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指切り  作者: 直井 倖之進
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第二章 『指切り』②

 二時間後、午後四時。

 総合病院を出た真澄を、コンクリートの地面から立ち(のぼ)る熱気が包んだ。

 「蒸れないかな?」そう思い、包帯の巻かれた左手に目を遣るが、小指の痛みはもうなかった。どうやら麻酔と鎮痛剤が効いているようだ。

 現代医学の力に感謝しながら彼女は、入院患者の散歩用に作ってある遊歩道のベンチに腰を下ろした。夕方とは思えない高い位置から真夏の日差しは降り注いでいたが、木々の葉で遮られたここは幾分すごしやすかった。

「ふう」

 安堵の息をつくと彼女は、院内での出来事を思い返した。


 総合病院に着いた真澄は、外科の場所を聞くまでもなく処置室へと通された。気が動転していた彼女は、この時、初めて、自分が重傷患者であることに気づかされた。

 迅速に治療を行う医師の、

「どうして、こんな事になったんですか?」

 との問いに、「人形に……」と言うわけにもいかず、

「野犬に()まれて」

 と答えたが、これが拙かった。

「どこで?」

「そ、それは……」

 場所を聞かれてしまい、彼女は言葉に詰まった。「マンション下の公園にしておこうか」とも思ったが、そこで遊んでいた子供たちの姿を思い出し、野犬が頻繁に出ると聞く自宅から車で三十分ほどの距離にある郊外の森を伝えた。

「そんな所に、独りで行くなんて」

 呆れ口調でそう言いながらも、医師は、この件に関してそれ以上聞くことはなかった。

 上手く誤魔化せたと、真澄はほっとした。

 ところが、それも束の間、あろうことか医師は、看護師を呼びつけ、今彼女が話した場所を、警察と保健所に知らせておくよう指示を出した。

 思わぬ事態に真澄は慌てたが、止める理由などない。処置室から出ていく看護師を黙って見送るしかなかった。

 真澄へと向き直り、医師は質問を続けた。

「それで、指は?」

「あの、食べられちゃいました」

 “食べられた”のは本当だ。

「では、指、……無いんですね」

 医師の顔に、憐れみの表情が浮かぶ。

「えぇ」

「となると、もう元どおりには……」

 語尾を濁す医師に、彼女は気丈に答えた。

「はい。構いません」

 その後、感染症の検査も行われたが、当然ながら狂犬病等の心配はないということだった。


「こんにちは」

 何者かに挨拶され、真澄は我に返った。声の主は、車椅子に乗った白髪の老女だった。

「あ、どうも。こんにちは」

 ベンチに座ったまま会釈をする真澄。その前で車椅子をとめると、老女は、木漏れ日を見上げながら言った。

「暑い日が、続きますね」

「そう、みたいですね」

 人形が届くまでのひと月、殆ど外出もせずに空調のある部屋に籠っていた真澄は、続く暑さというものに実感がなく、曖昧に答えた。

 老女は、真澄に視線を戻すと、おっとりとした口調で語り始めた。

「私ねぇ、散歩は必ずこの病院を通るようにしているんですよ。十六歳の夏に交通事故で車椅子生活になってから、もう五十八年も。初めは、入院した時にリハビリを兼ねて病院の敷地を回っていたんですけど、退院してからもそれが習慣化してね」

「この病院って、そんなに古くからあるんですか?」

「私が知っているだけでも、建て替えが三回。でも、ずっと同じ場所にあるんですよ。この遊歩道ができる前は、もっと小さな病院でねぇ。ここは表通りだったんです。私が事故に遭ったのもこの辺り、……丁度、貴女が座っている所ね」

「え? そうなんですか?」

 真澄は慌てて立ち上がった。

「いいんですよ、気になさらなくても。どうぞお座りのままで。私、死んでしまったわけではないのですから。それより、折角だから聞いてくださる? 五十八年前の、交通事故の話」

 老女の言葉に真澄は、

「はい、お願いします」

 と、座り直した。

「そのころは、東京や大阪みたいな大都市は別にして、今のようにたくさんの車は走っていなかったんです。この街全体でも、数台程度だったみたいです。だから、事故の時には地元の新聞に大きく取り上げられて。何でも、この街で初めて自動車事故に遭ったのは、私なんですって。あ、でもね、それを知ったのは、もっとずっとあとのことなんです。何しろ、事故の瞬間から丸二日、意識不明だったものですから」

「大変な事故だったんですね」

 真澄は、思わず老女の車椅子に目を遣った。

「はい。両足切断です。今の医療技術があれば切らずにすんだのかも知れませんが、昭和二十年代では、ねぇ」

 そう言って老女が叩く足からは、乾いた木のような音がした。

 十六という若さで両足を失う。

 そんな人生における悲劇的な一場面をごく自然に話す老女に、真澄は、

「お辛かったでしょう」

 と、労りを口にするので精一杯だった。

「確かに、目が覚めて自分の足を見た時は辛かったです。でも、一番辛かったのは、娘の足の切断を了承した父だと思います。事故の知らせを聞いて駆けつけた父に、医師は告げたそうです。今すぐ両足を切断しないとこの()は助からない、って。恐らく、父は悩んだことでしょう。たとえ一命を取り留めたとしても、失った自分の両足を見た(むすめ)はどう思うだろうか。いっそ死んだほうがましだったと、自分を恨むのではないだろうか、と……」

 老女は一度深く呼吸をして、続けた。

「悩み抜いて、いよいよ決断を出す段、父は泣いていたそうです。大粒の涙を流しながら、医師に、切ってくれ、と頼んだとのことです。私は見ることができませんでしたが、母の話では、明治生まれの気丈夫な父が流した最初で最後の涙だった、と」

 長い間父子家庭で育った真澄には、老女の父の想いが痛いほど伝わり、言葉を失っていた。

「それから二日経って目が覚めたのですけど、私、その間夢を見ていたんです。何処かの精肉加工場で、天井から吊るされた牛肉を木の棒で叩く夢。変な夢でしょう? でもね、目を覚ました私は、すぐにその理由が分かりました。病室の隅で、正座をした男の人が、父から殴られたり蹴られたりしているんです。何度も何度も。軍人上がりの父は口より先に手が出る人でしたから、また揉め事だなと思って私は叫んだんです。お父さん、やめて! と。すると、振り上げた父の手が止まって、二人は同時に私を見ました。その時の顔といったら、まるでお化けでも見たかのような。殴られていた男の人なんて、顔を腫らして血だらけで、彼のほうこそ本当のお化けみたいでしたのに」

 五十八年前の光景が蘇ったのか、老女はくすっと笑った。

「その後、男の人は、私のベッドの前まで飛んでくると、床に手を着いて言いました。ごめんなさい。僕は“取り返しのつかないこと”をしてしまった。その言葉で、彼が車の運転手であることは分かったのですが、“取り返しのつかないこと”の意味が摑めなくて、私はきょとんとしていました。すると、父が、私に告げました。(さと)()、自分の足を見てみろ、と。布団を捲ってみた私の両足は、太股から下がありませんでした。いやはや、ショックでしたねぇ、本当に。愕然とするという言葉は、ああいう時に使うものです」

 「ショックだ」とか、「愕然とした」だとか言いながらも、微笑みを保つ老女の顔に変化はなかった。

 ひょっとして彼女には、憎しみや怒りといった人間誰しもが持つ感情が、欠如しているのではないだろうか? そう思い、真澄はたずねた。

「その男の人を、車の運転手を、恨みはしなかったのですか?」

 この問いに、老女が「はい。恨みませんでした」と答えたならば、真澄は、老女のことを神と同一視しただろう。

 しかし、老女もやはり人間だった。

「恨みましたよ。もちろんです。病室にきた()(ろう)さんを罵倒したり、時には、お見舞いの品を投げつけたり」

 四郎とは、聞くまでもなく車の運転手のことだろう。

 朝霧雄介に裏切られ、結果、自らの意思で動くという現実離れした人形に殺人を依頼してしまった真澄。それだけに彼女は、老女が四郎を恨んだという話に安堵していた。

 ところが、

「……でも」

 そう老女は続ける。

 予期せぬ逆接に、真澄は眉をひそめた。

「でも、十日ほど経つと、室内に投げる物も無くなって。だって、彼、毎日私の病室を訪れるのですもの。怒鳴られても、嫌がられても、物を投げられても、同じ時刻に、必ず。彼を許すことなど到底できなかったのですが、(しん)()なその態度に少しずつ心苦しくなってきていたんです。恨みだけだった心に、葛藤が生じたとでも言いましょうか。そこで、二週間がすぎたころ、私は四郎さんに訴えました。そんなに毎日きてもらっても困ります。私の足が生えてくるわけではないのだから、と。すると、彼は、私を見つめて言いました。それならば、僕の両足を貰ってください。その言葉を聞き、私は病室が震えるほどの大声で叫びました。貴方の足なんて要らないから私の足を返して! それは、怒りに任せた結果、思わず口を突いて出た言葉でしたが、今ではその時の私に感謝しているんです。もし、あの場で私が、両足をください、と要求していたとしたら、恐らく四郎さんは、その日のうちにでも私の許にそれを届けたことでしょうから。それほどまでに、彼は真っ直ぐな人だったのです」

 既に遠い昔の記憶となっているにも拘らず、老女は、立て板に水を流すように言葉を繫いだ。

「私の怒声を聞いた四郎さんは、床に手を着いて頭を下げました。事故のあと、私が目を覚ました時と同じ姿勢です。それから顔を上げ、彼は言いました。ごめんなさい。僕に貴女の足を作って差し上げることはできません。だから、僕の一生を懸けて償わせてください。貴女の足の代わりを僕にさせてください、と。すぐに彼を信じられたわけではないですが、この出来事を切っ掛けに、私の四郎さんに対する見方や考え方が、多少なりとも変化し始めたのは間違いありません」

 老女の話は、真澄の脳裏に四か月あまり前の光景を蘇らせた。

 「仕事を終えて帰ってきた時、玄関で待っている真澄に、おかえりって微笑んで欲しいんだ」そんな雄介のはにかむ顔を思い出しながら彼女は、「言うだけなら、誰にでも言えるのよ」と、出会ったことのない四郎の言葉にも不信の念を抱いていた。

「更に時が経ち、車椅子の訓練を始めるころには、病室に彼の姿が無い時間が寂しく思えるほどになっていました。定刻に彼が現れない日には、五分もすぎずにそわそわし始めて。父も、そんな私の姿を見ていたからでしょう。以前のように、彼に辛く当たることはなくなっていました。それどころか、病院の敷地へと散歩に出かける私たちを、温かく見送るまでになっていたんです。それから五十八年。義足もできましたが、結局、自分の足で歩くまでには至りませんでした。ですが、四季の移ろいをこの病院を通して肌で感じられたこと。そして、何よりも、どこまでも実直な四郎さんと出会えたことは、事故に遭わなければ決して手にできなかった私の生涯の宝物です」

 全てを話し終えた老女は、視線を真澄から遊歩道へと移した。目を細め、遠くを見つめるその姿は、まるでこれまでの人生を振り返っているかのようだった。

 一方、真澄は、「五十八年前の彼女は、まだ十六歳だったんだから、四郎って人に上手く丸め込まれたのよ。そこに彼女は気づかなかった。そのせいで、よい思い出として心に残っているだけなのよ」と、老女の横顔を眺めていた。

 捻れてしまった自分の性格に、嫌悪の情を抱かない真澄ではない。しかし、それ以上に、恨みの念のままに『指切り』の儀式を行った自分を、肯定したいという思いのほうが強かったのである。

「おや、まぁ」

 遊歩道を見ていた老女は、少し弾んだ口調で言った。

 声に促され、真澄もそちらを見た。鳥打帽を被った男が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。老女よりもさらに高齢のようだ。

「彼が、四郎さんです」

 何となく照れた様子で、老女はそっと真澄に告げた。

 二人の傍までくると、四郎は帽子を取り、真澄に挨拶した。

「こんにちは。理子の、お知り合いの方ですか?」

「あ、いいえ。今日、初めてお話しさせていただいています。私、久保と申します」

 真澄は慌てて立ち上がり、何とかそう返した。だが、四郎の紳士的な態度に、緊張の色は隠せなかった。

「そうですか。理子は話好きで、久保さんもお困りだったのではないですか?」

「いいえ、そんなことはないです」

「それならば結構ですが」

 真澄に微笑み会釈すると、四郎は、今度は老女に話しかけた。

「散歩に出る時には声をかけるよう、いつも言っているだろう? ここにいると思ってきてみたら、案の定だ」

「だって四郎さん、熱心に新聞を読まれていたものですから」

 親に諭される子のように、老女が神妙な顔をする。

 その前に四郎はしゃがみ込んだ。

 それから彼は、老女の手を取って言った。

「僕を置いて行ってはいけないよ。僕は、理子の足なんだから」

 「僕は、理子の足」老女の話と(たが)わぬその言葉に、真澄の体は震えた。


 恨みに任せて行動した真澄と、それを許し、消し去り、今の幸せを手に入れている老女。

 相反する道を歩むことになった二人の、その最たる理由は、雄介と四郎の持つ人間性の相違に他ならない。

 しかし、それが“理由の全て”だと言えるだろうか?


「それでは、失礼します」

 居辛さを感じ、足早に立ち去ろうとする真澄に、四郎は、

「もしよろしければ、次に会った時も理子の、妻の話し相手になってやってください」

 と、頭を下げた。

「妻? それでは、お二人は、ご夫婦?」

 目を見開く真澄に、老女は言った。

「あ、話し忘れていましたね。私たち、去年金婚式を迎えたのですよ」

「それは、……おめでとうございます」

 事故の被害者と加害者が今では夫婦(めおと)となり、五十年以上を共にしている。それは、真澄にはとても考えられない話だった。もし自分が老女の立場だったとしたら、四郎と夫婦(ふうふ)になるどころか、恨みを解くことすらできなかっただろうに。

 「彼女と私とは違うのよ。もう、あと戻りはできない」そう自分に言い聞かせると真澄は、型どおりの別れを二人と交わし、遊歩道を正門に向かって歩き出した。

 遠くなる真澄の後ろ姿を見送りながら、四郎がたずねた。

「何の話をしていたんだ?」

 そっと彼を見上げて、理子は答えた。

「私たちの、出会いの話ですよ」

「そうか。ここ、だったな」

 四郎は、真澄のいたベンチを指で示した。

「はい。あれから五十八年です」

「なぁ、理子」

「何ですか?」

「僕は、理子の足の代わりになれているだろうか?」

 四郎は、ちらりと彼女を見た。

「立派な足ですよ。体だけでなく、心まで支えていただいているんですから」

 理子が微笑む。

 そこからわざと大きく視線を逸らすと、四郎は頭を掻いた。

「……ありがとう」

 遣り場に困り彼が見上げた木々は、日の光を受けてエメラルドグリーンに輝いていた。

 爽やかな一陣の風が、二人の間をすり抜ける。

「それはそうと、あの娘さん、何か思い詰めた様子だったな」

「はい。初めに見た時から、ずっと。だから、私、声をかけたのですもの」

「悩みは時間が解決するが、じっと時が経つのを待つのは酷だともいえる。特に、若い人にとっては辛いことだろう。早く、その苦悩から解き放たれるといいが……」

「そうですね」

 それから暫く二人は、真澄の去った遊歩道を見つめていた。


 現在時刻、午後五時。

 朝霧雄介死亡まで、あと三時間。

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