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指切り  作者: 直井 倖之進
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第一章 『発端』①

                  

                 第一章   『発端』


 久保真澄は、どちらかといえば目立たない女性だった。運動会の徒競争では、六人中、大抵三番か四番だったし、成績も中の上ぐらいだった。それなりに友人もいたが、口数は少なく、会話をする時は聞き手に回ることのほうが多かった。

 だが、そんな真澄にも、いよいよ幸せを摑む時がやってきた。十日後に結婚するのだ。一週間後には、仕事を辞めることも決まっていた。別に今の会社に不満があったわけではない。ただ、三か月ほど前に彼から、新郎となる(あさ)(ぎり)(ゆう)(すけ)から、「仕事を終えて帰ってきた時、玄関で待っている真澄に、おかえりって微笑んで欲しいんだ」そう頼まれたからだった。

 雄介の口調からそれは、「どうしても!」というわけではなく、「できれば、そうして欲しい」程度のものであることは分かったが、それでも真澄はその場で会社を辞める決心をした。

 理由は、彼女のこれまでの生活環境にあった。

 真澄の母親は、彼女が九歳になったばかりのころに他界した。

 慣れない家事に悪戦苦闘しながらも、父親は、男手ひとつで何とか真澄を育てた。

 仕事のため深夜に帰宅することもあったが、それでも真澄は、毎晩起きて父親の帰りを待っていた。

 「おかえり」眠そうに(まなこ)を擦りながら言う真澄に、父親は、決まって彼女を抱き上げ、「ただいま」と、にっこり笑ってそう答えるのだった。

 真正面に見える父親の笑顔。それが、真澄は大好きだった。独りきりの寂しさなど一瞬で吹き飛んでしまう安心感が、毎日交わすこの何気ない会話の中にはあったのである。

 無論、それは父親も同じであったらしく、「まだ起きていたのか? 早く寝ないと」などと口にはするものの、それを強制することは決してなかった。娘の「おかえり」のひと言が、彼にとっても大きな癒しとなっていたのである。

 ところが、そんな父親も真澄が大学卒業を間近に控えた三年前の二月に病死している。

 それだけにこの思い出は、彼女の心に深く刻まれていた。ゆえに、「私が会社を辞めることで、あの時のあの温かさを、今度は雄介と二人で感じられるのなら……」そう考えたのである。


 十日後に挙式を控えた六月半ばのこの日、真澄は会社を早退し、式場となるホテルにきていた。先日頼んでおいた披露宴時の料理の変更を確認するためだ。

 エントランスを抜けてすぐにレストランに行くつもりだったが、足は自然とチャペルに向いていた。このホテルのチャペルはオープンになっていて、一般の宿泊客等も遠巻きながら結婚式の様子を見ることができるのである。

 真澄がそこに着いた時も、丁度式の最中だった。しかも、誓いのキスの場面だ。

 新郎が新婦のヴェールを上げてキスをすると、周囲からは、半分冷やかしも混じった歓声が上がった。

 異国の神父が、よく通る流暢な日本語で、

「今、ここに新たな夫婦が誕生しました。若いお二人の末永い幸せを祈って、アーメン」

 と告げると、歓声は拍手も加わり、より一層大きさを増した。

 新郎新婦がバージンロードをあとにする。真澄も、それを名もなき観客のひとりとして手を叩いて見送った。十日後、同じ場所に立っている自分を、視線の先にいる新婦と重ねながら……。

 その時、

「真澄さん」

 背後から急に声をかけられ、真澄は慌てて振り返った。

 そこにいたのは、真澄たちの結婚式を担当する女性、(はや)(さか)だった。

「いよいよ来週ですね」

 笑顔でそう早坂が言う。

 真澄は、もじもじとした様子で顔を伏せた。

「えぇ。でも、何だか恥ずかしいです」

「え? 恥ずかしいって、何が?」

「キスですよ。誓いのキス。こんなに人がいるのに……」

 そっと周囲を見回し、真澄は頬を赤らめた。

「大丈夫ですよ、心配しなくても。祝ってくれる人たちに幸せのお裾分けだと思って、ね」

「そ、そうですよね。うん、うん」

 真澄は、自分を納得させるように何度も頷いたが、その顔は引きつったままだった。

「あの、お料理できていますから、レストランへ行きましょうか?」

 何事もなかったように早坂が、開いた手で先を促す。だが、そんな彼女も、胸中では、「大丈夫じゃなさそう」と不安になってしまっていた。


 レストランへの道すがら、早坂はたずねた。

「今日は、お仕事よろしいんですか?」

「はい。早退させてもらったんです。まぁ、仕事なんてほとんど残ってないんですけどね。一週間後には退職ですから。あとは残務処理だけなんです」

寿(ことぶき)退社ですか。羨ましいなぁ。ところで、新郎さんはどちらに?」

「それが、一緒にくる予定だったんですけど、仕事でどうしても抜けられないみたいで」

「そうですか。では、お料理変更の件は、真澄さんのご確認だけでオーケーですか?」

 指で輪を作る仕草をした早坂に、真澄は、

「もちろんですよ」

 と、笑って見せた。

 それを聞いて早坂は安心した。料理等の変更があった場合、その確認は、通常、新郎新婦揃って行うものだからだ。そうしなければ、のちにそれがいざこざの原因ともなりかねない。あまつさえそのトラブルが元で破局にでもなろうものなら、担当である自分にとっても大迷惑だ。

 「幸せそうなこの人には、私の気苦労なんて分からないんだろうな……」変わらぬ笑顔の真澄を見ながら早坂がそう思った時、二人はレストランに到着した。


 真澄が椅子に腰をかけると、すぐに料理が運ばれてきた。

「こちら、スペイン産イベリコ豚ベジョータのソテーでございます。鶏肉をご変更とのことでしたので、豚肉にしてみました。ソースは、三種類を用意致しました。当日どれになさるかをお決めください」

 料理長の(やま)()と名乗る初老の男が料理に説明を加える。

 真澄は、ソテーを三つに分け、それぞれに違ったソースをかけると口に運んでいった。イベリコ豚の肉質と甘みに、三種類のソースはどれもよく合った。(いず)れを選んでも来賓に満足してもらえると確信したが、その中でも一番無難そうなホワイトソースを彼女は選択した。

「承知しました。それでは、披露宴ではそのように致します」

 そう言って山根が軽く頭を下げる。横にいる早坂もそれに倣った。

「よろしくお願いします。とても美味しかったです」

 真澄は立ち上がると、レストランをあとにした。

 彼女が出て行くのを終わりまで見届けてから、山根は、小さく溜め息をついた。

「まったく、最近の若いもんは……」

「あらあら、また山根さんの“最近の若者は”ですか? 今度は何です?」

 呆れ顔を隠すことなく早坂はたずねた。山根は、来店した若い客の三人に一人の割合でこの台詞を使っている。彼女が呆れるのも無理はなかったのだ。

「式の間近で料理の変更を依頼したんだから、それについて、礼のひとつぐらいあってもいいだろう? 今日出した品が駄目だったら、もう仕入れすら間に合わなかったかも知れないんだぞ」

 そう山根は愚痴を溢した。

 すると、早坂も、

「仕方ないですよ。幸せな時って、自分の事だけで頭が一杯なんですから。裏で働く私たちの苦労になんて、気づいてくれるはずがありませんよ」

 と、溜まっていた不満を打ち明けた。都合よく相乗りできる話だったため、さっきまでの呆れ顔はとうに消えていた。

 空き皿を片づけるようウエイターに促しながら、山根は愚痴を続けた。

「大体、旦那はどうしてるんだ? 料理、(ふた)(さら)用意していたのに無駄になってしまったぞ」

「それがですね、お仕事が忙しくてこられない、って」

「どんな仕事をしているんだ? その男は」

「何でも、大手の広告会社にお勤めらしいですよ。しかも、本社勤務のエリートですって」

 早坂は、預かっていた新郎紹介でのプロフィールを思い出しながら答えた。

「エリート、ねぇ。それなら、列席者も大物ばかりのはずだろう? そんな場での食事って、大事だと思うんだがね」

 料理人であるがゆえの言葉を山根が口にする。

 何だか難しい話になりそうなのを察し、早坂は話題を変えた。

「あ、そうだ。聞いてくださいよ。ここにくる前、真澄さんチャペルにいたんですけど、他人の誓いのキスを見ているだけで緊張しちゃってるんですよ。顔なんて、耳まで真っ赤にして」

「今時の(むすめ)にしては珍しいが、清純なのは悪いことじゃないだろう」

「それはそうなんですけど、担当の私の立場にもなってみてくださいよ。もし、式の最中に彼女が倒れでもしたら、この人が担当する結婚式は上手くいかない、みたいな悪評が出そうで……」

「考えすぎだよ」

 早坂の不安を吹き飛ばそうと、山根はわざとオーバーアクション気味に笑って見せた。

 しかし、それでも彼女の表情は変わらなかった。

「それに、私、何か“嫌な予感”がするんですよ。二人の結婚式、大変なことにならなければいいけど」

 真澄の出て行った自動扉を見つめながら、早坂はそっと呟いた。


 “嫌な予感”は、得てして当たるものである。

 この時早坂が感じた“嫌な予感”も、結婚式を待つことなく、僅か三時間後に当たってしまう。しかも、彼女が想像さえしなかった最悪の結果で……。

 だが、今は、早坂はもちろん、当事者の真澄でさえも、それに気づくことはなかった。

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