●No11.親愛のモジュール<後編>
04
……そして、その日が来た。
「………………」
時刻は午前五時。
期待と不安で眠れなかったこの日の牧人は、結局徹夜してしまっていた。
――遠足前日のガキかっつーの俺は……、
徐々に白んできた東の空を見ながら、そんなことを思う自分が窓に映る。
その姿は思いのほか大人びていて、なんだか可笑しかった。
……そして不思議と、悪い気分ではなかった。
牧人は携帯電話を見ている。窓を開けて、早朝の空気を肌で感じながら。
受信されたメールは大学時代の友人――浅野からのものだ。
件名:(無題)
内容:
「今日どっか遊びいこーぜー」
つい先程――真夜中に送られてきたそのメールの文面はたったそれだけだった。
自由奔放を絵に描いたような浅野からのメールは大体がそのような簡潔すぎる内容だ。
牧人は浅野にシフトを教えているため、彼はいつ牧人が休日であるかを大体把握している。
従ってこの日も、牧人が休みであることを想定しての誘いであった。
――しっかし、それを前日の……しかも真夜中に送ってくるってのもどうなんだよ……?
思ったが、その手の指摘は挙げていくときりがないのでやらない。
牧人はメールを打つ。
浅野とどこかへ出かけるのは今の牧人にとって楽しみの一つではあるが、今回は遠慮しなければならなかった。
「……今日は、あいつらと会うんだからな」
事実を確認するようにひとりごちた。
明彦に促されるまま奔走したというのに、牧人は未だにどこか現状を信じられずにいたからだ。
「とりあえず……浅野にメールするか」
――今日は人と会う用事があるから、悪いけどパス。
そのような内容のメールを送った。
数分と経たず、返信が来る。
件名:Re: Re:
内容:
「人と会うって、アッシーって休みに会うようなトモダチとかいたっけ?」
「……おい…………」
そのようなメールを見て、牧人は閉口せざるを得ない。
確かに高校時代の友人四人のことを浅野に話したことはなかったが。
――けど……そんな心底不思議そうに聞かなくたっていいだろ……。
浅野に自分は友達のいない男だと思われているらしかった。
あながち否定できない所もあるため、何とも複雑な気分である。
「畜生、なら教えてやるか……!」
その感情が、徹夜の牧人に火をつけた。
浅野にわからせてやる必要があった。自分が、どれだけ素晴らしい友達に囲まれているかを。
「……って、何――やってんだ俺……?」
そして冷静になったのは、メールを送信し終えてからだった。
気が付けば日はとっくに昇っており、送信したメールは驚くほど長大なものになっていた。
「うわ……何書いてんだ俺……」
冷静になってその文面を読み返してみると、その内容の青臭さに赤面してしまう。
明彦について、耕平について、なつめについて、薫について。
メールでは四人のことがひたすら延々と語られている。
それぞれ、彼等がどのような人物で、自分にとってどれほど大切なのかが赤裸々に書かれていた。
「うー…………」
我ながら目を逸らしたくなる、言い知れぬ恥ずかしさを感じさせる文章……言ってみれば友情惚気メールだった。
「けど……、別に……いいか」
だが牧人は気にしないことにした。
諦めたようにため息をついて、電池が一本減った携帯電話を閉じる。
「知られて困るものでもないしな」
それどころか、今の牧人は誇ることさえできる。
聞かされる浅野はいい迷惑だったかもしれないが、それは紛れもない牧人の本心であるのだから。
知っておいてもらうのも悪くない。むしろ、知っていて欲しい。
「――そうだな、俺は……あいつらのことが好きだ、本当に」
改めてそのことを口にした。
そんな彼等との集合時間は夕方。
あと半日以上も時間がある。
「…………」
だが、会って何を喋るかを考えているだけでその時間を過ごせそうだと牧人は思った。
ベッドの脇に置かれた白い紙袋。
じっとしていると高鳴っていく胸の鼓動が、今は何とも心地よい。
窓の外に見える桜。
その枝に咲いていた花は、今はもうほとんどが散ってしまっている。
「…………」
見上げた空にあるのは青色。
……唐突に牧人は、花見がしてみたくなった。
大切な友人たちと一緒に。
■
…………そして集合時間になった。
――なんだか落ち着かなくて、早く来ちゃったな。
だから、すぐには集合場所には行かないで、近くでちょっと休憩していよう。
「……いちばんのりー、っすかね?」
集合場所に最初に現れたのは、芥川なつめだった。
高校時代よりやや大人びた感のある私服を纏いながらも、見た限りでは以前と大して変わりない様子だ。逆にそれが安心できる。
目印となる曲がり角に彼女は舞い込んだ。
飛び乗るようにして自動車よけのポールに腰掛け、携帯電話の時計を見た。
集合時間まで、あと一時間以上もある。
「……ちょい、早いか」
常識的、というにも早過ぎた。
彼女も落ち着かなかったのかもしれない。
そのまま大人しく待つことにした。
手鏡など取り出し、身だしなみをチェックし始める。
「……むー、今さら枝毛発見」
どうにか隠そうと努力してみる。
なつめにとって、あの五人は身だしなみに気を使うほど色気ある集団でもない。
だが、顔を合わせるのは数年ぶりなのだ。
それが原因なのかどうなのか、何とも言えない緊張が、彼女の中にもあった。
普段は気にならない自分の身なりを、今日ばかりは妙に意識してしまう。
「いいや、切っちゃえ」
従ってそれを誤魔化すかのように、服飾にも少なからず気合が入ろうというものだった。
「路上で化粧直しなんかしてんなチビ野郎」
「いった!」
パシン、と音がして後頭部がはたかれる。
危うく落としそうになったハサミをあたふたと受け止めながら、なつめはポールから下りる。
そして素早く身を翻し、フェンシングのようにハサミを構える。
「挨拶もなしにそんな乱暴するのあなたは……どー見ても棗ソーセキ先輩!」
「……なんだその説明クサイ台詞は」
呆れたように息を吐くのは棗耕平。
……彼もまた、集合時間の大分前にそこに現れたのだった。
「ってかあぶなー! ハサミ持ってる時にボーリョクはよくないっすよ!」
「ほう、それ以外の時は別に構わないと言っているように聞こえたな」
「願い下げー!」
「あだーっ!」
なつめは耕平の下あごをはたき、耕平が割と洒落にならない声で呻いた。
それが原因でしばらく無益な口論になる。
「ふっ……相変わらずシケた町だぜここは」
ひとしきり罵声を浴びせ合った後、耕平が殴られたおとがいをさすりつつ呟いた。
「うっわ、ここぞとばかりにシティー発言。 “なじめない~”とかって前に泣いてたくせに」
「泣いてない。……あとお前、それ他のヤツの前で言ったらナツメツイスターな」
「ダブルブンゴーには勝てないっすよ」
「……その奥義も、最早使用期限の秒読みに入ったな」
「結婚すると使えなくなる必殺技って、なんとなくやらしーですね」
他人が聞いたら眉根を寄せそうな会話を経て、二人は破顔した。
唐突な笑みは、安堵に満たされている。
……両者とも、ここ数年で様々な経験をし、その度に自身の有り様を探してきた。
自己が変質していく不安を覚えていたのだ。
「ソーセキ先輩は、相変わらずチャラチャラしてますねー。なんかギャルっぽー」
「うるさいわ。ギャルっぽ言うな。トーキョーじゃこんなん地味な方だぜ」
しかし、顔を合わせれば自然と出てくるかつての交わした言葉たちに、二人は途方もない安心感を得るのだった。
自分たちが、根本的にはあの時のままなのだと。
「そういうお前は、少し髪が伸びたな」
「へ? そっすか?」
「あぁ、前は束ねるほどの長さも無かっただろ。それ解いたら、肩まで届くんじゃないか?」
確かに今日のなつめは髪をアップに束ねていた。
俗に言う、お団子ヘアという奴だろうか。
「あぁ……そんなに、短かったですっけ、あたし」
それに対して、なつめはほんの少しだけ動揺したように呟いた。
まるで、当てが外れたとでも言うように。
「当時の長さにあわせて切ってきたつもりなんすけどねぇ……えはは、自分の髪型なんて、結構覚えてないもんすね」
「そっか」
誤魔化すように笑うなつめに対し、ぽつりとそれだけを返す耕平。
「ついでにネタ晴らししちゃうと、あたし……傷心のたびに髪の毛切ってるんすよ、実は」
「は?」
「だから、多分当時の私、微妙に髪の毛伸びたり短くなってたりしてたと思うんですけど」
「そう、だったか……?」
「はい。ま、細かく覚えてませんけど」
ここに来て、なつめは少しだけ恥ずかしげにそっぽを向いた。
「ジンクスなんですよ」
「ジンクス?」
「自分で居続けるために、髪の毛を伸ばすんです。で、今の自分をやめたくなったら、髪を切るんです」
「そんなことしてたのか」
「でへへ。ロマンチックっしょ?」
彼女がこの場でこんな発言をする意図が、耕平には解ったような気がした。
解ったような気がしたが、やはりそれだけだった。
「その割には、ロングのお前を見たことがないぜ?」
誤魔化すように一笑する。
「気が短いんすよ」
彼女も、それに釣られて苦笑した。
そこで会話の間が途切れた。しばしの沈黙。
――ジンクスなんですよ。
初耳だった。
そして本能的に、もう二度と同じ言葉は聴けないのだと察した。
そんな、貴重だったかもしれない会話の腰を自分から折ってしまったことを気にしてか、耕平は話題を探すように彼女の体を観察する。
「ん?」
そうしてなつめの姿を視界に納めながら、耕平はふと違和感を覚えた。
どうも、焦点が合わないような感覚がする。彼女の姿を見るのが久しぶりだからだろうか。
「……むぅ?」
眼鏡のズレを直しつつ、なつめの頭部辺りを凝視する耕平。
「な、なんすかソーセキ先輩……さっきから、そんな見つめられたら、あたし濡れますってばー!」
「相変わらず下品だなお前。ゲビ子って呼ぶぞ」
「またヘンなあだ名増やすしー! やめてくださいってのにー!」
両手を挙げて反論するなつめの姿。
「あー、そうか」
「はい?」
それを見て、違和感の正体に気付く。
「おいゴミ子。お前――」
「ひゃい!?」
目の前の少女の頭を鷲掴みにする。
かなりの身長差があるからこそできることだが、それでもやはり以前ほど容易くはない。
……それは彼女の頭部の位置が、以前より少しだけ高くなっているからだ。
「やっぱり、高校の頃からなんも変わってねーな!」
「ぎょわー!」
頭を揺すられて、なつめは悲鳴を上げた。
自らを捕らえる耕平の手をぽかぽか殴り、ようやく開放される。
「いきなりなにすんですかー! うぅー、お団子が……」
なつめは、頭を掴まれた事で崩れてしまった髪を直そうと奮闘する。
「いや、相変わらずチビだなーと思って」
「ふふーん」
不意にそのように鼻を鳴らす芥川なつめ。
「実はこれでも……高校の時より4センチも背伸びたんすよ!」
得意げに胸を張る。ちなみに肉付きは相変わらず悪い。
「ほほー……」
言うだけあって、なつめの身長は高校の時より確かに高い。
……だが耕平は敢えて気付かない振りをした。
「ま、オレサマに比べればお前など変わらず幼稚園児のようなものだ」
本当は気付いていた。遠目から彼女を見た時から以前と異なる感覚があったのだ。
それは成長のようにも見えたし、単純な変化にも見えた。
だが、敢えてそのように言った。
別に耕平の中に、芥川なつめの変遷に好悪の情があったわけではない。
そうした方が、単に過去と現在の距離を、より近いものにできるような気がしたからだ。
「ふんだ! いつかセクシーナイスボデーになってから後悔しても遅いんすからね!」
開き直ったのか、なつめは既に髪の毛のお団子を解いている。
「平成ノストラダムスのオレサマが予言してやるが、お前は27歳になってもロリ体型のままだ」
「恐怖の大王ばりの美巨乳になってますー! ぼいんぼいーん!」
そのように反論するなつめも、もしかしたら同じことを思ったのではないだろうか。
見ている限りでは、そう思う。
軽くウェーブした髪は、やはり肩に触る程の長さでとどまっていた。
「……や、やっぱり、耕平君となっちゃんだ」
「ん?」
「あー!」
そんな二人の言い合いを制したのは、角を曲がってきた薫だった。
その姿を認識したなつめが目を輝かせ、耕平が不適に笑う。
「カオル先輩! 超おひさですー!」
「久しぶりだな藤宮」
「う、うん……二人とも、全然変わってないね」
やや緊張気味に微笑む薫も、昔より多少大人びている。
髪型が以前と異なっているほか、視線の高い耕平には彼女の背も少しだけ伸びていることが解ったが、どちらも敢えて口に出さなかった。
「うわーん! カオル先輩会いたかったっすー!」
「え、なっちゃ――きゃあ!」
なつめが薫に抱きつき、そのまま陶酔するような表情になった。
「むきゅー、相変わらずやわっこいっすーカオル先輩……、愛してますー」
「もぉ……変わらないなぁ、ホントに……」
呆れながらも、なつめから加えられる力は薫には心地良かった。
胸辺りに位置する頭を撫でる。彼女の瑞々しい頭髪の感触が懐かしい。
「うきゅー」
なつめ、再度忘我。
「二人って、相変わらず声おっきいね……クリーニング屋さんの前歩いてる頃から声、聞こえてたよ?」
「えはは、ヘンなこと言ってませんでしたかね?」
薫に引っ付いたまま、なつめが首をかしげた。
「大丈夫だと思うけど……気をつけないとダメだよ」
「は~い」
諭すような薫の言葉に、なつめは満足げに目を細めた。
そうしてじゃれ合っている様は仲の良い姉妹のようだった。
「藤宮は相変わらず国宝級の普通少女っぷりだな」
そんな薫の態度を見ていたら、また耕平は思ったまま口に出している。
「もぉ、それってバカにしてるの、耕平くん」
「さてな。オレとしちゃベタ褒めなつもりなんだが」
「相変わらずイジワルなんだから」
そう言って息をつく薫の表情が不意に和らぐ。
「……なんか、安心した。二人とも全然変わってなくて」
薫は自分でも驚いていた。抱きついてきたなつめへの対応が、あまりに自然に行えたことに。
「さっきから変わってないって単語が大流行っすね。なんかそれはそれで成長してないみたいでビミョーな気分っす」
「ち、違うの……わたし、ちょっと不安だったから」
「不安って?」
「わたしたち、高校を卒業する辺りからずっと会ってなかったでしょ? だから、こうやって会うことになっても今までどおりでいられるのかな、って」
「…………」
「…………」
その不安は、尋ねた耕平も抱きついているなつめも同じくするところだった。
だが、それが杞憂に過ぎなかったことも、最早共通の認識である。
「……そりゃ気にしすぎってヤツだぜ藤宮。牧人はともかく、オレとお前は別に仲悪くなってたワケでもねえだろう?」
「それはそうだけど……って、え? 耕平くんって、マキくんとケンカなんかしてたの?」
「ありゃ? もしかしてカオル先輩、そのこと知らないんすか?」
「う、うん……わたしはマキくんと仲悪くなっちゃったけど――もしかして、それだけが原因じゃないの?」
「……おいゴミ子、近く寄れ」
「……なんすか?」
二人は薫に背を向けて顔寄せ合う。
「もしかしてオレ、地雷ったか?」
「不覚っすねーソーセキ先輩。マッキー先輩に貸し一つっすよ」
「あちゃあ……」
耕平は天を仰ぎながら目頭を押さえた。
「まー、それはさておき……」
振り返る。
「藤宮はオレらと別に仲悪かったわけじゃねえんだから、気にすることもないぜ」
「そうっすよー」
「うん……でも、やっぱり……ね」
どこか、はにかむような表情。
「……会わないと、つながりって薄れていっちゃいそうだから」
「むー」
「……まあ、それはな」
向かい合って三人。誰もが神妙な面持ちだった。
「それはさておき、マッキー先輩はソーセキ先輩とのケンカの話、カオル先輩に知られたら怒るんじゃないっすか?」
「なんでそんなこと――って言えないのが牧人だよなあ、くそー……」
耕平はうなだれつつ、ポケットの財布を叩く。
「藤宮……ワンドリンクおごるから今の話忘れてくんない?」
「うわ、ワンドリンクってセコ……」
「べ、別に気にしないでもいいよ。マキくんに喋ったりしないから……」
苦笑する薫に、耕平は合掌した。
「すまなんだ。オレとしたことが、なんたる空気読まない発言……まるで誰かさんのようだぜ」
「――誰みたいだって?」
不意に低い声が響き、三人は打たれたように硬直した。
声のする方へ向き直る。
するとそこには――、
「……久しぶり、みんな」
白い紙袋をぶら下げた、葦原牧人が立っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
迎える三人は、呆気に取られていた。
なぜなら彼等の記憶には、仏頂面の牧人が強く焼きついているからである。
彼がこのような優しげな目をする時は、ほんの一時に限られていると認識していたのだ。
「な、なんだよみんな……俺、なんかヘンか?」
だが、今の牧人は驚くほど棘がない。
不自然とさえ思える程に柔和な表情だが、照れ臭そうな仕草は昔のままの辺りが何とも言えない雰囲気である。
「ヘンだ」
「ヘンっすね」
「…………」
耕平となつめが即答し、薫だけは良心の力で沈黙を貫いていた。
「牧人がこっちまっすぐ見て喋ってる」
「ホントっす。それに“久しぶり”とか言ってるし。前はそんなこと絶対言わなかったのに」
「え? ウソだろ、俺そんな根暗なヤツじゃねぇよ」
「……マジで? 自覚ナシっすか先輩」
「……言ってやるななつめ、本人にとっちゃサッサと忘れたい過去なんだろうぜ」
「お前らなぁ……いい加減、内緒話は聞こえないようにするってことを覚えろよ……」
牧人が以前のように吠える事を想定していた耕平となつめは、また奇妙な顔をしたのだった。
「それにしても……」
一区切りついたところで、牧人が腕時計を見る。
「ったく、みんな考えることは同じかよ……、集合時間までまだ三十分近くあるぞ」
「なんだかんだで、やっぱみんなビビリってことっすかねー」
「全くだ。ヘタレな牧人はさて置いてもな」
「うるせぇな、悪かったよヘタレで」
「…………」
「…………」
「だからさ、なんで黙るんだよお前ら?」
二人は顔を見合わせて空を見た。
牧人が素直に肯定するなど雨でも降るのではないだろうか、と。
「……なんだか、マキくん雰囲気変わったね」
「……そう、か?」
「う、うん……」
薫のそのようなフォローに牧人は少しだけ落ち着かない気分になる。
彼女に対してだけは、やはりそのまま以前と変わらずに、というのは難しいようだった。
「これで残りは明彦だけか……、遅いな」
「だから、俺らが早く来すぎなんだって……」
「……このオレサマにツッコミなんて十年早いぜ、葦原さんよ」
「チッ、変わらねぇなぁ耕平は……」
「うわー、オトナな対応のマッキー先輩って、なんか妙な感じっすー!」
なつめが身震いした。茶化しているのではなく、本当に奇異に感じているようだった。
そのような反応ばかりの二人に、牧人の方も調子が狂う。
「……とりあえず、早く来いってメールしてみるか」
「そうだね」
「………………」
武田明彦は葦原牧人からメールを受け、急ぎ足で集合場所へ向かった。
「お、来たな……おい明彦――って、明彦かアレ!?」
牧人がメールを送って数分後、突如耕平が頓狂な声を上げる。
それにつられて他の三人もそちらを向く。
「え、どこだよ?」
「あっ、もしかして――」
「わ、わわわ……! 明彦先輩っすよ!!」
視線を向ければ、遠方からこちらへ駆けて来る人物が目に入る。
確かにそれは、皆の記憶にある武田明彦の姿と適合する。
……部分的に。
「……ほっ、……ほっ」
軽やかな小走りを終えて合流したのは確かに武田明彦。
「みんな、久しぶり!」
変わらぬにこやかな微笑を浮かべて、皆に言葉を投げかける。
大したもので息一つ乱れていない。
だが、それ以前に皆を驚かせたのは――、
「お前……ホントに明彦……か?」
「何言ってるんだよ牧人。忘れちゃったのかい?」
「いや、なんつーか……」
牧人が言葉を詰まらせるが、それは他の三名も同様だった。
「お前……ずいぶん、痩せたな……」
「そうかな?」
首を傾げる明彦だったが、牧人以外の三人はしきりに頷いた。
確かに、高校時代と比べて明彦は目に見えてスリムになっていた。
だが本人は言われるまでそのことに気付いていなかった。
何故なら現在の彼の周囲には誰も高校時代の体型を知るものがいなかったからである。
……指摘してくれる人は、いなかったのだ。
「す、すげーダイエットしちゃいましたね明彦先輩……」
「ホント……元々背が高いから、余計スマートに見えるよ……」
肥満に対して並々ならぬ恐怖を抱く女性陣二人は、明彦の激変に動揺を隠せない様子だった。
「その体型だと、なんか異様にサバイバルな感じがするな」
「どういう意味?」
「いや、なんつーか軍人みてえよ今のお前? 今までは壁キャラだったが今じゃスピードタイプだ、んで牧人より全然強そうだ」
「またその例えかよ……お前好きだよなそういうの」
「あはは、そりゃ言いえて妙だね。そうか、僕がスピードタイプか……」
明彦は耕平の言葉を噛み締めるように復唱してから、
「安心したよ。みんな、あの頃とおんなじだ」
慈しむように笑んだのであった。
……五人同士の相互理解は、それで既に充分と言えたように見えた。
「お店に予約した時間まで少しあるね、しばらく話をしようよ」
「そうだな」
「さんせーっす!」
そして誰からとなく、昔話に花を咲かせる一同。
五人の輪。懐かしい空気。
「…………」
その中で、牧人はふと少し前に見た夢のことを思い出した。
薫と共にいて、何もかも成功している幸福なイフの未来。
「そうだ、やっぱり――」
痛感した。
――あの夢の中は幸せだったけど、やっぱこうやって揃ってなくちゃ、御免だぜ……。
そのことを、実際に再びその中に身を置いたことで、強く強く――、
「どうした牧人? ニヤニヤして」
「いや……なんつーかさ……」
……だから余裕ある気持ちになれていたのだろう。
「俺、お前らがいて……ホントによかったなって、思ってさ」
――――そんな言葉が牧人の口から出るなど、誰が予想しただろう。
一同の中に笑いが起きて、牧人一人がきょとんとしていた。
しばしそのことで会話が続き、その後は近況報告や高校を卒業してからの話になった。
無論、既知の情報も多くあった。だがそれは断片的なものだ。
一応連絡を取り合っていた彼等だったが、それは各々バラバラなものだった。
この瞬間までは、彼等の繋がりは個々のものだったのだ。
それが改めて輪となって、集団となる。
自分一人だった期間、他の四人が何をしていたかが明らかになる。
一本だけだったレールは明確な五本となり、それだけで心強い何かを彼等の中にもたらす。
何の問題もなく共にいた高校時代も例外ではなかった。
懐かしさに任せて、その時々の思考や行動を語り合う彼等。
その中には、今になって初めて知ることも数多かった。
あの時牧人はこんな風に思っていた。あの時なつめはこんなことをしていた。
会話を経て、集積される。
情報が蓄積され、集約され、五人の共通の理解となった。
――――僕の元に集積され、統合される。
■
懐かしい昔語りを経て、五人で入ったのは商店街にある居酒屋だった。
まだ時間は早い方で、店内の人影はまばらである。
これがあと数時間もすれば、帰宅途中のサラリーマンなどでごった返すようになることだろう。
……ちなみに以前、葦原牧人はこの店から出てきた泥酔した大人たちを見て、大人の有り様の難しさを語ったことがある。
そんな彼等が、今や未熟ながらも大人となって、その店に足を踏み入れていた。
何とも不思議なものである。
「あー、このお店って確か……」
予約した席に通される最中、なつめが呟いた。
記憶の中には忘却されていくものもある。
この店の前を歩きながら交わしたその会話を覚えていたのは彼女だけだったようだ。
「マッキー先輩がここの予約したんすか?」
「? したのは俺だけど……店は明彦が指定してきたんだぜ。ここがいいってな」
「………………」
「なんだいなつめちゃん?」
「いいえー、明彦先輩ってなんつーか……」
「なんつーか?」
「……いや、やっぱなんでもないっす」
なつめはそれ以上何も言わなかった。
彼女の思ったとおり、明彦はその時の出来事を改めて自分たちに反映させてみたくなり、この店を選んだ。
そうと気付けばどことなく作為的なものだろう。
それについて言及されて困ることはなかったが、無理に言わせることもないだろうと明彦は判断し、追及をやめた。
円卓を中央に置いた座敷に通され、五人は車座になる。
いい席だ、と思った。皆の顔がそれぞれ良く見える。
適当に注文を始め、各自思い思いに飲食をし出した。
自分が飲み食いしたいものを、次々注文していく一同。
一同の中にあるのは以前と変わらない、そうした強制のない空気だ。
職業柄なのかは知らないが、なつめはザルだった。あれほど痛飲しながらも表情一つ変えない。同じく強い耕平と、先程から店のアルコールを全種類制覇する勢いだ。
だが、不思議なことに二人ともあまり酔わない気質のようで、素面の時とあまり変わらないように見えた。
対して牧人はアルコールにとても弱いらしい。すぐに赤くなる。そんな様子を耕平たちにからかわれて、悔しそうな顔をしているのはイメージ通りだろう。
意外だったのが薫で、大人しそうな顔をしながら先程から強い酒ばかりを頼み、ちびちびと慎ましやかにそれを飲んでいる。
無理にビールを飲もうとしている牧人が心配らしく、そちらばかり見ている。彼女の方が圧倒的に酒に強いと気づいた時、牧人は落ち込むのではないだろうか。
そのようにして、ささやかな酒宴が続く。
……もっとも、酒宴という言葉が適切かどうかは微妙なところだ。
良くある羽目を外す場としての集まりというには、五人の様子は落ち着き過ぎていた。
大声で騒ぐというより、彼等は普段どおりの淡々とした調子で会話を重ねた。
彼等の話題は多くが昔のことだ。
先程から続いているのは過去あったことを互いに確認し合うもの。
あの頃あんなことがあった。あんなことを話した。
一つの話題を経る毎に、彼等は距離を縮めていった。
言わば、絆の修復作業といえるだろうか。共に歩いた道を、今もう一度眺めている。
今、ここに向かい合うのはあるがままの彼等だ。
相互に光を放ち、分散させ、心の虹を作り合うプリズム――それが彼等だ。
あるがままの姿で輝きあうことができる、そんな繋がりだったのだ。
今やその空気を取り戻している。
対話をしているうちに、一時期存在した不和はいつしか完全に消えていた。
全体がその空気を実感し始めた頃、五人のうち三人が別の空気の存在に気付く。
「………………」
「………………」
「………………」
耕平となつめが顔を見合わせ、明彦がそれを見て頷く。
三人の気配が向いているのは葦原牧人だ。
先程から彼は、持参してきた紙袋の紐を固く握りしめて、何かを伺うように視線を巡らせていた。
その様子を見て、今更何も思わない三人ではない。
大体、友人同士の酒飲みの場に持ってくるには、その紙袋は明らかに異質だ。
……言うまでもなくばれている。
紙袋の中身を、牧人は薫に渡そうとしている。
その見え透いた決意が何とも牧人らしく、皆その不器用な頑張りを応援したくなったのだった。
「……え、えっと」
牧人を中心に他の四人が沈黙してしまったので、残された薫が戸惑った。
何か話題を探そうとして、腐心している様子である。
思えば、彼女はこの日集合してから、牧人とはほとんど対話していない。
気まずさなのか、単にどのような態度をとればいいか解らないのか、どちらともなく目を逸らしてばかりだ。
そんなぎこちない空気が続いている。
……それも、限界に達していた。
「悪い、俺……ちょっとトイレ」
耐え切れなくなった牧人が逃げ出した。
顔を伏せ、泣きそうな表情で、すごすごと座敷を後にする。
「………………」
「………………」
「………………」
その背中に向けられる三つの視線を、牧人はどのように受け止めていたのだろうか。
「なーんか……」
なつめが牧人の消えた襖を眺めながら言う。
「ちょっち、かわいそうっすね」
「お前、ホントにそう思ってるか?」
「ぶっちゃけるとそんなでも。ただ、あの辺は昔となーんも変わってないなーマッキー先輩はー、と思ったんす」
「……まあ、なあ」
そう言って二人は、牧人の置いていった紙袋を見る。
中に何が入っているのか。その興味が湧かないわけではない。
覗き見てやりたい欲求に駆られるが、その手の悪戯心を出す場でもないだろう。
「大丈夫だよ」
そんな二人に対して、明彦が微笑みかける。
「――牧人は、強くなった」
その言葉には、皆が一様に頷いた。
「うー……」
襖一枚を隔ててそのようなことを言われているなどとは露も知らない葦原牧人。
居酒屋の通路などで唸っていると、悪酔いした客と勘違いされる。事実、何度か店員に声をかけられた。
いっそ酔っていれば、こうして悩むこともなかったのだろうか。
だが酒の力を借りて出た言葉にどれほどの力があるだろう、と牧人は思う。
故に言わなければならない。素面のまま、本心を全て包み隠さず。
だが――
「やばい……」
――なんか滅茶苦茶、緊張してきた……。
胸を押さえると、信じられないくらいの速度で心臓が拍動している。
別の意味で吐きそうになるのを堪えながら、襖に手をかける。
――コレから、言うんだ……俺の気持ち、薫に……。
今しかないと思った。全体の不調和が消失し、かつての空気を取り戻し始めた今しか。
だが、そう覚悟したその瞬間から、緊張は肥大していくばかりだ。
何か口にしようとしても、すぐに頭脳は初期化されてしまう。
――ああくそ……どうすりゃいいんだよぉ……?
頭を抱える牧人。別の客が怪訝そうな表情でその脇を通過していく。
「いや……」
そのような視線にまるで気付かず、牧人はかぶりを振った。
――カッコつけなくたって、いいんだ……いつもの俺で……でも……、
「…………いつもの俺って、なんだ?」
唐突にそんな疑問を抱いてしまった。今まで考えたこともないようなことを。
かつてはどのように薫に接してきたか。どのような顔で、どのようなことを言っていたか。
思い出すも、出てくるのは見るに耐えない、稚拙な自分の姿ばかりだ。
「…………」
それ以前に、大前提として、彼女は今でも自分を受け入れてくれるのだろうか。
――あんなことがあったんだ……ふられたって思ってる――なんてレベルじゃねぇよな……
「俺は……どうだ?」
――俺は今でもホントに、薫が好きか?
自問。心がかつてなく波打っている。
その状態はどこか懐かしくもあったが、途方もなく不安だった。
――何が好きなんだ? どの辺が好きなんだ? どのくらい、好きなんだ?
問えば問うほど、答えは出ない。
――くそっ、変な理由付けで逃げるな……、ここでやらなきゃ、きっと一生……後悔する……!
そう思い、震える手を再度持ち上げようとした時、
「――っっ!?」
自分のポケットから鳴り響いた着信音に、牧人は飛び上がる程に驚いた。
――め、メール……!? こんなタイミングで一体誰だ――、
折角の決意が揺らいでしまう。牧人はそれを焦った。そのようなメールなど無視して、今はこの扉の向こうへ……、
「………………」
それでもやはり気になって、牧人は携帯電話を開いてしまった。
――あー、結局逃げてるじゃねぇか俺……マジで最低の馬鹿――
そして後悔する。自己嫌悪。
自分に呆れ果てながら、牧人は送り先を確認することもせずメールを開き、
件名:ハッピーウエディング
内容:
「あ、そういや今朝言ってた藤宮香ってコ、アッシーの彼女? あ、で、久しぶりに会うのか、なんだよー、もうそのまま結婚しちゃいなよー、ばーかばーか」
「おい浅野……」
あまりに絶妙なタイミングで送られてきたその内容に、牧人は送り主――浅野がすぐ近くで見ているのではないかと疑念を抱いた。
無意味に周囲を見回してから、そんなわけはない、とため息をつく。
――結婚しちゃいなよー。
しかし、何故か最後の一文だけ、浅野の声で脳内再生された。
……その言葉の威力に、牧人は一瞬眩暈を覚える。
「……結婚なんて、軽々しく言いやがって……あの馬鹿」
苦笑した。
改めて好きだ、とさえ言えない今の自分に、結婚など夢のまた夢だ。
「けど、なんか……」
牧人は携帯電話をポケットにしまい、改めて深呼吸。
先程までの緊張は、いくらか和らいでいる。
……これならば、何とか耐え抜くこともできそうだった。
――浅野、お前にはホント……色々助けられてるな、今度、ちゃんとこいつら紹介するよ。
心の中で牧人は友に約束する。
「けどな、香じゃなくて薫だ。……間違えんじゃねぇよ」
不適に笑いながらそう言って、牧人は襖を開け放った。
そこには最早躊躇いはない。
上手くやれるかはわからない。無様で情けない姿かもしれない。
……だが、とりあえず潔くあろうと思った。
そうすれば、きっと――
戻ってきた牧人の表情は、晴れやかだった。
何もかも振り払ってきたような、落ち着いた気配すら滲ませる。
「悪い、待たせた」
それは果たして誰に、何に対して告げた言葉だろう。
そうして、改めて席につく牧人。
その姿を見て、三人の仲間たちの胸に……途轍もない安心が広がった。
「はーい!」
一番に動き出したのはなつめだった。
席を立ち、挙手をする。
「あたしちょっと、タバコ吸ってきますー」
「え?」
本当なら、なつめは煙草を吸わない。サービス業においては珍しいことである。
そのことを牧人は聞いている、故に混乱した。
しかし、そのことについて他に誰も指摘しなかったのは、皆なつめが非喫煙者であることを知らなかったからではないはずだ。
「お、おい、芥川――」
このタイミングで消えようとするなつめに、牧人は戸惑う。
だが、なつめはそんなものは無視するように、テケテケと座敷を飛び出していった。
「あ……」
襖を閉じる直前に見せたウインクが、自分を激励しているように思われた。
続いて、ゆっくりと明彦が立ちあがる。
「あ、明彦……?」
見上げる牧人に明彦は笑顔で手を振る。
「僕もちょっと大学から電話が来ててね。急ぎの用事なんだ、出てくるよ」
机に置かれた携帯電話を拾い、そのまま悠々と座敷を後にする。
動きはゆったりしていたのにそこには一言も差し挟む隙がなかった。
なつめ、明彦が相次いで消え、座敷は三人だけになる。
「…………」
「………………」
突然面子が減ったことで、妙な沈黙が訪れた。
「ふー」
それを破ったのは、棗耕平のため息。
「……あいつら、揃って手が早いな……このオレサマが先を越されるとは思わなかったぜ」
「耕平……、お前ら……?」
最早、彼等三人が何をしているのか気付かない牧人ではない。
ただあまりに唐突だったので、慌てている。
……とりあえず、自分の計画が周知の事実になっていることについてはどうでもいいようだった。
「牧人よお……」
「な、なんだよ?」
しまらない態度で耕平も席を立った。
「今のお前なら安心だと思う。だから、なんつーか、その――」
眼鏡のズレを直す仕草が、どことなくわざとらしかった。
「――うまくやれよ?」
そう言って、耕平は握った拳で牧人の頬を軽く殴った。
痛みなどまるでなく、そこにはただ友に対する激励だけが乗せられている。
「耕平……」
「あーあ、だせえだせえ。オレも落ちぶれたもんだぜ」
気怠げにそう言いながら、ぶらりと座敷を出て行った。
何をしに出て行ったのか全く告げていないが、そのことに気付いた時には、耕平はとっくに姿を消していた。
「………………」
「………………」
そして座敷には、牧人と薫の二人が残された。
――な、なんだ……これ?
鈍い牧人も相次いで消えた友人三人の意図くらい察している。
だが、決意したものの展開の速さについていけなかった。
喉が渇いてグラスを掴むも、今酒を口にするのはまずいと踏みとどまる。
「み、みんな……どうしちゃったんだろうね、突然……」
用心しいしい、そのように言う薫。
――か、薫にも……もう、バレてる……のかな……?
だとしたら途轍もなく格好悪いと思い、別に構わないとも思った。
どちらも肯定できてしまう。だからこそ、思考は纏まらず、混乱していた。
「な、何か……話してようか」
「そう……だね」
――いきなりは、マズイ……、会話の中から、タイミング、探さねぇと……。
世間話を交わそうと思った。
「マキくん、はさ……」
「う、うん」
ぎこちない。
「マキくんは、大学とかで彼女なんて……できたの、かな……?」
「えっ……?」
牧人は過呼吸に陥りかけた。
――今、その質問するなんてのは、何か意味があるのか……?
そして深読み発動。
「いや、全然……、薫、は?」
「わ、わたしも……。あはは、相変わらず、もてないんだね、お互い」
「ハハ、ハ……」
――ば、馬鹿……過度な期待なんかすんなよ、単に場繋ぎの言葉ってだけかもしれないだろ……。
「不思議だなあ……、マキくん、こんなにカッコいいのに……」
「かっ――!」
今度こそ過呼吸だった。酸素が妙な場所に入り込み、息ができない。
「そ、そんなこと言うけど……薫だって――」
「え、わたし……?」
「薫だって、こんな……かわ――げほっ」
むせた。机に突っ伏す。
――違うだろ俺っ! そんなこと、今更言ったって仕方ないだろ……!
そうした表層的な賛美は、今の牧人には何だか遠い。
――そんなんじゃない……可愛いだとか、綺麗だとか……、そうじゃなくて、今は、俺が薫のこと、好きかどうかってことで……、
「ま、マキくんっ、どうかしたのっ? 気持ち悪い?」
突然机に倒れこんだ牧人を見れば、誰もがそう思っただろう。
薫がすぐ傍まで寄ってくる。
「い、いや……平気――」
それを感じて、牧人は何とか顔を起こして――、
「無理、しないでね……お酒苦手だったら、仕方ないもん」
見下ろしてくる彼女の視線と、机に伏したままの自分の視線が交錯する。
「あ……」
「え?」
目が合って、牧人は思わず声を発した。
――馬鹿だ……、俺……カッコ悪すぎるぜ……ホントに……、
そこにいるのだ。
藤宮薫がすぐ傍に。
――そうだよ、それが嬉しいんじゃねぇか、……なにがどう、とか関係ねぇよ……、全然。
「ま、マキ……く――」
その事実に、涙が出そうだった。
否、既に流れてしまっているかもしれない。
――好きなんだ。……ただ、好きで、死ぬほど好きで仕方なくて……。
「薫……」
そう思えば、後はもう動くしかなかった。
牧人は体を起こし、まっすぐに薫を見据える。
「あ、ぅ……」
すぐ近くに互いの顔がある。
その事に薫も気付いたらしく、恥ずかしげに少し身を引いた。
……逃がさない。
今ここで彼女を行かせたら、もう捕まえられない。
そう思って、牧人は掴む。
――俺は……お前と――!
「あのっっ、あのさ――」
牧人はもう止まらない。止まれない。
「聞いて欲しいんだ、俺ずっと薫に話したいことが、あって……」
「ま……マキ、くん……?」
戸惑う薫の手を掴む。抵抗はない。
「俺、その……自分のことばっかりで……言いたいことだけ言って、自分が悪いからって懺悔するみたいに……、そんで、お前の気持ちなんか少しも、考えないで……」
ここまでわざわざ運んできた、純白の袋を掴む。
……高校時代までの自分なら、薫の方から尋ねてくるまで渡すのを待っていたりしただろうか。
ふと、そんなことを思った。
「で、傷付けて……謝りたくても、カッコ悪くて謝れなくって……」
だけど、今はそんな悠長なことをしている暇はないし、そんな態度自体がもう許せない。
――だから俺が自分から言うんだ……!
「ごめん薫。泣かせてごめん、たくさん傷付けてごめん。だからもう、これが最後でいい」
「……っ、待って、マキく――」
両手で掴み上げたその袋を、薫に突き出す。彼女がそれは何かと尋ねるのに先んじて。
些細な違いでしかない。
だが、牧人にとっては、とてもとても大きな一歩――
「最後のチャンスをくれ、もう一回言わせてくれ――」
彼女との距離を縮めるための、とても大きな一歩。
「俺はお前と、一緒にいたい。お前と一緒がいいんだ。お前と一緒じゃなきゃ、駄目なんだ。だって俺は――」
夜の居酒屋。小さな座敷に二人はいる。
周囲の部屋には他の集団が酒を酌み交わし、騒いでいる。
だというのに、周囲の喧騒が、今は嘘のように聞こえない。
「――俺はお前が、好きだから……!」
その言葉は、二人の耳に、はっきりと残った。
「マ、キ……くん……」
恐る恐る手を伸ばし、牧人の差し出すものに触れる。
互いの手を重ね合いながら、それは彼から彼女に渡された。
「遅くなってごめん、誕生日おめでとう……」
「え――?」
虚を突かれて目をぱちくりさせながらも、その袋を開く薫。
「こ、これって……」
中身は……、いつだったか購入した、白のダッフルコート。
ちなみに今の季節は初夏。去年のでも今年のでも、薫の誕生日からは程遠い。
「別れた後、お前の誕生日にさ……なんでかよくわかんねぇけど、買っちまってて……」
「え、でも……これ……すっごくいいやつだよね……? こんなお金……」
「あ、えーと……ホントはギター買うために貯めてた金で、さ……」
そこで本当のことを言ってしまうのが牧人だ。
「まぁ、そのおかげで今でもあのボロギター使ってんだけど……、そんなの――」
「ぷっ……」
「え?」
しかも自覚がない。思わず薫は吹き出してしまう。
「はは、もぉ……ばぁか。そーいうこと、言っちゃう? 普通」
「ヘ、ヘンな見栄張ったって仕方ねぇ……だろ」
言うことは素直になっても、照れ屋な部分は変わらない牧人は視線を逸らしつつそんなことを。
自分でも大分変だとは思っていた。相変わらず要領が悪い、とも。
「まったく……、相変らず駄目だなぁマキくんは」
そんな姿が薫も懐かしくて嬉しくて、泣き笑いの顔をコートにうずめる。
「こんな時にいきなり誕生日プレゼントなんて……、こんなの、見てるだけで暑苦しいよ」
「……で、でも、どうしても薫に貰って欲しかったから……」
「ばか……、そんなの、わかってるよ……言わなくていいの……」
「う……」
表情は見えないが、薫の涙声は呆れ果てているように聞こえた。
なんというかもうぐだぐだだった。
「……あー、俺、今メチャクチャ格好悪いよな、すまねぇ」
痛いほど思い知ったその事実。
けれど、今更どう思われてもいい牧人だった。
どのようにカッコ悪くても、彼女がそれを受け入れてくれさえすれば……。
「ううん……」
まして、
「そんなマキくんが、……大好きだよ」
……そんな言葉が貰えるのなら、もう本当にどうでもよくなる。
寄り添う薫を抱き寄せる。
ダッフルコート越しに、懐かしい温かさがそこにあった。
「はは、なんつーか……」
――もうホント、どうしようもなく陳腐で……とっくに言い尽くされてる言葉だけど……、
「……夢、みてぇだ」
本当に……見ている方がため息をつきたくなるほど幸せそうな表情で、
牧人は、そう呟いていた。
けれど、そう思うのは見ている方もそんな二人を祝福しているからなのだろう。
「いゃー、よかったっすね」
「へっ、よーやく男見せたかあの野郎。遅いっての」
「ホント、よかったね。牧人」
通路で向かい合いながら、ガッツポーズをする三人。
座敷の襖が少しだけ開いているのは、牧人たちには秘密だ。
■
宴もたけなわ、という状況も過ぎた。
五人の再会を祝う集いは、終息に向かいつつある。
「さて、じゃあ最後に僕から一つ話をさせてくれ」
故に武田明彦は初めて自分から話題を出した。 店に入ってから早数時間。そろそろラストオーダーとなる。
突然の明彦の宣言に、一同の視線が集中した。
「……なつめちゃん」
「なんすか?」
「君は前に、色々な社会のルールや他者との関わりを、両手で貯めた水に例えたんだよね?」
「や、そりゃあの頃はあの頃でして、今はもうちょっと大人になりましたというか、その」
うろたえるなつめが言うあの頃、というのは耕平と共に海に行った時のことだ。
先程まで二人だけの記憶だったそれは、昔語りを経て全員が知るところとなっている。
「そう? あれは悪くない例えだと思うけど……まあそれはさておいてさ」
なつめの反応を気にすることもなく、続ける。
「耕平はその水を支える辛さを抑えるために、大事な思い出や友達を溜め込めって言ったんだよね」
「……あーそうだよ、つか、何でいちいち掘り返すんだ。改めて言われると恥ずかしいぜ」
「そうだね。まあ僕もこれからかなり恥ずかしいことを言うわけだから、その辺りは勘弁して欲しいな」
そっぽを向く耕平だったが、明彦はまたも動ずることはない。
「牧人、この二つ、なんだかおかしいと思わない?」
「あ? おかしいって、どういうことだ?」
突然自分に話題を振られ、牧人は怪訝な顔をした。
「あの……それって結局同じ事だよね? なっちゃんは、水を抑えるのが嫌だって言ってるのに、棗くんは……その例えで言うなら、もっと水を貯めろって言ってるのと同じじゃない?」
牧人に先んじて反応したのは薫だった。
言われて牧人も得心がいったように頷く。
この二人も、耕平となつめのあの会話には共感する部分があったということか。
「そう。友達同士だって、煩わしさはある。一時の牧人と薫みたいに。人間は中々上手くいかないよね」
「なぁ……、まだ続くのかその話。既にかなり寒いぞ」
「むしろここからが本番だよ。……まあ、寒い寒い言ってるのも、ある意味僕らが大人になったからだよね。でも、今だけは子供に戻って欲しいな」
「あーぁ、わかったよ。……続けてくれ」
明彦のその要請に思うところでもあったのか、牧人は引き下がった。
「……それじゃ、失礼して。まあ薫の言った通り、僕たち五人の思い出だって、保持し続ける事が難しいのは変わらないんだよ。だから耕平の言ってる事はある意味詭弁なんだ」
「……そうかい」
言われて耕平が残念そうな顔をするのは、彼自身もそのことを意識していた部分があったからかもしれない。
「ああ待って、これには続きがあるんだ。正確に言うと、耕平は水を増やすよう言ったわけじゃない――水の中に砂金を落とせって、そう言ったんだよ。わかる?」
……砂金。
今まで登場したことのない単語が突如現れ、一同は水を打ったように静まった。
皆、思考している。明彦の言葉を吟味し、理解しようとしている。
砂金と呼ばれた何かの真意を。
「水の中の砂金は、社会の煩わしさや苦しさの底に沈んだ大事な思い出――だから、わたしたちはきっと、必死になってそれを守る」
最初に応えたのはまたしても薫だった。
その言葉に全体の異論がないことを感じ取り、明彦は頷く。
「そう。怠惰でいれば、何かに溺れれば、きっと水の中の砂金を見逃すように、僕らは思い出を忘れていく」
開いた手のひらには、今は何も乗っていない。
だが、そこには目に見えぬ輝くものがあるはずだった。
「だから僕たちは、人間の尊厳を保ち続けるため社会に順応し、水の中の砂金を零さないよう――結果として、水をも必死で守り通す。
1を忘れると、人は大抵10や20を忘れてしまうものだから――そうだよね、牧人」
「……あぁ、そうだな」
「素直になったね。あの頃からは考えもつかない」
「……ふん」
牧人は鼻を鳴らす。不機嫌なのではなく、単に照れているだけだと皆知っている。
「ぶっきらぼうは直らない、か。まあ良いや、その方が牧人らしい」
微笑んで、明彦は全体に向き直る。
牧人の反応は嬉しかったが、それは脱線だ。
「……僕らはさ、互いが水の中に混じった砂金を、後生大事に守ってきた」
それは、共にいた日々のこと。
「でも、一人じゃ思い出はすぐに薄れる。積もりゆく他の色々なもので水は濁っていって、その中に溶け込んだ砂金は……いつしか見ることも難しくなる。
……僕は卒業してから今までの時間で、そして、今まさにそれを痛感してる」
たった今、様々な会話をし、情報は蓄積されてきた。
それはつまり、こうして話をするまでは、認識できる場所になかった――忘れていたということになる。
「こうして五人集まって、互いに色んな事を話しても……まだまだあの三年間は穴だらけだ」
一夜で語り終えることができる量ではない。
あの密度が、その程度のものであるはずがない。
交換されていない砂金がまだあるはずだった。
「……正直、皆と再び連絡を取って、同窓会を開くのは――結構、緊張した」
その発言に、誰もが意外そうな顔をした。
動き回ったのは牧人でも、企画したのは明彦だと誰もが知っている。
「でも、砂金を一人で守り続けるのは、本当に疲れるから。皆もきっと、そうだろうなと思ったから」
その感情を明彦も感じていた。そのことが露見したのはこれが最初だっただろう。
故に一同は驚くと共に、不思議な一体感を覚えていた。
「……ねえ、牧人。そのコップの水、ここに落としてくれない?」
言いつつ両手で椀を作る明彦。
「あ?」
「おいおい、そこまでやるのか」
自分の語った論をここまで掘り下げられるのはさすがに耐え難かったのか、耕平が呆れた顔をする。
「僕だってたまには、我侭言っても良いと思わない?」
「ったく……かなわねえなあ」
頭をかきながらそっぽを向く耕平。
「……どれくらい、入れるんだ?」
「牧人の入れたいように」
「…………」
牧人は、何故自分がその役に抜擢されたのかがまだよく解っていない。 渋りつつ、コップの水を手の中いっぱいになるまで入れる牧人。
「ありゃりゃ。ギリギリだね」
言いながらも、既に少しずつ水は零れている。
「耕平」
「あ?」
「何ぼうっと見てるの? この水の中には、僕たちの砂金が入ってるんだよ?」
こぼれないように押さえなきゃ、と明彦は目で促す。
「――ちっ、なんだテメェ、オレやなつめなんざ目じゃねえくらいキザじゃねぇか」
諦めたようにそう言いながら、明彦の手の下に、手を重ねる耕平。
「さあ、次はなつめだ」
「あ、はい、了解っす!」
なつめは楽しそうだった。
多分彼女は言葉にならないだけで、感覚としては一番理解している。
「次は薫」
「え? う、うん」
薫は、言葉では理解しながらも、認識としてはやや遠い。
一番健全な彼女は、実感として薄いのだろう。手を添える動作も、おっかなびっくりだ。
「さあ、牧人」
「……けど」
最後に声をかけられた牧人は、ためらう。
ここに来て、以前その砂金を自ら捨てようとしたことに思い至ったのだ。
彼が本当に全てを投げ打ってしまえば、ここに再び会することもなかっただろう。
故に、改めてそれに触れる資格が自分にはないと思っている。
「良いんだ、牧人」
そんな彼を明彦は常に強く励ます。
「何を間違えたからといって、この思い出の所有権を君が失うわけじゃない」
今までだって、ずっとそうしてきたのだ。
「――そうか」
そして牧人は言葉に応じた。
悩むくらいなら手を伸ばすことを、彼は知ったからだ。
そして、全員の手が重なった。
「ここに入っているのは、今日集まった中で埋められ、補い合った僕たち全員の思い出だ。
この底に沈んでいるのは、僕ら五人分の砂金だ。だから互いが互いを支え、僕たち皆で守るんだ。守っていかなければならない」
重なり合う五人の手は、最早頼りない椀ではない。
一滴の水も落とすことのない、力強い結びつき。
「こうすれば――――こうして皆で支えあえば、水も砂金も、そう簡単に落ちはしない」
各々の伸ばされた手の先に湛えられたその水を、皆が眺めていた。
その底には、確かに見えない黄金がある。
……だから全員が必死で抑えた。
互いの手を握り合うように、支えるように。
…………手を、繋ぐように。
「僕は、この五人で居られた事を、心から幸せに思ってるよ」
「……明彦」
誰ともなく名を呼んだ。
「だから皆もそうであると、信じたい。
これからも、ずっと、ずっと――――僕らは、友達だ」
その言葉に、全員がうなずいた。
もう誰も笑わない。
無言で、静かに、けれど力強く。
それを見届けた明彦は、フ――と短く笑って、
「耕平、まだ支えててね」
「あ?」
そっと両手で作った椀を解き、中の水を落とした。
水は、当然明彦の両手を支えていた耕平の両手へと移る。
「お、おい明彦」
「写真、撮っておこうと思って」
「おいこら……何もそこまで――っ」
そこまですることはない。
そう思ってカメラを探して鞄を漁る明彦を制したいところだったが、そうすれば水は落ちてしまう。
「良いじゃない、もうこんな機会ないだろうし。これもある意味お酒はいってるから出来ることだよね」
「お、お前なあ……」
そのように言う明彦も、耕平たち同様、素面の時とまるで変わらない。
酔っているように見えるのは顔が赤い牧人だけだ。
「まあまあ」
言いつつ、鞄からようやくインスタントカメラを取り出す明彦。
「……いまどきポラロイドかよ」
「雰囲気があって良いだろ?」
指摘しつつもレトロなその物体は明彦に似合っていると耕平は思った。他の皆も思った。
「それじゃ、撮るよ―――」
――パシャリ。
フラッシュが炊かれ、すぐに写真が出てくる。
「お、おい、チーズとか何か言えよせめて!」
不意の眩しさに目を細めながら、牧人。
「だって、こんな構図で四人とも笑顔って……不気味じゃない?」
「でも心の準備欲しかったっすよーぅ」
「あはは、でもさ……、良い感じだよ」
言って、印刷された写真を見せる。
「素のままの皆が出てる。僕ららしくて良いじゃない」
「……チッ」
舌打ちしたのは牧人だ。その写真には、明彦が写っていない。
……彼は、その意図に気付いたのだろう。
「ってゆーか先輩、だったら五人そろってないと駄目じゃないっすかー」
他の三人もそのことに気付き、なつめがそれを指摘した。
「あはは、それがそうでもないんだ」
明彦は笑ってカメラをしまい、
「僕、もう少ししたら留学するんだ。だから余程の事がなきゃ、もう皆とは会えないね」
その言葉に、耕平が水を落とし、なつめが水を落とし、薫が水を落とし、牧人が水を落とし……そうになるところを何とか堪えた。
さすがに牧人だけでは支えきれず、いくつもの雫がテーブルに滴る。
「ありゃりゃ、零しちゃったね――ごめんごめん、驚かせちゃったみたいだ」
言いながら、ポケットからハンカチを取り出し、水をふき取る。
その水が、皆の零した涙に見えた。
……だから――明彦はこれを、誇りに思おう。
これは、皆が“僕”のために流してくれた涙なのだと、そう思おう。
そして……最後に立つ牧人が、それを受け止めてくれた。
だから、もう彼に任せても大丈夫なのだ。
「お前、留学って……なんで……」
すがるように明彦に近寄る耕平。そこには普段の余裕が欠片もない。
「文化人類学研究会って、覚えてる? 実は僕は高校時代、そんな部活に所属してたんだ」
「あ……、もしかして、文化祭の時、発表してた……」
薫がそのことを思い出してくれる。
思い出、一つ。
「やっぱりお前……その話するつもりだったんだな、長い前振りしやがって」
嘆息したのは牧人だ。
「既に知ってる牧人には退屈だったかな」
「いや……途中まで気付いてやれなかった、悪い」
「いいさ」
近くにあったコップの中に、牧人はそっと手の中の水を注ぐ。
それを大切に保存しておくかのような、慎重な動作で。
……そう、彼は既に知っている。
「え、あの……どういうことっすか? マッキー先輩既に知ってるって?」
「牧人には、最初に電話をした時から、既に話してあることだったんだ」
「ええっ!?」
「牧人お前、何でそんな重要なこと黙って――!」
耕平となつめが向いた先にいる牧人は、悔しげに歯を食い縛っている。
「牧人を責めるのはやめてくれないか。僕が無理にお願いしたんだ。皆このことを知ったら自棄になって集まる気をなくしてしまうかもしれないから黙っていてくれ、ってね」
「なるほど……。チッ、そういうところには気が回るな、明彦さんよ!」
降参したように耕平が手を挙げた。
実際に知らされていたら、今言った通りになっていた可能性を感じたのだろう。
「お前らは、知らないかもしれないけどさ――」
牧人が重い口を開く。
「それって明彦の昔からの夢だったんだよ。明彦、小学生の頃から、そういう歴史とか文化とか……調べたりするの好きだったんだ」
「……驚いた。そんなことまで覚えていたのか、牧人は」
「お前に言われて思い出したんだけどな。“あの発表”とかしてる時とか、お前楽しそうだったなあ、って」
嬉しい。牧人も、そんな古い記憶を覚えていてくれた。
「……じゃあ、あたしたちがワガママ言って止めるわけにもいかないっすね」
「そうだね……、そんな昔からの夢なら、わたしたちだって叶えて欲しいもの」
黙していたなつめと薫も、戸惑いがちに伏せていた顔を上げる。
「元々研究とか、考えるのが好きなんだ。その中でも特に、人間同士の在り方とかに興味があってね。人類学ってのはそれをテーマにした学問だからさ」
そして、武田明彦は語る。
自分の道を。初めて、愛すべき親友たちに。
「高校ではそれをやってる集まりがあったから参加して、大学でもそれをやろうと思ってその分野で優れた教授がいる大学を選んだ。でも、いざ自分が本格的にやると決まった時、迷うようになったんだ」
人類学の基本は文献主義ではなく、フィールドワークと言われる。
現地に赴き、その生活集団に実際に属することが、書物を紐解くことより重要な研究行為とされるのだ。
……つまりは、必然的に一所に留まることが難しくなる。
「けれど、やらないわけにはいかない。というか、この道を志した以上、通らなきゃいけない道だったんだよね。僕は結論を先延ばしにしてただけだったんだ」
「じゃ、じゃあ、もう……!」
なつめが泣きそうな顔をする。
「うん、僕はここでリタイヤだ。提案しといて押し付けるっていうのも、なんだけどさ――後は、四人で支えあっていてくれると、僕としては嬉しい」
「お前、ふざけんな――!」
「ごめん。でも、もうどうにもならない」
「……っ!」
耕平も歯噛みするしかない。
「どうしても、行かないといけないの?」
「うん。もう決めちゃったしね……決めちゃったからこそ、最後にどうしてもみんなと会っておきたかった。決断することができたのも、みんながいたからだ」
「そう、なんだ……」
薫も悲しげに口を閉ざしてしまう。
「…………」
ただ一人、牧人だけは、まっすぐにこちらを見ている。
皆の砂金を沈めた水。そのコップを握り締めて。
……明彦はそれが、心強かった。
「留学して、場合によっては向こうに永住しちゃうこともあるし、また他の国に移るかもしれない。日本にもいつ帰ってくるか解らない」
……その視線を頼もしく思いながら、明彦は語る。
「そうして、僕は、もしかしたらそんな日々の中で、……みんなの事を段々と考えなくなっていくのかもしれない」
……訥々と、語る。
「思い出は残留する。けど、きっと、長い時間が経てば経つほど、みんなに会うのが怖くなる」
……夢と友情の天秤についてを。
「今日会うのだって、怖かった。みんなが変わってないか、あるいは僕自身が変わってしまってはいないか、僕とまだ友達でいてくれるのか、怖かったんだ」
……その選択に立つ自分の冷静な心を…………、
「だから、多分、今後日本に帰ることがあっても、もう、僕は君たちと会わなくなっていると思う」
……僕は語る。
…………包み隠さず、心を詳らかに。
「今日のこの時の喜びも、永遠に残ったりなんかしない。どんなに言葉を飾ったって、会わない人間関係は劣化するんだ。どんな親愛も少しずつ磨耗し、いつしか跡形もなく消え去っている」
――みんなは、僕を憎むだろうか?
「卒業してから今まで、みんな、時々は高校の思い出を振り返ったと思う。僕もそうだった……。けど、だから連絡をとって会おうと思った人は、いなかったはずだ。
僕だって、留学で、会いたくなってももう会えなくなるって解ったから踏ん切りがついただけだし」
――それとも、僕を忘れ去るだろうか?
「きっと、僕らはもう会うことのない関係になっていた。会えないんじゃなくて、自然と、会わなくなっていく。僕が戻って来る来ないにかかわらず。だから――」
上を向いた。
皆の顔を見たら、決意が鈍る気がしたからだ。
――かまわない。彼等の中の僕が、どのような結末を迎えても……、ただ――
そうして、これまで育んできた全ての友愛を込めて、断ち切るように告げる。
「だから――――五人は、今日が最後だ」
誰もが無言だった。
理解していたからだ。
それが起こりうるのだと言うことを。
今どんなに吠えたところで、何を喚いたところで、それが避けられないということを。
……負け犬はやはり吠えないのだ。
「でも、四人はこれからも一緒だ。だから、もしかしたら、ずうっと関係を維持できるのかもしれない――いや、僕としては是非続けて欲しいと思ってる」
……もしかしたら、自分は今、涙を流しているかもしれない。
笑みを作ることは得意だが、それもさすがに限界だろうか。
「最初に抜ける僕が言うと都合の良い言葉に聞こえるかもしれないけど……」
棗耕平、芥川なつめ、藤宮薫、……そして、葦原牧人。
「みんなは、こんなに……いいやつらじゃないか」
僕が手を広げてそう言った瞬間――、
芥川なつめは憚らず泣いていた。
棗耕平は決意したように壁を睨んでいた。
藤宮薫は涙を拭いながら微笑んでいた。
そして、葦原牧人は、明彦の目をまっすぐ向いて、頼もしく頷くのだった。
「……頑張ってね」
全体に向けた言葉だった。
「ああ、俺が……ここにいるよ」
それに応えたのは――、
だから、もう安心だ。僕の役目は全て彼が引き継いでくれる。
一人減っても続いてくれる。
僕の考えた親愛のモジュール。
きっとこれからも、彼等の中で動いていくだろう。
………………静かに、強く、動いていくだろう。
05
――例えば三人称の小説などを読むとき、それが誰によるものかを考えたりはしないだろうか?
それは誰でもない、いるはずのない存在によるものだ。
従って本記録の最後には、その記述視点についての言及をしておこうと思う。
まず本件の記録者について触れておこう。
記録者は“僕”だ。
“僕”が記録を決意したのは、この瞬間――つまり、牧人たち友人四人との再会と別離を果たしたすぐ後のことだ。
“僕”は当初、人と人との繋がりは、時と共に薄れ、消え去っていくものと考えていた。
……去る者は日々に疎し、と言う。
会うことがなければ、人は相手を忘れていき、関連性を維持することができなくなっていくのだ。
従って、“僕”が僕等五人の輪を抜けると決まった時は、潔くその絆を断ち切るべきだと思った。
仮に再会を約束しても、それを果たすことが可能か否か不確定な環境に“僕”は身を置くことになる。そのような立場から、再会の可能性を匂わせ、その中で日々薄れていく関係性を維持する労力を彼等に負わせることは許されないと思ったからだ。
また、この集いは、断ち切るためでもあった。
そうしなければ、今後の“僕”に求められる行動にも“未練”という度し難い影響が生じてしまうとも思われたのだ。
故に、“僕”は別れを告げた。
その結果、五人の輪を抜け、一人異なる場所で生きていく決意を固めることができる――はずだった。
――だが実際は、不可能だった。
牧人、薫、耕平、なつめ。
彼等四人との絆は、一時腹を割って話す程度で割り切ることのできるものではなかった。
……この辺りに関しては、自身の精神力を過信していたと言わざるを得ない。
“僕”は自分で思うよりずっと、情に厚い人間だったらしい。
去る者は日々に疎し。その思考を改めねばならない。
数年離れた程度ではこの五人の繋がりは殆ど揺らぐことはなかったのだ。
故に、もう一押し必要だった。
それが本件である。
本記録の意義としては、身も蓋もない言い方になるが、単に記録者の思考整理に過ぎない。
彼等四人との日々をもう一度見直すことで、今度こそ一人立ち向かう気力を得ようと試みたのである。
文章はコメンタリー形式で記した。その時々の臨場感こそが重要な要素だと思ったからである。それを上手く表現できているかどうかは、この拙い文章では甚だ怪しいところではあるが、許して欲しい。
再会時の会話から得た情報を参照しているため、かなり正確に流れを追うことはできていると思われる。
また“僕”は輪の中にいた当時、集団全体の空気をとりわけ尊重すべく動いていた。
五人を五人として見て、その中で育まれていく友情を大切にしようと考えていた。
そのため、結果的に全体の空気を感じ取ろうとするタイミングが増え、傍観者的な立場が多くなったように思われる。
それについて疎外感を覚えることはない。自身で進んでした行為だからだ。
むしろ、そうして傍観していたからこそ、今こうして記録を残すことができたのだと思っている。
しかし、その作業ももう終わりだ。
この集団から離れることをもって、“僕”の記録も終了となる。
……これ以降の物語は、彼等のものだ。
こうして記録をした結果、“僕”は五人の輪から離れ、自身の道を歩んでいくことができるようになっただろうか?
それは未だに解らない。記録者たる“僕”は過去に遡行するものであり、未来を見ることは叶わないのだ。
ただし、思考の整理はできた。それが良い方向に作用するよう、後は“僕”が努力を怠らなければいい。
だが同時に、“僕”には別の“未練”が発生してしまった。
本記録を自身の中のみに留めておくことを惜しく思うようになってしまったのである。
記録をすることで“僕”の思考は整理され、その上でこの友情がログとして残す価値のある、尊いものであると心底から再認識させられたのだ。
故に、記録を開始した当初は誰にも見せず破棄する予定だった当記録を、ここに残していくものとする。
……しかしながらこれは、お世辞にも読み物として出来が良いとは言えない。
何故って、おおげさな冒険も、頓狂な怪奇も、劇的なロマンスも、大層な事件も、綿密なドラマも、何もない。
単なる、五人の思い出話。
心の中に残った小さな絞りカスの話。
だから、多分娯楽小説としては陳腐だし、退屈なところも数多いだろう。
僕らは何か特別なことをしたわけじゃない。
大きな努力と成功を成した訳でもない。
むしろ失敗とすれ違いばかりだったようにも思う。
毎日を胡乱に過ごし、大事な局面を致命的に間違える。
そんな僕たちの日常は、ことごとくナンセンスで――傍目に見れば、きっと格好悪い。
馬鹿みたいに矮小で、格好悪くて、ふと客観視すれば笑えてくる事さえある――でも、それが青春って奴なのだ。多分。
だから、それは嘘偽りなく、僕らの大事な思い出だ。
もしこの世界のどこかに僕らと同じ気持ちの人がいるならば、同じ境遇の人がいたならば、きっと、この思い出のモチーフはその人達の為のものなのだろう。
…………そうなったとしたら、それはそれで“僕”は嬉しい。
さて、最後になるが、本件の特徴を一つ挙げておこう。
それは文章の視点が記録者ではなく“葦原牧人”に置かれていることだ。
これには一応理由がある。
結果的に、本記録は僕等五人の思い出を纏めたものになったが、“僕”が現在の位置に立つに至った最初のきっかけは彼の存在によるところが大きいからだ。
従って“僕”は、僕等五人の輪の中における、彼の存在を強調したかった。
折角揃った情報を熟読する意味合いも込め、恩人たる彼の見てきた日々を辿ろうと考えた。
彼の人生と、“僕”が記録に費やした時間が等価であるなどとは決して思わない。
だが、結果的には彼の人生にそのまま共感するかのような、素晴らしい経験をすることができた。
本当に、彼にはいくら感謝してもし足りない。
その感謝がまた未練となって、再び“僕”の内に彼との再会を願う意思が現れたとしても、それはもう、むしろ喜ぶべきことのように思える。
それまでは、この記録を、アルバムのようにしまいこんでおくとしよう。
僕ら五人の、思い出話として――――
ああ、本当に――
彼等の今後を見届けられないのは、本当に悔しい。
選ばなければならないのは、本当に辛い。
だけど、そういうことになっちゃったから。
ああ言っておいてなんだけど、僕だって別れは寂しいし嫌だから。
僕は思うだろう。
一人遠く離れ、皆の姿を見ることすら叶わなくなっても。
――みんなは、今日も元気?
それでは、これをもって本記録は終了となる。
閲覧してくれた方々に、心よりの感謝を表して。
「それじゃみんな、行ってくるよ」




