第2話 形見の写真
夢を見た次の日、学校から家に帰ると、出かけるところがあるからついてきなさい、と言われ、何の予想もなくついていった。どこか楽しいところに連れて行ってくれるのだろうかとさえ期待していた。でも、期待は裏切られた。
四月八日、雲ひとつない晴天の日。わたしは施設に預けられた。とうとうお母さんだけじゃなく、親戚にも見捨てられたのだ。
そもそも、わたしが産まれて心の底から喜んでくれた人なんて、誰もいなかったと思う。お父さんが生きてたらそうはなってなかっただろうけど、わたしが産まれる前にお父さんは事故で死んでしまっていた。交通事故、信号を無視した車の、一方的な事故だった。
お父さんが死んで、詳しい理由は知らないけどお母さんはそのあと中絶しようとしたらしい。でも、その頃にはもう、わたしの体はほとんど完成していた。とても中絶できるような状態じゃなく、だからお母さんは、しょうがなくわたしを産んだのだ。
退院してすぐに、お母さんはわたしを親戚のところに預けた。女で一つで育てる気はなかったらしい。そして、わたしは施設に預けられるまでずっと、そこで育てられた。お父さんの事故やお母さんの中絶の話も、その親戚の人から聞いたもので、ほんとのところはよく分からなかった。由奈、というわたしの名前も、その時親戚がつけてくれた名前だ。
親戚の人は、わたしが小学校に入学するまでなら育てる、との約束をお母さんとしていたらしくて、お母さんはそれ以来どこかに行ってしまったと聞いている。
そしてわたしは四月の桜満開の季節、新しい赤色のピカピカ光るランドセルを初めて背負ったのと同時に、施設に預けられてしまった、というわけだ。
まだ幼くて状況が理解できなかったわたしは、施設に預けられた時、涙の一滴も出ず、ただ無性に寂しかった。お父さんのはもちろんのこと、お母さんの記憶も実際全くといっていいほどなくて、わたしにとって親戚のおばさんとおじさんがお母さんとお父さんのようなものだった。だから、親戚に施設に預けられるのは、親に預けられるのと同じようなものだった。でも結局は、悲しみ、そんなものより、今まで暮らしていた人たちとは暮らせない、家も変わる、何もかも変わる、そう思うと、率直にいやだという拒否感だけだった。
施設に預けられてから六年の年月が流れ、わたしは小学六年になった。この六年間、わたしは親戚の家で発見した一枚の写真のおかげでなんとか生きてこれたようなものだった。
その写真は、わたしが知っている中で唯一お母さんとお父さんが二人で写っている写真。とある神社で撮られたものらしい。そしてこの写真は、わたしの『形見』だった。
お父さんはともかくとして、まだ生きているであろう人が写った写真を形見、というのはちょっと変だけど、そんなのは関係なかった。
形見を、わたしは学校に行くときも持ち歩いていた。いつも、ランドセルを開けて正面下にある、名前や住所などが書かれた紙を入れるための薄いスペースに入れていた。そうしていたら、登校際にお母さんに偶然会えるような気がしていたし、時折襲ってくる耐え難い寂しさにも、その写真を手にながめていさえすれば、なんとか我慢できていた。
運動会や音楽祭などの帰り道、みんながお父さんやお母さんに手をひかれて帰っていくのを一人で見ていても、わたしにはこの写真がある、だからがんばれる、と自分に言い聞かせてきた。
小学校生活が終わろうとしていた、卒業式前日。わたしはどこかやるせない思いだった。今までもこういうことはあったけど、今回は違った。イライラもしていたし、いつ泣いてもおかしくないような状態だった。
卒業式に、わたしの親は、来ない。授業参観や運動会など、今までならそんなこと当り前だったのに、その日はいつもと全然違っていた。親はいないんだから、施設で育っているんだから、そんなの仕方ないこと。そうやって今まで受け入れてきた現実が、その時初めてかわいそうなものだと思った。
孤独。
惨め。
絶望。
そんな不安は、いつのまにか怒りに変わっていた。わたしをまるで人と思っていないお母さんに対しての怒りと、そんな人の子供が自分だという辛い現実が、わたしを追いつめた。
そしてそれはなんの理由もなく、自然に、あの写真へと向かった。
下校中のことだった。
川の上を通る橋の上で、わたしはランドセルをあけていた。取り出したのは、あの写真。そして写真の、お父さんとお母さんを切り離すみたいに手で乱暴にビリッと破る。お母さんの写っているほうだけ、川に捨てようとしていた。もう何もかもがどうでもよくて、この心の痛みさえ消えてしまえばそれでよかった。
流れの激しい川に落として、海でも湖でもどこでもいいから、どこか遠くに流れていってほしい。水の奥深くに沈み続ければいい。お母さんがかつてわたしを捨てたみたいに、今度はわたしがお母さんを捨ててやる。
なのに、いざ実行しようとしても、うまくできなかった。写真を二つに破るとこまでは別に何ともなかったのに、写真で笑顔いっぱいのお母さんを見ていたら、手がビクビクと震えて、写真を川に放ることができなかった。そんな自分がますます嫌になる。こんな思いをするんだったら、あんな写真発見するんじゃなかった。
結局、わたしはお父さんが写っているほうの写真だけを形見にすることにして、お母さんのほうは机の引き出しに閉まっておくことにした。そうすれば、ある程度は自分の中で、お母さんとお父さんとの区切りをつけられるような気がした。
でも、できなかった。お父さんの写真のほうが手近にあるにもかかわらず、お母さんのことばかり考えてしまう。逆に引き出しにしまわないほうがよかったかもしれない。でも、それ以外の方法が思いつかなかった。
お父さんが死んだからじゃない。ただ、ずっと親無しで生きてきたのに、それでもまだ、わたしを捨てたあの人のことが忘れられない。そればかりか考えてしまうなんて。自分が憎くて憎くて、許せなかった。
といったって、あれから三年経って中三になった今も、あの人は今どこにいるのだろう。一体、何をしているのだろう。そんなことを考えてしまうことが、時々、ある。一人でボーッとしているときに、不意にあの人が頭に浮かんできてしまう。
たぶん、わたしが机の引き出しに入っている写真に写る人のことを完璧に忘れる日は、永遠に来ないと思う。いくら拒否したって、それはしょうがないことなんだと思う。心が否定しても、本能が求めている。こういうのは、どうやったってどうにもならないんだ。中学生になって、それくらいのことは冷静に受け入れられるようになった。ただ、受け入れられるようになったぶん、自分の無力さを痛感した部分もあった。
ただ、わたしは、あの人のことを考える時必ず、どこかの道ですれ違っただけの、あくまで他人を意識するようにしている。施設に預けられる日の前日に見た、あの夢のようには見ないようにしている。あの人は、どこにでもいる人――背景と一緒なんだと考えている。あの人のことを、自分を生んだ人としては、決して考えない。あの夢を見た日以来、それだけは続けてきた。
あの日以来、わたしはあの人を、お母さんと認めない事にした。
それには、お母さんを許せないという気持ちもあった。けど、本音はたぶん、自分を守りたかったのだと思う。お母さんを他人、と自分の中で位置づけることによって、自分に足らない何かをごまかそうとしていたんだと思う。これ以上現実に目を向けたくなくて、傷つきたくなかったんだと思う。