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4<終話>

 僕は扉の前で深呼吸をする。

手には彼女の部屋の合鍵が握りしめられている。

思えば、もっと早いタイミングでこの部屋におとずれるべきだったのだ。

それが彼女を愛する者の努めなはずだ。

この扉を、この合鍵であけるということは、これからの僕の人生を大きく変えることになるだろう。

扉の向こう側には今まで僕が過ごしてきた生活とはまったく違う世界が待っている。

このまま知らんぷりをして逃げてしまえば、楽かもしれない。

だけど僕にはそれができなかった。

僕は気付いたのだ

心の底から彼女を求めて、僕は彼女を愛しているということに。


 臆病だった僕は物語の入り口がそこにあるのに、いつだってそれを避け続けた。

幼い頃住んでいた自宅の近所に廃病院があった。

何十年も昔に潰れてそのままになっているような小さな木造の建物だった。

そこには手術で死んだ幽霊が出ると子供たちの間で噂になっていた。

扉の隙間からちらりと見える学校の理科室に置いてあるような人体模型や、骸骨の標本が不気味で、幽霊が出るという噂にリアリティを持たせていた。

大人たちもあの廃病院には近づいてはいけないと言っていた。

木造でいつ倒壊するかわからないという意味で言っていたのだと思うが、僕らは呪いを警告する言葉のように受け取った。

ある日近所の子供たちが集まって、肝試しをしようということになった。

行く先はもちろんあの廃病院だ。

みんなは幽霊の噂に怯えきっていたが、一人だけ勇気のある奴がいたのだ。

そいつにみんなは鼓舞されて、というか引きずられる形で、その日の夜に廃病院を探検することになったのだ。

僕は廃病院の前までは来たものの、すっかり怖気づいてしまった。

雲の隙間から見える月に怪しく照らされて、廃病院は恐ろしげな雰囲気を放っており、僕にはそこが地獄の入り口のように思えた。

僕はみんなにやっぱりやめようと必死で訴えたが、聞き入れてもらえなかった。

みんなは既になんらかの呪いにかかっており、意識を半ばうしなって病院へと向かっているんじゃないかと思った。

立ち尽くす僕を置いて、みんな病院に入ってしまった。

僕は恐ろしくなってその場を離れ、家に帰って布団の中で震えていたのだ。

翌朝、みんなは何事もなかったかのように学校へやってきた。

みんなは昨日までと違って、なんだか一回り大きく見えた。

昨日の武勇伝を口々に語っていたが、そこに僕の居場所はなかった。

何があったのかと詳しく聞いても臆病なお前には教えないと厳しい顔で言われた。

あれは本当の仲間になれるかどうかの、小学生なりの試練だったのだろう。

僕はそれを放棄して、彼らの輪の中に入る権利をすっかり失ってしまった。

それはきっと人生の数ある大きな分かれ道の一つだったんじゃないだろうか。

僕はそのあとも、人生に彩りを添える物語の入り口を避け続けるようになった。

一度、そういう道を選んだらそこから先の生き方も自ずと決まってくるのだ。


 話の面白い奴がいる。

エキサイティングな日記を書く奴もいる。

誰も気付かないことを捉える鋭い感性の持ち主もいる。

そういう奴らはみな、僕が避けて通った扉をノックして、手に持った鍵で中へと入っていく。

扉の中には勇気を出して入った奴にしか目にすることができない素晴らしい世界が広がっているのだ。

僕はそれを手に入れたくて仕方がなかった。

眩しかった。

みんなに注目されたかったし、みんなを楽しませたかった。

だけどせっかくのチャンスを逃し続けた僕が手に入れたのは逃げ足だけだった。

そしてその逃げ足すらも実に中途半端で、ものすごく足が早いってこともなかったのだ。


 僕は緊張する手で鍵をドアノブにさした。

カチャリ・・・

運命を変える音がした。

今までの僕の生き方からすれば、それはありえない行動だ。

彼女は・・・深井知子は僕を受け入れてくれるだろうか。

顔を見るなり、出て行って!と言葉を投げつけられるかもしれない。

だけど・・・暗闇の淵から彼女を救えるのは僕だけだ。

僕が動かないで一体どこの誰が彼女を助けるというのだ。


 ドアを開けると、身体を折り曲げて苦しそうにしている彼女が目に入った。

「おい!しっかりしろ!おい!大丈夫か!」

僕はすばやく彼女に駆け寄って、ゆっくりと抱き起こした。

彼女が身につけているスウェットの下半身に目をやるとお尻のあたりを中心に黒く濡れていた。

出血している・・・。

まさかこんな状況になっているとは!

これは・・・きっと早産になる。

僕は沸き起こった不安で胸がいっぱいになった。


彼女は何がなんだかわからない様子だったが、僕を見ると苦しそうだった顔を少しだけゆるめて微笑んだ。


「かみさま・・・」


 僕はきゅっと胸が締め付けられる思いがした。

神様なんかじゃない。

僕はずっと君のそばにいたくせに、逃げ出そうとした卑怯で、最低な男なんだ!


 僕は彼女を絶対に救いたいと思った。

そのためなら自分の人生なんてこの先どうなってもいいとさえ思った。

一時の感情で気分が高まっているのかもしれない。

だけど、ずっと無難な方へと逃げ続けた人生を僕は自分の手で変えたかったのだ。


 彼女を病院に連れていかないといけない。

だけど彼女のかかりつけの病院がわからなかった。

僕は彼女に妊婦健診には言ったのかと尋ねた。


「あぁ!!・・・痛い・・・苦しい!!」


 彼女は痛みのあまり、僕の声が聞こえているのかどうかも定かではなかった。

もう一度大きな声で尋ねると、首を横に振ったような仕草をしたが、痛みを我慢している所作なのか、それとも否定の意味なのか、判断がつかない。

これ以上彼女に何かを聞くのは無理だ。

僕は携帯を取り出すと、タクシー会社に電話をかけようとした。

いざとなるとタクシー会社の電話番号はどこにかけていいかわからない。

スマートフォンにこのアパートの大まかな住所とタクシーという文字を入れてネットで検索をする。

出てきた結果を閲覧し、直感的に良さそうなタクシー会社を選んでそのままスマートフォンから電話をかけた。


 つながった交換手は最初は丁寧に対応していたが、妊婦だとわかると露骨に嫌な態度をとって近くに車がいないので30分以上かかるから他を当たった方がいいと言った。

僕は礼も言わずに通話を切った。

このタクシー会社をこの先僕が使うことはもうないだろう。

彼女を見るとさっきより出血が多くなっている。

僕は急いでさっきの検索画面に戻って別のタクシー会社に電話する。

今度は妊婦だということは言わずに、アパートの住所を告げる。

慌てていたけどちゃんと住所がスラスラと言えてよかった。


 電話を切ると僕は浴室にかけてあったバスタオルを持ってきて彼女の下半身にぐるぐると巻いた。

ひどい出血だった。

もう子供は助からないかもしれない。


 助からない・・・。

どうしてあっさりとそんなふうに思ったのだろう。

自分と血が繋がった子供じゃないからどうでもいいと言うのか。

僕は結局のところ彼女だけが好きで、彼女とさえ自分が結ばれればそれで満足だという人間なのだ。

自分の子供じゃないから死んだって構わないという我が身に潜む本音に気付いて、僕は吐きそうになる。

こんな時ですら、僕は自分の弱さを思い知らされる。

せっかく勇気をふるい起こして彼女の部屋の扉をくぐったのに、僕はどこまでいっても弱くて卑怯な人間だ。

無難な道を歩み続けたのも、結局は自分自身を何よりも優先する弱さからきていた。

そんなんじゃ駄目だ。

もっと身体の芯から僕は生まれ変わりたい。

僕は衝動的に彼女を救おうと思っているわけじゃない。

彼女の妊娠を知った時からずっと考えていたことなのだ。

お腹の中の子供も含めて全て彼女そのものなんだ。

だから僕はその両方を救うために全力を尽くさなくちゃならない!


 僕はもしかしたら彼女はこのまま入院をすることになるかもしれないと思った。

とりあえず衣類ケースから下着や着替えを適当に取り出す。

IKEAの袋が衣類ケースの中にあったので、そこへどんどんと放り込んでいった。

洗面所から歯ブラシや化粧品、石鹸やタオルなどだ。

何を持っていけばわからなかったので、もし旅行に行くとしたらと仮定して、片っ端から詰め込んでいった。

こんなに詰め込んで袋が破れないか心配になったが、IKEAの袋は肩にかけて持ってもビクともしない安心感があった。


 タクシーが到着したので、肩に荷物をかけて彼女をお姫様を運ぶように抱きかかえる。

玄関を開けると、隣の部屋から出てきた男と目があった。

その男は大量の荷物を抱えながら、苦しそうな彼女を抱きかかえる僕を見て、ズケズケと厚かましい視線を注いできた。

「なんですか!」と僕が声をかけると怯えたように何も言わずに彼の部屋に戻っていった。

きっと僕は地獄の鬼みたいな顔をしていたのだろう。

だけどこっちだって笑顔で対応する余裕なんて全くないのだ。


 彼女が妊婦だとわかると、運転手は露骨に嫌そうな顔をして汚さないでよ!と言った。

僕は両手に彼女を抱えていなければ反射的に殴っていたと思う。

運転手も苦しそうな表情を浮かべる彼女に気付いて、人間の心を少し取り戻したようだ。

黙って車のトランクを開けて荷物を入れるのを手伝ってくれた。

僕は60リットルのゴミ袋を何枚か彼女の部屋から持ってきていたので、それをシートが汚れないように後部座席に敷いてくれと運転手に頼んだ。

運転手はそれでまた少しだけ機嫌がよくなって、「急がなきゃね」と言ってくれた。

僕は迷惑をかけてすいません、とようやく言えた。


 僕は後部座席に彼女をゆっくりと寝かせると、すばやく助手席へと乗り込んだ。

運転手に行き先を聞かれ、僕は上田産婦人科と告げる。

僕は上田産婦人科にはちょっとしたコネがあった。

以前、僕は1年間だけコンビニでアルバイトをしていたことがあった。

そこへ僕のあとから入ってきた生意気な高校生が上田産婦人科の院長の息子だったのだ。

その高校生は完全に世の中をなめていた。

店長が留守がちなのをいいことに、彼は釣り銭をごまかして着服したり、お店のハーゲンダッツを勝手に学校の仲間に配ったり、弁当をいくつか隠しておいて廃棄の期限がきたことにして持って帰ったりと、せこい悪さを繰り返していたのだ。

病院の院長の息子なのに、お金が無いはずがない。

自分が得をしたい、うまくやりたいという欲求だけで、そんな小悪党のような真似をしていたのだった。

だけどそんな高校生の浅知恵はあっさりと店長にバレてしまう。

店長はカンカンに怒って、上田と親を呼び出して警察に通報することを宣言したのだ。

はっきり言って親もその時は対応を間違えた。

上田の親は医者の割には物腰が柔らかく、平身低頭謝っていた。

だけど、どこかにエゴが垣間見えて、結局は金で解決しようとやや焦って話を進めようとした。

それが結局のところ店長の逆鱗に触れた。

親がなんでも金で解決するから、その子は高校生にもなってこんな犯罪を平気で行い、それでいて全く反省の色がないのだ!と恐ろしい剣幕だった。

世の中をなめているガキを野放しにできないと考えた店長は、お金を受け取らずに警察に電話をしようとした。

そこで初めて上田親子も本気で焦った。

彼らの眼の色がはっきりと変わった。

上田の親は土下座せんばかりで頭を下げ、上田自身もいよいよ涙を流して謝罪の言葉を口にしたのだが、店長は店長で引込みがつかなくなっていた。

そこで僕が、普段は彼が意外とまじめに仕事を取り組んでいて、頑張っている一面もあるのだという嘘をついた。

きっと店長も僕のいうことが嘘だと見抜いていたが、「君がそう言うなら・・・」と矛を収めてくれたのだった。

あとから上田親子が僕の家に御礼を言いにやってきた。

上田の父親はまたそこでも僕にお金を渡そうとしたので、僕はまったく反省してないなと苦笑しつつも、受け取るのを固辞した。

そして自分が産婦人科の院長をしているので、何か困ったらいつでも相談してほしいと名刺を一枚置いていった。

僕は産婦人科にお世話になるのはずっと先のことだろうと忘れていたのだが、まさかこうやって実際にその時がくるとは思わなかった。


 タクシーは後部座席に乗っている彼女が転がり落ちないように安全運転を心がけてくれた。

僕は最初の印象と違って本当はこの運転手はいい人かもしれないと思うようになっていた。

彼女はますます苦しそうに顔を歪めているので、早く病院について欲しいのと、ゆっくり安全に行って欲しい気持ちの間で、僕はもどかしく揺れていた。


僕は助手席から後部座席へ手を伸ばして彼女の手を握った。


「もう少しだ!頑張るんだぞ!」

「ぐぅ・・・ありがとう・・・ございます・・・杉本先輩・・・」


 彼女は痛みに耐えながらも僕の名前を呼んで、ほんの一瞬だけどにっこりと微笑んだ。

そしてまたすぐに苦悶の表情を浮かべる。


 そのあとも、やっぱり電話は先輩だったのですねとか、お花をありがとうございますとかよくわからないことをブツブツと喋り始めたので、僕は曖昧にうんうんと彼女の話に合わせていた。

あまりの痛みで何がなんだかわからなくなっているのだろう。


 僕は彼女の様子を見て、今はしゃべっている方が気が紛れるかもしれないと思っていろいろと話しかけてみた。

「そう言えば君の部屋を出るときに隣の部屋の男がこっちをジロジロとみていたよ」


彼女は苦しそうに、隣人は森田という人で、彼女があの部屋に済む前から隣に住んでいたことを教えてくれた。


「あの人・・・時々じっと見つめてきて・・・ぐっ・・・少し・・気持ち悪いんです・・・」

途切れ途切れに彼女は答える。


僕はそんな彼女の手をぎゅっと握りながら、早く病院に着いてくれてと祈っていた。



「そうだね。たしかに少し気持ち悪かった。」



***


 まさかこのタイミングで杉本がやってくるとは思わなかった。

今まで一度も深井さんの部屋にやってきたことはなかったのだ。


 僕は深井さんを救おうと玄関のドアを開けて、彼女の部屋に向かおうとした。

すると彼女の部屋の前に見知らぬ男がぎゅっと拳を握りしめながら立っていた。

僕は気付かれないように細くドアを開けて、その隙間から彼の様子を伺った。


 何度かドアノブに鍵を差し込もうとしてはやめる動作を繰り返したあと、彼は意を決したように唇をぎゅっと引き結んで中へ入っていった。

僕はあいつが杉本だなと直感した。

杉本は深井さんとの交際がスタートしてから、きっと彼女に合鍵を渡されていたのだろう。

僕は部屋戻ると、モニターごしに彼の愛にあふれる行動を見つめていた。




杉本は彼女に駆け寄って、どこかの国の王子様みたいに彼女を抱き起こした。

・・・僕はもっと丁寧に彼女を扱えよと思った。




杉本はタクシー会社に電話しようとしていたが、スマートフォンを操作する手つきがもっさりしていて遅かった。

・・・僕は事前に調べておいたタクシー会社の番号を教えてやりたかった。それにもっと素早く検索しろよと思った。




杉本は彼女の衣類をわけもわからず適当に袋に詰めていた。

・・・僕は、あー、いま袋に詰め込んだボーダーのTシャツは見えないところにコーヒーの染みがついているから、もう彼女はずっと着ていないんだよ、と思った。




杉本はシンクの下からゴミ袋を取り出して、持っていこうとしていた。

・・・僕はそれはまだ買ったばかりのやつで、封を開けたやつがすぐ隣にあるだろ!と思った。




そして杉本は彼女の背中とひざの裏に手を回して、持ち上げた。

・・・・・・・僕はやっぱり本当のカップルというのは様になってるな、と思った。



 杉本は彼の歳にしては落ち着いていて、頼りになりそうな男だった。

ところどころぎこちないのだけど、なんとか彼女を救おうとする強い意思を感じた。

彼女はバタバタと部屋の中を動き回る彼を見て、苦しそうな表情を浮かべながらも安堵した様子に見えた。


 僕はなんだよって思った。

神様はちゃんといるじゃないか。

苦しみつづけた彼女に、最高の王子様が迎えにきたじゃないか。


 僕みたいな盗撮魔が彼女を救おうなんて、やっぱりお洒落じゃないって神様は思ったのだろう。

あの時、慌てて飛び出そうとしなくてよかったな。


 僕は今や部屋の隅っこに転がっている産着を見つめながらそう思った。

合鍵を握りしめて彼女の部屋に行こうとした時に、僕は少し前に産着を買っていたのを思い出したのだ。

今から思えば馬鹿みたいだが、彼女がまったく出産の準備をしないので、僕は何が必要なのかを調べて買っておいたのだった。

彼女が本当に自宅で産むつもりなら、僕は産着が必要になるんじゃないかと思って自分の部屋の中に取りに戻った。

あのまま彼女の部屋に飛び込んでいったら、もしかすると杉本が部屋の前にたどり着くまえに僕が先に彼女の部屋に入ることになり、僕は泥棒と間違えられて、若くたくましい杉本にボコボコにされていたかもしれない。


ピンクのリボンで包装された産着が独身で彼女のいない盗撮魔の部屋に転がっているのはとてもシュールな光景だった。


 杉本が彼女を抱きかかえて部屋を出ようとしていたので、僕は彼女を励ましてみたいと思った。

僕は杉本がいない間、ずっと深井さんを見守ってきたし、深井さんと杉本がちゃんと再会できたのもよく考えたら僕のおかげではないか。

だから彼女に一声かける権利が僕にはあるはずだ。


 隣の深井さんの部屋から杉本が出てくると、僕も自分の部屋から出て二人を見つめた。

杉本はモニターで見るより背がすらっと大きくて、格好がよかったので、僕は一瞬見とれてしまった。

でもすぐに深井さんが心配になった。

彼女はバスタオルで下半身をグルグルに巻かれている。

あー、そのバスタオルは僕が彼女に届けたやつだーと思って、じっと見ていたら杉本に怒鳴られた。

彼が恐ろしい顔で睨むので、僕は盗撮に気付かれたんじゃないかと思ってひゅんと部屋に戻った。


 部屋の窓からタクシーのテールランプが遠ざかっていくのをじっと見ていた。

そうして僕はこのぽかんと空っぽになった気分を持て余していた。

ずっと一緒に暮らしていた娘が嫁にいってしまった父親はきっとこういう気分じゃないかな。

あるいは愛し合っていた恋人が急に留学で海外にいってしまった人の気分がこうかもしれない。

どちらも僕には経験がないので、実際のところは確認しようがないのだけれど。

僕は窓をあけて彼らを乗せたタクシーが去った方角をずっと見つめて感傷に浸っていた。

すると、でかい蛾が部屋に入ってきて僕の額にとまろうとしたので、僕は奇妙な動きでそれをバタバタと避けた。


神様は感傷的な気分でいることすら僕に許してくれないようだった。


 僕は合鍵を使って深井さんの部屋に入った。

彼らは慌ただしく出て行ったので、部屋の中がいつもと違って荒れていた。

僕は開きっぱなしになっていたシンクの下の戸棚を締めて、衣類ケースの中の服を整えた。

深井さんはTシャツをたたむ時、人間で言えば背骨にあたる部分を中心にまずは谷折りにする。

そのあと服の長さに応じて二つ折りにしたり、三つ折りにしたりして衣類ケースにできるだけ同じ大きさに揃うように入れていくのだ。

僕は杉本が部屋中に散らかした服をたたんで、衣類ケースに収納していった。


 部屋を簡単に片付けたあと、僕は盗撮カメラを回収した。

もう盗撮はこりごりだった。

あんなにハラハラさせられて、なんという仕打ちなのだ。

彼女ほど盗撮魔泣かせな女はいないだろう。

それにカメラを取り付けたままにして、うっかり杉本とのラブシーンなんて見てしまった日には、もうだめだと叫んで隣の部屋を爆破してしまいそうだった。


 深井さんの部屋を出ようとした時に、玄関に何かが落ちていることに気付いた。

拾い上げてみるとそれは杉本の学生証だった。

見ればみるほど学生証の写真は男前だ。

僕は念入りに自分の鼻の穴に何度も指を突っ込んで、大きめの鼻くそを製造すると、学生証の彼の写真に丁寧にくっつけた。

学生証は元あった場所に戻しておいた。



***


 僕は自分の部屋に戻って回収した盗撮カメラをゴミ箱に捨てようとしてやめた。

最後にもう一度だけ盗撮をしなくてはいけないことを思い出したのだ。


パソコンを開いて検索窓にカーソルをあわせ、キーボードをカタカタと叩く。


◯◯大学 陸上部 大門


 さすが名門大学の陸上部の監督だけあって、バラバラといろんな画像が出てくる。

僕は画像検索で出てきた顔写真をいくつかフォルダに保存した。

有名人であることは、いまの時代は大変なリスクだと僕はおもう。


 次にフェイスブックで大門監督を調べた。

下の名前は隆文というらしい。


車は黒のBMWか。


娘が2人いて溺愛している様子だった。

きっと尊敬されているんだろうな。

この娘は大門監督の本当の姿を知らないのだろう。


毎週金曜日に大門が訪れるBARがあるらしい。


毎朝犬の散歩をしているようだ。


来週の土日は遠征で家を留守にしているようだ。

とうことは家には奥さんか娘しかいないことになる。


 フェイスブックは個人情報の宝庫だった。

もしもSNSをやるなら匿名性のサービスに限ると僕は思う。

さあ、あらかた事前の情報は整った。

まずは予定通り車に小型のGPSを仕掛けて家の住所を特定してやろう。

フェイスブックの写真では黒のBMWの後部座席にハローキティのぬいぐるみが置いてあった。

きっと娘のものだろう。

陸上部のグラウンドに一番近い大学内の駐車場に行って、大門の車を探そう。

黒いBMWでハローキティのぬいぐるみ。

車の台数が少ない日曜日なら簡単に見つかりそうだった。


 住所がわかったあとはやつの行動パターンを特定したいな。

何時~何時まで家にいて、食事はいつ摂って、風呂は何時に入るのか。


大門の家はマンションだろうか、一戸建てだろうか。

一戸建ての方がいいな。

マンションだと防犯カメラの機能をいったん停止させないといけないのが面倒だ。

一戸建てであれば、町内会のゴミ捨て場に行けばゴミ袋の中なんかも簡単に調べることができそうだ。


 本人を含む家族の生活パターンがわかったら、直接侵入して盗撮カメラを仕掛けてもいいし、電気工事業者として家にあがり込んでもいい。

家族全員が不在になるタイミングが必ずある。

業者として入り込むなら、わざと家の配線を切断して、そのあと大門家の郵便受けに格安で電気工事を請け負うチラシを投函しておけばいいだけだ。


盗撮カメラを仕掛けてしまえば、そのあとはあの男のことだからいろんな秘密が出てくるだろう。



 あの男だけは絶対に許すわけにはいかない。

僕の明るい盗撮ライフを邪魔した罪を償ってもらう必要がある。

僕は大門を追い詰めるシミュレーションを想像し、気分が高まっていくのを感じた。

そして気がつけば、深井さんへの思いも、喪失感も心の中から消えていた。

僕が好きになった女の子はみんな僕から消えていく。

車椅子の同級生、僕に二股をかけたOL、そして深井さん。

僕はそのたびに心の空洞の処理に困ったのだ。

そうだ、思い出した。

僕はいつだってこの空っぽの気持ちを盗撮行為で得られる興奮で埋めていたのだ。


そう思うと自然と口元に笑みが浮かぶ。








やっぱり盗撮をやめるわけにはいかないな、と僕は思った。






<終話>

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