連鎖その2
クリスマスの優しさリレー、本格スタートです!
「そうでしたか。それでわざわざここまで来てくれたんだね」
「はい」
ロマンヌは桶に浸したタオルを絞りながら、にこにこ笑顔で答えました。
「昨日のイヴの夜、パパが私を元気づけてくれたんです。だから、私も誰かを元気にしたくて。それで、元気になった人は、また次の人を元気づけて。そうやって、優しさがどんどん連鎖していけば、世界は、まあるい輪っかになるのかな。そうだといいなって、思ったんです」
「地球は、球体をしているって、最近わかったくらいですから。もしかすると、そうなる日も近いかもしれませんね」
「あ、でも、もちろん、パパからもたった幸せの連鎖を、次に早くバトンタッチしたいっていうだけじゃなくて、やっぱり先生に、元気になってもらいたいからで……」
ロマンヌはそこまで言って俯くと、ちょっぴり怒ったように、
「先生、ダメです。ちゃんと自分の身体もいたわらないと、お医者さんはそういうところでも、みんなのお手本にならなくちゃ」
「これは一本とられましたね」
ロマンヌは良く絞ったタオルをベッドにいるエルネストの額に横たえました。
「言い訳をすると、今日は診療所がお休みなもので。気が抜けたのかもしれません」
ロマンヌはかつて、心の病気にかかっていました。今はもうすっかり元気なのだけれど。その後の経過を、今でも定期的にこのエルネスト先生に診てもらっているのです。この間の診察のとき、この先生は少し咳込んでいたので、心配して様子を見に来たのでした。
「でも、こんなふうにロマンヌに優しくしてもらえるなら、風邪をひいた甲斐があったってものです。思いがけないクリスマスプレゼントってところかな」
ロマンヌは一瞬赤くなりましたが、はたと我に返ると、騙されませんとばかりに、
「もー。ダメですよ、そんなふうに言ったら。先生には、これを機会にちゃんと、生活を見直してもらわないと。いっぱい食べて、夜はちゃんと寝てくださいねっ」
「なんだかロマンヌ、今日は手厳しい奥さんみたいだね」
「えっ?」
この言葉には、本格的に赤面してしまうロマンヌです。
「そ、そうだ。先生、わたしがここに来たこと、喜んでもらえるなら、元気になって、やってほしいことがあるんです」
「はい」
「その嬉しさを、他の誰かにも、おすそ分けしてあげてください」
「さっき言っていた優しさの連鎖、ですか」
考えましたね、とエルネスト先生は微笑むと、
「わかりました。今のシーズンに相応しい試みですね。ロマンヌからもらった気持ちを、 誰にどう分け与えるか、考えておきます」
そう言うと、エルネストは、
「ロマンヌの想いは、もう十分伝わりました。風邪がうつるといけないから、もう帰ったほうが……」
そこまで言いかけて、
「でも、なにかまだ、言い足りなそうな顔してるね」
なにか話したいことが? と、その瞳が言っていました。
「あ、ええっと……大丈夫です。もうすぐ、さっき完成したスープも温まるし、先生はもう寝てください。わたし、行きます」
「待って」
エルネストは優しげな声で言いました。それは風邪をひいている人とは思えないくらいに。
ロマンヌはそれで、立ち止まってしまいます。
「どうやら長い一日をこれからずっと横になってすごさなければならないようです。だから、眠る前には、ロマンヌの笑った顔が見ておきたいんですよ。だから、少しだけ、話してください」
ロマンヌは振り返りました。
「本当言うと、もうひとつ、私から優しさの種を渡したい人がいるんです」
「クロンヌ・ドゥ・ノエルっていうのよ。これ」
柊でっできた輪っかに、色とりどりのリボンをかけていきながら、クロンヌは言いました。
「わたしとおんなじ名前。だからこの飾りには、親しみ覚えちゃって」
クロンヌは仕立て屋で働くお針子のお姉さん。時折、ロマンヌのパパが経営するレストラン”スピルト”の従業員の人たちの制服を作ってくれるのです。今日みたいに。そしてロマンヌはお使いとして、この仕立て屋に制服を取りに来ているのでした。
「この輪っかみたいに、なるといいな」
ロマンヌは呟いてしまってから、クロンヌが不思議そうな顔をしているのを見て、慌てて説明しました。パパが元気づけてくれたこと。そんなふうに、自分も誰かを元気づけて、優しさの連鎖がつながり、世界がまあるくなるといいなぁと思っていること。
「うふふ。前から思ってたけど、ロマンヌちゃんって、その名に似つかわしくとってもロマンチストね」
クロンヌは目を輝かせました。そして次には、こんなことを言いました。
「ね、クロンヌって響き、ロマンヌと似てると思わない?」
「あ、そういえば……」
「でしょう? わたしたちって、似てるのよ。実はかく言うわたしもね、ロマンチストなところが、あるんだな」
クロンヌは遠くに思いを馳せる表情となって言いました。
「世界中のみんなが、同じ方向を見ている、なんてことがあったら、素敵よね。みんなの幸せは、同じものなの」
そこまで口にしたクロンヌは、夢への志向を想うがままにして羽ばたかせる自由な笑顔をしていましたが、急にその小鳥は、羽をたたんでしまったようで。
「でも、それはおとぎ話の中でのお話。この世界では、誰かの幸せは、誰かの不幸ってことになっちゃうんだよね、これが」
「クロンヌお姉ちゃん」
飛びつくように、ロマンヌは言いました。なんていっても、クロンヌも、ラロシェルに数多くいる優しくて大好きな人のひとりです。
「なにか、あったの?」
助けてあげたいのです。悲しいことがあったならば。
クロンヌは、視線を落として言いました。
「手袋を、編んだの」
口元は微笑んでいましたが、その目は、沈んだまま。
「好きな人に」
「……うわぁ」
ロマンヌは口元で手を覆いました。そして、自分の好きな人のふんわりした笑顔を、思い浮かべました。
好きな人がいるのはロマンヌも同じです。とっても素敵で、お医者さんをしていて、人の身体だけでなく心も元気にしたり、なんでもできてしまうのに、妙に身近なところがぬけていて、自分の健康への気配りなんかがかけている、少し困ったその人のことを。
好きな人のことを思い浮かべると、こんなに幸せになるのに。ロマンヌは不思議でした。いったい何が、クロンヌの表情を曇らせているのでしょう。
「お客さんとして、この店を訪れてくれたことが縁でね。その人、お仕事がヴァンセンヌとこの町、ラロシェルとふたつにあるらしくて。いつも行ったり来たりなの。この間までは、ラロシェルにいたんだけど、すぐに忙しそうにヴァンセンヌに行っちゃった。だからね、まだあの人がラロシェルにいたとき、今がチャンスだと思って、編んだ手袋を渡しに行ったの。でも、僕は妻を愛しているからって言って、受け取ってくれなかった」
「……そんな……」
ロマンヌは納得したと同時に、ひどく落ち込みました。対するクロンヌは自嘲的に、
「わたしも、バカなのよ。最初から、どっかでわかってた。だって出会ったときその人が店にしてった注文っていうのが、無地の、女性用のドレスだったんだから」
そう言った後、再び夢見るような表情に戻って、
「でもね、その人、会ったとき、あたしの手に傷一つないのをほめてくれたの。針仕事をしているのに、そんなきれいな手をしているなんてすばらしいって。それできっとその気になっちゃったのね。でも、考えたらその人、お医者さんで、人が傷ついているのを見るのが、単に許せない性格ってだけだったりして、なんて」
笑いながらもあまりに悲痛そうなクロンヌの顔にロマンヌは何も言えませんでした。
エクス=アン=プロヴァンスは、ラロシェルから少し離れた、芸術の都です。
とある広場で、ネージュという吟遊詩人のコンサートが開かれようとしています。そこにやってきたのは、ロマンヌと、”スピルト”でパティシエとして働くパエリエです。ふたりは手をつないで歩いていました。
「本当は、あんたに、あたしとじゃなく、年上の恋人と一緒に過ごすクリスマス前のシーズンをあげたかったんだけどね」
広間への道を歩きながら、パエリエは言いました。
「リカルドさんを誘おうかとも思ったんだけど、あの人は仕事で遠くへ行っちゃったし。ほら、あんたの恋人も、ネージュって好きみたいだったから」
「パ、パエリエちゃん。わたしとエルネスト先生は、まだそんなんじゃ……」
「あーら。『まだ』ってことは、これからそうなる気まんまんなのね? 大いにいいわよ。これからの時代、仕事も恋も女が先導しなくっちゃ」
「そ、そうかなぁ? わたしは、どっちかって言うと、リードしてほしいな、なんて」
「なに言ってるのよ。その割には、あんた、結構積極的じゃない?想いは頻繁に伝えてるみたいだし」
「うん……。でも、先生、分かってるのかなぁ……」
なんとも、微妙です。いつもあの優しげな笑顔にごまかされてしまうのですから。
「でも、残念だったわね。肝心の恋人が、風邪をひいちゃうなんて。付き添いがあたしで、ごめんなさいね、ロマンヌ」
「ううん。私、パエリエお姉ちゃんとネージュさんの歌についてお話するの楽しみにしてたの」
まぁ、とパエリエは目を開いて、もともとの美人顔をより華やがせると、
「まったくかわいいわね。あんたって」
「でも、ちょっと残念なのは、レアも一緒だったら、もっと楽しいのになって」
レアとは、ロマンヌの妹兼親友のことです。
「レアにはちょっと、ネージュの歌う歌詞は、難しいかもね」
「あ、そういえば」
ロマンヌとパエリエはふたりして、同時にくすくすと笑いだしました。
「さ、着いたわ。ここが大物、ネージュのコンサート会場よ」
ところが。
どうも、様子が変です。周りの人々が、ざわついているのです。
「どうしたのかしら?」
「パエリエちゃん! こっち!」
ロマンヌは、とある貼り紙の前に、パエリエを呼び寄せました。
そこにはこうありました。
”諸事情のため、本日予定していたネージュのコンサートは中止”。
注文の品を届けに、クロンヌは”スピルト”への道を急いでいました。
ところが、どこからともなく響いてきたギターの伴奏が、彼女の足を止めました。その歌は、なんだか、彼女の心を癒してくれるような、そんな気がしたのです。
ふと、彼女は、ギターの音が聞こえてくる、人だかりの方へと、足を進めていました。
クリスマスの前の夜
想い人が言いました
幸せになるための材料で人はできてる そうじゃなきゃ そうじゃなきゃ ならないと
そうして いなくなりました
その言葉だけ刻みつけられた私はどうしらたいいの
クリスマスのベル
鳴れよ鳴れ 鳴り響け
もう誰も泣かないように
私以外の誰かよ
幸せになれ あの人と一緒に
寂しげなクリスマス・ソングを歌い終わると、人だかりの中心にいるその吟遊詩人は一礼し、開口一番、こうあいさつしました。
「どうもどうもー。ネージュでぇぇす!」
聴衆が一瞬、固まるのがわかります。しかし、そんなことは予測済みだとでも言わんばかりに、女性吟遊詩人は、落ち着いたものです。
「あ、どうもすみませんです。神妙な顔して歌うくせに、しゃべった途端に別世界、とはこの私のことでして」
おどけて、その美しい黒髪の頭をかいたりなんかしています。
「今日は、皆様をびっくり仰天させようということで、本当ならプロヴァンスの広場でコンサートをやるはずが、ここラロシェルの街角で、臨時コンサートなんかやったったりしちゃったわけですが。いかんせんそういう事情でですね、コンサート予定は一切ご内密~!だったにも関わらず、こんなにたくさんの方にお集まりいただいちゃったわけでして、わたくし、感謝感激でございます」
再び礼をするネージュに、観客たちは拍手や声援を送ります。
「ネージュさん! あなたはどのような経験から、この歌を書かれたのですか?」
観客のひとりが叫びます。
「んぐふふふふ」
ネージュはこもったような笑いをこぼすと、
「それも、ご内密、ということになっていまして」
ネージュはその後も、他愛のない話をしては、観客を沸かせていました。しかしたった一人、クロンヌだけは、そんな会話は聞いていませんでした。
私以外の誰かよ
幸せになれ あの人と一緒に
先ほど聞いたあの歌詞とメロディーだけが、ずっと耳の奥で鳴っていました。
ようやく我に返った……いえ、返ることができたのは、退場しかかったネージュが、思い出したように、あ、そうだと言いながら、舞台となっている道端の上に、戻ってきたからでした。
「今日は協力者ならびにプロヴァンスで待ってくださっていた皆様に多大なご迷惑をかけてまで、ここ、ラロシェルでわたくしがコンサートを開いた理由について、一言申し上げておきたいと思います」
辺りが再びざわつきます。
「それは……『一期一会』です。わたくしを、待ってくれている人がいる場所は、都心だけではありません。多分ね。だから、その『一期一会』の出会いを求めて、どこにでもいかなくてはいかんと、こう思ったわけであります。では最後に、クリスマス前のこの季節、ラロシェルの皆様に、幸多からんことを!」
そう言ってネージュは、大きな身ぶりの印象的な礼を最後にして、去っていきました。
「残念だったね。ネージュさんの歌がどういう気持ちで作られたのか、知りたかったな」
コンサートの埋め合わせにと入った近くのカフェにて。ロマンヌはパエリエと向かい合って座っていました。
「そうね、でも、そういうことは、彼女はあんまり語らないんじゃないかしら」
「え、どうして?」
ふふん、とパエリエは微笑みました。
「聞いたことがあるの。ネージュはね、言葉の力ってものを信じていて、自分の紡ぎだした歌詞に、色々な人がそれぞれの世界を広げていってほしいんですって。だからあえて、イメージが固定するようなことを語るのは避けているのよ」
「へぇ……」
さすが、筋金入りのファンというべきか、パエリエちゃんは詳しいようです。
「ところで、何か悩み事? ロマンヌ」
「え?」
「わかるわよ。だって、歩いてくる途中や今だって、隙あらば難しそうな顔してる」
「……うん」
ロマンヌは、クロンヌのことを、パエリエに話しました。クロンヌが、失恋して落ち込んでいる、ということを。
「クロンヌお姉ちゃん言ってたの。『この世界では、誰かの幸せは、誰かの不幸ってことになっちゃう』って」
「わかるような気がするわ、クロンヌの気持ち」
寂しげに、パエリエは思いがけないことを言いました。
「あたしもね、ある人に失恋したこと、あるから」
「えぇっ」
ロマンヌは驚きました。
「パエリエお姉ちゃんでも、そんなことあるのー!?」
「そりゃあるわよ。あたしじゃ太刀打ちできなかった。だってその相手は、ほかの人のことを本当に愛してたんですもの」
でもね……とパエリエはわずかに表情を変えて、
「今になってしてみたら、彼と、彼の好きな人との幸せが、あたしの幸せと矛盾するなんて、全然言想わないけどね」
「どうして?」
「それは……」
パエリエは言葉を飲み込んだようでした。
「いいじゃない。ネージュじゃないけど、あたしも秘密主義なのよ」
「えーっ?!……あ……」
そこで、ロマンヌはなにかに思い至ったように手をたたきました。
「そうだ! パエリエっちゃんが、クロンヌお姉ちゃんを元気づけてくれればいいんだ!」
「……んー」
それはどうかな、とパエリエは思いました、
クロンヌは自分の励ましなんて、望んでいないかもしれません。なぜなら……。
クロンヌのことを励ますのを渋っていたパエリエでしたが、その機会は遠くないときに訪れました。ラロシェルに帰った直後、午後からレストラン”スピルト”で働いていると。彼女がやってきたのです。
「あら、クロンヌじゃない。どうしたの?白い息を切らして」
「パエリエさん」
クロンヌは笑っていました。しかしパエリエにはすぐにピンときました。これは熱に浮かされた、病的な笑顔だと。
なにも言わずに、パエリエはクロンヌの額に手を当てます。
「やっぱり。あんた、この高熱でここまで来たわけ?」
呆れてしまいます。
「ほら、早く入って。うちで休んでいきなさい」
「パエリエさん、できました」
うわごとのように、クロンヌは言いました。
「やっと、できたんです。あたしが初めて最初から最後まで手掛けた……ドレス……」
「……クロンヌ? ちょっと、クロンヌ!?」
次の言葉を最後に、クロンヌは雪の中に倒れました。
「ドレスを、パエリエさんに、お届けに参りました」
パエリエは、仕事中のロジェに余計な気を遣わせないようクロンヌのことを内密に取り計らったので、そのころロジェは呑気に休憩時間を過ごしていました。いえ、呑気に、というのは少し語弊があるかもしれません。
そこでは彼の愛娘、ロマンヌも一緒でした。学校でのことがあってからというもの、また深刻そうな顔をしていることの多い彼女を見守るため、まずは会話でもしようかと思って呼び寄せたのです。
「クロンヌお姉ちゃんの好きな人って、誰なんだろう」
「うーん。パパの人脈をもってすれば、わかるかもしれないな」
ロジェはあごに手を当てて、
「クロンヌから聞かなかったか? その人の特徴とか」
「ええっとね。……そう、多分ラロシェルで一番。ううん、男の人の中で一番誠実で好青年だって、言ってた」
「まずいことになったな」
ロジェはなぜか顔をしかめて、
「そのヒントでパパ、わかっちゃったかもしれないぞ」
「本当!? ……ねぇ、パパ」
ロマンヌはどこか決まり悪そうに視線をさまよわせると、
「エルネスト先生じゃ、ないよね」
「え?」
ロジェは一瞬目をパチクリさせると、
「安心していいぞ、ロマンヌ。あいつは好青年っつーにはちょっと癖があるからな。こう、変わってるっつーか」
「そうかな……?あ、でもなんか、他の人とは違う感じがするかも……」
「そういうこと。ラロシェルで好青年って言ったらやっぱ、あの人だよ」
「誰?」
「ああいう絵に描いたようないい人に限ってとんでもねー悪女に入れ込んじゃったりするんだよな」
「悪女の女の人と、誠実な男の人……?」
「あるだろ、ラロシェルで一組だけ唯一、そういう夫婦が」
「誰が悪女ですって?」
変わりに返事をしたのは、そう。たった今部屋に入ってきたパエリエでした。
「えーっ、パパ、パエリエちゃんは悪い人なんかじゃないよ」
「それはなロマンヌ、本当のおっかなさを知らないだけで……」
ごつん。
「いでっ」
ロジェが背中をど突かれました。
「いてーな悪女」
「いいわよ、認めるわよ。どうせあたしは悪女よ」
「オレに対して特にな」
「いいえ」
そこでなぜかパエリエは蠱惑的な微笑を浮かべて、
「リカルドさん以外の男全員に対してよ」
「……あたし、生きてる……?」
「死ぬほど働いたんだものね。もっともな感想かもね」
笑いながら、パエリエが水差しから水を汲んで、差し出してくれました。その口元には、赤いルージュがさしていて、
……きれい。
泣きそうな気持ちで、クロンヌは思いました。
「ロマンヌから聞いたわよ。ここの所、寝ずに注文の品を縫ってたって」
「……はい。パエリエさんがいなければ、どうなっていたか。ありがとうございます。ずっと、看ていてくださったんですよね」
「当然よ。医者の妻ですもの」
「……」
クロンヌは、花がしおれたように、沈んだ顔をしました。
「でも、気の毒なことね。クリスマス前に身体を壊すなんて」
パエリエは慎重に言いました。
「あたしもね、あんたみたいに、死ぬほど働いてた時があったわ」
クロンヌがわずかに顔を上げるのがわかります。
「ある人に失恋して、ちょっとやけになってたのかもね。でもね、すぐに別の人が現れたの。その人、フライパンでやけどしたあたしの手を見て言ったの。このままでは痛みが長引きますよ。治せるうちに直さないのは、許せない主義なんですって」
「……あ」
「クロンヌにも現れるわ。だって、こんなにいい子なんだもの。好きだった人の妻のためになんて、誰だって本当は気乗りがしない筈よ。それを、好きな人の頼みだからってまっすぐうけとめて、一生懸命、ドレスを作ってくれた」
「……パエリエさん。知ってたんですか……?」
「ごめんなさいね」
パエリエは窓に目を向けたまま言いました。
「あの人から、リカルドさんから聞いてたの。あの人も、辛そうだった。手袋も、彼女が自分のためにこれ以上思いを注いでくれるのが忍びないから、はっきり断ったんだって言ってたわ」
パエリエはそっと目を閉じました。
「あたし、幸せね。こんなふうに思ったこと、今までの人生でなかった。でも、この町に来てからは。なんだか、いい人にばっかり出会って」
そして、クロンヌの方に茶目っ気のある笑みを向けると、
「なにか、お礼が必要ね」
「そんな。看病してくださっただけでも、十分です」
「そう? でも、それは当然のことだしね」
「それなら」
クロンヌは、笑顔で。今度は健康的な笑顔で言いました。
「このドレス、着て見せてください。リカルド先生より先に、あたしに」
パエリエはにっこりとほほ笑みました。
「いいわ」
ドレスに着替えたパエリエは、見事でした。
「きれい……!」
クロンヌは泣き笑いの表情で、溜め息を漏らします。ドレスの色は深い青。余計な装飾のない、シンプルなものでした。
「この町に来る前は、縞模様のワンピースを着てたの。あたし」
パエリエは少しだけ、困ったように言いました。
「縞模様……」
それは、ある職業の女性の条例で決められた服装でした。娼婦という。
「今回、あの人がこのドレスを送ってくれたのはね、それを脱するため。だから、きれいな無地のものを買ってくれたの」
「あたしも」
クロンヌは言いました。
「あたしもです。パエリエさん。新しいパエリエさんの門出を、祝福します」
「ありがとう。大切に着るわ」
”スピルト”からの帰り道。
まだぼーっとする頭で、クロンヌは歩いていました。
「クロンヌお姉ちゃん」
後から走って追ってきたのでしょう。ロマンヌが白い色のついた息を切らせて彼女の目の前に出ました。
「どうしたの? ロマンヌ。こんな時間に。あたしみたいに、風邪ひいちゃうぞ」
指で、ロマンヌのおでこをこつんとやってみます。
「クロンヌお姉ちゃんに、お届け物なの。お守りだって」
「お守り?」
「傷が早く癒えるように。誰がくれたと思う?」
「さぁ……?」
「ヒント」
ロマンヌはカツン、と、かかとで道路のタイルを叩きながら言いました。
「わたしのママはヴァンセンヌに入院中で、ママに手紙を送ったら、ママの病気を看てくれているある人からクロンヌお姉ちゃんにって、これが届いたのでした」
「……え……」
「ヒントその2」
カツン。黄色のタイルが鳴ります。
「『僕がこれを送るのも変ですが、傷を見ると、治さずに放っておくことはできないので、受け取ってください』。その人からのメッセージです」
じゃぁね。ロマンヌは笑顔で走り去って行きました。
「……ありがと」
クロンヌは、降り始めた白い雪に、呟きました。
「ありがとう。リカルド先生」
風邪を引いたときに、良く眠れる。
カモミールの茶葉の入ったこぶくろを、握りしめて。