。
時間まではあと三時間近くも残っている。しかしどうしても、じっとしていられなかった。
自覚している。自分は今、猛烈に緊張している……!
一樹はうなだれた。そんなこと確信してどうするんだ……。緊張で思考まで纏まらなくなってきている。
できるならもっと嬉しい確信が欲しい。ナルシストでない一樹には無理な話だが。
「……!」
ふと、窓の外に目をやる。見上げた空では、灰色の雲が集結しつつある。
これから告白しようというのに縁起の悪い……。普段は天気など気にしないが、今日ばかりは無視するわけにもいかない。これが晴天なら、一樹も気分よく出かけられたのかもしれないのに……。
「……ゴフッ!?」
突如、胸に激痛が走り、一樹は思わず蹲る。反射的に押さえた口から、赤い液体が飛び散った。
「ぐ……こ、困ったな」
鮮血に染まった手を見ながら、一樹は苦笑いした。
ボクには、光を見る権利すら与えられないのか……。
一樹はその身に心臓病を抱えている。実はかなり前から、彼の命が人よりも早く尽きることはわかっていた。
その事実が、如月に声を掛けようとする自分にブレーキをかけ、実行までの時間を長引かせる要因の一つとなっていたのだ。いつ消えるかもわからない命……もし上手くいったとして、それを知った彼女はどう思うだろうか。そう考えると、なかなか一歩が踏み出せなかった。
しかし、一樹は決意した。自分の想いを伝えるのだと。それこそが、死と隣り合わせの日々の中で、大きな光となる……病に逆らう力と、生に対する執着を与えてくれる。そう思ったから……!
まだ終わっていない。自分はまだ、何も成しえていない。光を見る前に、くたばるなんて冗談じゃない!
「……ごめんね、如月さん」
少し……遅れちゃいそうだ。
でも、必ず行くから……。君の笑顔を見に行くから……。
「待ってて……ね」
午後十二時半――如月は遊園地に到着していた。
三十分前行動とは、我ながら律義だな……。
無論照れ隠しである。あんまりにも落ち着かないものだから、移動することで時間を潰そうとしただけだ。
結果として、予想以上に早く待ち合わせ場所に着いてしまった。如月自身、正直後悔している。
今から約三十分、この落ち着かない気持ちで彼を待たなくてはならないのだ。待遠しいを通り越して気が遠くなる。
これからの時間合わせに頭を悩ませながら、如月は空を眺めた。
こいつは一雨来るかもしれない。如月は天気などどうでもいいが、もし降ってきたら遊園地の半数は停止される。
……残念がるだろうな、赤口君。
あぁ、困ったな。どうしようか。彼が来た時の顔を予想するだけでも、充分に時間は潰せそうだ。
一樹は安堵した。目の前に白い天井が広がっていたからだ。どうやら一命は取り留めたらしい。あの状況で助かるとは……ボクはしぶといな。
「一樹……!良かった、もう起きねぇのかと……」
隣では浩が嬉し涙を流しながら、聞き取りのもギリギリな声で喋っていた。
倒れていた一樹を最初に発見したのは、他でもない彼だ。緊張していた一樹の様子を見に来たのだろう。まさか血を吐いて倒れていようとは、夢にも思わなかったに違いない。
「浩……今何時?」
「え……七時だけど」
七時か……。急がないと。
「お、おい。何やってんだ、よせ!」
時間を聞くや否や、立ち上がろうとする一樹を慌てて制するが、一樹は止まろうとしない。
「急がないといけないんだよ。如月さんが待ってるんだ」
「待ってるってお前、約束の時間はとっくに過ぎてるだろ。もう帰ってるって」
確かに、普通ならもう約束の場所にはいないだろう。しかし、彼女は『普通』ではない。
万に一つ、今も自分を待ってくれているとしたら……?そう考えると、呑気に寝転んでなどいられない。一刻も早く、彼女を迎えに行かなくては……!
「退いてよ浩。邪魔するなら、力づくでも押し通るよ」
一樹の目を見て、浩は何も言えなくなった。相手は先ほどまで気を失っていた病人だ。力など出るはずがない。
しかしその目を見ていると、発せられる殺気だけで押し退けられてしまいそうになる。
浩は確信した。今のこいつはやる。足を引きずっても、心臓が悲鳴をあげても、立ちはだかる邪魔者を全て退けて、約束の場所へ向かう。それほどの気迫だった。
道を開けるしかなかった。浩に今の彼は止められない。
構いやしないさ。浩は内心開き直った。だったらだったで、やることは決まっている。
「……待てよ、一樹」
「……?」
一樹が振り向くと同時に、浩は自分の上着を放り投げた。それを受け止めた一樹は、何がなんだか分からないようだ。
「着てけよ。自転車の鍵はポケットだ」
「浩……!」
そう、始めからそのつもりだった。
命がある存在には例外なく終わりがある。死までの時間制限がある。そしてそれは一樹の場合、他人より確実に短いのだ。
それを知った時、浩は決めた。一樹のやりたいことをやらせようと。
どうせ短い人生、やりたいようにやってこそ価値があると言うものだ。思うように、自分の意志に純粋に……一樹はそうやって生きてきたし、浩はそれを見守ってきた。そして今回も、それが崩れることはない。
「かなり雨が降ってるからな。気をつけて行けよ」
「……うん。ありがとう、浩!」
受け取った上着を着て、一樹は病室を走り去った。
「……頑張れよ」
自分は罪人だろうか。一樹を見送りながら、浩は思った。
この雨の中を走らせたりしたら、一樹の病状は間違いなく悪化する。それを知りながら行かせた自分を、世間は罪人と罵るだろうか……。
週末の大通りに雨が降り注ぐ中、一樹は全力でペダルをこいでいた。
普段の彼なら心臓に気を遣ってスピードを抑えるのだが、今は一刻も早く好きな女の子の元へ辿り着こうと必死で、それどころではない。
――……。
全力疾走しながら、一樹はふと、初めて彼女と同じクラスになった時のことを思い出していた。
確か、いつものように浩や仲間たちと弁当を食べていた時だ。その時も彼女は参考書を片手に勉強していた。
人の輪から外れての単独行動……当然周囲の評価は高くない。しかし一樹には、ひたむきに勉強している姿がとても可愛く見えた。
眼鏡越しに見える綺麗な目は、一片の曇りもなく参考書とノートを行き来していたのを、今でもよく覚えている。
それは野球好きの少年がプロ選手になるために、料理好きの少女がパティシエになるために、日々努力し続ける情熱の目そのものだった。
周囲は優等生ぶっていると思っただろう。しかしそれは違う。医者を目指す彼女にとって、勉強は夢を叶えるための階段だったのだ。
日々の努力が実を結ぶ時を待ちながら、全力でそれに打ち込んでいる……ただ、それだけのことなのだ。
何を批判する必要があるだろうか。ひたすら夢に向かって歩く彼女に、一体何の不満が起こり得るだろうか。
だからこそ、一樹は彼女が好きになった。ただ毎日を生きているだけの人間に興味などない。彼女は必ず夢を現実にする。それだけの努力を見てきたからこそ、彼女と共に歩きたいと願ったのだ。
限りある日々を、彼女と一緒に……!
既に遊園地は閉まっていた。この雨の中では当然だろう。一樹は入り口を探した。
閉まっていようがいまいが、彼にそんなことは関係ない。重要なのは彼女を見つけることだ。一分一秒も惜しい。
一樹は急いだ。水溜まりを突っ切って自分の足が濡れようと知ったことではない。どの道もうびしょ濡れなのだ。
いくらでも濡れてやる。だから、彼女に会わせて……!
「……!」
人影を見つけ、一樹は一気に減速した。自転車をとめ、自分の足で歩く。
閉じた入場門に寄り掛かり、暗い空を見上げているのは、間違いなく……。
「如月さん!」
自転車のこぎ過ぎで足が重い。しかしそれでも、駆け寄らずにはいられなかった。
待ってくれていたのだ。約束の時間を過ぎて、雨が降りだしても尚、彼女は一樹を信じて待ち続けたのだ。
そう思うと、一樹は泣きそうになった。いいだろうか、泣いても。この嬉しさを、涙で表現してもいいだろうか。
……いいさ。この雨じゃ、泣いてたって分かりはしないだろうから。
「……本当に来た」
如月は少し驚いた顔をしている。待っていたとは言え、今更来るとは思っていなかったのだろう。
「待たせたね……泣けたかい?」
泣きたいのは自分だが、如月の目を見て我慢することにした。
見えるのだ。明らかに。
雨とは違う、瞳から流れた涙の跡が。
「……別に」
慌てて涙を拭い、如月は外方を向いた。
「ただ、月を見てただけ」
雨が止む気配はない。月など見えるはずがない。
そのクールながらも可愛い仕草が、照れ屋の一樹に行動させた。
「如月さん」
「………………」
如月の前に回り込む。濡れ過ぎて使い物にならない眼鏡を外し、そして……。
「ボクと……付き合って下さい」
「………………うん」
二人の距離を、ゼロにした。
「……先生?」
心配そうな表情で、弥生が覗き込んできた。
「大丈夫ですか?やっぱりお疲れなんじゃ……」
「……大丈夫」
如月は夢を叶え、見事医者となった。それも今では二大医師と言われる凄腕に。
弥生のように、自分を気にかけてくれる人も出来た。これ以上を願うのは贅沢と言うものだ。
しかし、考えずにはいられない。
「ならいいですけど、あまり無理をしないで下さいね」
「……うん」
この場に彼がいてくれたら、自分はどれほど幸せだったろうかと……。
「……違う」
如月はすぐにその考えを打ち消した。
彼は生きた。予想されていたよりも遥かに長い人生を。
彼は戦った。心臓の病と。
「え、何か言いましたか?」
彼は生きた。
「……何でもない」
……限りある命を、私と共に。