第三章 『雄介の死』①
第三章 『雄介の死』
「社長は?」
軽い口調でたずねる朝霧雄介に対し、社長秘書の川島美紅は、
「本日、社長は宮崎へご出張です。お帰りは、明日の夕方だと伺っておりますが」
と、やや緊張した様子でそう答えた。
美紅が雄介に気を遣うのも無理はなかった。彼は、現社長である城崎淳一のひとり娘、小百合との婚姻後、会社の全権を委ねられることになっている男だからだ。
社長が誰に代わろうとも美紅は、実入りのいい秘書の仕事を続けたいと考えていた。そのため、今、彼に気に入られておくことは、彼女にとっての最重要課題だったのである。
「そうか。今日の五時に社長室にくるよう言われていたんだけどな」
困り顔の雄介を前に、美紅は慌てて時計を確認した。
午後五時だ。
「あの、それは……」
はっきりとした返事ができないでいる美紅。
そこに雄介が、
「もしかして、また、なのか?」
と眉をひそめると、彼女は黙って頷いた。
今月だけで既に三度目である。別に、淳一が雄介に嫌がらせをしているわけではない。ただ単に忘れているのだ。
淳一の健忘は、約半年前に見つかった脳の腫瘍が原因らしく、雄介がその病状を知ったのは、つい二か月前のことである。最近では取引先との会談の日時さえも覚えておらず、それは、美紅にとっても大きな悩みの種となっていた。彼女が計画した淳一のスケジュール調整は完璧だったのだが、直接会う約束を淳一自らがしてしまった場合は、その限りではなくなる。美紅にそのことを伝える前に、彼が忘れてしまうからだ。
「仕方ないな。明日、出直すよ」
そう告げると、雄介は回れ右をした。
「あの、専務」
その背に美紅が声をかける。預かっていた伝言を思い出したのだ。
「どうした?」
雄介が再び美紅に目を遣ると、彼女は言った。
「今夜、小百合様が専務のご自宅に伺いたいと仰っていました」
「何時に?」
「九時ごろとのことです。何でも美味しいワインを購入なさったそうで、専務とご一緒に、と」
「分かった。ありがとう」
「では、失礼致します」
深々と頭を下げる美紅に見送られながら、雄介は社長室前のエレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まり、一階のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと降下を始めた。
「専務、か」
響きのよいその言葉に、呟く雄介の頬は緩んだ。しかも、遠くない将来には「社長」と呼ばれるようになるのだ。
思わず小躍りしたくなる気持ちを抑えつつ、彼は、過去の自分に思いを馳せた。
五年前。入社から僅か一年の支社勤務だけで、雄介は本社へと異動になった。元来、人付き合いのよかった彼に営業の仕事は天職だともいえ、その実績は、社長である淳一の耳にも入るほどだったのだ。
本社勤務では営業部から企画部へと配置が換わったが、その勢いは変わらぬままだった。雄介の企画する広告内容はどれも斬新で、その全てがヒットした。ノンストップで出世の道をひた走り、三年後には、企画部の部長を任されるまでになった。
そんな雄介が、小百合と結婚を前提に付き合うことになったのは、淳一の病状を知ったのと同じ二か月前だ。この日、彼の人生はさらに大きく躍進することになった。
雄介を社長室に呼ぶと淳一は、物事を長期記憶できなくなってしまった自らの病状を伝えた。
それから、雄介の手を取り、
「このままだと我が社は、三年もしないうちに何処の馬の骨とも分からぬ輩に乗っ取られてしまうことだろう。そうなる前に、社の全権を君に委ねたいと考えている。もちろん、小百合と一緒になることが条件だが……。どうだろう? 小百合と結婚して、会社を継いではもらえないだろうか?」
と懇願したのである。
この時、雄介は、真澄との挙式を僅か三週間後に控えていた。当然、彼はそのことを淳一にも伝えていた。普通に考えれば、そんな男に、「娘と結婚して会社を継いでくれ」などと言うはずがないのである。
しかし、淳一の病状を鑑みれば、それも納得がいく。
つまり、「忘れているんだ。僕が婚約していることも……」雄介は心の中でほくそ笑んだ。
会社にとっては致命的だともいえる淳一の疾患だが、雄介にしてみれば、これほど好都合なことはなかったのである。
だが、この縁談、当の本人である小百合はどう思っているのだろうか。
真澄との婚約は解消しました。でも、小百合には振られました。それでは洒落にもならない。
「結論を急ぎすぎてはいけない」そう考え、雄介は淳一にたずねた。
「あの、お嬢さんは、小百合さんは、僕のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
この問いにも、淳一は、雄介の期待どおりの返答をした。
「君のことは以前から家でも話をしていたのだが、娘も君を大層気に入っていてね。だから、君の返事ひとつで全てが決まるんだ。もう一度言う。娘と結婚して会社を継いでくれ」
と、再び雄介の手を取り、そう言ったのである。
この瞬間、雄介の気持ちは固まった。もはや断る理由などなかった。
「分かりました。全て僕にお任せください!」
淳一の手を強く握り返しながら雄介は、「真澄との婚約さえ上手く解消できれば、社長の椅子は僕のものだ」と、邪心を膨らませていた。
「そうかね。よかった! いやぁ、本当に、……よかった」
破顔する淳一の目には、薄らと涙が滲んでいた。
六月末の株主総会での承認が正式な就任になるとしながらも、雄介はこの日、専務の役に就くことも決まった。将来、彼が社長になる際、前役職は専務であるほうがよいだろうと淳一が判断したのだ。
それから十一日後。雄介は、真澄に婚約解消を告げた。別に彼女のことを嫌いになったわけではなかった。いや、それどころか、彼は今でも真澄を愛していた。ただ、小百合についてくる“特典”があまりにも大きかった。それだけなのである。
「好きになった相手と結婚する相手が同じだとは限らないんだ」そう彼が結論づけた時、エレベーターはとまり、扉が開いた。
エレベーター前の廊下を、雄介はエントランスホールに向かって歩き出した。擦れ違う社員たちが深々と頭を下げて行く。軽く手を上げてそれに答えながら、彼は、自分の出した結論に間違いはなかったと、改めて確信していた。
足取り軽やかにエントランスホールへと入る。
ここで、雄介は、はたと足を止めた。「確か、九時ごろと言っていたよな」と、先ほどの美紅の言葉を思い出したのである。
そして、すぐに彼は、「それはおかしい」との答えを出した。
何故なら小百合は、もうじき二十六になろうかという年齢であるにも拘らず、門限八時という生活を送っていたからだ。それは、「完全な“箱入り”であれば、いざ縁談という時に話がスムーズに進むだろう」と、淳一が強制したことだった。
悪い虫がつかないようにとの淳一の小百合保護は徹底しており、彼女が高校卒業から二年間、海外に留学した時などは、現地のボディガード二人がいつも警護に当たり、身の回りの世話は、日本から派遣された家政婦が住み込みで行っていたほどだったのだ。
それなのに、そんな小百合が、夜九時という時刻に外出できるわけがない。
では、どうして。
その場で俯き、少しの間考えていた雄介だったが、やがておもむろに顔を上げた。その表情は、謎が解けた名探偵のように誇らしげだ。
小百合が夜間外出できる理由。それは、社長が出張中だからだ。
門限に厳しいのは淳一だけであり、母親の雅子は寛容的だ。既に雄介との婚約が成立している今、門限を定める意味はなく、それは単に、結婚までの間だけでも娘を傍に置いておきたいとする淳一のエゴだと考えていたからである。
つまり、淳一さえいなければ、小百合の夜間外出はそれほど難しくないということなのだ。
謎解きを終えた雄介は、エントランスホールを抜けると、地下駐車場へと続くスロープを下りて行った。