第二章 『指切り』①
第二章 『指切り』
桐箱の中には、ひと月前にオークションサイトで見たとおりの日本人形が入っていた。どこからどう見ても、赤い着物を着た普通の人形である。
しかし、出品者の売り文句が正しければ、この人形、自分に代わって恨みを晴らしてくれるはずなのだ。
真澄は、取り敢えず箱から出すと、そっと人形をテーブルの上に置いた。
落ち着いて見てみると、それなりに年代物のようだ。赤い着物の所どころが黒ずんでいる。仄かに錆びた鉄のような臭いがするのも、歴史を感じさせる一因になっていた。
暫くそのまま眺めてみるが、人形は、指一本動かす気配がなかった。
「どうすれば、動くのかな?」
やけに大きな独りごととともに、箱の中を確認する。だが、説明書の類は入っていなかった。
「何か、スイッチみたいなものでもついているのかな?」そう思った真澄は、人形を手に取り、傾けたり逆さにしたりしてみたが、それらしきものもなかった。
「ひょっとして、背中かな?」彼女は、幼いころに父親から買って貰った話をする人形(とはいえ、定型文を繰り返し喋るだけだが)の起動スイッチが、背中にあったのを思い出した。
着物を丁寧に脱がし、背中を確認する。……が、これも違った。
裸になった人形を手に、真澄は途方に暮れた。俄かに、「騙されたのではないか?」との怒りが込み上げてくる。
「何なのよ!」
情けない自分への八つ当たりで、彼女は人形の頭を叩いて放り投げた。
すると……、
「い、いたいよ~」
声を出したのは、人形だった。
吃驚する真澄の目の前で、人形はむくりと起き上がった。
それから、
「あなたが、あたらしい“やといぬしさま”ね。どうぞよろしく」
と、礼儀正しく頭を下げた。
「は、えっ?」
答えになっていない返事を、真澄が何とか喉から絞り出す。
次の瞬間、
「あっ!」
自分の姿を見て、人形は大きな声を出した。
「どうして、エーコ、はだかなの?」
「あ、それは……」
真澄が経緯を説明すると人形は、
「もう! きもののきつけ、たいへんなのよ!」
と、頬を膨らませながらも納得してくれた。
「かがみ、かしてくれない?」
肌襦袢と腰巻きを身に着けながら、人形が真澄を見上げる。
「はい、どうぞ」
真澄が小さな鏡をテーブルの上に置くと、その前で人形は、長襦袢を羽織って、紐を結び、後ろ手で衣紋を抜いた。
慣れたその様子を感心しながら見ている真澄に、人形は、
「いいこと? エーコをおこすときは、あたまを“いっかいたたく”の。おやすみなさいは、“いっかいなでる”のよ。わかった?」
と、人差し指を立てて見せた。
「分かった」
真澄が頷くと、
「それから、おこすときには、やさしくたたくこと」
人形は更にそう付け加えて頭を擦った。よほど痛かったのだろう。
「ごめんなさい」
素直に謝る真澄。だが、それと同時に、彼女の頭にひとつの疑問が浮かんだ。
「ねぇ、エーコ。自分で頭を撫でても寝ることはないの?」
「うん。エーコに、おやすみなさいができるのは、“やといぬしさま”だけよ」
着物の腰紐を結びながら人形はそう答えた。
「よし、できた! “ふくらすずめ”のかたちもきれい。う~ん、す・て・き!」
最後に帯を結び終えると人形は、自分の背を鏡に映し、満足そうに微笑んだ。
それから、真澄のほうへと向き直ってたずねる。
「エーコね、ほんとうは“えいこ”っていうおなまえだけど、“やといぬしさま”は?」
「私? 私は真澄。久保真澄よ」
「ますみか。いいおなまえね。それで、ますみがうらんでいるひとは、だれ?」
「そ、それは……」
あまりに唐突なその問いに、真澄は一瞬言葉を詰まらせた。
だが、ここまできて迷いは禁物である。
「朝霧雄介。私の婚約者、……だった男」
彼女は、さほど間を置くことなくそう答えた。
「ふ~ん。で、そのひとをころせばいいのね」
まるで「蟻を潰すように簡単なことだ」とでも言いたげに、人形は殺人を請け負った。
「お願いできるの?」
「あたりまえでしょ。ますみは、エーコの“やといぬしさま”なんだから」
そう言って人形は、屈託のない笑顔でからからと笑ったが、急に、
「ますみは、エーコの“やといぬしさま”になるの、はじめてだから、ちゃんとせつめいするね」
と改まり、続けた。
「まず、ますみがエーコにおねがいして、ころすことのできるひとのかずは、いちばんおおくて“じゅうにん”までなの」
「何故、“十人”なんだろう?」真澄は不思議に思ったが、恨みを晴らしたい相手はひとり、朝霧雄介だけだ。そのため、特に何も聞かなかった。
「つぎは、ころしかた」
「そんなことまで指定できるの?」
「もちろん! ナイフで“ブスリ”でも、くびを“きゅ~”でも、どくで“ぴくぴく”ってのもありだよ」
「じゃあ、ナイフで」
「わかった。かいすうは?」
「え?」
「“ブスリ”のかいすうよ。あいてをくるしめてころしたいのなら、“ごかいいじょう”がおすすめだけど」
「いや、あの、一回で」
「いっかい、だけ? ……そうなの」
残念そうに人形は俯いた。
「この子は、人を殺すことを楽しんでいる」そう感じ、真澄は恐怖で身を震わせた。
「それでは、かくにんするよ。しんでもらうのは、あさぎりゆうすけってひとで、ころすほうほうは、ナイフでいっかいだけ、さすのね」
「う、うん」
「それじゃ、『ゆびきり』しようか?」
これまでより明らかに声のトーンを上げ、人形は、真澄へとその身を大きく乗り出した。
指切り? 確認事項を変更しないための“約束”という意味だろうか?
まだ止まらない震えを隠しながら真澄は、
「分かった。指切りね」
と、左手の小指を差し出した。
おもむろに、真澄と人形の小指が絡む、かに思われたが……、
「いただきます!」
そう言うと同時に人形は、真澄の小指に喰いついた。
「ひっ、い、痛!」
短くも鋭い悲鳴を上げ、真澄が反射的に手を引く。だが、彼女の小指の第一関節から先は、既に人形の口の中だった。
恍惚の表情を浮かべ、人形はじっくりと真澄の小指を咀嚼した。
それから、
「ごくり」
音を立ててそれを飲み込んだ。
人形の口元からは、血が混ざり、薄い赤色になった唾液が流れていた。
真澄は、恐るおそる自分の小指を見た。指先があった箇所から脈打つ度に噴き出す血液は、たちまちフローリングの床に血溜まりを作っていった。
「ふぅ~。ごちそうさま」
うずくまる真澄の姿など気にも留めず、人形が手を合わせる。
激痛とショックで薄れていく意識の中で、真澄は、
「……何故? 何故、なの?」
と、それだけを呻くように喉から絞り出した。
その声に気づいた人形は、心外だとの表情を浮かべながら、
「え? だってますみは、エーコの“やといぬしさま”でしょう? “やといぬしさま”が“しようにん”に“ほうしゅう”をだすのは、とうぜんじゃない」
そう言って、今も血が流れる彼女の指を見ながら舌舐めずりした。
そして、短い腕を無理して重ね合わせるように組み、
「ひとりころす“ほうしゅう”は、“ゆびいっぽん”よ。ちゃんといったでしょう? 『ゆびきり』しよう、って。みぎてとひだりて、ゆびのかずは、あわせて“じっぽん”。だから、ころせるひとのかずも、“じゅうにん”までなのよ」
と、まとめた。
『指切り』
それは、雇い主が、使用人である人形に殺人を依頼する代わりに、自らの血肉を報酬とする“契約の儀式”だったのである。
室内の壁掛け時計を確認した人形は、
「え~っと、あさぎりゆうすけの“しぼうじこく”は、いまからろくじかんご、“ごごはちじ”にするね。それまでにますみのやることは、ひとつだけよ。そのじかんのアリバイをつくること。んじゃ、またあとであいましょう」
と一方的に喋り、彼女の返事を待つことなく部屋を去って行った。
真澄ひとりが残された室内は、人形が目を覚ます前と同じ静寂に包まれていた。まるで悪夢の中にいるかのような彼女に、先の無くなった小指と今も続く痛みが、「これは現実だ」と告げていた。
真澄は、ふらふらと体を起こし、呟いた。
「午後八時まで、あと、六時間。取り敢えず、病院行かなきゃ」