第一章 『発端』②
レストランを出てから二時間半後。真澄は、行きつけのバー“Bee”にきていた。待ち人である雄介の姿はまだ見えない。
いつものテーブル席に座り、シェリー酒をオーダーする。腕時計の針は、午後七時を少し回ったところ。約束の時刻までは、まだ三十分近くあった。
真澄は、何気なく辺りを見回した。
客席の中で、テーブル席は彼女のいる所だけ。他はカウンター席だ。カウンターには脚の長い椅子が七脚並んでいるが、どれも空席だった。
今ではほとんど見かけなくなったレコードプレーヤーから、心地よいジャズが、店内には流れていた。
トランペットの音色に耳を傾けながら、雄介がくるのを待つ。
この時間が、真澄は好きだった。
曲が終わると、レコード盤は自動で持ち上げられ、裏返された。
その様子をじっと見つめていた真澄に、
「お待たせしました」
と、マスターがシェリー酒を運んできた。
突然の声かけに驚いた真澄は、ビクッと首を竦めた。
「ど、どうも」
慌てて取り繕おうと、照れ隠しも含めた愛想笑いを浮かべ彼女が会釈した時には、既にマスターは振り返り、歩き出していた。
カウンターに戻る途中、マスターは、足を止めて入口のほうを向いた。
「いらっしゃいませ」
どうやら客がきたようだ。
「雄介かな? それにしては……」そう思い、真澄は再び腕時計を見た。
七時十五分。やはり早い。雄介は待ち合わせの時刻どおりにくることすら稀で、大抵は二、三十分遅れて到着するのである。
「あ、はい。いらっしゃってますよ」
そんなマスターの声が聞こえてくる。ここにいる客は、真澄だけだ。
「え? 雄介なの?」待つことに慣れている真澄は、どぎまぎした。
そして、その動揺が治まらぬうちに雄介は、彼女の目の前に現れた。
……しかし、
「は、早いな。もうきてたのか」
何故だか雄介も慌てている。
「うん。あ、立ってないで座ったら?」
そう真澄が促すと、彼は、逡巡しながらもようよう彼女の向かいに腰を下ろした。
椅子に座ってからも雄介は、どこか落ち着かなそうに鼻を手で触ったり、頻りにきょろきょろと辺りを見回したりしていた。
そんな雄介が心配で、真澄の動揺は不安へと変わった。「会社で何か嫌な事でもあったのかな? だったら、妻になる私は、何て声をかければいいんだろう?」そう思いつつも彼女は、取り敢えずいつもどおりに振る舞うことにした。
「何か飲む? カミュでいい?」
そう言って注文のためにマスターを呼ぼうとする真澄を、雄介は手で制した。
「いや、いいんだ」
「え? まだ、仕事があるの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「そう……」
その後、暫くの沈黙が二人を包んだ。
真澄の不安はピークに達した。普段自分から進んで話す真澄ではないが、この時だけは別だった。黙っていると、怖くなってくるのだ。
「今日ね、式場に行ってきたの。料理の変更、お願いしていたでしょう。それの確認で」
「今日、だったのか」
「うん。雄介、仕事でこられないって言っていたから勝手に決めたよ。えっと、何だったかな、イベ、イベリ、コ? そうそう、イベリコ豚っていうお肉のソテーでね、すごく美味しかったよ。三種類のソースから選んでって言われたから、ホワイトソースにしといた。いいよね、ホワイトソースで」
「……」
雄介は黙って俯いた。
「拙かったかな? ホワイトソース選んだの」真澄はそう思った。雄介の沈黙は、そんな小さな理由ではないと察していたが、そう思いたかったのである。
ますます深みにはまる様相に、真澄は再び話しだした。
「あ、そうだ。私、仕事辞めたあとは暇になるから、不動産屋さんにはそれから行くね。雄介のマンションも私のも、二人で暮らすには少し狭い……」
そんな彼女の話を遮り、雄介が口を開いた。
「……してくれないか?」
「え?」
「だから、婚約、なかったことにしてくれないか?」
「何て、言った……の?」
雄介の二度目の言葉も、真澄は聞き返した。
聞こえていなかったのではない。耳では聞き取れていても脳が、いや、身体全体が、その言葉を聞くことを拒絶したのだ。
「婚約、なかったことに」
「何で、何でなの?」
「……」
雄介からの返答はなかった。
「私、結納のお金だって、指輪だって貰っているのよ。結婚式まであと十日だし、それに、仕事も辞めるって決めて……」
そんなことを言いたいわけではなかった。だが、混乱している真澄は、何とか彼を思い止まらせようと、必死で言葉を繫いでいた。
「仕事は、本当に悪かったと思っている。結納金を返してもらうつもりはないし、指輪も、捨てるなり売るなりしてもらって構わない。ただ、婚約だけ、取り消して欲しいんだ」
「どうして? 理由が分からないと……」
堂々巡りになりそうだと思ったが、真澄は質問を繰り返した。
“Bee”へ雄介が現れてから一番長い沈黙の時間が流れる。
彼は、重い鉄の扉を開くように、ゆっくりと口を開いた。
「小百合の、城崎小百合の名前を、聞いたことがあるだろう?」
「う、うん」
真澄は頷いた。
城崎小百合。
真澄が女子高に通っていたころ、彼女は二つ隣のクラスにいた。だが、三年間の学校生活で真澄が彼女と会話をしたことは一度もない。それでも真澄は彼女の事を知っていた。
それは、小百合の性格によるものに他ならなかった。
弓道部で生徒会にも所属していた小百合は、生徒会長も務めていた。社交性に富み、学校全体の行事では常に輪の中心にいた。小百合は、典型的な優等生だったのだ。そのため、真澄は彼女の事を知っていた。もっとも、彼女は真澄の事など知りもしないだろうが……。
高校卒業後、小百合は、広告会社を経営している父親の影響で、経済を学ぶために海外に留学した。真澄は、そう人伝に聞いていた。
「何故、彼女の名前が出てくるんだろう?」そう思う真澄に答えるように、雄介は続けた。
「小百合の父親は、僕の会社の社長なんだ。それで、社長から、小百合と結婚して欲しいと頼まれたんだ。小百合と一緒になって会社を継いで欲しい、と」
雄介が婚約解消を願う理由は、これだった。
真澄は、次期社長の座と天秤にかけられ、負けたのである。
「ねぇ、雄介。仕事を終えて帰ってきた時、玄関で待っている私に、おかえりって微笑んで欲しい。そう言ったよね。あの時の言葉、あれは、嘘だったの?」
「そう思ってもらっても構わない」
真澄を見つめ、きっぱりと告げる雄介の目に、迷いはなかった。
「……嘘つき。信じていたのに。雄介との、温かい生活。……裏切られたよ」
蒼白な顔で、まるで呪を唱えるかのように真澄は言った。
「すまない」
最後にそうひと言残すと、雄介は立ち上がった。
真澄は、涙を流すことも、詰り、罵ることもせず、ただ怨念の情だけをその瞳に込めながら、去りゆく雄介の背を見据えていた。
外は夜の帳に包まれ、いつの間にか雨が降り出していた。雄介は、落ちくる雨粒に一瞬顔をしかめたが、そのまま思い切りよく通りへと駆け出した。
途中で一度振り返ってみたが、真澄があとを追ってくることはなかった。
正直なところ、雄介は内心ほっとしていた。婚約解消を告げたのち、相当な修羅場となることを予想していたからだ。
「これで全て終わったんだ。式場には、明日にでもキャンセルを入れよう」そう考えた彼は、大きく息をつき、その後、街中へと姿を消した。
嘘。
裏切り。
その代償は……、
“死”
雄介は、まだ知らない。
自らが進めるその歩の先には、地獄の一丁目があるのだということを……。
雄介が“Bee”を去ってから、真澄は泣いた。
静かに、嗚咽さえ漏らすことなく、さめざめと泣いた。
腫れ始めた瞼の中にある二つの眼球は、まるで全ての血液がそこに集まったかのように、真紅に染まっていた。
暫くの時が経ち、マスターがテーブル席を見た時、真澄の姿は既にそこにはなかった。テーブルの上には、万札が一枚置かれていた。
マスターは、グラスを片づけようと、それを手に取った。
「おや?」
口をつけられることがなかったシェリー酒の底には、ダイヤの指輪が入っていた。