●No11.親愛のモジュール<前編>
僕は、指揮者。
00
そして今、情報は集積される。
――――僕の元に集積され、統合される。
ここから、記録が始まるのだ。
■
……最古の記憶は、二人がまだ幼少の頃。
今や互いの人生において、共にいる時間の方が遥かに長い。
子供とは不思議なもので、大人以上に実力主義的な傾向がある。
勉強や運動が得意であったり、絵や音楽などの技能があったりすることが子供の中では力に直結するものなのだ。
小学生、中学生辺りの年代でとりわけ顕著になると思われるそうしたイデオロギーは、武田明彦の通っていた小学校にも存在していた。
明彦のクラスには中心的な男子たちがいた。
その派閥には前述のような、強い児童たちが集まっている。
子供の中においては、集団を取りまとめ、牽引していく力のある者ばかりだ。
クラスは必然的に彼等が舵取りをするような形でまとまり、強い者たちが弱い者たちを率いていく、という構図が自然に形成されていた。
しかし、強い者たちの全てが人格者とは限らない。
自身の力を過信せず、弱きを進んで助けるような面倒見の良い者もいたが、反面、その強さを自負し、自分より弱い者たちに対してのみ嗜虐的である者もいた。
……いわゆる、苛めっ子というやつである。
明彦のクラスにも、そのような子供がいた。名前は新井健太といった。
彼は頭が良く、勉強も運動も得意だったが、突然クラスの一人を槍玉に挙げて、仲間外れにしたり無視したりして楽しむという趣味の持ち主だった。
当然そのような難儀な性質にはクラスの皆が辟易していた。
だが、新井は優れた能力があり、下手に手を出しては自分が標的にされるという意識もまたクラス中にあった。
従って、彼はとりあえずクラスの中心に置かれ、腫れ物に触るような扱いを受けていたのである。
……そのような状況だったためか、彼のイジメがある日爆発した。
標的となっていた桐原真という一人の男子に向かって、突然直接的な攻撃を始めたのだ。
放課後の廊下。
大勢のクラスメイトの前で、うずくまる桐原に新井は猛然と暴力を振るった。
「ざっけんなよ! オラ、なんとか言えよ!」
響き渡る怒声に、桐原は手も足も出ない様子である。
怯えて丸めた背中に新井は拳を振り下ろし、頭を守ろうとする腕を容赦なく蹴りつけた。
皆、新井健太が桐原真にいきなり手を上げた理由がよく解らず、困惑していた。
こう言っては何やら不謹慎であるが、新井は直接的な暴力に訴えるよりも、対象を集団から孤立させるように仕向けるなど、より周到で陰湿な行為を好んだためだ。
子供は残酷なものだとよく言われるが、それは自らの感情の止めるべき部分を正確に認識していないからだと思われる。
酷い行いをして、その後どうなるかを考えられるほどの思考力が未だ養われていない。
新井もまた、行き過ぎた感情を持て余し、爆発させてしまったのだろう。
ともかく彼は、白昼の廊下でクラスメイトに暴行を働いた。
クラスの誰もが突然彼がそのような行動に出たことに驚き、また単純にその光景が恐ろしく、止めに入ることができなかった。
「………………」
幼き武田明彦はそのような状況をやや離れた位置から眺めていた。
当時の彼はあまり目立たない少年で、クラスではやや孤立したような存在だった。
しかし、その穏やかな気質故か、多くのクラスメイトは深入りしてこないだけで好意的であり、こうしてイジメの標的になることもなかった。
特定の誰かと親しかったわけではないが、目の敵にされることもなかったのだ。
適切な距離を維持していたと言える。
――けれど次は、僕かもしれないな。
一人の少年が一方的に暴行を加えられる様子を見ながら、漠然と明彦はそう思っていた。
或いは、それは周りの誰もが思っていることかもしれなかった。
イジメの標的。その選考基準は子供らしく甚だ曖昧なものだ。新井の目に偶然留まっただけで攻撃される場合もあり得る。
次の桐原は自分かも知れないのだ。
従って、このような場で制止に入ることは、次の標的に立候補するに等しかった。
「……ふぅ」
――安易だなあ……。
明彦は呆れたため息を漏らした。
彼は幼少の頃から、このようにどこか老成した感覚の持ち主だった。
子供特有のそうした理不尽さを、そこにいるうちから仕方のないものであると理解してしまっていたのである。
――恐れている、みんな。
実際にイジメている新井も、イジメられている桐原も、今後イジメられる可能性のある他の皆も、一様に恐れている。
そうした理不尽な悪意に晒されることを。
――僕は、恐くない。
強がりではなくそれは本音だった。
まるで理由が伴わない悪意など、がらんどうに過ぎないと思ったからだ。
そのような中身のないもの、気にしなければどうということはない。
……そう思っていた。
だからこそ――、
「このっ! うぜーんだよ、このっ!!」
殴打と共に浴びせられる罵声。
それは暴行というより、最早虐待に近い凄惨な光景だ。
「……?」
それを聞きながら明彦はふと思う。
――イジメに遭うのは恐くない。ならどうして、僕は止めに入ることをしないんだろう?
標的にされるのが恐くないのであれば、この状況を止めるために動いても問題はないはずだった。
だというのにそれを行わない自分。明彦はその辺りに妙な引っ掛かりを覚えた。
言い知れぬ自分の心の有様に、何とも不快な気分になりかけたその時――――、
「やめろー!」
廊下の奥から、“彼”が現れた。
遠くにいたのだろう。少し遅れてこの事態に気付いた彼は、声を上げながら猛烈な疾走でこちらに向かってくる。
そして、こちらに到着する直前で速度を落とし、全身に力を込めて肩を突き出した。
「……だぁッ!」
気合と共に繰り出されたのは、助走をつけた強烈なタックルだ。
少年の突進は足を振り上げていた新井の横腹に直撃し、二人はもつれ合うようにして廊下に転がった。
「ってーな! なにしやがんだ!」
「てめぇがなにしてんだ! 馬鹿なことやってんじゃねぇよ!!」
起き上がりながら、乱暴な甲高い声の応酬が始まった。
互いのシャツの胸倉をつかみ合い、額がぶつかりそうな距離で睨み合う二人。
「ふざけんなよ! オレの邪魔すんじゃねえよ!」
「偉そうにすんな! 自分より弱いヤツイジメて喜んでんじゃねぇよこのザコ新井!」
「ザコ……っ、言ったなおまえ!」
「うるせぇよ! 俺がお前に同じことしてやるっ!」
そうして、今度はこの二人による殴り合いが始まった。
喧嘩だ。周りの子供たちも騒ぎ出す。
一方的な攻撃に比べ、喧嘩というものの相手に対し向けられる感情は絶大だ。繰り出される攻撃も、怯えてうずくまるだけの相手に向けるものとは迫力が違う。
殴り合う二人の拳には殺意にも似た鋭さが宿り、向ける視線も最早敵愾心などというものではない。
「おいおい、あいつらマジでやばいってー!」
ここに来て、観衆だった他のクラスメイトも現状の危険性に気が付く。
男子たちが慌てて二人の間に入る。ぶつかり合う二者に組み付いて引き離し、「とりあえず落ち着け」
などと声をかけている。
その中で女子たちが、未だ床にしゃがみこんだままの桐原を助け出していた。
数分を経ずして、教師たちがやって来る。
見ていた生徒の一人が呼びに行ったのだろう。
事情を聞いていた教師はクラスメイトに押さえ込まれた新井に目を向ける。
教師に見つかって観念したのか、新井は悔しそうに黙っていた。
だが――、
「おい新井! なに黙ってんだよ、その程度の覚悟でイジメなんかするんじゃねぇよ!」
もう一人の男子は未だ大声で怒鳴り散らしている。歯を食い縛り、怒りにぎらつくその眼光は周囲に恐怖すら抱かせる。
彼は今にも新井に飛び掛ろうとしており、新井の倍近い数の男子が必死に制止しているところだった。
「おまえみたいなのがいるから世界は駄目になってくんだよ! どうしてもっと仲良くできねぇんだよ! 足りねぇよ、足りてねぇんだよ、全然!!」
「おい落ち着け葦原! 何が足りないっていうんだ!?」
その男子――“葦原牧人”のあまりの剣幕に、新井に話を聞こうとしていた教師は問いかける。
「先生のくせにそんなこともわかんないのかよ!」
訴えるように叫ぶ葦原牧人は――、
「“愛”とか“優しさ”とか、そういうのに決まってんだろぉ!!」
…………鼻血と共に涙を流していた。
「………………」
そして武田明彦は、そんな少年の様子を遠目から見ていた。
明彦の学年において、葦原牧人はヒーローのような存在だった。
クラスの中心となっていた男子たちの中でも、彼は特に皆から信頼されていた。
牧人は争いを嫌い、平和を愛した。
喧嘩があればすぐさま駆け付けて止めに入った。
イジメがあれば見逃さず、必ず弱い者を助けた。
低学年の子供と交流がある場では、積極的に彼等の面倒を見た。
そうして、諍いなく皆が仲良くやっていける場を作ることに本当に真剣に取り組んでいた。
――――弱きを助け強きを挫く。
少年たちの中で、彼のその姿は正義の味方そのものだったのだ。
故に、そのある種の破天荒な言動もまた皆から尊敬と羨望を受けていた。
やり方は少々稚拙で粗雑なものだったが、誰もがその内に垣間見られる純粋な部分に心惹かれ、自然とリーダー的な役が回ってくる。
……葦原牧人はそんな子供だった。
彼は先の出来事で、“愛”や“優しさ”について主張していた。
だが、何もこれはその時に始まったことではない。
争いを止めようと必死になっている時、彼は常々このようなことを言い張るのだった。
…………彼は、本当に心の底から、そうしたものを大切にしたのである。
――愛……?
武田明彦は、彼の口から発せられるその言葉を聞く度に妙な違和感を内に抱く。
小学生――純真さの強く残る年代とはいえ、そのような美しい言葉を何の臆面もなく言えることが明彦の目には奇異に映った。
そして同時に妙な恥ずかしさを覚えるのだ。
牧人は新井を止めに入った。
身を呈して、殴られて鼻血を垂らしながらも、愛と優しさを主張するために。
しかし、明彦を始めとする他のクラスメイトは静観しているだけだった。
狂ったように桐原を攻撃する新井。その圧倒的な暴力を、恐れるように眺めていただけだ。
「…………」
明彦は考える。
葦原牧人には新井健太を止める理由があった。
小学生らしからぬ平和主義に固執する牧人には、新井の行為は許せないものだっただろう。
新井健太には桐原真を殴る理由があっただろうか。
本人にとっては桐原を攻撃する理由があったかもしれないが、それは他者を納得させるものではないだろう。
――……なら、僕はどうだ?
自分には、新井健太の桐原真への攻撃を傍観している理由があっただろうか。
ない、はずだった。
あったとしても、それは新井のものと大して変わらない気がした。
「そうか」
――僕は桐原を苛めていたんだな。
明彦はそのように結論付ける。
新井の行いを止めないことで、間接的に桐原を攻撃していたのだ。
それは別に桐原に対する嫌悪ではない。多くのイジメには意味や理由などありはしない。
その時々の流れであったり、新井のような嗜虐的な部分の暴発であったり、ほんの些細な悪感情であったり、いずれにせよその程度のものだろう。
――あの時、僕の中にも新井と同じ感情があったんだ。
一方的に新井に殴られる桐原を見ながら、自己の嗜虐的欲求を満たしていたということだ。
桐原に対する悪意はなかったが、好意もなかったのだから弁護などできない。
――なら、僕にも“愛”や“優しさ”が足りてないってことなんだろう。
そう思うと、明彦は妙にいたたまれない気持ちになったのだった。
「愛……、葦原、牧人……」
この時を境に、武田明彦は葦原牧人を気にかけるようになった。
クラスの中心で皆に頼られる彼。
……その中核を成す、やや行き過ぎた感さえある道義心。
心の最深から滲み出たそれらが、明彦の胸中に張り付いて離れないのだった。
……そんなことが、もう大分前に、あった。
01
件名:たすけちー!
内容:
「今日から大学始まったー!フル単の奴等は今年ゼミと卒論だけなんだって。でも俺まだ二十以上残ってるよ!死んじゃえよ!
あと、まだ就職決まんないよ!早く内定もらって髪キンキンに戻したいよ!助けてアッシ~!?!」
会社に向かう途中に受信したメールは、大学時代の友人浅野からだった。
――お前がサボってるのが俺に何とかできるわけねぇだろうが……。
心中で悪態を吐くものの、牧人は表情がにやけるのを隠せない。
大学を辞めてからも、牧人は浅野と友好的な関係を続けていた。
日々こうしてメールのやり取りをし、休日はよく一緒に遊ぶ。
今では牧人の数少ない大切な友人の一人だった。
――あとで返信しておこう。
牧人は鞄に携帯電話をしまう。歩きながらメールを打つのはあまり好きではない。
そうすることで仕事に向かう意気のようなものが萎えてしまう気がするからだ。
自分は些細なことにも影響されやすい心の持ち主だと近頃牧人は自覚するようになった。
――ナイーブな感性なんて言いたかねぇけど……。
ナルシシズムに浸りたいわけではない。そうした性質そのものをよく理解し、割り切った上で上手くコントロールしていかなければならないと考えているだけだ。
「…………」
我が事ながら非効率で難儀な性質だ。そう思い苦笑する牧人。
しかしそこには、何とも不思議な余裕が見て取れた。
そうして牧人は歩行に集中する。
周囲を行き交う、無数の背広姿に溶け込むように。
基本的に定刻より大分早い時間に、牧人は出社する。
この日はロッカールームで主任と遭遇した。昨夜から残業をしていたのだと思われる。
「あ……、おはようございます」
「うん、おはよう」
慣れた対応。
この主任とは牧人がアルバイトをしていた高校生の頃からの付き合いである。
親子ほど歳の離れた二人だが、仕事仲間として信頼しあう間柄だ。
「やれやれ……結局、朝までかかっちゃったよ。葦原君、今日は任せていいね」
「はい。お疲れ様でした」
礼をすると、主任は穏やかに微笑む。
上下関係はあるものの、二人の態度は自然なものだ。気心の知れた空気がある。
「いやしかし、葦原君が来てくれてもう二年以上か……」
「一昨年の夏前からなんで、ちょうどそんくらいですね」
「ホント助かってるよ。ウチは万年人手不足だからね」
「あ、いや、俺なんてまだ全然……」
「高校出てから何があったのかは知らないけどね、そんなこととは無関係に僕は葦原君がここにこうしていることをとても嬉しく思ってる」
「…………」
「こんな小さな会社だけど、これからも頼りにしてるから」
「……ありがとうございます」
改めてそのように言われると、不覚にも感じ入ってしまう牧人だった。
緩みそうになる涙腺を精神の力で抑制する。
「あ、食べる? 梅味」
「…………」
いきなり牧人の目前に差し出されたそれは飴の袋。
この主任は、この手の菓子類を何故か常に携行している。
休憩時間などには、牧人もこうして度々分けて貰っていた。
「いただきます」
少しだけ戸惑いつつも一粒貰う。
そのまま口に含むと、落ち着いた酸味が口内に広がった。
「それじゃ、今日はよろしく。昨日言ってたアイランドビルの工事、委託先から昼頃に電話来るはずだから。社長に伝えておいてね」
「わかりました。お疲れ様です」
のしのし、とゆっくりした足取りでロッカールームを出て行く主任を見送り、牧人は一人残された。
「……ふぅ」
息をつく。肩肘張るほど短い付き合いでもないが、自然と緊張していたことがいなくなってから自覚される。
……牧人はこの主任という人物が少々苦手だった。
それは仕事の上司だからという理由ではなく、それ以上に彼の性格的な部分が大きい。
温厚な人柄でありながら、それでいて物事を鋭く見通す目を持った冷静な人物。
――似てるんだよな……雰囲気が……。
付け加えるなら、ふくよかなその体躯と旺盛な食欲も共通しているのだった。
「おはーっす」
「うーす」
牧人より数分遅れて出社してきた同僚がロッカールームに入ってくる。
歳が近い者同士、少しだけ空気が弛緩する。
「お前、昨日から連勤だよな。平気か?」
「まーなんとか。葦原もこの間はお疲れ、まさかいきなり隣の県はないよなー」
「下請けのこっちは仕事選べないからな……遠出すんのも仕方ねぇよ。交通費込みだし」
交わされるのは仕事の話題。雑談のようでありながら独特の真剣さが混ざり合う。
公私や緩急がそこには自然と混在していた。
そんな感じで、牧人は今日もそれなりに自立して生きていた。
■
「………………」
その日、久しぶりに早い時間に帰宅した牧人は、ギターを弾いて過ごしていた。
かつて――働き始めた当初は、帰宅した直後などは仕事の疲れですぐに休んでしまっていたが、最近ではこうして余暇を趣味に利用するようになっていた。
――余裕っていうか……、ただの慣れかな。
弦を弾きながら思う。
人は誰しも、思考を活性化させる動作や体勢のようなものがある。
思えば牧人にとってのそれは、ギターの演奏だったのだろう。
こうして六本の弦と格闘している時が、最も多くの想いを巡らせている。
無論それは音楽そのものや自分の技術についてのことが多いが、毎回徐々にその他の思考へ流れていくのだった。
この日の牧人もそうだった。
懐かしい曲を奏でながら、彼は追憶に浸っている。
……高校時代。彼が回想するのは決まってその年代だ。
それ以前でもそれ以降でもない。
小中学校に通っていた時期の記憶は最早薄い。それらは何も無価値というわけではないが、幼少の記憶として保存され、優しげなセピア色を帯びてしまっている。完全な過去なのだ。
高校を出てからの期間は今の自分と直結している。わざわざ思い出すまでもなかった。
故に、彼の高校時代の記憶は隔絶されていた。
大人と子供の境界とでも言えば適切だろうか。牧人にとってのそれが高校時代だったのだ。
両者の中間に位置したその時期は、やはりどちらにも属しない特殊な価値を持っている。
……牧人にとっては、それが既に届かないものだということも大きい。
当時の友人たちとの交流をほとんど無くしてしまった牧人にとって、その存在は回想の中でしか感じることができないためだ。
「…………」
友人たち。思い出すのはとりわけ薫のことだ。
なぜならこの瞬間の牧人はギターを弾いているから。
牧人にとって、ギターとは趣味の道具でも、名声を得るための武器でもない。
最初はそうだった。始めた動機もそうだった。
……だが葦原牧人にとって、ギターとは楽器である以前に薫とのリンクなのである。
彼女と築いた原初のリンク。つながり。
ギターを弾いていなければ、彼女にギターを聞かせなければ、……牧人の高校時代は全て異なるものになっていたはずだ。
だからギターは彼女との関連性の象徴。演奏は間接的な接触に近い。
いつしか価値が摩り替わったのだ。
……牧人本人が自覚していたかどうかは定かではないが。
「……馬鹿、……何、泣いてんだよ……俺…………」
気付けば指板が濡れていることに気付く牧人だった。
それで記憶の海から浮上する。気付けば深い思考に陥っていた。
心の海溝への潜水は優しく快くもあったが、こうして再び呼吸をした時の虚無感は果てしない。
多くの時が、そうして現実に立ち返るのだ。
今日も、牧人はギターを弾いている。中学生の頃に先輩から譲り受け、すっかり使い古されたそのギターを。
音楽は好きだ。弾くのを止めたことは何度かあったが、音楽自体を嫌いになったことはない。
だが、いざ社会に出た時、音楽に関わる仕事に就く気はなかった。
作曲家や演奏家としてやっていく自信も持てなかったし、ローディーや音響スタッフなどになってそうした人たちをサポートするのも違う気がした。
今だけは夢を内にしまって働きながら、いずれは時機を見て音楽活動のために今の仕事を辞める――そんな選択肢もあっただろうが、そうも思わなかった。
音楽を仕事にする人は素晴らしいと思う。尊敬に値すると心底から牧人は思う。
実際にそれをやっている人も凄いし、なろうと日々努力している人もやはり凄い。
しかし自分はそうではない。
――でも……それで、いいじゃねぇか。
軽んじているわけではなく、諦めているのとも違う。
そもそも……、
――そもそも、俺って自分のために音楽やってたんじゃねぇんだよな。
結局はそういうことだったのだ。牧人はそのことに気付いた。
彼がギターを弾くのは、薫のためだったのだ。
……いつしか、そういう風になってしまっていたのだ。
だから、牧人は自分のギターを彼女以外のために弾くことはないだろう。
彼の意思とは関わりなく……、否、彼の意思はそれ以外に動かない。
「……そういえば」
ふと、牧人は思い立って押入れを開いた。
手前に置かれたダンボールを開き、中身を漁る。
底の方に、それはしまわれていた。
「……あったなぁ、こんなん」
それは、包装のビニールすら破かれていない新品同様のDVDケースだ。
トールケースの表紙には、牧人が好きなギタリストが写っている。教則DVDだ。
“プレイスタイルだけでなく、サウンドメイキングも徹底解説! これで天才の技術と音があなたの物に!!”
そんな大仰なコピーが踊っている。
それは、以前薫に誕生日プレゼントとしてもらったもの。
高校二年生の時のことだ。あれから何年が経過しただろう。
――見てみよう。
唐突にそのように思った。
ギターを持って薫のことなど考えていたからかもしれない。
あの時はギターに冷めかけていたから見る気など起きなかったが、今は少しだけ内容に興味も湧いていた。
今やほとんど遊ぶこともなくなったゲーム機にDVDを挿入する。
正規のプレイヤーは持っていない。実家には置かれていたが、牧人個人の物ではなかった。
発売元や制作会社のロゴがいくつか表示されてから、簡単にタイトルが表示される。
そしたらいきなり本編が始まった。
ステージ上の衣装とは異なる、簡素な私服姿のアーティストが早口の英語で何事か喋っている姿はどこか珍妙だった。
しかし、自分にとってのヒーローとも言える人物が、画面越しとはいえ技術を伝授してくれるということは牧人にとって少なからぬ興奮だった。
「……っと」
画面の字幕を注視しながら、慌てて自分もギターを手にする。
大した前置きもなく、レッスンは始まった。
実際に今からフレーズを弾いてみるから続けてやってみよう、といった内容のことを画面内のアーティストは妙に陽気な口調で言う。
――よし、やってやるぜ……!
幾度かのブランクは経たものの、総合的な歴としてはかなりのものになる牧人だ。
高校を出てからの数年で、失った勘も取り戻しつつある。
少々難しいばかりの内容なら、初見でも追従できる自信が、……少しはあった。
あったのだが……、
「こんなの弾けるわけねぇだろ、アホか……?」
数分とおかず、唖然となる牧人だった。
その後も、画面内のそのギタリストは変わらぬ調子で超絶テクを披露し続け、的確なアドバイスもないままに(少なくとも牧人にとっては)教授は終了した。
――すげぇ簡単そうに弾いてるくせに……!
実際に自分がやると、とても真似できるものではないのだということが解る。
音作りに関しても何か言っていたが、感覚的な部分が多く、大半が意味不明だった。
――なんだこのDVD、こんなの何の役に立つんだよ!
視聴した直後の感想はそれだけだった。
ケースを開いた時の興奮や期待など、とっくにどこかへ失せている。
自分の中のヒーロー像が急激に風化していくように感じられた。
「…………」
しかし、ふと思う。
トールケースの裏側で、軽やかにギターを弾くそのギタリストの写真を見ながら。
――俺がもし、こんくらいギター上手くなったら…………、
…………藤宮薫はどう思うだろうか、と。
その思考は、あまりに自然に浮上してきた。
そのため、いかなる羞恥も自己嫌悪も、彼にもたらすことはなかった。
ギターは彼にとって――、彼女は彼にとって、それほどのものだったのだ。
「………………」
だから、牧人は今日もギターを弾く。
それは創作のためというより、愛犬と戯れる心理に近い。
……趣味とは、そんなものとも言えるだろうか。
02
「ねえ、起きて……マキくん」
優しげな声と共に体がゆすられて、葦原牧人は目を覚ます。
目を開くと、そこには彼の記憶より少しだけ大人びた彼女の姿があった。
「……おはよう、薫」
「うん。おはよう」
言葉を交わす。
たったそれだけのことでも、彼女がそこにいて笑ってくれていることが牧人は嬉しい。
場所は近所の公園だった。
日頃の疲れが溜まっていたのか、牧人はベンチでうとうと眠ってしまっていた。
「薫……お前、なにやってんだよ」
「ふふっ、ひざまくら」
見上げる彼女の手が、慈しむように牧人の髪を撫でた。
うっかり寝てしまっていた牧人は、気付けばベンチに横たわり、彼女に膝枕されている。
それは何とも快い状況だったが、自らの立場や年齢を思えば少々気恥ずかしい体勢だ。
「……よっと」
慌てて体を起こす。そんな素振りを見せないよう努めながら。
そんな牧人の姿を彼女は少しだけ残念そうに眺めていた。
両足を地面に下ろし、すぐ傍にいる彼女の隣に並ぶよう座る。
平穏な昼時の公園。
ともすれば再びふやけてしまいそうな意識を徐々に先鋭化していく。
寝ぼけた脳裏の情報が整理されていくのを感じる。
「……夢、見てた」
「夢。どんな?」
牧人の言葉を促そうと復唱してくれる。
「高校の時のこと」
「昔の夢だね」
彼女の言葉に牧人は頷き返す。
「……なんかヘンな感じだ。昔のこと夢に見るのって、マンガの中だけだと思ってた」
「あはは、そうだね」
笑み二つ。穏やかな空気。
「高校の、いつごろの夢かな?」
「いろんな頃……、ごちゃ混ぜになってた。楽しいこと」
「三年間――短かったけど、色々あったもんね」
「あぁ……、色々あった」
牧人の言葉を受けて、彼女も回想を始めた。二人して思い出を語り合う。
「文化祭でのマキくん、かっこよかったな」
「あー、あったなそんなことも。あの時は帰り道ですげぇ説得されたんだった」
「よく二人で帰ったよね。あの川原の道」
「たまに小学生が遊んでて、耕平と芥川が混じっていくんだよな」
「そこにマキくんが渋々加わっていく感じ」
「で、たまに俺んち来て遊んでた」
「二人でよくセッションとかしたよね。楽しかった」
「ああ、確かにな。なんつーか、その……付き合ったりするようになってからも、ずっと続けてたからな」
「ね、もっと恋人らしいことしても……よかったのに」
「十分しただろ。映画見たり、遊園地行ったり……」
「えー、でも、わたしはもうちょっとしたかったかな」
「……そっか。実を言うと俺も、もう少し」
「あはは。わたしたち、ちょっと焦り過ぎたのかもね」
また笑い合う二人。
もうあの頃からは長い時が経っていた。
「……みんな、あれからどうしてるんだろうね?」
「そうだな。今でも年賀状は来るけど……、もう会うことはなくなっちまったからな」
「みんな、忙しいのかな。いつか、また会って話せたらいいね」
「そうだな……」
想像する。
大人になり、それぞれの家庭や立場を持つに至った高校時代の仲間たち。
彼等と再び顔を会わせ、互いの近況を語り合うことは……きっと楽しいだろう。
「…………」
しかし、牧人は思う。
確かに今は、薫と二人だけになってしまった。
だが彼にとっては、それだけでもう充分だった。
彼女と共に歩んで来た道のりと、今こうしてここにある生活。
仮にかつての五人の輪が過去のものになってしまったとしても、薫が傍にいてくれれば、今の牧人が生きていくには充分すぎる希望なのだ。
「その後は、大学生だよな」
「同じ大学入れて、よかったよね」
「がんばった甲斐があった……とか言うのもダセぇけど、な」
「ううん、マキくんはがんばったよ。二人で一緒に入学式行く時、わたしすっごく嬉しかった」
「……俺もだよ」
間に流れる空気が面映い。
すっかり大人びたとはいえ未だ歳若い二人だ。
当時の色恋の感覚が追想され、そうした話題には甘やかな含羞を覚えるものだった。
「それでそのまま……結婚しちゃったね」
「学生結婚ってことで、親父たちには随分反対されたな」
「でも、あの時もマキくんはがんばってくれたよ」
「そ、そんなこと……ねぇよ」
「指輪もらった時は嬉しかったなあ……。結婚するって決まって、わたしもやっぱり女の子なんだなあって思ったよ」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙があって、彼女が肩に頭を預けてきた。
ぎゅっと腕を掴んでくる手の薬指には今もその指輪がある。
「……楽しかったな、今まで」
「そうだね。でも、わたしは今も楽しいよ?」
「……まぁ、俺もそうだけどさ」
「変わらないね」
「あぁ、変わらない」
頷く牧人の表情は晴れやかだった。
幸福な日々の中で、愁いの表情など浮かぶはずもないのだ。
幸せすぎて、時に怖くなることすらある。
だがそんな時も、隣り合う彼女の存在を感じれば不安など吹き飛んでしまうのだった。
そして――――、
「とーちゃーん!」
呼び声と同時に、快活そうな少年が駆けてくる。
自分とよく似た少し癖のある髪。彼女とよく似た丸く大きな瞳。
まだ幼い体躯には瑞々しい活力に満ちている。
……どこまでも純粋で穢れない、彼等の大切な半身がそこにいた。
「とーちゃん、キャッチボールしよーよ!」
少年は手にグローブを持ち、意気揚々と牧人に話しかけてくる。
きらきらと輝く双眸には、希望の色しか感じられない。
「あぁ、いいよ」
咄嗟に目配せをすると、隣の彼女は楽しそうに頷く。
牧人は、いつの間にか手の中にあった軟球を握り締める。
そして、すぐ脇に自分用のグローブがあることに気付き、手にはめた。
立ち上がる。
「がんばってね、お父さん」
背中からそう声をかけられて、牧人はこれ以上ない程の幸福感に満たされた。
息子の前では彼女は彼のことをそう呼ぶ。
それは牧人にとって少し寂しくもあったが、同時に自らの立場を誇れるものでもあった。
「よし行くぞ、草太!」
「うん!」
息子の名を呼び、強い頷きを返される。
二人の間に子供が生まれた時、名前を決めたのは薫だった。
――お父さんは牧人、わたしは薫、だから牧場に薫る草で――草太。どう?
自分が決めると息巻いていた牧人だったが、薫の考えたその名前があまりに気に入ってしまい、そのままそれに決めてしまった。
だから、牧人は息子の名を呼ぶ時はいつも、心が踊る思いがする。
愛する人との間に生まれた子供は、牧人にとってそれほどまでに大切で、愛しかった。
「とーちゃーん、投げるよー!」
「あぁ、来い」
温かな日差し注ぐ広場に、親子は向かい合った。
――あぁ、なんて……。
陶酔するような彼の心に迷いはない。
順風満帆だった道程は今後も続いていくことが予感させられた。
……理想的。
何の衒いもなく、彼は自身の生き様をありのままそう呼ぶことすらできる。
放られるボール。
それは滑らかな弧を描いて牧人のグローブに納まった。
我が子の投球を受けた瞬間、そこに込められた幼い力を牧人は確かに感じ――――
■
「――――あ」
寝返りを打つとギシリとベッドが軋んだ。
その音で、牧人は目を覚ます。
…………夢だった。
「――――最、悪……」
顔を覆った。人に見られてはいけないような顔をしている気がしたからだ。
当然、四畳半は牧人を除いて無人。
指の隙間から見える天井は、今だ夜気の中にいて暗かった。
静かな、深夜だった。
「……う」
先程まで見ていた夢が思い出されて、牧人は思わず涙ぐみそうになった。
……嫌な夢だった。
幸福過ぎて、平和過ぎて、心地良過ぎる……悪夢だった。
夢自体は何の問題もない。
問題なのは、こうして目覚めてしまったことだ。
目覚めたこの瞬間の、牧人の胸に去来している途方もない虚しさが、問題なのだ。
夢の中の自分は、なんて素晴らしい人生を送っているのだろう。
薫や他の友人、更には両親との関係にも何の問題もなかった。
二人は同じ大学に進み、そこで結婚し、子供までいる。
牧人はずっとギターを続けていて、薫と楽しそうにセッションできているばかりか、文化祭のステージでライブすらしてしまっていた。
夢の中の彼の人生は、何から何まで、全てが上手くいっていた。
当然、生きていく中で様々な問題はあったが、その全てを愛と理性の力で乗り越えて幸福を掴むことができた。
そんな、理想的な姿を眠りの中で見て……、
「……で、コレが現実の俺か」
狭苦しい四畳半でベッドに横たわる自分を意識する。
夢の中の方が、今の自分よりもずっと明るく色付いていた。
皮肉なものだった。
――どうせなら、あのままずっと目が覚めなければよかったのに……。
一瞬だけそう思って、即座に否定した。
「……馬鹿が」
今の夢は……牧人の後悔であり、憤りであり、虚無感だ。
そうした心境的な閉塞が見せたものに他ならない。
それは現状に対する倦怠感であり、逃避的な欲求であり、生温く弱い自分の象徴ともいえた。
生きることを諦めさせる、甘い誘い。
……内に潜む悪魔の囁きのようだった。
――負けて、たまるか……。
弱い心に押し潰されることだけはあってはならないと思っていた。
押し潰されて、逃げてしまうことだけは。
「……それだけは、もう二度とあったら駄目なんだよ……!」
吐血するように言い聞かせる。
虚勢でも何でも、そうやって強くあろうとしなければ今の彼は立ち行かない。
それが無様でも情けなくても――カッコ悪くても構わない。
そうしなければ、どうにもならないのだから。
「…………?」
そんな、極限的な思考を中断させたのは、携帯電話の着信音だった。
――誰だよ……こんな時間に……。
部屋の電気をつけると、偶々時計が目に入る。
見れば、そこまで遅い時間でもなかった。
牧人が早寝過ぎるのだ。ギターぐらいしかすることがないのだから、そんな日もある。
――っと、電話か……。
連絡が来る相手など決まっている。
牧人は携帯電話を手に取り、開いた。
――通話……?
「……もしもし?」
『あ、マッキー先輩おひさしぶりっすー!』
反射的に受話器を耳に当てると、返ってくるのは懐かしい声。
――え……芥、川……?
芥川なつめが牧人に連絡をよこすのはここ最近では日常的なことだった。
しかし、それはメールに限られたものだ。このように、直接電話をかけてきたことは一度もない。
『うは、なんか声懐かしー! マッキー先輩ってば相変わらず不景気そうなー』
「……う、うるせぇよ、お前こそ能天気なまんまじゃねぇか」
『えは、変わりませんねー、あたしたち』
「…………そうだな」
奇しくも、先程の夢で似たような会話を交わした気がして、牧人の胸が再び疼く。
――忘れろよ、あんなのただの夢だ……。
今すべきは、急にかかってきたなつめからの電話への対応だ。
「……で、いきなり電話してきて何の用――」
『あ、実はですね、あたし今度、結婚するんすよー』
用向きを尋ねる牧人の言葉を遮って、あまりにサラッとそう告げられた。
「け――」
牧人、思わず絶句。社会人になってもこの手の不意打ちに弱い。
――けっ、こん……って?
その単語は重過ぎた。
以前ならば無意味に焦ったり悔しがったりしたかもしれないが、今の牧人には色々な意味で痛烈なだけだ。
――芥川が結婚してて……、夢の中の俺も結婚してて……、ええっと……?
しかし、その結果、無意味なことで苦悩してしまう牧人だった。
『今までと同じでメールでパパッと済ませちゃおうかとも思ったんすけど、やっぱあたしにとってもデカいことですしー』
「……そ、そっか」
まだ声が上ずっている。
『高3の時へたれちゃってたマッキー先輩には教えようか迷ったんすけど、ハブにしちゃうのもかわいそうかなーって。にひひ』
「え……?」
その言葉に、牧人の内に何かが閃く。
――俺……には……?
『……あれ? いやいやいや、マジでヘコまないで先輩! ウソですってば! ちょっとイジワルしたくなっただけっす! あたしはマッキー先輩のことそんな風には思ってないっすからー』
突然大慌てでまくし立てるようななつめの言葉が牧人には少しおかしかった。
この少女も自分を気遣ったりするのだ。
「うるせぇな、別にダメージ受けてるわけじゃねぇよ」
『ありゃら? マジっすか。先輩、高校生ン時より防御力上がったんじゃないっすか?』
「……かもな」
自惚れるつもりはないが、多少は強くなれたと思いたい。
『なーんか変な感じ。メール見た時もよく思うんすけど、マッキー先輩ってなんか仙人みたいになっちゃいましたね』
「え……せ、仙人?」
『ミョーに落ち着いてるとゆうか、ジジ臭いとゆうか……悟ったような感じがちょっと笑えるっす』
「………………」
――仙人? 俺が……?
確かに、高校時代よりは多少視野が広まったかもしれない。
物事を冷静に判断する力も身に付いて、無意味に焦る回数は減ったように思う。
――けど、そんな言われるまで変わったのかな?
成長――変化とは、多くが本人は意外に無自覚なもので、客観的に見ればその変遷は劇的であったりもする。
『まー、変わんないようできっとみんな変わっていくんすよね。マッキー先輩から見たあたしも、あの頃とはやっぱ違います?』
「どうだろうな……」
牧人には正直よくわからなかった。
変わったと言える気がしたが、それは単に高校生から社会人になっただけとも思えた。
それでも充分な変化と言えるかもしれないが、こうして会話を交わしている感覚は、高校時代とそう変わらないものとも思える。
「……まぁ、そんなもんなんじゃねぇの?」
『はい?』
「これでももう二十年以上も生きてんだ、根本的な部分なんてそう変わらねぇよ。状況に応じて表層的な部分を変える頑張りを覚えてきただけなんじゃねぇの?」
『おー……?』
なつめは唸るような呻くような、妙な声をあげた。
「あ? 急に妙な声出してどうした?」
『……なんか、マッキー先輩がそういうこと言うのってヘン! そういう人生トークは明彦先輩の役目じゃないっすか』
「そ、そんなこと言われてもな……」
牧人としては何も人生観めいたことを口にする気などなかった。
ただ、自然に思考が口をついて出てきたに過ぎない。
確かになつめの言うとおり、そのような見方を提示するのは常に武田明彦だった。
自らの在り方や考え方に思い悩み、煮詰まったところでそっと別の意見を考えて、聞かせてくれる。
若い彼等には納得できないこともあったが、そうした多面的な見地を示されることで、冷静に考え直すことができたことは確かだった。
――俺も……そんな風に考えられるようになってきたのかな……?
しかし、今の牧人は明彦がいなくとも、それができるようになっている。
それはたった今、無意識に零れ落ちたような不器用な思考でしかない。
だが、それも成長。それも変化。
「あ――」
――って、そうだ……明彦って――
そこで牧人は思い出す。
先程抱きかけた、その推測を。
「そうだ芥川、お前さっき俺をハブるとか言ったよな?」
『うが、まだ気にしてんすか? そういうネチッコイところは昔から全然変わらな――』
「じゃなくて! お前もしかして、俺以外のヤツとも連絡取り合ってるの?」
『あー、っと……』
なつめの声が不自然に途切れる。まるで自らの失言を悔やむように。
「どうなんだよ? 耕平とか明彦とも俺みたいに連絡し合ってんのか?」
『えーと……、ええ、まあ』
何やら頼りなかったが、なつめは確かにそう言った。
その事実が、牧人には衝撃的だった。
少し前の彼――それこそ大学にいたような頃なら、そう言われても特に何も思わなかっただろう。
しかし、今の牧人は違う。
「なら、教えてくれよ」
『教えるって……なにをっす?』
「あいつら、今何やってんだ? 元気、してんのか?」
尋ねるのだ。彼等の近況を。
……知りたかったから。
彼等が――牧人にとって何より大切だった仲間たちが、今、どこで、何をしているのかを。
それは、第一歩だった。
どれほどの間か願ったか、五人の輪の復縁への、強い強い踏み込み。
「俺、最近思ったんだ。やっぱりあの頃が一番楽しかった。
できることなら、もう一回あの五人で仲良く集まりたいって本気で思うよ」
無意識に、踏み出していたのだ。
今まで立ち止まっていた彼が、ようやく動き出すことを決めた……。
『…………』
電話口の向こう側にいるなつめは、それきりしばらく口を閉ざしていた。
「……芥川? どうかしたのか?」
あまりに長い間なつめが黙っているので、不審に思った牧人が聞き返す。
『そ、そんな不安そうな声しなくたって平気っすよ……、ちょっとくしゃみが出そうだっただけっす』
「ふ、不安そうな声なんかしてねぇよ!」
『えはは……、いや、なんか、その、ねえ?』
「なに?」
『いやー、マッキー先輩……やっぱ変わりましたって、うんうん』
「は? いやだからお前、それはさっき言ったみたいに――」
『じゃなくって、根っこの部分もパワーアップしたって思ったんすよ。今』
「……今?」
前述の通り、成長の自覚とは往々にして本人にはないものだ。
牧人が見栄も張らず、躊躇いもせず、純粋に他者を求めたその姿が、果たしてかつてと同じものと言えるだろうか。
否。否である。あの葦原牧人なのだ。
牧人自身は知る由もないが、先程なつめは本当に口を利くことができなかった。
言葉が出てこなかったというのもあるが、声を出すとそれがカッコ悪く震えてしまいそうだったからだ。
……それほどまでに、牧人が口にした言葉がなつめには衝撃的で、感動的だったのだ。
「おい、久しぶりに喋ってもやっぱお前ワケわかんねぇぞ」
『……やはは、すんませー。もー、おっかしーなマッキー先輩、涙が出ちゃ出ちゃうっすよ』
しかし、当人は気付かないのだ。
だからこそなつめにはそれが可笑しくて、嬉しくて、……羨ましかった。
そして牧人は、なつめから皆の近況を聞かされた。
耕平は東京に出て、大学生をしていること。
薫は今も平坂の実家にいて、地元の大学に通っていること。
明彦もやや遠方の大学に通っているが、最近は忙しいのか連絡がつかないこと。
『カオル先輩は、彼氏いないそうっすよ?』
「ば、馬鹿……そんなこと、関係ねぇだろ……」
そんな言葉に思わずそんなことを言ってしまう牧人。
――薫、か……。
彼女は、酷く傷付けられたことだろう。最早何度悔やんだかも解らない、自分の過去の行為を牧人は思う。
だというのに、なつめの口から語られる彼女は、細かい内情はわからないまでも、有名大学に通うなど順調に生きている様子だった。
大学を中退し、両親から勘当され、工具と油に塗れながら日々細々と生きている自分とは明らかに違う。
きっと、そのままその学歴を評価されて、大学と同じくらい有名な企業などに就職することになるのだろう。
――やっぱ、すげぇな……薫って……。
改めて思った。
藤宮薫は立派だ。尊敬すら抱く。
だというのに自分はそんな彼女を拒絶してしまった。
――馬鹿なヤツ……。
後悔は日々膨張し、耐え難くなっていく。
……それもまた、変化か。
『…………もう、大丈夫なんすね。マッキー先輩』
「あ?」
近況報告が終わり、一段落ついたところでそのように言われる。
不意になつめが告げたその言葉に、牧人は戸惑った。
『もしかしたら、近々何かあるかもしんないっす。電話には注意してくださいね』
「は?」
『いやー、びっくりしたっす。マジで明彦先輩の言うとおりになっちゃうんだから……』
「おい、お前さっきから何言ってんだ? 明彦がどうした?」
『あ、やばし! これはマジモンの失言なんで聞き流す方向で』
「…………?」
そのような感じで、通話は終了した。
電話を切ってからも、数分間妙な興奮が体を熱くしていた。
最後の会話は少々解せないものだったが、皆のことを思っているうちにどうでもよくなった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出してきて、一口含む。
そうして、わけもわからず高鳴っていた鼓動がようやく収まった。
「あ……」
その段になって、牧人はなつめの結婚に関して何もコメントしていないことに気が付く。
直後、慌てて掛けなおしたものだ。
……そしたら呆れられた。
そんななつめとの電話は、とても楽しかった。
■
翌朝。
あの後、深夜から寝直した牧人は目を覚ます。
……夢は、もう見なかった。
ただ何も無い暗闇を通過して、気付けば朝になっていたような感覚だった。
熟睡していたのか、意識が妙に冴え渡っている。
「………………」
しかし昨夜なつめから聞き知った諸々の情報は、冷えた鉄のように牧人の内側で強くその存在を主張していた。
天井を見上げたまま横たわっている。
牧人は起き上がろうとして、思い直した。頭の下に手を敷き、再度天井を見る。
本格的に活動を開始する前に、しばしそうしてぼんやりと思考を整理したかった。
昨夜伝え聞いた皆の近況。誰もがそれぞれの日々をそれぞれに生きている。
そんな彼等のことを一人一人考えていこうと思った。
高校時代に共に過ごし、日々笑いあった四人の仲間たち。
彼等と、もう一度会いたい。会って、話して、今後もその繋がりを育んでいきたい。
そう思おうとして……、
「馬鹿だなぁ……俺……」
顔を覆った。またも人に見られてはいけないような顔をしている気がしたからだ。
当然、四畳半は牧人を除いて無人。
苦笑する。
――薫のことしか、考えられねぇ……。
指の隙間から見える天井は、朝日を浴びて汚れも目立つ。
静かな、早朝だった。
牧人は、薫に会いたくなった。猛烈に会いたくなっていた。
なつめと会話し、仲間たちの近況を知った。
今まで不明だった情報が牧人の中に統合され、会話をすることでそれらが整理されていた。
そうして明確に形を成したのが、藤宮薫に対する想いだったのだ。
思えば、この数年で彼女に言いたいことや知らせたいことが山ほどあった。
そうした要素ができる度に、もう意味がないと胸の内にしまいこんできたのだ。
だがもう無理だった。彼女の今を知ることで、それらの要素は残らず露見し、牧人の中の薫は再び息づいてしまったのだ。
今ある自分を薫に伝えたかった。
また、今の薫のことも彼女自身から聞いてみたかった。
ギターもたくさん練習した。
一人暮らしを始めて家事だって一人でできる。
仕事も日々きついが、辛くても逃げることなどしない。
そんな今ならば、もっと彼女のことを考えてやれるはずだと思った。
だから、
「あぁ……、くそ、薫に会いてぇ……!」
牧人は正直になった。
――会いたい、話がしたい、傍にいて欲しい……。
思い出すのは、昨夜の夢だ。幸せで、穏やかで……、今やどこまでも遠いあの空気。
あの光景を、自分は本当に夢のまま終わらせて良いものなのかどうか。
疑心が生じる。
かつての牧人ならその感情を否定するだけだったはずだ。
自分で撒いた種だと。今更求めるなど図々しいと。
そうして斜に構え、冷静に見定めて……逃げたはずだ。
だが、成長している。
無様でいい。みっともなくても構わない。
千鳥足のように不安定でも、とにかく前に進んで、掴み取りたい。
いつからか、そう在ろうとしていたのだ。それがようやく、彼の中で動き出した。
自然な姿でそのように機構し始めたのだ。
「……ちょっとでいい。ホントにちょっと……勇気、出ろ」
呟いて、彼はベッドから起き上がった。
葦原牧人は立ち上がる。
…………彼はもう、寝転がったままではない。
03
牧人は、五人の輪を取り戻すために動き出すことに決めた。
崩したのが自分なら、元に戻すのも自分でなければならなかった。
……実際はそのような使命感はあまりなく、彼は単に、そうしたいと思って勝手に動き始めただけだ。
仲間たちと過ごす日々が何より尊く、大切だから、それを再び求めたに過ぎない。
本心に素直に従った。それだけのことである。
……自分の本心というものを、初めて正確に認識し、受け入れたのがこの時だった、とも言えるのかもしれない。
何はともあれ、牧人はそうすることに決めたのだった。
故に早速動き出すことにした。
――しかし、どうすっかな……?
思い悩んだ。いざ動こうとしても、まず何をするべきか。
五人を集めようにも、いきなり召集をかけることはさすがに無茶だろう。唐突過ぎる。
――何か集まる理由を……作るか?
動機付け。なんとなく白々しいことだが、段取りというものは必要だと思った。
それほどまでに、今の牧人は彼等と断絶している。
――時間、かかるかもな……。
何か特別な理由をつけて声をかけるか、一人一人と連絡を取り合って、徐々にでも関係を取り戻していかなければならないと思われた。
――でも、今更連絡するのも、突然集まって会おうとか言い出すのも、結局は同じなんじゃねぇか?
迷う。どうすれば最善なのか。
これは牧人にとっては一世一代の大仕事だ。
別に臆病になって気後れしているわけではなく、慎重に事を運ぶ必要があったのだ。
考えなしに行動して中途半端な結末になってしまうことだけは、なんとしても避けたかったからだ。
「……ふぅ」
ため息ひとつ。何も一人で悩むこともないと思った。
――芥川に相談してみようか。
携帯電話を開く。着信履歴にすぐに彼女の名前が見つかった。
「…………?」
コールが始まって数秒も経たない間に、アナウンスが流れた。
――お客様のおかけになった電話番号は、電波の届かない所におられるか、電源が入っていないため…………、
――電源切ってるのか。
仕事中なのかもしれない。
牧人はこの日は公休だが、なつめのシフトは不規則だ。平日に休みがあったり、週末の夜に忙しかったりするため予測がつかない。
「メールだけでも送っておこう」
アドレス帳を開き、メール作成画面へ。
全て書くと長くなりそうだったので、内容は適当に端折ることにした。
相談がしたいので電話をくれ、と末尾に書いておく。
「これでよし」
とりあえず、なつめからの連絡を待つことになりそうだった。
――けど、なんか……、
しかしそうすると、途端にすることがなくなる。
動こうにも、一人で何ができるだろう。
「落ち着かない……」
呑気にギターなど弾いて待つ気にもなれなかった。
何か、今のうちにやっておけることはないだろうか。
――あ、そうだ……そういえばアレって……。
ふと思い立って、牧人が押入れを開いた時――、携帯電話が鳴った。
「え? 芥川のヤツ、もう電話してきたのか?」
仕事中ではなく、単に電波の悪い場所にいただけなのかもしれない。
そう思って再び携帯電話を開くと――、
「う、そ……だろ?」
そこに映し出された名前に驚愕する。
――なんだこれ……? なんで、このタイミングで……?
「…………」
言葉にならない。
まるで、全てが仕組まれているかのように思われた。
それほどまでに絶妙なタイミングでの、連絡。
――もしかしたら、近々何かあるかもしんないっす。電話には注意してくださいね。
それは誰の言葉だっただろう。
「……へっ」
不適な笑みがこぼれた。
驚きを隠せずも、あまりの整い具合に笑ってしまう現状。
――もしかしてお前なら、こんなこともやりかねねぇか……。
単なる偶然という可能性もある。
だが、なんとなく牧人にはこれが全て彼の思惑なのではないかと思われた。
それならそれで悪くなかった。
上で転がされる手のひらが彼のものだったとしても。
だから、少しでも強がってやろうと思った。
動揺を見せないように、余裕を持って、自然な態度で……、
「よぉ、久しぶりだな……、…………明彦」
親友の名を呼んだ。
『うん、久しぶりだ。牧人』
呼ばれて武田明彦は、変わらず柔らかな声音にてそう返してきた。
それはどこか牧人の言葉に満足するようでもあった。
『いきなりなんだけど、今日は牧人に相談したいことがあるんだ。長電話になっちゃうと思うけど、通話料金は大丈夫かい?』
「馬鹿が。そんなつまんねぇこと気にすんなよ」
――相変わらず、よく気が回るヤツだなぁ、明彦……。
昔からそうだった。牧人自身が気にしていないようなことまで気にかける細やかな気質。
そして、今まで音信普通だった相手にも突然電話をかけてくるという大胆な行動。
改めて感心させられる。
――明彦、お前ってやっぱ……すげぇヤツなのかな?
そう思うと、牧人は涙が出そうなほど心が高ぶってゆくのを感じた。
同時に、そのいきなりの電話に、どこか先を越されたような悔しさがあって、何だか可笑しかった。
雑多な感情をその内に渦巻かせて、通話が……始まる。
■
小学生の武田明彦が、件の葦原牧人と明確な交流を持つようになったのは、彼が牧人のことを気にし始めてしばらく経ってからのことだった。
「――それでは来週の発表に向けて、どのグループもがんばってください」
担任教師のその言葉に、子供たちは声を揃えて返事をした。
その時期、明彦のクラスでは社会科のグループ演習が行われていた。
各班それぞれ地元の文化を調べ、大きな模造紙にその成果を纏めて発表するというものだ。
小学生の授業とはいえ、調査や構成にはそれなりの工夫が求められる。
五人で構成された班員のチームワークが試される時だった。
……そんな中、あったことだ。
「じゃあ、武田。あとはまかせたからな」
「うん。いいよ」
明彦は同じ班になった少年の言葉に頷く。
机の上には真っ白な模造紙が広げられており、色とりどりのマーカーペンが転がっていた。
「へへっ、武田が一人でやってくれるなんて、ラッキー!」
「こんなデカい紙に、調べたこと全部書くなんてメンドくさいもんな」
その他の少年たちも口々にそのようなことを言っている。
……そんな彼等の様子を、明彦は無関心な瞳で見つめていた。
明彦たちの班は調査を終え、その成果を一枚の紙に纏める作業に入ろうとしていた。
しかし、班員の少年一人がその段になって面倒だなどと言い出したのである。
地元の資料館を巡る調査活動は遊びたい盛りの小学生にとっては予想以上に苦痛だったのだろう。緊張が続かなくなってしまうのも無理はないのかもしれない。
だが、生じ始めた倦怠感は次々と他の班員にも伝染し、この日は作業という雰囲気ではなくなってしまった。
発表は来週。早めに取り掛からねば、後が辛くなる。
――なら、今日は僕が一人でやろう。みんなは先に帰っていいよ。
ため息を隠しながらそう言ったのは他ならぬ明彦だ。本来なら班全体で取り組まねばならない作業を彼は一人でやろうと宣言した。
少年たちはその無謀な言葉を省みることもなく、渡りに船とばかりに彼の申し出に応じたのだった。
……子供は残酷だと言う。情けを知らない幼い頭脳は、基本的に他者の苦労より自らの快楽を優先させてしまう。
未だ他者性の薄い彼等には仕方のないこととも言えた。
――いつかは誰かがやらなきゃならない。なら……それが僕一人でも問題ない。
心中で、明彦はそのように独白する。
ほんの少し先の未来――その時の苦労さえ見据えることのできない班員たちに、小さな失望を抱きながら。
「じゃあ帰ろ! 今日も駄菓子屋寄ってこーぜ!?」
「ああ、いいよ。…………おい牧人、何ぼんやりしてんだよ?」
「……ん? あぁ」
それまでただ一人無言だったのは、葦原牧人だった。
……彼もまた、明彦と同じ班だったのだ。
意気揚々と帰ろうとする他の少年に促されて、牧人は曖昧に返事をする。
「武田がやってくれるって言ってるんだぜ。オレたちは先に帰って遊ぼうよ!」
「……本当に、いいのか? 武田」
仕事を押し付けられているのは明彦だというのに、尋ねる牧人は不満そうな表情だ。
「ああ、葦原くんも先に帰っていいよ。僕一人でもなんとかなると思う」
「…………」
最後まで納得の行かない顔をしながら、牧人は他の少年たちと共に教室を出て行った。
「…………」
――葦原牧人……結局は君も、他のみんなと同じなのか。
声には出さないまでも、明彦は少々残念な気持ちを抱えていた。
「――――」
そして、自分でもその感情の発露に驚く。
――僕は……彼に何を期待していたんだろう……?
かつて、放課後の廊下にて愛と優しさを主張した葦原牧人。
その時に感じられた強い意志のようなものを、自分は彼に無意識のうちに期待していたというのだろうか。
――それは、僕の甘えと言えるんじゃないか?
確かに作業を先延ばしにするのは非合理であると思ったが、それを一人でこなすことが億劫であったのもまた事実だった。
故に、彼の優しさに一方的に期待を抱き、勝手に裏切られて口惜しく思う。
「……まいったな」
呟く。
驚いたのだ。それほどまでに自分の中で肥大化している、葦原牧人の存在に。
クラスメイトが彼を正義の味方と尊信するのにも合点がいった。
誤魔化すように、明彦はマーカーペンを手に取った。
――ぼんやりしている暇はない。やるべき作業は山積みだ。
一人でやると言った手前、それなりの出来では格好が付かないだろう。
その大人びた思考のためか、明彦はこの年代にしては体裁を意識し過ぎるきらいがあった。
物事がよく見えた分、自意識過剰な面があったのかもしれない。
調べたことがメモされたノートと模造紙を見比べて、構成を考える。
――上の方に大きくタイトルを書いて、グラフと表の横に解説を付け加えて……、
様々なアイデアが浮かんでは消えていく。
「……まあ、書きながら考えるか」
とりあえずは下書きをしながらすることにした。
鉛筆を手にし、頭に浮かんだ構成を簡潔に書き込んでいく。
そんな作業を始めて数分ほど経ったその時――、
「……?」
教室の戸が、勢いよく開け放たれた。
――まさか……、
そちらを見て驚いた。
「よぉ……、一人じゃ、大変、だろ」
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、入り口に立つのは葦原牧人。
その右手には小さなビニール袋がぶら下がっている。
「……どうしたの? みんなで駄菓子屋さん行くんでしょ?」
やや困惑気味に尋ねる明彦に、牧人は小走りで駆け寄ってくる。
机の上、開かれた模造紙の中心に、右手のビニールがどさりと落とされた。
「俺も手伝う。お菓子買ってきたから食いながら一緒にやろう!」
そう言って、少年は力強く笑って見せるのだった。
「……はー」
疲労困憊といった体で、大きく息を吐きながら明彦のひとつ前の席に座る牧人。
荒い呼吸。見れば、額に汗も垂らしている。
ビニール袋が倒れ、中からいくつもの駄菓子が転がり出る。
どれもが、通学路にある駄菓子屋で購入できるものばかりだ。
――コレを買って、戻ってきたのか。そんな、息を切らしてまで……。
「武田はどれが食いたい? 先に選んでいいぜ」
「…………」
「な、なんだよ? もしかして駄菓子キライなのか?」
「いや……」
明彦は袋を探る。
実際のところ駄菓子は好きだった。常食している。
「これをもらうよ」
「後で他のも食っていいぜ。長丁場になりそうだからな」
とりあえず二人は、一本十円の棒状スナック菓子をもりもりと食したのだった。
「さてと、やるか。書くこと多いから分担しようぜ」
「…………」
食べ終わった菓子の包装を丸めながら、牧人は早速ノートを引き寄せる。
「武田はどこがいい? やっぱ、自分が調べたところにするか、だったら――」
「葦原くん」
発言を遮って、明彦は声をかけた。
不意に名を呼ばれ、牧人は言葉を止める。
「聞きたいことがある」
菓子を食べている間からずっと考えていたことだ。
「――どうして、他の友達を放り出して、僕を手伝ってくれるの?」
武田明彦は葦原牧人とさして親しいわけでもなかった。
だというのに、ここまで献身的な態度を取られるというのは変な気分だったのだ。
「なに言ってんだよ――」
葦原牧人はくだらないとでも言いたげに頭をかき、居住まいを正した。
「――――」
強い意思を感じさせるその瞳に正面から見据えられ、明彦は少々たじろぐ。
――そうか……この目……。
「あのなぁ武田、知ってるか――?」
牧人は咳払いをして、朗々と告げた。
「天は人の上に人を造らず、なんだよ」
「………………」
冷静になってみると、何もおかしなことはない。
……普段の葦原牧人を見ていれば、彼がこうした行動に出ることは容易に想像がつく。
むしろ何故今までそれを疑問に感じていたのかが不思議だった。
ところが実際に直面してみると、それはあまりに奇妙で、戸惑わずにはいられないのだった。
「で、人の下に人を造らず、と続く。わかるか?」
「……うん、まあ」
「これは昔の偉い人が言ってたことなんだ。一万円札の人だぜ、顔ぐらいは知ってるだろ?」
福沢諭吉のその言葉は明彦も知るところだったが、小学生にしてはやや高度な知識だ。
「つまり人間ってのは本来平等なんだよ。どんな理由があっても……なくても、差別とかしちゃいけねぇんだ」
……ちなみに牧人が引用したその言葉は、本来は賢愚や貴賤を分かつのは出自ではなく学問であるということが本来の主張である。要は学問を推奨するための言説であり、純粋な平等論を述べたものではない。
従って実際のところ、牧人がその言葉を正確に理解しているとは言い難く、明彦は彼が持ち出した知識を訂正することが出来た。
「…………」
しかし、それはしない。
ろくに知りもしない偉人の言葉としては間違っていても、明彦の前にいる葦原牧人の言葉としては、これ以上なく正しかったからだ。
偶々どこかに書いてあったものを見て覚えていたのか――ただそれだけの言葉でも、おそらく牧人にとってはこれ以上無く、信奉に値するものだったのだろう。
――その辺は、僕と似ているのかもしれないな。
明彦も、様々なものに触れる中で、そこで得た様々な思想を内部に渦巻かせていた。
表出するかしないかの違いで、両者は共に思考をしているのだ。
「みんな平等なんだ。だから、お前だけが苦労するなんて駄目だ」
自信満々といった表情で、明彦をまっすぐに見据えてくる。
その視線には何の衒いも躊躇いもなく、彼が本心からそのことを主張しているのだと解る。
確かに偉人の言葉からの引用という部分はペダンチックなのかもしれないが、その思想を心から信じ、実行している点では彼には一片の曇りもない。
「そんな……理由で?」
そのような理想論は口にすれば往々にして陳腐な意見に成り下がってしまうものだ。
……少なくとも明彦はそう思っていたし、大人たちもそう思っていただろう。
「なんだよ、悪いかよ?」
「……いや」
だが、すねたような目をする葦原牧人の姿を見て、明彦は反射的にかぶりを振ってしまったのだった。
――なんだろう……? この感じ?
心の奥が焼け焦げる感覚。
それはきっと、羨望だったのだろう。
現実を知り、理想を語ることのなくなった者が抱く、辿り着けぬ場所に対しての。
……そしてそれを語ることのできる純粋さに対しての。
――そうか……、僕は彼のように……なりたかったのか。
美談を、綺麗事を、本来正しく自然なものであるように捉え、誠実に実行する気質。
仮にそれが優しい理想に過ぎなかったとしても、そうしたものを信じて人を愛する気質。
……そんな心が、僕も欲しかった。否、欲しくなったのだ。この時に。
「……葦原くん」
「なんだ?」
だから明彦は、生まれて初めて、積極的にその手足を動かした。
ただ闇雲に、もがくようにばたつかせたのだ。
前に進み、掴み取ろうと。
「僕たちは、トモダチになれるかな?」
そうして求めたものは、牧人との絆だった。
純粋で美しい彼と共にいて、その姿をもっと見ていたかった。傍にいて学び取りたかった。
そうしたら、そのような声をかけていた。
――その切り出しは……どうなんだろう?
言ってから自嘲する。かなり不自然な発言だったと思われた。
しかし、
「なにいまさら言ってんだよ。俺たち仲間だろ。あんな苦労して、いっしょに資料館歩いたじゃねぇか」
またも、そのようなことを言われてしまうのだった
「……そうだったね」
思わず明彦は笑った。
笑みを作らねば、涙がこぼれてしまいそうだったからだ。
……そうして、武田明彦は葦原牧人の隣に立つようになった。
彼の核を成す部分を間近で観察し続け、理解しようとした。
後になって、明彦は牧人の家庭環境を知り、何故彼が平等や平穏にああまで固執していたのかを理解するようになった。
実力ある企業家の両親の姿に、牧人は本当に幼い頃から競争社会の有り様を見出してきたのだろう。
それを疑問に思うようになり、妙に大人びた思考や発想をするようになってきたのが、ちょうど明彦と出会った頃だったのだ。
親に対する不審が芽生え、偶然見かけたような過去の偉人の言葉ばかりを尊ぶようになった。
自身の中に植え付けられたものと明らかに異なる美しいそれら言説は、牧人の記憶に強く焼き付いたのだろう。
そして、数年後――小学校高学年に達した頃に牧人は反抗期に突入し、両親と日常的に対立するようになるのだった。
「誰が勝つとか負けるとか、そんなのはおかしい。
みんな友達なんだ。みんな同じなんだ……それでいいじゃねぇか……」
初めて両親と激突した翌日、牧人が漏らしたその言葉を、明彦は今もはっきりと記憶している。
たまらなく愛しかった。
理想を求めて日々苦悩する牧人。
様々な対象についてその変遷を続けた彼……その支えに少しでも自分がなれていたらいいと、明彦は願う。
……そんなことが、もう大分前に、あった。
■
『そうか、今は一人暮らしなのか』
「知らなかったのか? 芥川とは連絡取り合ってたんだろ?」
『牧人が元気にやっているとは聞いていたけどね、細かい環境については知らなかった』
「……そうなのか」
過去、そのようにして出会った牧人と明彦は、今は電話で会話をしている。
本題に入る前に、明彦は高校を出てから牧人がどうしていたかを尋ねた。
大まかに説明するつもりが、気付けば随分長々と語っていることに牧人は気付く。
――俺、舞い上がってるのかな?
久々に誰かと昔の話をしていることが、嬉しいのかも知れなかった。
「っと、俺の話はそんなところでいいか。お前も聞いてるばっかりじゃつまんねぇだろ」
『いいや、楽しかったよ。牧人にも色々とあったんだね』
「色々ってお前……」
――そう言われると、何だかあっけないな……。
複雑な気分になりながらも、明彦に言われると不思議と悪い気はしない。
明彦は牧人が話している間、高校時代にあったことについては何も触れようとしなかった。
確かに彼は耕平のように牧人を見限るような風ではなかったが、まるでそのことがなかったかのように、以前と全く変わらない態度で牧人の話を聞いていた。
そのことに多少戸惑いながらも、牧人は安心していた。
――明彦は、まだ俺の話を聞いてくれようとしているんだ。
それは、希望が繋がったこと――五人が再び輪を作り出す可能性を示しているからだ。
――もしかしてこいつ、俺を待っててくれたのかな?
そうだとしたら本当にありがたいと思った。
あのような情けない姿を見た後でも、まだ自分を見守ってくれていたのだから。
「お前はどうなんだ? 高校出てから、今まで何やってたんだ?」
牧人は尋ねる。
更に会話を繋ごうと。
『そうだね。僕のほうは牧人ほど波乱に富んだ感じじゃないけど――』
そう言って互いに笑う。
『うん、それを話しながら……本題に入っていこうか』
明彦は穏やかな口調を変えないままに、どこか真剣な色を纏わせた。
……そうして牧人は、今度は明彦の話を聞いた。
高校を卒業して、彼が何をしていたか。
――――その中で彼が何を思い、今後何をしようとしているか。
明彦はじっくりと時間をかけて、彼の考えを牧人に語った。
牧人はそれを一つ一つ噛み締めるように、大切に聞いた。
「……そっか」
一通りの話が済んだ直後、牧人は短くそれだけ言った。
『急に連絡して、こんな話してごめんよ。驚いた?』
「まぁ……な」
明彦の語った内容は牧人にとって少々驚きが大きかったが、納得しうるものだったからだ。
「けど……、もう決めたことなんだろ?」
『うん。悪いね』
「……馬鹿。悪くなんかねぇよ、お前、昔からそういうの好きだったんだろ」
『よかった、覚えていてくれたんだね』
「……まぁな。やったじゃねぇか、夢……だったんだろ?」
『うん』
明彦の言葉には迷いがなく、語りは理路整然としていた。
そこには、彼の強い信念が込められていると牧人には思えた。
自身の道を見定め、歩んでいく気概。それを語る言には、力が宿る。
――なら、俺が何か言って、それを鈍らせるようなことはしちゃいけねぇ。
今の牧人には、それが理解できた。
『だからさ、牧人に協力して欲しいことがあるんだ』
「協力?」
『そう――』
おもむろに切り出された明彦のその言葉に、牧人は深く考えることなく聞き返し――、
『最後に、同窓会みたいなことをやりたいんだ』
「同窓……会?」
その言葉で、何かが内に生じるのを感じた。
『僕ら五人だけの同窓会だ。だから、他の三人の予定を合わせて欲しい、牧人に』
「俺が? 何でそんな……大体同窓会って――」
『これから先、牧人やなつめちゃんだけじゃなく、僕たちも社会に出て、それぞれの道を歩んでいく。きっとそれはそれぞれにとって険しいものだろう。だから……お互い励まし合わないといけないだろ?』
「……励まし、合う……?」
『そうだ、人は一人じゃ生きていけない。何かに必死な時は平気でも、ふと一人になれば孤独や悲しみが積もってすぐに疲れてしまうよ』
その感覚には覚えがあった。
日々の仕事をこなす中、心身に何も問題はなくとも、その裏で何かが削れ落ちていく不安。
『だから、それを何とかするために、仲間が必要なんだろ?』
仲間。
「それで……高校の時の俺たち五人ってわけなのか?」
『そう。僕はそれが最善だと思った、五人のうち誰にとっても』
電話越しなので見えないが、明彦が強く頷く様をイメージさせられた。
『僕は、あの五人が好きだ。五人で作った空間が好きだ』
「…………」
――そういえば……、
強く告げられるその言葉を聞いて、牧人は思う。
『あれは、僕も牧人も――みんなが自然体で、無心のまま自分自身であれた場所だから』
「………………」
――明彦が一番、俺たち五人を五人として見ていたんじゃないか?
どんな時にも、最後尾から見守るように優しげに全体を眺めていた明彦。
『それを許される五人だったはずだろ?
ならそれはきっと、何よりも尊いつながりだよ』
「…………あぁ、そうだな」
――明彦が一番、俺たちを五人として好きだったんだな……。
故に静かに後列に立ち、誰よりも率先して五人の空気を守ろうとした。
進んで裏方に回り、全体の調和を最優先した。
そして、他の四人の言葉を真剣に聞き、求められれば意見を述べた。
『だから……もう一度会おう、牧人。終わりにしちゃいけないよ。僕たちが、これからも強く生きていくために、ね』
「…………」
いつも彼がそうしていてくれたから、自分たちは維持されていたのだと牧人には思えた。
そして、そうした苦労をまるで感じさせない。
牧人があれほど悩んだ理由も、明彦が言うと驚くほど自然だ。
牧人にとって、それは願ってもない言葉だった。
……薫に会いたい、耕平やなつめとも昔みたいに仲良くしたい。
もう何度思い返したかも解らないほど、あの時代の大切さを胸に抱いている。
それを取り戻す機会をくれるなら、協力する以外の選択肢があるはずもなかった。
――お前、やっぱすげぇよ……。
電話でよかった、と牧人は思う。きっと自分は、泣きそうな顔をしているだろうから。
「……なぁ、明彦」
『うん?』
だから、牧人は問いかける。
「どうして、俺なんだ?」
そのことを確認しなければならないと思ったからだ。
「俺はあの時、自分勝手な理由でその輪をぶっ壊したじゃないか」
彼の与えてくれた機会――それを受け取る資格が自分にはあるのかどうか。
「あの時は耕平を失望させたし、薫のことだって傷付けた。お前だって――!」
その点に触れずにいてくれた彼の優しさには感謝する。
何も言わず、昔と同じように自分を頼りにしてくれたことに感謝する。
「お前だって……俺のこと、駄目なヤツだって思っただろ…………?」
だが、だからこそその理由を追求しなければならない。
彼の無償の友愛に、そうしなければ応えられない。
『……僕は…………』
明彦は、少しのあいだ沈黙していた。
しかしそれは、言葉に迷ったわけではない。
牧人の告げたその問い掛け――そこに乗せられた思いが、大切に感じられたのだ。
他者に向けて、自己の弱さを問うことができるまでになった彼。
その少しの間は吟味する時間だった。牧人の言葉を受け止め、心の深部に快く根を張らせるための所要時間。
『僕は牧人のことを、駄目だなんて思ったことは一度もないよ』
故に、告げる。本心を。
『大丈夫だ、迷わなくても。僕は、ちゃんとわかってるから。一度くらい失敗して、立ち止まることだってあるさ』
明彦の、何の衒いも躊躇いもないその言葉に、牧人は逆に焦燥に駆られる。
「け、けど……っ、俺は……俺は弱くて――自分ひとりじゃ何もできなくて……」
『ああ、確かに牧人は弱いね』
「だから――っ!」
『けど、とても優しくて……、とても前向きだ』
「………………」
それは、いつの姿を指し示したものだろう?
牧人は追想する。それは今か、高校時代か、それとも――
『だから迷わないで大丈夫だ。牧人はただひたすら、ホントになりたい自分を探して、ホントに望む場所を見つけて、歩いていくだけでいいんだよ。
そうして仮にそれが間違っていたとしても、きっと僕たちが正してあげられる。だって、僕らは仲間、なんだろ』
「…………明彦、は――」
――なんで、お前はそんな……甘いのかな、俺に……?
価値を、勘違いしてしまいそうになる。
罪を、許してしまいそうになる。
『それに、今喋っていて思ったよ。牧人は一人でもちゃんと立って歩いてる。全然昔のままなんかじゃない。
強くなろうとがんばってる。より良い自分になろうと努力してる。その結果、驚くぐらい強くて優しく、そして立派な自分になれてる』
「…………そんなっ、こと……!」
――簡単に言うなよ……っ!
過度な期待をされても困ると思った。
何故なら、もう痛いというほど感じている。
……自分一人の力では立ち上がれない。だから前にも、進めない。
そんな弱い自分を痛感して、だからこそ共にいてくれた彼等が大切だと気付いたのに。
だというのに……、
『そういう牧人だから、僕も安心して任せられるんだ』
「…………そんな――――」
――そんな風に言われたら、もう断れねぇじゃん……。
例え自分に力がなくとも、その立場に見合わずとも、拒否することは逃げ出すこと。
それは、彼がもう二度としないと決めたことだ。
『だから、がんばれ。
……やれるさ、牧人なら』
「あ……ぁ……」
――どうして……お前は――いつも一番欲しい時に、その言葉をくれるんだろう?
歯を食い縛る。
――ダサいところも汚いところも、山ほど知ってるはずなのに……。
親友が向けてくれた信頼が、優しさが、久しぶりに感じる互い絆が、不相応に感じられつつも……何より心強い。
「…………」
顔を上げ、浮かびかけた涙を拭う。
ならば、それに応えるだけだ。
――それくらいしか、無力な俺にはできないんだから……!
もがくことに決めた。必死になって、拙く手足を動かそうと。
そうすることで何かが見えたら――、
――いつか、こいつの言葉に報えるかもしれない。
そう、思ったからだ。
「なぁ明彦……お前ってさ」
『うん?』
だから、最後にせめてひとつだけ。
「お前ってホント、昔っから……ズルいヤツだよなぁ」
牧人は誤魔化すように、そう言ってやった。
それは、牧人なりの彼への甘えだった。
――ありがとう明彦、後は俺一人でもやって行くさ。
そんな言葉は、恥ずかしくて口にできない。
けれど彼ならば、言葉にせずともそんな本心を汲み取ってくれるだろう、と。
当然、明彦はそれを察して素早く動く。
敢えてそのまま牧人に合わせ、おどけるように言うのだった。
『……なんだ、牧人にはバレてたのか』
そんな彼の言葉が可笑しくて、牧人は声に出して笑った。
その後二人は、薫や耕平と出会う前――まだ二人だった頃の思い出話もしてみた。
しかし、色々思い出そうとするも、上手く出てこない。
それらは断片的な記憶でしかなく、繋がらない。物語にはなりえないのだった。
『つまり僕たち二人は、それくらい昔からいたんだ』
「……そうだな」
二人の時間は長かった。
五人の時間は尊かった。
……それが解れば、充分だった。
■
「――ってことに、なったんだけどさ」
『ま、マジっすかー! いきなりすごいじゃないっすか!』
明彦との電話を終えて数分と経たないうちに、なつめから連絡があった。
牧人はそのまま同窓会の件をなつめに伝える。
彼女は当然であるとばかりに賛成の意を表したのだった。
「よかった。じゃあ芥川は参加してくれるんだな」
『当たり前っすよー! うは、楽しみー。マッキー先輩ともなんだかんだで高校卒業以来っすからねー』
「……そうだな」
なつめの参加に関しては聞かずとも解っていた部分ではあるが、それでも牧人は安堵を隠せなかった。
「それで、確認したいんだけどさ」
『はい? なんでしょ?』
「耕平と薫の連絡先って、変わってたりするかな? そしたら、教えて欲しいんだけど」
『えっ?』
なつめは喉に何かを詰まらせたような声を出した。
「ど、どうした?」
『……それって、マッキー先輩がみんなに声かけて回ってるってことなんすか?』
「ん、あぁ……そうだよ。発案は明彦だけど、連絡は俺が取ってる。で、ちょうどお前から電話が来たから――」
『ま、まさか、あのヘタレだったマッキー先輩が……そんなことまで……!』
「……おい、聞こえてるぞ馬鹿。電話なんだから」
『あー、いやいや。褒めてるんすよ! カオル先輩はともかく、ソーセキ先輩にはあんだけボコボコにされたのに、自分から声かけるなんて偉いなーって』
「じ、自分でじゃねぇよ。明彦にやれって言われたからやってるだけだ」
言いながら牧人は何故なつめが耕平とのことを知っているのか気になった。
――本人から聞いたりしたのかな?
『ぶっちゃけ大丈夫っすか? ソーセキ先輩にだったら、あたしからテキトーな理由言って連れて来てもいいっすけど……てゆうか、その方が流れ的にはアリなんじゃ――』
「いや、いいよ。やっぱ俺がやんないと意味ねぇ気がするし」
なつめの言葉が終わらないうちに牧人は言う。
「元はといえば、みんながバラバラになってんのだって最初は俺の所為なんだ。だから、元に戻すのも最初は俺じゃねぇとな」
『マッキー先輩……』
「……まぁ、偉そうなこと言うつもりなんてねぇけど。ケジメっつーかオトシマエっつーか、さ」
『…………』
「そんなわけだから、お前は何にも気にしないでいいよ。耕平は俺からの電話なんて出ないかもしれないけど、そこは黙って待つさ」
『ソーセキ先輩は――』
「ん?」
『結構キッツイこと言ったっぽいんですけど、あれって多分、スネてるだけっすから』
「……は?」
『マッキー先輩がしたことがどうこうっていうのより、単にみんなで遊べなくなったのがつまんなくてふてくされてるだけっぽいですよ。んで、そのまま意固地になっちゃって今更自分から切り出せない感じ』
「ちょ、お前、何言ってんだ……? ふてくされてる? 耕平が?」
それではまるで自分ではないかと牧人は思った。
牧人の中の棗耕平は、そのような些事で意地を張るような狭量な性質をしていない。
『マッキー先輩とかには知られないように必死に隠してるだけっすよー。だからきっと、マッキー先輩がオトナな対応すれば、アッサリ折れてくれますよ』
「そう、なのか……?」
どうにもその言葉を鵜呑みにはできない牧人だった。
『ま、なんにせよ楽しみにしてるっすー、同窓会』
「……あ、あぁ。なるべく早く連絡するよ」
『はーい!』
元気のいいなつめの返事。
集まる理由という当初の用は既に解決済みであるため、これで一応なつめと交わすべき会話は終了した。
『あ、あのー、マッキー先輩』
その旨を告げようとした時、なつめがおもむろに名前を呼んできた。
「どうかしたか?」
『え、えっと……上手く言えないんすけど』
「ん? うん」
『なんつーか、今よりチョッと立場変わったら、あたし先輩のこと思わず好きになっちゃってたかもです。らびーん』
「はぁっ――!?」
不意にそのような事を言われて、牧人は言葉を詰まらせる。
「好き……って、いきなりお前なに言ってんだよ……!?」
『いやー、なんでもないっすよ。ちょっとそういう風なことを言ってみたくなっただけっつーか、ね。えへ』
「えへじゃねぇよ。相変わらずふざけたこと言って――!」
口では反論するが、そうした言葉にとにかく弱い牧人だ。
なつめが何を思って突然そのようなことを言い出したのかは解らなかったが、既に顔面が熱くなり、鼓動と呼吸が加速していくのが自分でも感じられる。
『えはは、テレてるー!』
「テレてねぇよ!」
そのような感じで、芥川なつめとの通話は終了した。
■
なつめとの電話を終え、牧人は台所に行き水を飲んだ。
口の中が妙に乾いていて、自分が緊張状態にあったのだとわかる。
――芥川相手でもこんな調子でどうする。もうちょっと頑張れよ、俺……、
頬を叩いて気合を入れた。
本当に頑張らなければならないのはこれからなのだ。
「それじゃ――」
牧人は机に置かれた携帯電話を掴み、深呼吸をした。
「まず、耕平に電話するか」
そして決意するように開く。
再度の深呼吸。
――落ち着けよ……ビビッてたら駄目だぞ。
怯えた態度など見せれば、棗耕平からは更なる失望を買うだけだ。
――マッキー先輩がオトナな対応すれば、アッサリ折れてくれますよ。
なつめが言ったような楽観視は正直牧人にはできなかった。
耕平がそこまで簡単な反応を示すとはとても思えず、だがそうなると何を話せばいいのか、何を示せばいいのかまるで解らない。
「けど――」
――見せよう。今の自分を。
少なくともそう思うことはできた。
正直なところを話せば、伝わりはするはずだ。
今更許されなくてもいい。理解されなくてもいい。
自分はそれだけのことをしたのだから。
ただ、明確な意思だけは表明しよう。まずはそこからだ。
今からできることなどそう多くはないのだから――
一度決意すれば、実行に移すのは早かった。
牧人は電話帳から棗耕平の名を探し出し、受話器を耳に当てていた。
数回のコール。
その十秒にも満たない時間が嫌になるほど長い。
知らぬ間に番号が変わっていたのか。電波の悪い場所にでもいるのか。
……それとも棗耕平は、自分などと話す気はもうないのか。
繋がらない理由が次々と脳裏を巡る。
「耕平……」
思わず名前を呼んでしまう。
すると、それに応えるかのようにコールが止んだ。
少しの間があって、通話が開始される気配。
『………………』
しかし、電話に出たというのに相手側からは何も返答がなかった。
ただこちらを試すような沈黙が続いている。
彼の携帯電話にかけているとはいえ、こうなるとこれが本当に棗耕平であると判断する要素は何もない。
「………………」
だが、牧人は何となくそれが耕平本人であるように思えた。
そして彼が、久しぶりに連絡をよこした牧人に言うべき言葉を捜しているのだとしたら、と考え、
――だったら、なんか嬉しいな……。
そう思うと、勇気が湧いてきた。
「おい、電話出たのはそっちなんだから先になんか言えよ」
だから、気付けばそのようなことを言っていた。
そのような横柄な口調で話したのは久しぶりであることに気付く。
――構うもんか、相手が耕平なら……、強気にならない俺なんて、ウソだ。
そうした言葉が出るのは、ひとえに彼への信頼の証なのだから。
『……ぷっ、ぶはははは!』
故に、こうして棗耕平が笑い出したのを聞いて、牧人は思いが通じたと確信した。
『おい牧人。お前って相変わらず、オレに対してだけは強気なのな……』
呆れたような、それでいて余裕に満ちたその声。
……数年ぶりに言葉を交わす、棗耕平だった。
「なら、お前も昔みたいに、俺をいいように言いくるめて見せろよ」
そうと解れば、軽口は勝手に転がり出てくるのだった。
つい先程水を飲んだというのに既に口内は乾き、首筋には微かな発汗がある。
そんな適度な緊張が、牧人の意識を冴えさせていた――
二人は、高校を出てから何をしていたかを簡潔に語り合った。
明彦の時に比べて、明言化が少なかったのは互いが緊張していたためか、元より多くを語らない間柄であったからかは定かではない。
しかしその中で、久方振りでやや遠慮がちな空気も徐々に緩和されていった。
勘を取り戻してきた――というより、相手の空気を思い出してきたのだろう。
『さて……それじゃあ牧人、本題に入ろうや』
ひとしきり話が済んだところで、切り出したのは耕平の方からだった。
陽気な口調の中に潜む怜悧な気配に、牧人は思わず身を固くする。
『お前だって、わざわざオレの近況聞くために電話してきたワケじゃねえんだろ?』
「…………」
耕平のその口調に、牧人の中の何かが心地よい熱を帯びる。
……耕平は変わらず強い。
彼の語った近況の中には、それまでの彼の価値観を変化させる出来事がいくつもあるように聞こえた。
遠方での一人暮らしや、恋人との別離などがそれである。
『何か言いたいことがあるんじゃねえのか?』
だが牧人には、耕平の余裕が電話越しにも伝わってくるように感じられた。
仮にそれが、相手が自分程度だから見せられている虚勢なのだとしても、その在り方を維持し続けられている辺りに、牧人は自分以上の強さを耕平に感じ取るのだった。
――なら、俺はそこへぶつかるだけだ。
「あぁそうだ。耕平、実はさ……今度、同窓会をやるんだ、俺と明彦と、芥川と、あと薫も呼んでさ……俺たち五人で。だから――」
そう思ったから、
「――だからお前も、来てくれよ」
牧人は何も考えず自分が伝えるべきことを告げる。
そこにはいささかの誇張も見栄もなく、ありのままの自身がただそこにあった。
『同窓会ィ……こんな時期にか?』
「あぁ。お前は東京にいて、こっちまで来るの大変かもしれないけど、そこをなんとかならねぇかな?」
『なんとかって言うけどな、お前……』
「実はこれ、明彦の発案なんだ」
『何……明彦……?』
その名前に耕平が少しだけ妙な反応を示したが、牧人は気にしなかった。
「その中で明彦が言ってたんだ。俺たちはこれから大人になって、社会に出て行くけど、それでも強く生きていけるように、協力し合わないといけないって」
『………………』
「そうしていくのに、あの五人が一番最適だって明彦は言ってた。俺もそう思う、だからこうやって電話かけて回ってる」
『なるほどね。……あの野郎』
「え?」
『……いや、なんでもねえよ。話はよくわかったぜ』
「……どう?」
『ふーん…………』
しばらくの間、耕平は黙していた。
彼がその中で何を思考していたのか、牧人は知らない。
故にその静寂が恐かった。
「あのさ、耕平」
『ん? なんだ?』
「もし高校三年の時のことで、お前が俺のこと気に食わないってんなら――」
『あー、その話か。それだったらもういい、気にすんな』
不安に駆られて言っただけに、耕平のその発言に牧人は面食らった。
「気にすんな……って、え? だって、お前……」
『なんだぁ? 牧人はオレに言葉責めされるのがそんなに良かったのか?』
「ち、違ぇよ! ただ、お前がそんな風に言うのって、なんか……」
『変か?』
「まぁ……うん」
『そーだねェ……』
納得の行かない様子の牧人に対し、耕平の反応は淡白なものだった。
『ま、オレも色々考えるところがあってな。確かにお前のしでかしたことは許せねえけど、頭ごなしに否定するのもどうかと思っただけだ』
「耕平、それって……」
――マッキー先輩がオトナな対応すれば、アッサリ折れてくれますよ。
ふと、先程なつめに言われた言葉が蘇る。
『ま、馬鹿でマヌケで押しに弱いお前が、よーやくそんだけのこと言えるようになったんだ。なら、オレもこれ以上ゴチャつく気はねえよ』
「…………」
耕平も、耕平なりに思考し、悩んでいる。そのことが牧人には感じられた。
同時に今は彼の存在が、自分からものすごく近い位置にあるようにも。
『今度は、ダサイところ見せるんじゃねえぞ』
言葉に満ちた鼓舞するような気配。
そこには最早、侮蔑の情は微塵も感じられない。
「耕平……俺……、俺さ――」
そのことが――耕平がもう一度チャンスをくれたことが、牧人には何よりの救いだった。
だが、その感情を言い表すには牧人は不器用すぎた。
言葉は何も浮かんでこず、辛うじて救い上げたものも即座に零れてしまう。
そのまま何を言い返すべきか悩んでいると、観念したようなため息が受話器の向こうから聞こえてきた。
そして――、
『なんつーか、その……悪かったな』
「え……?」
その時、牧人は信じられない言葉を聞いた気がした。
――耕平が、俺に……謝ってる?
「耕平、今……お前――」
『で、同窓会だったな。いいぜ、行ってやるよ。他のメンバーの都合わかったら教えてくれ。そしたらそっち戻る』
「え、あ……その……」
『なにシドロモドってやがる牧人。何かいいことでもあったのか?』
「あ、いや……うん」
『……おいコラ、なに素直に頷いてんだよお前? オレの善意あるフォローが台無しじゃねえか』
「って、そんなことより、ホントに来てくれるんだな耕平!?」
『あーもう、なんかうるせえな今日のお前! 行くよ、行くって行ってんだろォ! ってかよ、実を言うと暇なんだよオレ。就職も決まってるし、やることもねえからまた実家帰ろうかとも思ってたんだ』
「そ、そっか……ありがとう」
『礼などいらん! 別にお前のためじゃねえ!』
「わかってる。俺じゃなくて、俺たちのため、だろ?」
『チッ、しばらく見ねえうちに、ますます恥ずかしいこと言うようになりやがって……』
電話の向こうで微かな笑い声。
これまで幾度となく見てきた、余裕のある姿がイメージされた。
『ふん、オレも来年からは社会人だ。お前にゃ先を越されたが、すぐに追い抜いてやるぜ』
「いや、追い抜くってなんだよ……?」
牧人がそう言って、二人は笑った。
その後、他愛のない会話をいくつか交わして、耕平との通話は終わった。
耕平が今になって自分にあまり厳しくなくなった理由が、牧人にはいまいちよくわからなかったが、追求するのも無粋な気がしたため黙っておいた。
その程度には、彼も空気を読めるようになったのだ。
『おい牧人、藤宮にはもう連絡したのか?』
電話を切る直前、耕平はいきなりそのようなことを尋ねてきた。
「いや、これからだけど……」
『そっか、なら――』
そして、最後にこう言い残して通話を終えた。
『オレが言うとイヤミみたいだけどよ、……なんつーか、その……がんばれ。オレと違って、お前はまだまだやり直せるレベルだと思うからな』
それは、普段快活な棗耕平らしからぬ、妙に静かな口調だったという。
■
耕平との通話を終えて、牧人はもう一度水を飲みに行った。
それだけでは落ち着かなかったので、洗面所に行き顔を洗った。
いっそシャワーでも浴びようかと思ったが、逆に気持ちが萎えてしまいそうだったのでやめた。
洗面所の鏡に映った自分を見つめ、牧人はため息をつく。
――あぁ、俺って何やってたんだろうなぁ……。
反省か自嘲か。先程からそのような思考が繰り返されている。
こうして高校時代の仲間たちと会話してみると、その年代が自分にとって途轍もない時間だったのだと牧人は実感させられた。
現在は、毎日が必死だ。
働くばかりの日々は、満ち足りているというよりは圧倒的な何かによって外側から否応なく満たされているという方が正しい。
恐らくは自分でなくとも、同じ境地に立たされれば今の自分と同じ感覚を抱くのだろうと牧人は思う。
だが、高校時代の牧人のいた場所は、牧人でなければ成り立たなかった。
葦原牧人がいなければ、或いは別の誰かだったら、あの五人の輪は全くの別物だ。
牧人を含まないパラレルの輪が牧人の属したあの輪より良いか悪いかは解らない。
だが、異なるものである以上、彼が当時感じていた空気と全く同じものは生じ得なかったはずだ。
故に、あの場に立つのは牧人でなければならなかった。それは薫も耕平も同様。誰か一人欠けても代わっても、“あの輪”ではない。
五人の中において葦原牧人という少年には、ただそこに存在しているだけで揺るぎ無い価値があり、誰もが暗黙のうちにそれを認めていた。
…………そんな空気。
――奇跡的だ。
そう思う。自意識過剰な思い込みかもしれないが、仮に高校時代の彼等にそれを提案したとしても、恐らく誰も否定することはないだろう。
それほどまでに、あの五人の輪は調和していたのだから。
“奇跡”だったのだ。
冷静に見れば人と人との結びつきには、往々にしてそのような部分がある。
人は無数の奇跡を経て、無意識のまま通過している。
――あの時、ああしてればよかったのかな……。
言葉にすると酷く陳腐な色を帯びる思考だったが、その感情の表現をそれ以外に牧人は知らなかった。
知らず満たされていた状況。無条件で提示されていた自分の価値。
それを独力で得ることがどれほど困難か、孤独となった牧人は悟る。
無くしてから気付く宝物の価値、とはまた使い古された言い回しかも知れないが、牧人は今まさにそれを思い知っている。
…………過去の愚行を嘆く。後悔に近い。
居間に戻ってくる。まだはらはらしている。
机の上に煙草を見つけて、吸おうと思ってやっぱりやめた。
「ああもぅ……」
牧人はベッドに転がった。
身悶えするように、自身の体を押さえ込む。
手足は震え、動悸も呼吸も今までよりずっと激しくなっている。
ふと時計を見ると、耕平と話し終えてからかなりの時間が経過していることに気付いた。
その間ずっと思考していたのだ。
武田明彦が立案した突然の同窓会。彼等五人の同窓会。
その件を芥川なつめと棗耕平に無事伝え終えた牧人は、最後の一人――藤宮薫に電話をかけようとしている。
牧人は体を起こし、ベッドに腰掛けた。
頭をかきむしりながら、携帯電話を掴み、開く。
……その手が震えていた。
――くそっ……なんなんだよ俺……!?
先程からこのような調子だった。
薫に電話をかける段階になってからというもの、落ち着かなくて仕方ない。
異様なまでの緊張感。耕平に電話かけた時以上だ。
今になってそれを感じるようになったのは、耕平に電話をかける時にはそのことで頭がいっぱいだったからだろう。
――馬鹿野郎……逃げるな、俺がやらないと……薫にも……!
そう思うが、体は頼りなく震え、頭脳は真っ白なままだ。
彼女に対してどのような態度でどのようなことを言えば良いか、何も考えられない。
……数年を経てこの様では、薫はどのように思うだろうか――?
その思考でハッとする。
「……あぁ、そうだよ。馬鹿だな……俺」
失笑が漏れた。
同時に、硬直していた体も少しだけ動き出してくる。
唾を飲み込む。乾いた喉に通過する液体をもって、決意とした。
――なに、カッコつけようとしてんだよ……俺……?
数秒前の自分を嘲笑う。
それが駄目なのだ、ということをまた忘れそうになる自分を蔑む。
――いいんだよ、ダサくたって……、気取ってない、普通の俺じゃなきゃ意味ねぇだろ……
まして相手は、あの藤宮薫なのだから。
自分が誰よりも素直にありたかった相手なのだから。
「……やろ」
実行に移す。そのための言葉は短くていい。
相変わらず手は震えている。心拍も依然として信じられないほどに速い。
何を言うべきかも思い付かない。思い付いても整理できなそうだ。
――けど、まぁいいや……。
どこか諦めたようなその思考は別に投げやりなわけではない。
その方が自然な自分がそこにあると思っただけだ。
急ごしらえの虚飾に満ちた自分など無意味だ、と。
――それに……、
これで何も言えないようなら自分はその程度なのだと思ったのだ。
電話帳から薫の名を検索し、送信を開始する。
その動作はよどみなく、迷いは僅かばかり。
――昔どうだったかは関係ない……いや、関係なくはないけど、今はいい。
コールが長い。
薫は電話に出てくれないかもしれない。
それなら牧人は待つだけだった。
――今はただ、自分がするべきことを……動くべき機会を見逃さないように――――
その感覚を持っていれば、いつまでも待つことができそうだった。
先程まで及び腰だった自分が信じられない。心は帯電したように、熱を持ち続けていた。
――薫と話す。ありのままの俺を伝える。そして――
…………奇跡を取り戻そう。
今はただ、それだけを胸に宿して。
『もし……もし……?』
コールが途切れ、弱々しく聞こえてきたその声。
それを聞いた瞬間、牧人は自室にまばゆいばかりの光が差し込む様を幻視した。
深く長い暗闇を潜り抜け、今ようやく青天の下に身を晒したような心地になった。
だから、言った――、
「久しぶり……、薫」
かつて誰よりも大切だった、その少女の名を。
『マキ……くん――!』
感極まったような彼女の声。
その声が未だその名を口にしてくれることに、牧人はたまらない愛しさを覚えるのだった。
牧人は進み始める。再び身を置いた光の中を。
■
高校時代の仲間たち。
その全員と連絡を取り、同窓会を行う旨を伝えた。
皆の予定を照らし合わせると、集合は割に近い日取りに決まった。
そのことを再度全員に連絡して、同窓会は無事に開かれる運びとなった。
「…………」
やるべきことを全て終えて、牧人はベッドに転がった。
電話を切ってからも、妙な興奮が体に残留したままだった。
未だ動悸が早く、顔が熱い。
「……はぁ」
ため息が漏れた。
喘ぐように吐き出されたそれは火照ったようで、機械の排熱を思わせる。
緊張とはまた違う、奇妙な高揚感に牧人は包まれていた。
「あー……」
今度は呻いた。意識を外に向けるように。
だが、そのようなことをしても、脳裏にこびり付いたイメージは消えない。
「情けねぇよなぁ……俺……」
呟く。泣き笑いのような表情にて。
「諦め、切れねぇんだもんなぁ……」
牧人は現実を認めることができずにいた。
故に先程から、妙に無気力に転がるばかりだった。
そんな自分を都合が良いと感じ、情けなく思う。
悲しい性などと陳腐なことを言うのもおこがましい。
しかし、どうしようもなかった、
「駄目だ……俺、やっぱ……」
顔を覆った。
「――――薫がいないと、駄目みてぇだ……」
一人寝転んで、その事実を口にした。
気付いたのはつい先程、同窓会の日程を伝えるため、藤宮薫に二度目の電話をかけた時だ。
久々に彼女の声を聞いて、いくつかの言葉を交わして、牧人は思い知ったのだった。
彼女のことを想うと、彼女がそこにいないことにたまらなく違和感を覚えるのだ。
――そうだよ……俺は、いつだって薫が傍にいてくれないと……
「駄目なんだな……もう、滅茶苦茶だ」
この不安に比べれば、さっきの電話をかける前に感じていた焦りなど塵のようだった。
一度意識してしまうと、もう落ち着かない。
まるで自分が自分でないかのようで気持ちが悪かった。
体を起こし、膝を抱えた。
背部の壁に体を預け、差し込む午後の日差しの中に自分を感じ取ろうとした。
狭い自分の部屋。机とベッドと、その他いくつかの家具でもう満杯だ。
目に付いたのは、壁際に置かれた一台のテレビだ。
実際はあまり見ることはないが、一人暮らしを始めるにあたり、中古で安かった物を見つけて購入したものだ。
今、そのブラウン管には当然何も映し出されていない。
「くそ……、結局、こんな風かよ……」
牧人は何故か自分がそのテレビであるように思えた。
テレビは見る者が――見てくれる人がいなければ、映らない。
映る意味がないからだ。
それは黒く沈黙するだけで、壊れているのと変わりない。
そんな見る者のいないテレビと、今の自分が重なって、
「――――」
牧人は性急に考えを決めた。
テレビから視線を外し、立ち上がる。
「もう一回……付き合おう、薫と」
無人の部屋で静かに告げる。
小さな声、されど世界中に宣言するように。
立ち上がると、机の脇に立てかけられたエレキギターが目に入る。
思えば、最初に演奏を聞かせた時点から、牧人の行動の中心には常に彼女の姿があった。
――ずっとベタ惚れだったんだろうな、俺って……。
自分をここまで維持していたのは藤宮薫だ。
彼女が隣にいて自分を見ていてくれたから、牧人は自身のあらゆる行動を肯定することができたのだ。
……彼女がいない違和感の正体はそれに違いないのだ。
それを思うと、過去の自分が明るみに出る。
自分の馬鹿さ加減に絶望し、薫と別れた自分。
薫がいなければ成り立たないのに、それを自ら切り捨てる……その馬鹿さ加減に自ら気付く。
「なーにカッコつけてんだよ俺、カッコ悪ィ……」
自嘲気味に口元を緩める牧人。
その表情は、今まで浮かべてきたどんな顔より晴れやかでいるような気がした。
思ったのだ。自分は変に気取っているよりも、そうして不恰好に苦笑している様が似合うのではないかと。
「………………」
牧人は決然と立ち上がり、押入れを開く。
積まれたいくつものダンボール。
それを次々と引きずり出し、中身を検めていく。
探すものがあった。
――あったはずだ、まだどこかに……。
捨てた記憶はない。捨てるはずもない。
表向きでは拒絶していても、彼の中核がそれを許すはずがないからだ。
「――あった!」
独立してから封印され続けていた押入れの最深――そこには、自らの存在を主張するように……白い紙袋が置かれていた。
身を乗り出して、それを引き寄せる。もう離すまいと強く掴む。
長年押入れにしまいこまれていたため、かつては高級感すら漂わせていた白い紙袋はすっかり埃を被っていた。
急いで台所から布巾を取ってきて、入念に拭き取った。
――袋はこんな有様だけど、中身は無事かな……?
これで虫にでも食われていたとしたら、本当に絶望的だ。
「……っ!」
思い切って袋を開き、中身を取り出す。
手のひらに柔らかな感触があって、袋と同じように白く美しいものが引き出された。
両手でそれを広げ、全体を確認する。
「……よかった」
どこにも損傷がないことに牧人はまず安堵した。
「渡すんだ、コレを。……それで、言うんだ」
葦原牧人は、そのように決意したのだった。
これを渡すことが彼女との、再出発の契機になれば――――
その日の夜、牧人はコンビニに赴き、煙草ではなくキシリトールガムを買った。
もう煙草はやめることにした。
理由はなんとなく仲間たち――特に彼女が煙を好まない気がしたからだ。
「…………」
そして、余っていた分をどう処分するかを考えて、牧人は妙な考えに取り付かれた。
急に、馬鹿なことをやってみたくなったのだ。
自室や背広のポケットを探ると、数箱の煙草が見つかった。
牧人はそれらを持ってベランダに出ると、残らず箱を開封し、何十本もの未着火の煙草を灰皿にしている缶に放り込んだ。
「今から、俺のタバコ卒業式を始めます」
火のついたライターを掲げて、牧人はそう宣言した。
無人のベランダで大真面目な顔をして灯火をかざすその姿は……何というかシュール過ぎた。
そして牧人はガムを噛みながら火をつけた。
火は一本から別の一本へ燃え移り、たちまち缶の中で炎となった。
ごうごうと燃える煙草の山、そこからは当然のように甚大な量の煙が立ち上る。
一本なら微かな副流煙も、束になると煙突を思わせる巨大さだった。
「…………」
夜空に立ち上っていく煙を見上げながら、牧人はぼんやりと思考に耽る。
……それはどこか火葬に似た光景だった。
或いは牧人のこの妙な行動は、過去の自分を完璧に葬り去るためのものだったのかもしれない。
灰色の年代を象徴する物品を焼却することが、越境を暗示していたのだろうか。
玉虫色を経て、灰色に至り、そして進むのだ。
……彼自身の新たな色へ。
後日。
周辺住民と大家から、大量の煙が発生した件に関しての苦情が牧人の元に殺到した。
牧人は近隣の一軒一軒を全て、丁重に謝罪して回った。
――目ぇ付けられたっぽいなぁ……、次なんかやったら立ち退きか。
そんな危機感を覚えながらも、心は妙にうきうきしている牧人だった。
煙が立ち上っていった夜空の広さが、忘れられなかったからだ。




