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玉虫色ストレンジャー  作者: 藤原キリヲ
葦原牧人、高校ニ年
5/14

●No06.退廃のモジュール

 彼女は、壊れかけのヨーヨー。ストリングはプラモデルの指に。



     00


 件名:愛情一発!

 内容:

「ソーセキ先輩!ここは若人らしく「愛情とはなんぞや?」とゆうロマンあり過ぎのテーマで熱い議論をかわしましょうぜ!

 せむぱいは愛し合う男女の間でラブはいかにして育まれていくものだとお考えでありんすか?

 (ちなみにご存知の通りあたし顔文字キライなんで、使ったらダブルブンゴーですよ)」


 件名:Re:愛情一発!

 内容:

「まーたーお前は面倒臭いことを始めるなあ…。

 まあ、二人が互いのこと考えて、ワガママ言わずにやってきゃいいんじゃねえの?

 好き勝手やった結果すれ違っていっちゃったらマズイとは思うけどよー。

 ってか、オレだって嫌いなんだから使わねえよ(顔文字)。知ってんだろタコ助野郎」



     ■■■■■



 温かかった日差しはその熱をいや増し、夏の空気を募らせる。

 大気がやや湿り気を帯び、深緑の匂いを感じさせるようになってくる。



 ――キーンコーンカーンコーン。


 下校のチャイム。

 蜘蛛の子を散らすように生徒たちは教室を出て行く。


「おい、牧人」

「ん?」

 声を掛けたのは棗耕平。

 返事をしたのは葦原牧人。

「オレはゴミ子を迎えに行く。そのあと寄り道してくから、お前らだけで先行ってろ」

「ったく、偉そうにしやがって……お前の家じゃねぇぞ」

「気にすんな」

 笑う。


 豪放磊落というには勝手が過ぎる耕平の態度にも、牧人は徐々に慣れて来ていた。

 彼は牧人たちの前でしか、こうした態度を見せない。

 普段の耕平はフランクながらも堅実で頼れる人柄がよく目立つ。

 牧人たちの前で見せるそうした自由すぎる部分は、ある種の反動か何かなのかもしれない。


「帰るぞ。藤宮、明彦」

 立ち去る耕平を見やりつつ、牧人は二人に声をかける。

「うん」

「行こうか」

 三人で校舎を出、帰路につく。



「あ、ちょっと僕も寄り道」

「ん? コンビニか?」

「まあ、そんなとこ」

「ならジュース買ってきてくれよ。二リットルのヤツ」

「わかった、またあとで」

「おう」

 途中、別れ道で明彦が離脱した。

 下校は二人になる。


「行くか」

「うん」

 牧人と薫。

 アスファルトに足音と影が寄り添った。


「あ……本屋、寄ってもいいか?」

「駄目だよ。わたしたちが先行かないと、みんな待たせちゃう」

「……別に、待たせとけばいいだろ」

 薫の言う通り、彼等が向かう場所には牧人が最初に到達しなければならない。

「だーめ。本なら今度つきあってあげるから」

「ちっ……仕方ねぇ」

 舌打ちしつつも内心嬉しい牧人だった。



「…………」

「…………」

 閑静な住宅地である。

 新築の家屋も多いが、昭和の頃から建っているものもあるだろう。

 最近では高層のマンションやビルも建設され始め、徐々に景観が変わりつつある。


 その最中、一軒の家屋の前に二人は立つ。

 やや大振りなこの一戸建ては三つのフロアを持ち、小さな庭と駐車スペースまで兼ね備えている。

 豪壮というほどではないが、立派な邸宅である。

 その玄関を潜る。大理石の表札には“葦原”とあった。


 牧人はチェーンに繋がれた鍵束を取り出す。

 彼は大分前からそれを弄んでいた。

 幼少の頃から、所謂鍵っ子である牧人にとって、帰宅時の開錠は習慣づいているのである。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 薫を通し、自分も屋内へ。

 真っ直ぐに白い廊下を進み、そのまま階段に。

 牧人だけは二人分の飲み物を取りに台所へ向かう。

「藤宮」

「あ、うん」

 薫は牧人から、先程の鍵束を受け取った。

 そこには自宅の鍵だけでなく、自転車や学校のロッカー、更には牧人の自室のものも含まれている。

 自室の鍵――それは牧人の心の奥底を開くものでもある。

 その委託は信頼の象徴とも言えるだろうか。



 牧人の部屋。

「ほら」

「ありがとう」

 薫は牧人からグラスを受け取る。

 向かい合って床に座り、水を含んだ。


「みんな、何時ごろかな?」

「三十分もかからないだろ。喋ってようぜ」

「そうだね」

 二人は談笑しながら、他の三人の到着を待つ。


「……でね、そこで明彦くんが」

「来たのか?」

「そうなの! すごいタイミング!」

 自然な抑揚のある会話。

 二人の間には友好的な関係が維持されている。

 傾けたグラスから、薫が冷水を口に含む。

 口内を通じて体内へ流れ行く液体を牧人はわけもなく夢想した。

 ――なに……考えて……。

 薫の喉が波打つのを見て、牧人は恥じ入るように視線を逸らす。


「マキくん、ギター弾いてる?」

「……あ、うん。この前の続き、できたから聞かせるよ」

「ホント? 聞く聞く!」


 午後の日差しが差し込む室内。

 平穏な時間が過ぎていく。



「来たよ」

 そこに明彦が加わり、


「待たせたな」

「ちょいーっす!」

 耕平となつめがやって来る。


「マッキー先輩、あげぱん」

 知性の乏しそうな表情で紙袋を差し出すなつめ。

 開かれた袋から漏れた芳ばしい匂いが室内に漂った。

「……こんなものどこで買ってくるんだ?」

「まあまあ、カオル先輩と明彦先輩もおひとつどうぞ」

「ありがとう」

「いただきます」

「うめえぜ」

 どこか郷愁を感じさせるパン菓子を五人で食べた。



 そのように、


 いつからか、牧人の自室は孤独の在処ではなくなった。

 集合場所となったそこは、共有の空間となる。


 互いに話し、触れ、空気を分かち合う場となった。

 いずれ、考えることもなく、自らでいられる場所となるだろう。

 かつての自室は、一人としてそれを成立させていた。

 しかし今の牧人の部屋は、五人でそれを成立させることを可能にしつつある。


 牧人の両親が帰宅する時刻がリミットだ。

 必然的にそれまでに集合は解散される。

 五人で外食に赴くこともある。コンビニで買った弁当を公園で食すこともあった。


 ……それは、現代を生きる彼等の、青少年としての楽園の姿だったろうか。

 いつしか健全な希望を夢想することが困難になった時代である。

 幸福な未来の不安定さを、彼等は大人たちから聞き知って育ったからだ。


 従って、彼等の集う場所が友人宅という既存の個室となったのも、また必然だろうか。

 無難なものだ。

 しかし、仮に他に候補地が見つかったとしても、彼等はこの世から隔離されている優しい空間を選択した可能性はあった。


「ゴミ子! さっき買って来たカードでさっそくデッキ編成だ!」

「おぉう、さっそくデュエりますか先輩!」

 耕平となつめがいきなりカードゲームで対戦を始める。


「……んじゃ『突撃の地鳴り』設置ぃ! 手札の土地を四枚捨てて、一気に八点ダメージお見舞いです!」

「おいおい、手札全部土地だと? 相変わらず頭悪いデッキ使いやがんな」

「くふふ、そんな軽口言ってる暇あるんすかぁ? 『灼熱洞』入ってますよ、このデッキ」

「――手の内ばらすの悪い癖だぞ。『ヴィダルケンの宇宙儀』使ってインスタントタイミングで『カルシダーム』召喚。『ロクソドンの戦槌』装備な」

「うげ! ちょ、その局面でそれは鬼過ぎるっすよー、身内メタ禁止ー!」

「クク、勝負の世界は非情だぜ? 第一メタってるって程でもねえだろ。こいつバランス良いし、普通に使うぜ」


 周囲をまるで気にせず没頭する二人の試合を、残り三人も観戦した。

 複雑なルールを把握しているのは実際に遊んでいる二人だけだ。しかし熱心に見入る。


「んじゃオレのターンな、ドローして……ふむ、『ルーンの母』召喚」

「うぐぐ、それ置かれたら勝ち目ゼロっす!! さらに土地を一枚捨てて『突撃の地鳴り』起動!破壊破壊ー!」

「甘い。スタックで『解呪』」

「ぬわーーっっ!!」


 それほど、心地よい空間だったからだ。




 そんな感じで、牧人は今日も楽しく生きていた。



     01



 件名:Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re:愛情一発!

 内容:

「ってかー、どーでもいいじゃないすか。夫婦で別々にやりたいことがあるなら、どっちが先に帰ってこようが。やっぱ働きたいのに働けないってのはストレスになると思うんすよね。

 確かに男の人にとっては「ご飯にします?お風呂にします?それとも、あ・た・し?」ってのはロマニーな展開なんでしょうけど」


 件名:Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re:愛情一発!

 内容:

「だーかーらー、オレだって別に相手を束縛しようって言ってるわけじゃねえ。確かに一緒にいたいって意思はないわけじゃねえけど、嫁さんが働きたいって言ってるのにやめさせるような真似はさすがにしねえよ。オレの意思を伝えた上で相手が働きたいって言うなら、いいんじゃねえのと思うだけだ。

 ってか、オレは一緒にいたいって意思薄いほうだぜ。極端な話、オレは、オレは好きにすっからお前も好きにやってりゃいんじゃね?ってスタンスなんだよ。働きてえってんならどうぞ働いてくださいよってなるわ。やりてえことやってるのはカッコいいしな。

 ってか、「一緒にいて嬉しい」ってことと、お前がさっきから言ってる「帰ってきた時に家に誰かいて嬉しい」ってのは違う話だってことにいい加減気付け!」


 件名:Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re:愛情一発!

 内容:

「あ、折角だから、その二つの良さについて喋りましょうよ。ラブドキする展開希望」


 件名:Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re:愛情一発!

 内容:

「割と必死に考えたのに、オレの話はスルーかてめえ…。長くて打つのダルかったんだぞ」



     ■■■■■



 この日、牧人の部屋にやって来たのは薫だけだった。


「今日も、持ってきたよ」

「よし、またやるか」

 そのような日、彼女は決まって通学鞄の他に黒いケースを携行してくる。


「待ってね。組み立てるから」

「あぁ、こっちもチューニングしてるよ」

 中から現れるのは三つに分解された銀色のフルートだ。

 柔らかな音色を紡ぐその管楽器は、薫が所属する吹奏楽部で使用しているものである。


 薫がそれを組み立てる様子を見ながら、牧人も自身の使用楽器を手にした。

 調律は感覚で行う。

 その方が玄人らしくて格好良い、と言うより、牧人はチューナーを使用するのが面倒なのだった。

 ジャックを差し込み、アンプの電源を入れる。


「準備できた?」

「あぁ」

 フルートを手にした薫が問い、牧人が応ずる。

 ――藤宮、やっぱ似合うな……。

 水平に伸びたその銀色の管楽器は、音色といい形といい、清純な楽器であると牧人は感じていた。

 そして、その雰囲気がそれを奏でる彼女に良く合っているとも。

 ――何……ダサいことを……。

 誤魔化すようにピックを指で弄ぶ。


 互いの楽器を持ち、机に互いのスコアを置いた。

 ほとんどまっさらなのが薫の、メモだらけで薄汚れているのが牧人のものだ。

「前回作ったところ、やってみようよ」

「わかった。……よし」



 そして二人はセッションをする。

 エレキギターとフルートという珍しい組み合わせの二重奏。

 今は、ホルストの『吹奏楽のための組曲』を奏楽していた。

 曲目は薫が選んでくる。今回の選曲は、以前牧人が『木星』を演奏したことに端を発していたと思われるが、その他にも吹奏楽曲を主体に二人は様々な音楽を奏でた。

 彼女が部活で使用した楽譜を牧人に渡し、互いに自宅で練習してはこうして集まり、合奏をするのである。


 互いが互いの音を潰すことのないように、演奏中も随時アレンジを加え、曲を作っていく。

 鳥の声のようなフルートの音色に、牧人のギターが追随する。

 エフェクトはかけない。彼女の音を極力生かすように音を作り、伴奏を主体に弦を弾く。


「えーと、ここってメゾピアノになってるけど……」

「うん?」

「フォルテとかにした方がカッコ良くないか?」

「えー、どうかなあ……? ヘンな感じになっちゃうかも」

「試してみようぜ、もう一回さっきのところから」

「うん」

 演奏の合間に相談。

 クラシック音楽には、作曲者の意図を汲み、それに沿った奏曲をすることが求められる。

 しかし、牧人と薫はあまりそうしたことは考えない。

 ただ、今は様々な試行が楽しい。

 実際の正否はさておいて、二人は思いつくままに編曲を行った。

「うーん……、やっぱ微妙か……」

「でも、ここでそうやって強く音出すのって、なんか新鮮かも」

「そうかな」

「ふふっ」

「……なんだよ?」

「マキくん。大分楽譜読めるようになったんだね」

「……す、少しな。相変わらずオタマジャクシが泳いでるようにしか見えねぇよ」

「がんばってね。またわからなくなったら教えるから」

「藤宮の持ってくる曲にはタブ譜ないからな。覚えるしかねぇし……」


 牧人は楽譜が読めなかった。

 別に困らなかったし、読めるようになりたいとも思わなかった。

 しかし初めてこうしてセッションをした時、薫がさりげなく楽譜を読んでみせたのを見て、なんだか悔しくなったのだ。

 ……それ以降、牧人は楽譜の読み方や記譜法を覚え始めた。

 あれほど嫌っていた中学校の音楽の教科書を片手に、薫に渡された楽譜を読み解き、音楽記号の意味などを書き加えていった。

 そんなことを何度かやったりして、今では大体の内容が解るようになってきている。


「…………」

「…………」

 二人で演奏。作曲。編曲。

 その作業の果てに、彼等は特に何かをするわけではない。

 発表もしない。録音もしない。

 ただ二人だけのメロディーがそこに生まれ、二人によって紡がれるだけである。


 創作活動としての観点から見れば、非生産的と言えた。

 しかし、生産性と価値は直結しない。


「……そろそろ、終わりにすっか」

「そうだね。今日だけで結構進んだなあ」

「お疲れ、藤宮」

「うん、マキくんも。楽しかったよ」


 ――あぁ、楽しかった……。

 若い二人にとっては、それでいいのだった。



 集中していた二人は少しだけ疲労した様子で、互いの楽器を片付ける。

 薫がケースを閉じる音が最後に響いて、室内は静寂に戻った。


「……あれ? マキくん」

 そんな中、薫が声を発す。

「そういえば……それ、どうしたの?」

「ん……? あぁ、これな」

 薫が尋ねたのは、部屋の隅に鎮座したベッドについてだ。

 つい先日、牧人が意味不明な理由で購入したものが遂に配達されたのである。

「前来た時はなかったよね。買ったんだ?」

「まぁ……、な」

 実際に届いて、組み立ててから、牧人は若干後悔したのだった。

 安いだけあって作りは予想以上に粗末で、あまり寝心地も良くなかったからだ。


「へえー、なんかいいね……ベッドって」

 無造作にその縁に腰掛ける薫。

 安物のそれは、彼女の体重を受けて微かに軋んだ。

「藤宮は家で寝る時ベッドじゃないのか?」

「わたしはお布団。だからベッドって少し憧れちゃう」

「そ、そっか……」


 薫のその姿を見て、牧人はなんだか心が揺れた。

 ――あぁ、これが……。


 ある少女が自室に居て、そこにベッドがある状態。

 それだけである。

 しかし、そこに予想以上に甘美な空気を感じて、牧人は幸せな気分になった。


「マキくん」

 いつの間にか空気に陶酔していた牧人を薫の声が呼び戻す。

「これって……、二人以上乗っても平気かな?」

「ん? 多分、二人くらいなら余裕だと思うけど……」

「なら、立ってないで……隣、座ったら?」

 少し左に体をずらし、牧人が座れるスペースを作る。

 ――……っ!

 思わず息を飲んだ。

 感じる。鼓動。加速していく。

「あ、あぁ……」

 おっかなびっくり、腰を下ろす。

 ベッドの耐久性ではなく、別の何かを案ずるように。

「…………」

 スプリングが薄い。

 張りのないベッドは二人分の体重を受けて、その中央にたわんだ。

 二人の肩が微かに触れそうになって、

「――っ!」

 牧人は慌てて右に微動した。不自然でない程度に。


「なんか、こうやって並んで喋るのって、いいね」

「そ、そうだな……」

 牧人が横を見やる。

 薫の瞳が待ち伏せていた。

 目が合う。


 二人は、微笑した。



 歳相応の、甘やかな含羞を抱きながら…………。



     ■■■■■



 平日、学校。


「ふ、藤宮。メシ、行かないか?」

「うん。行こっか」

 牧人は今日も薫とともにいた。


 学食にて。

「おう、お前らもメシか」

「今、ちょうど明彦先輩と会いましてー」

「たまには五人でお昼ご飯なんてどう?」

 いつもの面子が偶然揃う。

「そうだね」

「………………」

 薫が楽しげに応じ、牧人はどこか不満げだった。




 ……そして、食事中。


「………………」

 牧人は行儀悪く肘を突いたまま、黙々とゆるいペースでカレーを食していた。

 カレーのみだ。付属のサラダや味噌汁は一度も手をつけられていない。

 と思えば、目線もカレーを向いているわけではない。

 顔の向きこそそちらを向いているが、瞳孔だけが上目遣いに前方に向いていた。


「…………」

 牧人の凝視線を照射されているのは、向かいの席にて文庫本を読む薫だ。

 彼女は本を好む。食後の時間など、そうした緩やかな時間によく本を開いた。


 薫は既に食事を終えている。というより、牧人以外の全員が食べ終わっていた。

 文字を追うことに集中している薫は、牧人の視線にまるで気付いていない。


 その代わり、

「………………」

「………………」

「………………」

 他の三人が気付いていた。

 明彦は学食セルフサービスの緑茶を飲んでいる。

 いつも騒がしい耕平となつめも、今だけは同様に大人しく茶をすすっていた。明らかにぎこちない。


 何か、妙な力が場に作用していた。誰も口を開かない。

 静かだが、落ち着かない。緊張感がばかりが漂う。


「みんな、さ……」

 遂にカレーを食べ終えた牧人が発言する。

 どこか億劫な低音に、薫以外の仲間たちが注意を向ける。

「集まるの……久しぶりじゃねぇか?」

 普段の牧人なら絶対に口にしないようなことを言っていた。

「そう?」

 薫が自然な形で応ずる。

「学校だと」

「そうかなあ」

「……………………」

「………………」

 それきり会話が終了し、また不自然な沈黙。


「あ、あのさ……藤宮」

 そして五秒もしない内に牧人は彼女の名を呼んだ。

 普段あまり喋らない牧人からの盛んなアプローチに、観察者三名の間に緊張が走る。

 驚きすらあった。衆人環視のもとで牧人がそのような行動に及ぶとは……、

「…………うん」

 読書に夢中な薫は生返事。

「……ん、ごめん、どうしたの?」

「あ、いや……その……」

 そして牧人、言葉に詰まる。

 ……もしかすると、牧人は薫が読書をしていることすら認識していなかったのかもしれない。

「や、やっぱりなんでもねぇ……」

「……?」

 煮え切らない牧人の反応に薫は首を傾げるだけだったが、耕平となつめは思わず机に突っ伏した。

 耕平は目頭を指で押さえ、なつめは顔を覆っている。

 ――見ちゃいられない。

 そんな心情を体現していた。


「ちょっと、飲み物買ってくる」

「あ、あたしもー」

 耕平となつめは席を立ち、学食の隅に置かれた自販機に向かう。



 食堂内を歩きながら、二人。

「おいゴミ子、近く寄れ」

「なんすか?」

 接近。

 両者とも、顔を寄せ合っての密談。

 牧人のあの痛ましい姿について二人は思いを巡らせる。

 薫に何か話しかけようとしては、不発に終わっていた牧人。

 その稀に見る積極的なアプローチには如何なる意味が込められているか。


「オレの察するところ――」

 重々しく耕平が言う。

「牧人は、藤宮のことが好きだ!」

「何をいまさら、そんな大発見みたいな言い方してんすか?」

 なつめのツッコミはいつも素早い。

「バレバレだよな?」

「バレバレっすね」

 妙にあっさりと二人。


 そのように、最早周囲からも牧人から薫への好意は明白であった。

 発言にも態度にも、明らかに彼女に対する意識が感じられる。

 傍から見れば少々痛々しいそんな姿を、当の薫はどのように感じているのか。

「………………」

「………………」

 想像して、二人は気が重くなった。


「マッキー先輩自身はどうなんでしょ?」

「どーだろ。自覚ねえのかもしんねえぞ……」




「………………」

 一方の牧人。味噌汁をすする。

 ――俺、は……藤宮、のことを……?

 耕平はそのように言ったが、恐らく牧人自身は薫に対する好意を認識していることだろう。

 しかし、変なところでプライドの高い牧人は、その事実を受け容れ難いに違いない。

 ――極端な話。

 藤宮薫は、整った顔立ちをしているもののやや童顔で――有体に言えば、他者に自慢できるほどの美女ではないから、という部分も理由の一つだ。

 そういう辺りがまた、牧人の自尊心を非常に下種な意味で刺激している。

 彼女を好きになっている自分に、どこか納得いっていないのだ。


 ――っていうか、そもそも藤宮は……。

 しかも牧人は臆病だった。

 進展を望みながらも、失敗した時のことを考えると慄然としてしまう。

 自分に対しての相手からの明確な好意を確認しなければ、動くに動けない。

 傍から見れば実に情けないことではあるが、恋に臆病であることは健全な青少年たる証とも言えないだろうか。




 二人がジュースを購入して席に戻ると、


「え、えっと……」

 またしても牧人は、薫に対し更に何か話しかけようとしていた。

「どうしたの?」

「……あ、その……あれだよ……」

「?」

 薫はきょとんとした。

 牧人が何か焦っていることだけが感じられ、どうしたのかと思っている。

「……重症だな」

「……ですね」

 なつめコンビが嘆息する。

 二人の視線の先にいる牧人は冷や汗まみれだ。呼吸も不自然に荒く、目を回しているようですらある。


「こっ、この間、貸してた本!」

 叫ぶように牧人。

「? あ、うん……」

「よ、読んだ?」

「う、うん。読んだよ」

 妙な気迫に気圧されつつ、対応する。

「どう、だった……?」

 まるで自分の評価を求めるような口調だった。

「えっと……面白かった、よ?」

「そ、そっか……」

 安堵。

 しかし唐突に会話終了。

 薫は何故牧人が突然本の話など始めたのか不思議そうな顔をしていた。


「………………」

「………………」

 その隣、耕平となつめが無言の論争を繰り広げている。

 退くか戦闘か。この極限状態を生き抜くための方法は?

 低い姿勢で見つめ合いながら、時に首肯し、時にかぶりを振っていた。


「……っ、……っ」

 牧人は過呼吸に陥りかけている。

「ま、マキくん……大丈夫?」

 理由はわからないものの、薫が牧人の異常を察して動く。

「顔色、悪いよ? もしかして、熱でもあるんじゃ――」

「…………っ……」

 牧人の額に触れようと薫の手が伸びる。

 耕平となつめ、そして明彦もこのタイミングでの接触の危険性に戦慄した。

「……あっ!」

「ひぃっ……!」

「…………」

 三者三様の諦観。

 牧人が羞恥のあまり暴走する様を三人は絶望的な表情で見守るしかなく――


「――ッッッッ!!!?」

 当の牧人は、ものすごい勢いで席を立つ。

「ま、マキくん――!?」

「……と、トイレ」

 掠れた声でそう言って、猛スピードで学食を飛び出して行った。






 逃げるように、トイレの個室に駆け込んだ。

「ハッ……ハッ……!」

 息が荒いのは疾走だけが原因ではないはずだ。


「ハハ……」

 個室の戸にもたれながら、天井を見上げての失笑。

 ――俺……なにやってんだよ……?

 先程の自分の言動を振り返っての自嘲だった。


 薫と会話をしたい。

 その欲求ばかりが空回りして、明らかにおかしなことになっていた。


「………………」

 牧人としても、薫が自分にある程度の好意を抱いてくれている自覚はある。

 自惚れという程ではないが、彼女との関係は良好であると思うし、気も合うと実感している。

 そのような関係が保てているのなら、彼女との交流は放っておいても必然的に発生するであろう。

 無理して会話をする必要などまるでない。


 最も、薫からの好意が、牧人が彼女に対して抱くものと釣り合う程の量かというと……解らなかった。

 知りたくもあり、恐ろしくもあった。


「………………」

 ぼんやりと、汚いタイルの床を見下ろす。

 ――藤宮と……か。

 薫からの自分に対する好意。

 それを予想して、牧人は思わず甘い気分に浸った。


「……っ、……っ!!」

 再度、悶える。

 ――クソが……一人で舞い上がるなんてカッコ悪ぃ……。

 いつも通り浮かべる否定の思考も、どこか自信がない。


 ――あー、もう……! 馬鹿過ぎんだろ……。

 今日も自責ばかりを繰り返す。

 そうすることの意味を深く思考することもせずに。



「藤宮…………」

 そんな、相変らずどーしよーもない感じでいる牧人だった。





 数分後、牧人が野菜ジュースなどという彼の嗜好とかけ離れた飲料を購入して戻ってきた姿を見て、耕平となつめは薫を強引に食堂から連れ出した。



 明彦は一人、牧人がゆるいペースでサラダを貪る様を眺めていた。



     02



 件名:Re:の数がウザいから一回リセット

 内容:

「ってか、ここ最近の牧人見ててお前どう思う?

 ヤツは結局どうなんだ?藤宮に告る気あんのか?」


 件名:会心の一撃!

 内容:

「てか、仮にそれが実現したとして、実際どう思います?マッキー先輩がカオル先輩に告った場合の判定って」


 件名:なんだよその件名?

 内容:

「いやもう、そんなん間違いなくアリだろ。藤宮もあれで満更でもない感じするし、すんなりオーケーするんじゃね?」


 件名:マッキー先輩心のダメージっすよ

 内容:

「でも、マッキー先輩のことだから告白なんてしないんでしょうねー」


 件名:なら、会心っつーかむしろ痛恨

 内容:

「しねえだろうな、牧人だぞ。

 …こんなところで好き放題言われてるなんてアイツ絶対知らねえんだろうなあ」


 件名:痛恨!

 内容:

「まあ、隠れいじられキャラな部分があの人のミリョクですから。

 んむー、ならもうカオル先輩をマッキー先輩に告白させるっきゃないんじゃないすか?」


 件名:Re:痛恨!

 内容:

「確かにそれはそうなんだが、藤宮が告ったとしても牧人のことだ、意味もなく「少し考えさせてくれ」とか言って、そのまま待たせた挙句タイミング逸してなかったことにしちまう可能性があるぜ」


 件名:Re: Re:痛恨!

 内容:

「…つくづくヘタレっすね、マッキー先輩て」


 件名:Re: Re: Re:痛恨!

 内容:

「後輩にヘタレ呼ばわりされる男…哀れな!

 ってか、もういい加減メール打つのダルいんだけど。電話にしねえ?」


 件名:Re: Re: Re: Re:痛恨!

 内容:

「ダメっす。こーゆーのはもたもたとメールでやるから楽しいんじゃないですか」



     ■■■■■



 それは、ある日の午後だった。


『マキくん……、あの……今からちょっとお邪魔してもいいかな……?』

 学校から帰宅してしばらく経つと、薫からそのような電話があった。


『あの……この間借りてた、本、返そうかなって……。行っても、いい?』

 承諾した。

 本の返却などいつでも良かったが、牧人は純粋に薫に会いたいと思った。

 会ってとりわけ何をするという話ではない。


『うん、じゃあ、今から行くね』

 ただ、薫が家に来るということが嬉しくて、その機会を逃したくなかったのだ。



 電話を置き、そのまま椅子に座る。

「………………」

 ここ最近では珍しく、この日の牧人はひとり自室にいる。

 特に意味もなく、机の上に置かれた雑誌を集中もせずぱらぱらと捲った。

 内容はあまり頭に入らない。


 以前のように無気力に過ごしているわけではない。

 ただ、久しぶりに友人のいない自室におかれ、するべき行動に惑ったのである。


 ――なんか、静かだな……。

 そう感じてから、ほんの少し前まではそれが普通だったのだと思い直し、愕然とした。


 雑誌を閉じて、ベッドに転がった。

 軋る骨子を音で感じ、天井を見上げる。


「ふぅ……」

 自分一人しかいないこの部屋を空気で感じる。

 それは、長距離を走り終えたような感覚だった。

 激しい運動から解放され、疲弊する体が休息を求めている。

 しかし、それまで長い距離を駆けて来たためか、停止している事が不自然でたまらない。


 人気のない、このよそよそしい静寂は、そうした不和とどこか似ている。

 ――俺の、部屋なのにな……。

 苦笑した。


 自室の有り様は心象風景に近しいとよく言われる。

 然るに、彼の心は友人がいないことを違和と感じるようになったということかもしれない。



 ――ピンポーン。

 だからそうして呼び鈴が鳴った時、

「藤宮……か?」

 このタイミングで宅配便だとは思わなかった。

 自分以外に誰もいない自室が、耐え難くもあったからだ。


 求めるように、階段を降り、廊下を走った。

 そして、玄関の戸を開く。




「こ、こんにちは……、マキくん」

 そこには、予想通り彼女がいた。


 奇しくもそれは、初めて彼女がこの部屋を訪れた時とよく似ていた。


 しかし……、




「あ、あのね……これ、借りてた本……」

 言いつつ本を差し出す薫の態度は、普段よりどこか落ち着きがない。


 今日は本来彼女が来る予定のない日だ。

 突然連絡をよこしたにしては本の返却などという割とどうでもいいような用向きだったため、牧人は最初からなんとなく違和感を覚えていた。


 しかし、驚くべきはそんな突然の来訪ばかりではない。


「藤宮……お前――」

 言葉を詰まらせる牧人。

 眼前に立つ薫は、彼の記憶とは一部異なる姿をしている。

 視力調整のための凸レンズを装着していない藤宮薫を見るのは、そういえば牧人はこれが最初だった。


 ……要するに、この日の藤宮薫は眼鏡をしていなかった。



「………………」

 故に相応の驚きと意外性。

 ――あれ?藤宮って、やっぱ……結構――――

 ついついそのようなことを考えてしまい、その先に続く感情を押し留めるような形で思考停止。

 何やら言い知れぬ気恥ずかしさに見舞われた。

 赤面しそうになるのを感じ、さりげなく顔面の半分くらいを手で覆い隠してみたりする。

 唐突に目をそらして顔を覆う少年の所作は何とも不自然だった。


「ま、マキくん……あの……?」

 対する薫の口調もどこかぎこちない。

 普段明朗な彼女の声が若干の憂色を帯びていることが気になって、牧人は指の隙間から彼女の様子を流し見た。

 ……それがいけなかった。


 ――やべぇ、どうしよう……藤宮、可愛い……。

 結局その感情を認知してしまっていた。

 思えば、これが最初の明確な感情の発露だったのかもしれない。

 初期の頃から存在していた、このとめどない水のような志向性を牧人は今更自覚したのだった。


「コンタクト、作ってみたんだけど……ど、どう……かな?」

 そんな牧人に薫はおっかなびっくり問いかける。

「どう、って……、っ!」

 それに対しての牧人の返答はいかにも芳しくない。

 今まさに感想を述べようとした瞬間、彼の脳裏にある考えが浮上したからだ。

 ――まさか、耕平に言われてコンタクトに変えた……のか?

 それが発端となって、今まで思考の隅に追いやっていた色々な何かが次々に湧き出してくる。


 かつて牧人は、耕平が薫に手を出そうとしていると誤解したことがある。

 友人となったとはいえ、牧人は未だにその時抱いた耕平に対するライバル意識が抜け切らない。

 ライバル意識というが……要は、単なるコンプレックスなのである。


 自分は耕平には敵わないという意識が、牧人の中には深く根付いてしまっていた。

 それは能力的にも、人格的にもである。

 だから、彼との競争になってしまった場合、勝てる自信が持てないのだった。


 特に薫と耕平の関係性については、異様に神経質になっていたところがあった。

 牧人の一方的な勘違いであったとはいえ、耕平に出し抜かれたことを想像したあの時、全身を駆け巡る焦燥と自己嫌悪は耐え難いものだったからだ。


 ――もし、仮にそうだとしたら藤宮は……俺なんかより――――

 だから牧人は、その段階で思考を凍結させてしまう。ことある毎に自分と耕平を比較してしまうのだ。

 最早まともな返答など望むべくもない。

 これ以上の思考は色々と心理的ショックが大きすぎて絶望的であることが予想されたからだ。


 だが、


「こ、これで……」

 そんな牧人を深海から救い出したのは――


「これで、マキくんと一緒……だね」



 彼にとって何物にも代え難い、

 多少の照れが入り混じった藤宮薫の笑顔だった。



     ■■■■■



 薫を部屋に通し、二人の自室。

 互いにベッドに腰掛け、肩を並べる。

 僅かに触れ合わない二人の距離感は、そのまま、もどかしいながらも親密な心の距離そのものだったと言えるだろうか。


「なんで突然メガネやめたんだ?」

「だ、だって……マキくんが似合わないって言ったから……」

「…………言ったっけ?」

「言ったよぉ……」

「ぜ、全然覚えてない……」

「はぁ……」

 溜息。

「また適当なこと言ってたんだね……、わたし、すごく気にしてたのに」

 拗ねたように頬を膨らませる。


「だから……、マキくんにダサいって言われたくなかったから……」

「……え?」

「あの……棗くんみたいにおしゃれなメガネにしたら……その……、マキくんに……似合うって……」

「ちょ、ちょっと藤宮……お前なに言って――?」

 ハッと我に返る。

「ご、ごめん……何、言ってるんだろうね……わたし……」

 恥ずかしそうに俯く薫。

 何気なく目の間辺りに手を伸ばすものの、そこにあるべき眼鏡はない。

 結果、彼女の手は行き場なく眼前を彷徨った。



 ――どくん。


「……っ!」

 明確な音として自身の胸の高鳴りを牧人は実感した。

 ――あぁ、くそっ……!

 心中で悪態を吐く。

 何に対して?

 自分自身? それとも薫?


 答えは何者でもない。

 ……照れ隠しに過ぎないからだ。


 ――俺に言われて、藤宮はコンタクトにした……?

 他者に影響を与えるというのは、それだけで快感をもたらすものである。

 その人物の心がそれ程自分に向いているということが認識できるからだ。


 この時の牧人には、そうした薫の心が自分に対して向けられる心地よさと、耕平介入の可能性の低さに対する安堵が入り混じっていた。

 複数の思考が入り乱れて混乱する。

 キャパシティが限界を迎えつつあり、その兆候が顔に赤面となって現れそうだった。

 最も、それは薫も同じようなものだったかもしれないが。


「ふ……藤宮ってソフト? ハード?」

「……は、ハードだよ」

 お互い誤魔化すように会話が始まった。

「わたし、眼球の形が普通の人と少し違うらしくて、ソフトはつくれないんだって」

「そうなのか……。大変だな、痛いだろ?」

 ハードレンズは慣れるまで異物感が非常に強いと聞く。

「うん。まだすこし……、ごろごろするの」

 目尻を少し押さえながら。

「だ、大丈夫かよ? 目薬いるか?」

「ううん、平気。ありがとう」

「……いつからコンタクトにしてたんだ?」

「もう、半月くらい……かな? 学校につけて行くのはまだちょっと恐くて……」

 はにかむような表情。

「もう大分慣れてきたから、明日からは学校にもつけていこうかなって思ってる」

「………………」

 ――で、最初に俺に見せに来た……ってことなのか?

 期待なのか疑念なのか、よくわからない感情が限りなく膨張していく。

「あ、あの……」

「……で、それで! 昔似合わないって言ったマキくんに、最初に見せてビックリさせてあげようって思ったの!」

「……っ、ぁ…………」

 聞こうとしたら言葉を先取りされて、牧人は妙な音を発しただけになった。

「で、でもっ……マキくん、覚えてなかったし……!」

「す……すまん……」

「いつも、そうなんだから……、口から出任せばっかりで、わたしばっかり振り回されて……ばかみたい…………」

 不満そうな表情。

 今まで何度か見てきた表情だが、眼鏡がないことがどこまでも新鮮であり……、


「………………」

 何より素顔の薫は可憐だった。

 正視できない。

 言葉も繋げない。


「………………」

「………………」

 沈黙し、停滞する空気。

 高鳴る胸の鼓動。


「……に、似合ってるよ」

 間が空いて、ひり出すように言った。

 緊張のせいか、牧人らしからぬ気の利いた発言だった。

「……ホントに? また適当なこと言ってない?」

「ホントだって……。藤宮は、メガネないほうが……その、いいと思う……」

 言っているうちにだんだんと羞恥心が沸いてくるのが牧人だ。尻すぼみになる。

「ああもう……、素顔見られてるってだけでなんかすっごく恥ずかしい……。レンズが一枚なくなっただけなのに……なんでこんなに落ち着かないの……?」

 耐え切れないとばかりに赤面を隠す薫。若干涙目にもなっている。



「……っく!」

 牧人は再度顔を覆う。

 ――あぁ……、もう……俺は……っ、

 割と、限界だった。

 自分の感情を、彼女への好意を、最早誤魔化すことなど出来なかった。

 そうしたものを曝け出すことの格好悪さを恐れてきた彼の心が、ここに来て決壊しかけている。


 無様に彼女の可愛さを褒めちぎりたい。

 無心に彼女への愛情を言葉にして伝えたい。


 ――俺……、藤宮のことが……でもっ――!


「…………っ」

 しかし、言えない。


 牧人は臆病だった。

 困難に立ち向かうにも、迷ってしまう。悩んでしまう。

 懊悩から思考停止が生じ、責任転嫁か行動の理由付けが必要となった。


 勇気が欲しいけど、それを出す方法がわからない。




 だから牧人は、


「なぁ……俺らって……、なんかもう恋人同士みたいじゃねぇか?」

 そんな、ひどく卑怯な台詞を口にした。

 ボソッと言った。聞き取られなければそれでも良かった。


 呟くようにこぼしたそんな言葉が、運良く薫の耳に入って、


 ……彼女の方から、


 ――――好きだ、って言ってくれたらいいな……なんて……。



「え?」

 そんな弱い牧人だから、

「だから、俺たち……、よく一緒に遊ぶし……メシだって食うし……」

 聞き返す薫に、気付けばみっともなく言い直してしまっていた。


「もう、恋人と……そんな、変わらないんじゃ……ねぇの……?」

「あ、あはは、うーん…………」

 苦笑しつつ言葉を途切れさせてしまう薫。



「………………」

「………………」

 再度、沈黙。


 ――ま、マズイだろこれ……嘘だって言えよ……、

 牧人は息を詰まらせる。


 ――まだ間に合う。訂正しろ。あんな馬鹿な発言あるか……!

 必死に、五秒前の自分に対しての嫌悪を抱こうとして、


 ――と言うか、こんなの……否定された時が痛過ぎんだろ……!

 しかし、

 そう言って取り消してしまうことで、この時間が終わってしまうとしたら。



「………………」

 結局、恐くて何もできないのだ。



 言葉は次げない。

 何か言えば、そこで未来は消えてしまう。


 だから視線は自然と薫に向く。

 彼女に答えを求めるように、


「あ……、……えっと……」


 落ち着きなく辺りをきょろきょろ見たり、髪をかきあげたりしながら、


 素顔の薫は牧人の視線に少しずつ顔を紅潮させていきながら、



 最終的に、


「……そうかも、ね」



 消え入りそうな声で、そう、言った。



 ――――牧人の脳髄はそこで撃ち抜かれた。



     ■■■■■



「きゃっ……!」

 室内に響く小さな悲鳴。


「藤、宮……」

 自身の真下に横たわる、彼女の息遣いを感じる。

 勢いだった。

 気付けば牧人は、隣に腰掛けていた彼女を押し倒していた。

 ――ギシリ。

 二人分の体重に、安いベッドが声を上げる。


 引き金は、いくつもあった。

 色々な何かがトリガーとなって、牧人をこの行動に駆り立てたのだ。


「言ったよな、なら……、」

 彼女の細い手を掴んだ。

 逃げられないよう。離さないよう。


「恋人同士なら、こんくらい普通だろ……?」

 半ば自棄になりながらそんな無茶なこと言い出す牧人。

 もう、何も見えていない。

 脳神経が、熱情で焼き切れそうだった。


「マキ……くん……」

 潤んだ彼女の瞳が見上げる。

 それが、恐怖による涙でないことを、牧人は直感で理解した。

 或いは彼の都合の良い思い込みが、真実と合致したのか。

 腹部か骨髄か、身体のどこかが熱く発火する。


「ゃ、痛い……!」

「藤宮……っ、俺……!」

 興奮から、制御が効かない。

 つい、がっつくような姿勢になってしまう。

「嫌……っ、やめ……!」

「なっ、そんな――!」

 牧人はこんな時でも言葉でダメージを受けてしまう。


「ち、違うよっ……マキくんのことが、嫌いなわけじゃなくって……!」

 薫は、慌てたように言う。

 今や彼女の中でも、牧人同様に雑多な感情が渦巻いて、秩序を成さなくなっているのだ。

 それでも、薫は牧人よりも落ち着いた様子だ。


「せ、せめて……」

 羞恥によるものか、興奮によるものか、



「せめて先にキス、して……」

 顔を赤らめつつ、そのように言う薫。

 その表情は、牧人が今まで見てきたどんなものより、美しく可愛らしく――



「あ、ぅ……」

 ……愛しかった。


 ゆっくりと彼女に覆いかぶさり、抱きしめる。

 無意識にそうしていた。思考ではなく感情が勝手に体を動かす。



「マキ……く……ん?」

 だから、問いかける薫のその声で、


「……藤宮――っ!」

 牧人の神経は焼夷された。



「んんっ……!」

 口を塞がれた薫がくぐもった声を上げる。


「ん……んぅ……んっ…………」

 牧人は、彼女の唇を奪う。

 勢いに任せて。

 最初は抵抗を恐れたが、薫の体は一瞬痙攣しただけで、それ以上の強い反応はない。

 安心と共に枷が外れ、牧人は本能の赴くまま、包むように吸った。


 目を閉じて、彼女の呼吸を間近に感じた。

 時折口から漏れる声が、苦しそうに喘ぐ鼻息が甘い。

 触れ合う唇がとろけるように柔らかかった。

 肩にしがみつく彼女の手が熱い。

 求めすぎて時折互いの前歯がぶつかったが、その痛みも心地よかった。


 二人は少しずつ顔を動かして、互いの唇を感じた。

 どこか理想的に噛み合う場所を探すように。

 未成熟な彼等は、ひたすらに互いの性の衝動を唇に収束させた。


 存分に触れ合った。

 互いの唾液によって両唇が溶接されてしまうような錯覚さえ覚えた。


 ――これが……、キスか……。

 離れる瞬間、抱いた思考が馬鹿みたいに単純で、幸福だった。



 ……そうして、長い口吻を終えた。

 閉じていた目を開き、彼女の姿を認識する。

 少し体を起こすと、視界全てが目前に横たわる、愛する少女で埋まっていた。


「マキくん……、キス、下手だね……」

「なっ――――!?」

 初めてのキス後、そのような言葉を受けてしまった。

 あまりに格好悪い残酷な真実は、一瞬で牧人の頭脳を氷結せしめた。


 何も言い返せない。

 ――え、ええ……っと?

 興奮状態だった脳髄が急速に冷却され、頭の中が真っ白になった。

 何も思考することができない。

 勢いで押し倒したはいいが、その後にするべき行為が何も思いつかない。

 最初に彼女に触れてからこの瞬間まで、牧人は頭の片隅で今まで見てきた各種成人向け書籍映像媒体その他諸々を参考に綿密なシミュレートを重ねていた。

 だが、その唇の柔らかさと現実の彼女の存在の前にそれらは全てオーバーキルされた。

 ……いくら想像を重ね、明確にイメージしたところで、いざその場に立たされれば、感じられる相手の圧倒的な質量に、それらの想定は容易く凌駕されてしまう。

 ――人間って、こんなに……、大きくて、熱くて……。

 触れ合う熱が命の大きさを、目にする肉体が存在の大きさを、毎秒の単位で牧人に知らしめる。

 ――――その尊さ。精神的に押し潰されそうになった。


「あ、あの……」

 気付けばどこか謝罪するような口調になってしまっている。

 このどこまでも穢れなき、尊く美しい命を、我が手によって傷つける。

 その重大さを牧人は性欲の向こう側――本能に根ざす生物としての感覚内に垣間見た気がした。

 果たして、自分如き矮小な存在が触れてもいいものか……。


 しかし、何も思いつかないからといって、このまま止めることなど出来はしない。

 それは牧人が日頃よく口にするカッコ良さの観点からもあり得ないし、何より――


「マキくん……、おなかに……何か当たってる」

 …………そういうことだった。

 もぞ、と避けるように彼女が動く。

 触れ合った腰より下にもどかしい摩擦を感じる。


「っ……す、するぞ」

 抱き合う少女に、ぶっきらぼうに宣言する。

 そうして強そうに振舞って、必死に自分を奮い立たせようと。

 たが、この後何をどうすれば自然でカッコ良いのかが全然わからない。


 そんな彼を見透かしたように薫が言葉を発した。

「ねえ、マキくん……」

 普段の彼女らしからぬ、どこか甘えるような声に聞こえた。

「マキくんがしたい、なら……こういうこと、しても……いいよ。けど……」

 それでいて、子供に言い聞かせるような口調。

 普段の牧人なら、そのような扱いをされることに抵抗を感じたかもしれない。

 しかし――



「こういうことするなら……ちゃんと、わたしのこと……好き、って言ってよ」




「あ…………の………………」

 そのように言われて、無関係なことを口に出来る者などそういるだろうか。



「す……好きだよ」

 押し出されたのは、いじけたような小声。

「……そんなんじゃ駄目。もう一回」

 当然、認められない。


「好きだ……よ」

 通常の声量。しかし尻すぼみにデクレッシェンド。

「駄目……、気持ちこもってない。やりなおし」

 これも不認定。



「……っ、くそ……!」

 舌打ちをしてから、牧人は深呼吸をした。


 こうなったら、もう腹をくくるしかないのだ。

 牧人自身も知っている。

 自分は、割り切れば……


 割り切れば、なりふり構わなければ、

 ……大抵のことは出来てしまうのだと。


 ……そして藤宮薫は、

 今まで牧人が必死で隠してきた、“素の自分”を見せてもいい相手ではないか、と。

 なら、強がる必要などないのではないか。

 彼女への好意を素直に言い表せば、それで――――



挿絵(By みてみん)



「――――――薫……、好きだ……っ!!」


 だからそうして、


 初めて彼女の名前を呼んで、牧人はもう一度キスをした。

 振り切るように強く抱きしめて、今度は先程よりも激しく。

「ん! ん……んふっ……ぁ……!」

 舌を絡めてみたりもする。

 鼻同士が触れ合わないように顔を傾けると、自然、深く結合することとなった。


「マ、キ……くぅ……んっ、む……」

 彼女が告げる自身の名が、合わさった口内の熱で融かされていく。

 ――あぁ……薫……。

 高まる好意が留まることを知らない。

 頭は冷めてきているはずなのに、感情が体を強制的に加熱し、意識と無関係に稼動させる。


 …………葦原牧人は強制を嫌う。

 ――誰の言葉だ、それは?

 振り払った。


「あ……ぁ……、かお、る…………」

 キスの合間。息を漏らすように彼女を呼んだ。

 ……本当は、ずっと彼女の名前を口にしてみたかった。

 そうすることで、自分が彼女にとって唯一の存在になれるような気がしたから。

 その望みが、ようやく叶う。


 吸い上げ飲ませ、唾液が交換される。

 肩にかかるのみだった互いの手は、今や背中に回されている。

 口内を舐める。全てに触れるように。

 身じろぎをする彼女を捕らえ、蹂躙すべく舌を押し込む。


 彼女の舌は……甘かった。

 今まで触れていなかったのが愚かしく思えるほどに。

 それを自分が醜く独占して、ひねもす舌を挿し入れ味わっていたいとまで思わせる。


 存分に味わってから、唇を離す。

 言葉を交わすために。


「ありがとう……。私も……マキくんのこと、好きだよ……」

 恍惚とした半眼で、そんな愛を唄う少女。



 何から何まで未経験の少年は、それだけで死んでもいい気分になれた。


 ……そういえば結局自分から告白してしまっていることに、牧人は気付く。

 しかし、


 ――もうどうでもいいや……そんなの……。


 だって今は、抱き合う彼女が温かいから。


 触れ合う彼女が、愛しいから。



 ――このままずるずるー、っと行けるところまで…………。



「薫……」

「…………うん」



「いく、よ……」


 圧倒的な快感がそこにあると予想して、牧人は眩暈がしそうだった。




「っ、……」



 そうして二人は、

 初めて、体を重ねた。





 全身で感じる彼女の体は、

 なんというか、……そう、快かった。



 ……多分。



     03



 件名:Re: Re:理想的ラバーズ

 内容:

「オレは激可愛い彼女がいて、オレはそいつのことが好きで、そいつとの関係をずっとずっと安定して保っていくことに快感を覚えるね。超幸せで健全な状態をいつまでもいつまでも維持していくんだ。

 そのために、オレは色々根回しも裏工作もする。平和と安全が大事なんだ。答えのわかってるクイズみたいに、常に上から状況を把握していたい。オレの求める幸せを、全て手のひらの中に全て収めたいんだな。

 だからオレ、推理小説とか読む時は最初にラスト見て、犯人誰か確認するぜ。そうやって全てを知った状態でニヤニヤしながら読み進めていくんだ。…人生だってそれと同じさ」



     ■■■■■



「だから! オレは別にゴミ子とは何の関係もない!」

「あたしだって彼氏いますから! ソーセキ先輩とは友達未満ですから」

「友達未満っ!? オイそりゃ逆に低すぎねえか!?」

「あっ、友達以上恋人未満って言いたかったんすよ。思わず略しちゃいましたー」

「そんな重要な部分略すな! バカ子って呼ぶぞ!」

「うわ~ん! また新たな嫁入りブロックワードが産声を~!!」

「………………」


「おい、牧人。お前も一緒に何か言い訳を考えてくれ」

「あ、あたしからもお願いします。同じような疑いかけられてもおかしくないんで」

 ずい、と顔を寄せてくる二人に対し、

「――っ! 知るかぁ!!」

 牧人、咆哮。

 存在を誇示するように床を踏み鳴らし、立つ。

 幻聴か。どこかで血管の切れるような音がした。


「芥川と仲良くしてて彼女に疑いをかけられている? ハッ、知るかよそんなの!

 てゆうかなんでお前らなんでもない顔して俺の部屋にいるんだ!? 人んち勝手に上がりこんで偉そうに色々喋りやがって! 大体なんで毎日来るんだよ!!?」

「おー……、マッキー先輩のメタ早口が炸裂っすねー」

「しかもなんで俺が帰ってくるよりも先に部屋にいるんだ! いつ鍵スッたんだよ!?」

「あー、鍵なァ……」

 気怠そうに鍵束を差し出す。

「お前が体育の時落としてたから預かっといた」

「侵入する前に返せぇ!」

 食いちぎるように掴み取った。


「まあ、牧人の鍵に関してはオレたち共有の備品ということで問題ない」

「大アリだよこの野郎……」

 牧人はくずおれるように床に腰を下ろした。

 最早怒鳴るのも億劫だったのだ。

 三角形に向かい合う。



 この日、牧人の部屋には耕平となつめがやって来ていた。

 藤宮薫と恋人として交際を始めることになってから数日が経つ。

 その件に関して、牧人は他の友人たちに話すかどうかを決めあぐねていた。

 ――別に、言う必要もねぇ……よな。

 本当は恥ずかしくて言いたくないだけなのだが、牧人はそうは言わない。

「…………」

 ただ、そうして隠そうとすると心のどこかが微かに痛むのだった。


「……しっかし、女というのはわからん。大人しいように見えて、その実何を考えているのやら」

「耕平は、デリカシーがないんじゃないか?」

 自分の事を棚に上げて、牧人はそんなことを言う。

 言いたい年頃なのだ。

「いや、ソーセキ先輩はチャラ兄さんに見えますけど、恋愛関係はしっかりしてますよ」

「……ホントか? 普段のこいつを見てると、全然信じられないんだが」

「残念ながらホントです。彼女に対してはウソつかない人なんです。いいダンナになりますよ」

「フォローは嬉しいが残念とか言うなこのペチャカップが」

「ぺ、ペチャ……ッ!?」

 その言葉を受け、なつめは強風に煽られるように仰け反った。

「な、何語かはわかりませんがABCの最初ってことくらいはーっ!!?」

 吠え猛る。小さくも百獣の王を思わせる。

「……いや、そんな捻った表現じゃねぇだろ」

「知ってますよそんなこと! ちくしょう、そんなにパイズられたいのですか先輩がたはーっ!!?」

 ベッドにダイブ。シーツにくるまってしまう。

 ちなみにツッコミを入れたのは牧人だ。彼も徐々にこの二人の温度に慣れてきていた。

 元々があまり陽気な気質ではないため一緒になって騒げるほどではないが、会話に混ざり、適度に相槌を打つことは自然になりつつある。


「ま、そんなオレもこんなペチャ子に浮気疑惑がかかってるということだ。信頼ってのは、いくら向けても報われないもんだぜ」

「カッコつけるのはいいんですけど、ペチャ子はさすがに傷つくっす……」

 芋虫のようにシーツから顔だけ出した状態でペチャ子こと芥川なつめ。

「まあ、ともかくオレは悩んでるわけだよ」

「……贅沢な悩みだな」

「ホントですよ、そんだけ彼女の愛が深いってことじゃないですか」

「いや、愛の深い女は面倒臭えよ……今なんだっけ、そういうの流行ってるよな?」

「……流行ってんのか? 聞いたこともねぇぞ」

「流行ってんのはマジだよ。なんだ気になるのか牧人?」

「な、ならねぇよ! それよりお前の彼女の話じゃないのかよ!?」

「……お前はなんで毎回そんなに慌ててるんだ。何かいいことでもあったのか?」

「ねぇよ馬鹿!」

 そしていつも通りのやり取りがある。


「ってか、マッキー先輩はソーセキ先輩の嫁は見たことあるんですか?」

「写メでな。耕平は予想通りの面食い野郎だった」

「当然だ。オレの彼女だぞ。世界一の美少女に決まってる」

 皮肉に対してここまで豪語出来る耕平の尊大ぶりには牧人もなつめも感心してしまう。

「……まあ、清純そうな娘さんですからねー」

「お前の日本語にはどうも毎回引っ掛かりを覚えるんだが……」

「そりゃあたしはスラムで泥をすすって生きてきた女ですからね、マッキー先輩みたいな育ちのいい人間とは違うんですよ。ああカワイソ! 悲劇のヒロイン最前線です!」

「まぁ、こいつの言うとおり、一途な性格なんだろ。汲んでやれよ」

 この通り、なつめの胡乱な発言も牧人は軽く無視できるようになった。

「そうですよ! いくら愛が深くたって、ソーセキ先輩からもサービスしてあげないと逃げられちゃいますよ!」

 そして流されてもめげないのがなつめだ。

「まあ、それはわかってるんだけどねえ……。んー、デートの誘いでもすっか」

「で、デートって、そんな簡単に……」

「その程度でいちいち照れんなよ童貞が」

「違うわ!」

 えらく真剣に反応してしまう牧人。


「……え、違うの?」

「あ、いや……、その」

「初体験は誰っすかー!?」

「……え、えっと…………」

 言えるはずもない。

 ――ど、どうする……喋っちまうか……?

 牧人の中で選択が行われようとしていた。

「そういや、お前は最近彼氏とはどーなの?」

「あー、あたしっすか?」

 しかし、さりげなく話題を変えてくれる耕平。

 ――話題がそれたか、セーフ……かな?

 その気遣いにも牧人は気付かず、ただホッとしていた。

「んー、まあ、またいつも通りネガチブに生きてますよ」

「ええと……またなんかの資格試験の勉強だっけ?」

「そうっす。毎日十通ぐらい遺書メールが送られてきますよ」

 壮絶な恋愛をしていた。

「あ、芥川の彼女って……」

「牧人は知らないのよな? オレらより歳上の大学生なんだけどさ、ほら、ええと、なんだっけあのすげえトコ行ってる……」

「あれっすよ、あの――」

 なつめの答えた大学は県内では最も有名な一流大学だった。

 名を出せば大抵の人はレベルの高さを察し驚く。

「…………」

 ちなみに牧人の両親の出身校でもあったのだが、別に口には出さない。


「そんなスーパー大学の法学部に在籍中で、今は検察官目指して色んな資格取ってるそうだ」

「検察官って……」

「知ってんだろ、あの法廷で弁護士と戦う仕事だよ」

 かなり駄目な説明だった。

「受け攻めで言うところの攻めっすね」

 もっと駄目な説明だった。

「……そんなすげぇ経歴してるくせに死にたがりなのか?」

「死にたがりっつーか……なんかすぐ世の中が嫌になっちまうらしい。殺人事件のニュースとか見ると鬱になるんだそうだ」

「もしかして……そういう性格だから検察になりたいのか?」

「らしいっすよ」

 人事のようになつめ。

「すぐ、一緒に死のうって誘われます」

「なんか太宰みたいだろ?」

「…………」

 牧人は改めてこの二人の大物具合に押し黙ってしまう。

 上には上がいるように、この二人の個性はいつも軽々と自分の予想を飛び越してしまう。

 ――芥川も、なんでそんなとんでもない彼氏と付き合ってんだ?

 気になったが、尋ねたら更に自分の一般人ぶりを見せつけられそうで嫌だったので聞けなかった。


「しかし、お前らも苦労してるな……」

「お、なんかわかった風なこと言いやがるぜ。牧人の癖に!」

 ガキ大将のような口調で言われる。

「……まあ、相談を受けることくらいなら俺にだってできるさ」

「おぉー、マッキー先輩頼もしー。あたしも困った時に恋愛相談していいですか?」

「こ、答えられるかはわかんねぇけど……」

「マッキー先輩のツンデレな解答は聞くだけで楽しいからいいんですよ」

「……ちょっと待てぃ」


 牧人の言葉は決して強がりではない。

 彼はこの数日で、二人(主に耕平)に対する不信感をほとんど無くしていた。

 真に彼を友人と認めるようになってきたのだ。


 単純に会話の回数を重ねて、彼等二人と打ち解けてきた結果といえた。

 友人としての関係を構築することを、牧人は覚え始めていたのかもしれない。


「………………」

 最もそこには、薫と付き合うことになったという満足感や優越感の助力もあったのだろうが。

 ――優越感って何だよ……、別に耕平は薫を口説こうとしてたわけじゃねぇんだって……。

 相変らず心中で言い訳。

 自らの思考から友人を擁護してやることが出来る程度に、牧人の中で他者性が育まれてきていた。


「ま、当面の課題はオレの彼女のご機嫌取りか……どこ行くかなあ」

「なぁ~んか自慢げな独り言っすねー、いやらし」

「うっせ。……しかしなあ、牧人はどう思うよ? やっぱり女ってのは男が他の女といるのが気に入らないモンなのかねえ」

「知るかよ……」

 ちなみに牧人としては、例え手を出される心配がなくとも、薫が他の男と一緒にいたら嫌だった。

 ――馬鹿言え……。

 けれど認めない。


「藤宮とはその辺どうなんだ?」

「ぶっ――!」

 さりげない問いかけに飲んでいたコーラを壮絶に噴き出す牧人。

 ――な、なんでこいつら……薫とのこと知って――!?

 えらく動揺してしまう。

「お、この反応。ようやく来ましたねソーセキ先輩」

「だな。……っとにわかりやすいヤツだぜ」

 そんな牧人を、耕平となつめの二人はにやにやと眺めていた。


 ――まさか、……カマ、かけやがったのかこいつら……っ!?

 否定しようにも最早手遅れなのは明白だ。


「お前らーっ!!」

 牧人が叫び、二人が笑う。

 狭い室内で牧人による掃討戦が開始された。


 ……かくして、藤宮薫との交際は二人の認知するところとなった。



     ■■■■■



 ちなみに、


「なあ、明彦さ……」

「どうしたの?」

 後日、牧人は明彦一人を呼び出した。

 いつも集まる五人の中で、彼だけに隠しておくということはできなかったからだ。

 ――薫と付き合ってるって……言わねぇと。


 だが、他人に聞かれるわけにはいかない。

 細心の注意をもって、彼のみを自室に招く。


 そして言う、

「あの……俺、最近……かお――じゃなくて藤宮と……つきあってん、だけどよ……」

 決めるところでも煮え切らないそんな言葉を。


「? なんで今更そんなこと言うの?」

 しかし明彦は、いつもと変わらぬ表情で首を傾げた。

 そのあまりに動じない姿に、牧人は逆に焦る。

「は? な、なんでって……付き合い始めたの割と最近――」

「あれ? まだ付き合ってなかったんだ。文化祭の時に一緒にいたから、もうその時から付き合ってるんだと思ってたよ」

「え、ええっ――――!?」

 情けない声を出してしまっていた。

 ――いつの話だそれは!? 前過ぎるぞ!!



 この時、牧人はまたわけもなく明彦のことが恨めしくなったのだった。



 こうして、葦原牧人と藤宮薫は、恋人同士になった。

 最初の頃は恥ずかしがっていたものの、仲間たちの祝福を受けて、牧人は結果的に大層良い気分になったという。




 ……楽しい日々は絶頂だったのだ。



     04



 件名:Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re: Re:理想的ラバーズ

 内容:

「あたしは激カッコいい彼氏がいて、二人で仲良く幸せに暮らしていくことには…まあ興味はありますけど、それを実際に一番に望んでるかって言うと違うんすよ。

 あたしは、堕落したいんです。大好きな人と、いつまでもずっと、グダグダーってしていたいんす。

 喋りたくなったら二人で会話して、おなか減ったら二人でごはん作って、エッチな気分になったらセックスするんです。なんか、そうやって現実の全部から逃げて、二人だけで閉鎖的に生きていきたいんですよ。

 ダウナーでしょ?普段のあたしからは想像もつかないっすよね?

 …けど、本音はそうなんすよ。」



     ■■■■■



「…………」

 棗耕平は散らかった自室にて携帯電話を閉じた。

 つい先程、友人である芥川なつめから送られて来たメールに返事をしたところである。


 携帯電話を机に置き、彼はベッドに寝転がった。

 枕元に置かれた漫画を手に取り、読んでいたページを探す。

 耕平は本をとても丁寧に扱う。例えそれが漫画であっても変わらない。

 開いたページを下にして置くことはおろか、栞すらも開き方に癖がつくという理由で嫌った。


「――――」

 異様に乱雑な室内からは想像もつかない神経質ぶりであるが、それは彼の秩序が常人のそれと異なるからである。

 耕平の秩序は、部屋には現出しない。

 彼は彼の愛する造形物、書籍、映像、その他様々な持ち物一つ一つに極度に精緻な秩序を注ぐのである。

 故に極端に瑕疵を嫌い、汚染を忌む。

 しかしながら、彼はそれが自然な営みの中で作られていくものならば許容した。

 日々の娯楽の中で、自然とついた傷や汚れは、歴史を表すと言うことも可能である。


 彼は、彼が愛した物たちが彼と共に歴史を刻んで行くことを望んだ。

 傷つくことは恐くない。遍く全ては、いずれ消え去るからだ。

 汚れることも仕方がない。いつまでも清らかでいられるものなど存在しないからだ。

 しかし、それがひと時でも長く続くように、彼は彼の玩具を丁寧に扱うのだ。

 ……祈りを込めるように。




「……またか」

 着信音。

 なつめから長いメールが届いていた。


 ――愛とはなんぞや?

 そのようなテーマ設定から始まった彼女とのメール議論は、既に数週間にも及んでいる。


 ある状況を例に挙げての互いの意見交換や、友人の恋路についての下世話な会話。

 更には互いの恋愛観や、理想の形についても曝露し合った。

 そうして、普段なら決して口にしないような哲学じみた論を述べても、明確な解答は得られなかった。


「あいつもなんで……こんなことを」

 まるでそうすることに意味があるかのように、二人はメールで恋愛について語り合った。


「――あー、もう打つの面倒臭えよ……」

 親指の力が萎える。

 最早、耕平はこの議論に無意味さを感じつつあった。

 思想を語り合うこと自体はそう嫌いなものではないが、いつまでも続いていると飽きが来る。




「………………」

 冗長ななつめのメールに、耕平は簡潔な内容を送信した。


 ――いつまでこんなこと続けるんだ? そろそろ、終わりにしないか?

 そのような内容だ。


 彼は元々携帯電話のメールというものが好かなかった。

 理由は様々に挙げられるが、ざっくばらんに言ってしまえば面倒臭いのだ。

 まだるっこしいのである。

 二秒で済む発言を二十秒かけて文字にする意味がわからない。

 ボタンを押しながら文面を考えることも二度手間だ。

 ……さっさと電話をかけてしまいたかった。


 ちなみになつめも似たような気質である。

 だというのに、彼女は電話による会話を拒んだ。

 普段あれだけ饒舌な彼女が、何故ここに来て文字のみのコミュニケーションを望んだのか耕平には解らない。


 解らないが――





 件名:答えが出ました

 内容:

「明日、海に生きましょう、ソーセキ先輩」



 ……何がしかの意味があるのだろうな、と耕平は思った。


 その誤変換すらも、何かの暗喩に見えて仕方ない。



     ■■■■■



 なつめと耕平、愛の逃避行。

 少女によってそのように銘打たれた謎の遠出が決行されることとなった。



 ある休日、二人は電車に乗り、とある海岸にやって来た。

 海水浴の季節にはまだ少々早い。

 時刻も午後。

 人気はほとんどなく、灰色の砂浜に透明な海水がただ波打つ。


「わーい!」

 なつめは子供のように駆けた。

 サンダルが砂を蹴り、波打ち際でしぶきを上げる。


 気怠い歩調で砂を歩いた。

 水着はない。着の身着のままやって来た二人は、ささやかに海水に触れるだけだ。


「んで、こんなとこ来てどーすんだゴミ子」

「そりゃ、男と女が砂浜に来て何するかって、一つしかないっすよ」

「あ?」


「遊びましょう!思いっきり!」


 そんな、なつめの頓狂な一言を皮切りに、いつもの遊戯が始まった。


 耕平はなつめの提案する遊びに逐一付き合った。

 二人で水を掛け合い、砂で城を作った。

 砂浜が一望できる防波堤に並んで腰掛け、様々な会話をした。

 何故か二人ともこのような場所までデッキを持ってきていたので、カードゲームで対戦もした。

 出会いの象徴たるヨーヨーも当然のように手にした。


 ……気づけば耕平も、童心に返って心から楽しんでいた。

 それと同時に、彼の心中では、どこか少年になりきれない暗鬱とした気持ちが、無自覚ながら残っていた。



 楽しかった。

 楽しかった。


 楽しかった。


 楽しかった。




 楽しいのは、怖かったのだ。





 そして、そうした時間は何にせよ早いものだ。

 気付けば日は暮れ、積み上げられたテトラポッドから伸びる複雑な影が、海岸を彩っている。

 辺りの砂浜は遊びの経過で生まれた沢山の凹凸で飾られ、人気のなかったはずの場所は、さながらちょっとした観光地だった。

「……はは」

 そんな光景を一望し、棗耕平は苦笑した。


 我を忘れて遊んだ。

 指先は震え、足首の裾や靴は砂まみれ。脚はまるで棒のようだ。

 子供の頃なら――これくらい遊ぶのが当たり前だったあの頃なら、この程度平気な顔だったのかもしれなかったが。


 それでも、大人になりかけたこの身で、これだけ童心に返って誰かと遊べるのは、彼にとって喜ぶべきことだっただろう。


 砂に汚れたカードやヨーヨー。

 泥をかぶって、最早その価値を失ってしまったものさえある。

 しかし、生来物を大事にする人間であるはずの耕平に、それを本気で後悔する素振りはない。


「ちっ……やっぱスリーブ入れてるとはいえ、砂浜でカードゲームなんざやるもんじゃねーなあ。レアカードに傷が入っちまった」

 忌々しそうな口調とは裏腹に、笑いながらそう呟く。

「ありゃりゃ、そりゃ申し訳ないっす」

「謝んな、こんな傷なら歓迎さ」

 何故ならそれは、思い出の証だから。

 この傷を見るたびに、きっとこの日の事を思い出せるのだろうから。


「先輩」

「んー?」

「楽しかったっすね」

「……ま、そうだな」

「童心に返るってこーいうのを言うんでしょうねぇ」

「オメーはいつでも似たようなもんだろうが」

「えへへ、そですねー」

 その時彼女の見せた笑顔は、もう一つ物足りなさげに見えた。




「……なあ、お前さ」

 だから、彼は夕日を眺めながら問いかけた。

 位置は変わらず砂浜の上。

 今は並んで立っている。

「はい?」

「結局こんな場所に来て、馬鹿みたいに遊んで……何の意味があったんだ?」

 湿っぽい言い方になっていることに気付き、耕平は少し反省した。

「う~ん……」

 なつめは唸る。しかし、その表情はあまり思考をしていないように見えた。


 しばしの無言が二者の間を彷徨った。

 こうなると、波の音や、海鳥の声も煩わしい。



 そのまま、どれほどの間が空いただろうか。

 海鳥の声が止むと同時、不意になつめが何かの宣誓じみた叫びをあげた。


「それでは! 不肖、芥川なつめ! これから今一度子供に戻ってきます!」

 勢いよく敬礼をする。

「あ?」

「ちょいやー!」


 耕平の返事を待たずして、彼女は砂浜を水平線に向かって走り――海の只中へ飛び込んだ。


「うひ~! ちべた~!」

「お、お前何やってんだ!」

 突然の行動に耕平も驚く。

「大自然をひとりじめっすよソーセキ先輩~!」

 言いつつ波打ち際を転げまわるなつめ。

 海に飛び込んだと言っても、砂浜から飛んだ程度の位置では、その水深も脛ほどにしか届かない。

 パシャパシャと水しぶきを上げながらはしゃぐなつめの体は、見る見るうちに、水と砂に汚れていく。


「アホか! 童心っつーても程度があるわ! さっさと立て、ったく世話の焼ける――」

 呼びかけながら、耕平はなつめの元まで歩き、彼女に向かって手を伸ばす。

 それを掴むなつめ。


 しかし、おとなしく引き上げられるためではない。


「――……」

「おい、何変な力入れてんだ、起こせねえだろうが」


 なつめの方から引っ張り返してくるのだ。

 必死だったのだろう。体格のいい耕平にとって大した事はなかったが、小柄な彼女にしてはかなり力が篭っている。


「恋人同士は、海に行くものっすから」

「あ?」

「“何の意味があったんだ”って、さっき言ったじゃないですか」

 そう言って笑いかけるなつめに、


「……オレとお前、別にそんなんじゃないじゃん」

 冷静に耕平はそう答えた。


「そうっすね」

 言葉を返す少女の笑みは、微かな震えを帯び始める。




「ならせめて……、先輩――抱きしめてくださいよ。恋人、みたいに」

 ささやく。甘い声で。泥だらけの顔で。

 頬を伝う水が一瞬涙に見えたのは、彼の勘違いだっただろうか。



挿絵(By みてみん)



「一緒に、汚れましょう?」

 誘うようにもう片方の手も絡めてくる。


「っ――!」

 その言葉に、一瞬、ほんの一瞬ではあるが、耕平は揺れた。

 生じた感情を否定するかのように、なつめの手を振り払う。

 支えを失ったなつめは、力なく海面に膝をついた。


「お前――なあ……、あんま変な事言うなよ。さすがに動揺すんだろうが」

 平常を保つようにそう諭す。



「ソーセキ――先輩……っ!」

「……っ」

 うなだれたまま、泣哭するように名を呼ばれ、耕平はまた少したじろぐ。


「先輩……は――――あたしのこと、好きになっちゃくれないっすか?」

 求愛するようなその言葉を告げるなつめは、日が暮れるような表情だった。


「……だからオレサマ、彼女いるっつーの。牧人といいお前といい、そんなにオレをたらしにしたいんかい」

 敢えて明るい口調を装うも、なつめの笑顔は変わらない。

 いつもと同じ、太陽のような底抜けに明るい表情。

 しかしその明るさも、今では残光のそれだ。


 少女の黄昏がここにある。

 黄昏などどこにでも存在する。


 黄昏――その焼け付くような緋色が、終焉の予兆たることを、彼等は生きていく中で知っている。

 成長の過程で“終わり”というものを知らされていく。

 虚無のような諦観のような、仄暗いだけの未来のカタチを、大人たちの姿から彼等は自然と学んでいく。


「それがお前の言う、愛の逃避行ってヤツかい?」

 耕平のその言葉に、なつめの顔から明色が失せた。

「……そですよ、悪いですか」

「オレ、彼女いるんだけど。知らないわけないよねお前が」

「知ってますよ。その彼女サンよりあたしの方が全然付き合い短いってことも」

 十年来の友人のように親密な二人だが、知り合ってからの日々は意外に短い。


「この間、牧人の家で喋ったじゃん? オレ、あの後、彼女とデートしてちゃんと喋って、仲直りできたんだよ」

 淡々と言を吐く。

 ――どうせ……、


「んで、今すげえ仲良いんだわ。楽しくて仕方ねえの」

 吐き捨てるように、幸福を語る。

 ――……いつもの勢いなんだろ?


「そんな状況でお前にそんなことしたら、それが彼女に対するメガトン級の裏切りになるってことくらい……お前でもわかるよね?」

 ――なんか思い付いて、楽しそうだから実行しただけなんだろ?


「………………当たり、前じゃないっすか。あたし、これで頭は回るんすよ」


「なら、一時の気の迷いでそんなこと口にすんな。お前も彼氏いるだろうが」

 断ち切るように言う。

 それは彼女を忌避するからではなく、友愛の証としての拒絶だ。


 芥川なつめは、自分で言うだけあって頭が良い少女だ。

 故に、強く孤高なその言葉を、彼女はきっと理解しているのだろう。


 気の迷いであろうがなかろうが、ここで引いてさえくれれば、取り返しが効くのだから。

 耕平のそうした優しい意思を汲むことが、鋭い彼女には可能だった。


 だから、


「あーぁ……」

 絶息した。




「ソーセキ先輩ならぁ……」

 肩を落とし、座り込んだ姿勢のまま、ちゃぷちゃぷと揺れる海面を片手で力なく弄ぶ。



「あたしを、堕落へ連れていってくれるかもしれないって……思ったのに」

 落ちる涙が、海水に溶けた。

 彼女は涙を流している。

 耕平はその理由を感覚的に理解しながらも、合理性が求められない。


「堕落って……、それ……前もメールで言ってたな」

「言いましたよ……それがあたしの……夢なんすから……」

「聞かせてくんない?」

 見下ろす体勢のまま。


「“この世界には、僕と君の二人だけ――それ以外はなぁんにもない”」


「……なんだって?」

「あたしの好きなある漫画のセリフに、そういうのがありまして」

「すげえ絶望的な言葉だな」

「物語の舞台は日本っすけどね。別に人類滅亡とかもしてませんよ」

「んじゃどうやったらそんな言葉が出て来るんだよ?」

「……ん~」

 なつめはしゃがんだまま、両手でお椀を作り、海水を汲み上げた。

「……外に出れば、人がいますよね。たくさん、人がいます。世界は広いです。ままならないくらい広くて、たくさんルールがあって、すごく面倒くさいです」

 言いながらも、水はちょろちょろと、少しずつ手の隙間から零れ落ちる。

「この水と一緒……失う物を少なくしたければ、指の隙間からこぼれないように、こんなにも力を込めないといけません。だから……」

 そこで言葉を区切り、彼女は両手で形作った椀を解いて、片手だけを水平に浮かべた。

 椀の中に溜まっていた水は一気に海面へと落ち、ほんの僅か、手の平の真ん中にだけ水溜りが残る。

「だから、彼は世界を削ったんです、自分の部屋の中だけに。縮小されたその世界の中には、主人公と、主人公の大好きな女の子しかいません」

 片手の上に、小豆程度の大きさを保ってぽつんと乗っているだけの水溜り。

「これなら、力を抜いたってこれ以上こぼれる事もありませんよね」

 ……それこそが、その縮小された世界だろうか。


「それじゃ、ひきこもりじゃねえか」

「まあ聞いてくださいよ。……主人公は、彼女とずっと一緒です。彼女以外は、彼にとって世界の外の出来事なんです。限りなくどうでも良いんです。彼岸なんですよ」

 開いた手の人差し指で、水溜りの縁をゆっくりとかき混ぜる。

 その境界線をひたすら強調するように。


「だから、外に出ることに躊躇いはないんです。けれど、同時に意味もないんです。

 そうやって全てから逃げ出して、わずらわしさから解放されて、二人だけで、ずっとずうっと生きて――」

 指の動きを止めた。

 ゆっくりと、水溜りを作っていた手を握り締める。


「――そのまま、外部と切り離されて、二人だけが存在する楽園で、ゆっくり死んでいきたい」

 力なく握られた拳の中には、今も水が入っている。

 これこそが、この姿こそが自らの望む楽園であると誇示するように、その拳を耕平に向けて差し出した。


「……そんなのが良いってか」

 かすかな躊躇の後、せめて彼女の心を傷つけまいと、差し出された腕を掴み取る。

「はい……、素敵っす」

 心酔するように言いながら、今度はさしたる抵抗もせず、少女は掴んだ腕に吸い寄せられるようにして立ち上がった。

「それ、ラストは?」

「へ?」

「漫画ならラストがあるだろうがよ。どうなったんだ?」

「未完なんすよ」

「連載中か」


「いえ、作者さんがお亡くなりになりまして。でも永遠の未完ってお似合いですから、むしろ気に入ってます」

 不謹慎ですけどね、と彼女は付け足す。

 言いつつ、握られたままだった拳を開いて、中の水を払い飛ばした。


「そう、か」

「……理解できませんか?」

 珍しく煮え切らない口調の耕平に対するその問いは、糾弾の色すら感じさせた。

「少なくとも共感はできん。ダウナー過ぎるわ。お前の彼氏のがよっぽど解ってくれそうじゃねえか」

 いつもの明朗な口調を心がけた。

 真剣に語ると、苛立ってしまいそうだったからだ。


「……あの人は違うんすよ。彼は見えてる側じゃない」

「何がよ。心中のお誘いまでかけてくれるような彼氏なんだろ。ピッタリじゃねえか」

 なつめの挙げた漫画の話を思い出す。

 元よりそのような生き方、結果的に死とそう大差はあるまい。

 耕平はそう考える。

「……駄目っすよ。違うんです。彼がネガティブなのは、立ち向かうためですから」

「立ち向かう?」

「私みたいに、逃げ出したいわけじゃない。立ち向かうための準備として、社会に対する怒りの矛として、逃避的な事をあえて口にしているだけ」

「…………」

「世界はこんなにも辛い。死にたくなった。死にたくなるような世界は腹が立つから、変えてみせる――結局、彼はそういう人なんです」

 怨じ笑う。幽鬼のような虚ろな目で。


「……そういう彼の気性が、あるいは一緒に現実から逃げてくれそうにも見えたから、だからあたしはあの人が好きだったんですけどね」

 言葉は過去形だった。

「どうも、彼は強すぎちゃうみたいで。どんなに落ち込んだって、この世の中を諦めてくれないんですよ」

 自嘲するように笑う。


「結局のところ、意外とみんなそんなもんなんすよね。思っても叶わないんです。みんないつか大人になるから、その準備として、子供やってるわけで。

 いつまでも子供で居続けてくれる人なんて、いつまでも社会を否定し続けてくれる人なんて――いやしない」

 拳を震わせながら、吐き出すように。

 それはもはや恋愛の議論ではないということに、彼女は気づいているだろうか。

「そんな風に……、例え一時は一緒に堕落してくれたって、彼は立ち直るんです。けど、その人が立ち直ったなら、あたしも現実に帰らないといけない」

「それが……なんだってんだ?」


「――絶望ですよ」

 感情のない声だった。



「堕落した夢のような時間が……あたしの退廃が終わりを迎えてしまう――その時に見る絶望は、きっとあたしを殺しちゃうくらいヒドイんです」

「メール読んだときも思ったけど……お前、ホントにそんなこと思ってるの?」

 普段の彼女から、そのような不健全な思考は微塵も感じられない。

「思ってますよ!」

 激昂するように叫んで、彼女は上目遣いに耕平を見る。


「思っても……かなわないんです! だから、どうせ絶望するくらいなら、そんな快楽からは最初から目を背けていたいんです! だから……」

 よろよろと、すがりついて、


「だからあたしは……元気に生きてるんです」

 涙を浮かべて、婉然と少女は笑った。


「だから……、ソーセキ先輩に初めて会った時、すごく……嬉しかったんですよ……」

 いつしか、彼女の頬からは涙の粒が浮かんでいた。

 時折しゃくり上げながら、訥々と言葉を並べていく。



「……どうせ、逃避なんです。辛い世の中とか、将来が不安なんです。

 ソーセキ先輩が好きです。マッキー先輩もカオル先輩も、明彦先輩も同じくらい。五人で遊んでる時が楽しすぎて……。だから余計に意識させるんです……!」

 少女は、人類が生み出した虚無の結晶。


「大人になんかなりたくないんですよぉ……。いつまでも、みんなで一緒に、楽しく遊んでいたいよぉ……。そんな……終わらない楽園を、あたしにくださいよぉ……せんぱいぃ……」

 輝かしい未来を夢見なくなった人々の中で育ち、彼女は終局を誰よりも精密に理解してしまったのだ。


「嫌なことも不安なことも何もかも忘れて……、馬鹿みたいな顔で、死んだような目をして、幸福の中でふにゃふにゃ腐っていく方法を……ソーセキ先輩なら教えてくれるかもって……だって先輩は、初めてあたしのヨーヨーを受け取ってくれたんだから……」

 だから誰よりも世界に絶望し、誰よりも自己に退廃した。


「でも、そんなの無理だから……みんな、やりたいコトとか、未来のコトとか、確かにそういうものがあって、だから――」

 しかしその姿の無意味さも、同様に誰よりも理解していた。



「あたしがそれを否定してまで立ち止まらせたりなんて、出来ない……から…………」

 その言葉と共に、


 なつめは虚脱したように崩れ落ち、大地に四肢を突いた。



「うっ……うえっ……うあぁぁぁぁん……」

 搾り出すような嗚咽。

 行き場をなくした感情は、液状の分泌物を介して彼女の目からとめどなく溢れ出した。



「そりゃあ……」

 それを見て、耕平は重苦しく口を開く。



 ――――苦しいことは嫌。そういうものは全部捨てて、最低限生きていくためのお金だけ手に入れて、大好きな恋人や友達と、何も考えず永遠に遊んでいたい。


 彼女の言い分を(多少の予想と偏見を織り交ぜて)要約すれば、こういう事になる。


 贅沢だ、と。

 そう思う人間もいるだろう。


 だが、耕平はそう思わなかった。


 愚昧だ、と。

 そう思う人間もいるだろう。


 だが、耕平はそう思わなかった。



「…………辛いだろうなあ」

 少年は、跪く少女の純粋さが愛しかった。


 彼女が語る退廃のモジュールは、耕平自身が欲し、そして諦めていた物でもあったから。



 耕平も、思うところの本質は変わらなかったのだ。

 彼もまた、笑顔の仮面を被って、いつか終わる子供の時間を、一日一日惜しみながら、すり潰すようにして生きている。

 大人になることが嫌で仕方がないから、日々幼稚な遊びに耽溺していた。

 ……大人なんて、クソ食らえなのだ。


 クソ食らえだが……どうしようもない。だからせめて、趣味だけにとどめている。


 ただ彼女より、耕平の方がほんの少しだけ諦めが良かった。

 それだけの話。




「……なあ、お前――貯金は好きか?」

 未だ泣き続ける彼女を見下ろして、耕平はふとそんなことを呟いた。


「……へ?」

「金も一億か二億くらい貯めりゃあさ、それから先ずーっと金が入らなくても、やっていけるじゃん」

 不思議そうにこちらを見上げる少女の、砂まみれになった頭に触れる。

 なだめすかすように髪を撫でた。


「楽しい思い出だって、脳みそいっぱいに溜め込めば――その先少しくらい楽しいこと無くったって、なんとかなるんじゃねえかと、オレは思うわけよ」

 馴染ませるように言葉を連ねる。

 その言葉が示す意味は重かったが、だからこそ口調は普段の軽口を意識した。


「オレと、牧人と、藤宮と、明彦、四人いる。このチームでなら、最高に楽しくやっていける。

 その中で遊んで、笑って、楽しい記憶をいっぱい溜めておけよ。そうすればきっと――――」

 夕日が水平線に、光の矢を放った。

 目を細める。



「――その記憶が、お前の中のオレたち四人が、きっとお前を支えてくれる」


 夕焼けの光に目が眩んで、その言葉を吐いた瞬間の彼女の顔が見えなかったのが、少しだけ心残りだった。


「先輩……」


「次善策に過ぎないかも知れねえが……それじゃあ駄目か? ……なあ、なつめ」

 少女の頬についた泥を拭きながら、耕平は珍しく彼女の本来の名前を口にした。

 もしかすると、初めてのことかもしれない。


 ――ゴミ子、か。考えてみりゃ、結構酷い事言ってんな、オレ……。

 そんなことを思う。

 これからはもう少しだけ、彼女に優しく出来るだろうか。


「………………」

 なつめは、沈黙している。

 今、彼女が何を考えているか耕平にはわからない。

 ただ、触れていた少女の頬に初めて、微かな赤みを感じ取れた。



「……えはは」

 何かを噛み締めるような笑い声をこぼして、少女が顔を上げる。

 頬を撫ぜる耕平の手をそっと押して退け、ぐしぐしと乱暴に涙を拭いた。


「ソーセキ先輩って、やっぱカッコいいっすね」

 涙の乾いた跡が残る顔で、芥川なつめは笑っていた。



「そう思うか? もっと褒めていいぜ」

「思わず好きになっちゃいそうっす、らびーん」

「……だから、オレサマ彼女いるというに」


 ――そうだ、これで良い。

 解決する必要はないのだ。

 ひと時でも、彼女がそれを忘却できるなら。

 そうして彼女が笑顔の仮面を取り戻してくれれば、それで良い。


 この時の棗耕平は、そのような事を考えていた。

 ……これで良いのだと、信じて疑わなかった。



 夕日は沈んでいた。

 訪れた世界の闇に、少年たちは果たして立ち向かっていけるだろうか。


 そのために必要な勇気を、彼等は仲間たちとの交友の中で蓄積しなければならなかった。

 二度と戻らない日々を、そうした冷たい目的意識を持って過ごすことはきっと下策なのだろう。

 だから彼等は無心になるのだ。


 純粋に、何も考えることもなく、日々ただそこにあることを全身で感じ、幸福を脳髄に叩き込む。


 そうして、いつか見ることになる、夢無き世界の絶望に立ち向かうのだ。


 だから、そうして体に刻み込まれた青春の記憶が何より大切だと世の人々は言うのだろう。





 数週間に渡る長き愛の議論に、二人はそのような結論をつけた。





 その次の日、芥川なつめは風邪で学校を休んだ。

 服を着たまま冷たい海に飛び込んだのだから、これも当然の帰結である。


 電話をして彼女に余計な労力を使わせるのも憚られたので、耕平はやや不本意ながらも、またしてもメールを送ることにした。

 ――――四人とも心配してるから、さっさと治す様に。

 とか、まあ、そういう他愛もない内容を。

 指は長文を打ち込むことにすっかり慣れていた。


 見舞いには行かなかった。

 なんとなく、顔も知らないなつめの彼氏への負い目が出来てしまったからだ。




 後日、

 芥川なつめは、有名大学に通う検察官志望の恋人と別れることにした。



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