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 その日から僕はもっと「主体的に」深井さんに無言電話をするようになった。

僕は以前よりも集中して彼女を観察した。

お香を炊いたり、100円ショップで入浴剤を買ってきたり、立て続けに甘いものを食べたり、キラキラと鮮やかな色使いのイラストが描かれている詩集を図書館から借りてきたり、深井さんが落ち込んでいるサインはよく観るといろんな方法で発信されていた。

彼女は生きようとしたり、死のうとしたりぐるぐるともがき続けているようだった。

僕がそういったサインに気付くことができたのは彼女の声を聞きたかったからなんだと思う。

彼女が辛い時を見計らって、僕は無言電話をかける。

すると彼女は待っていたかのように僕に語りかけてくれた。


 彼女は僕を本当の神様だと思っているのかもしれない。

あるいは、誰にも相談できない悩みごとを人知れず井戸に向かって叫ぶように、身体の外へ外へと追い出したかったのかもしれない。

彼女の声は親しみに満ちていて、まるで僕のことをずっと以前から知っているように語りかけてきた。

きっと親しい友達や恋人にはこんなふうに語りかけるのだろうな。


 一度だけ彼女と会話をしたことがある。

彼女が引っ越してきてすぐの頃だ。

資源ごみの出し方がわからなくて、彼女は自分の方法であっているかどうかを僕に尋ねてきた。

僕は空き缶はそれで大丈夫だけど、空きびんは袋からだして捨てないといけないのだということを彼女に教えてあげた。

彼女は丁寧に御礼を言って、そのとおりにした。

丁寧だったが、僕を一歩も近づけない見えない壁のようなものを彼女からはっきりと感じた。

あの時の短い会話のトーンと、この無言電話に語りかける彼女の声は全然違う。

食べ物をドアノブにひっかけたり、花瓶を置いたりしているのがきっと無言電話の相手だということがわかっているにちがいない。

僕は彼女に少し近づけたようでうれしかったけど、すこしさびしい気持ちにもなった。

・・・もしも、無言電話の相手が僕でした!と彼女に名乗りでたら、彼女はどんな反応をするだろうか。

きっと答は隣に住んでいる少し不審な住人・・・いや、かなり怪しい住人、だ。


 彼女は愚痴というか悩みをずっと携帯電話を握る僕に向かって放出しつづけた。

深井さんが住む世界は、僕の想像を遥かにこえて過酷だった。


 彼女はスポーツ推薦で◯◯大学に入学した。

◯◯大学は最近スポーツに力を入れていて、特待生という形で授業料を免除してでも、優秀な選手を獲得しようと躍起になっていて、深井さんに提示された条件は学費の免除だった。


 彼女には夢があって、詳しくは教えくれなかったが、その夢をかなえるために資格をとる必要があった。

◯◯大学を卒業すればその資格を手にすることができるし、推薦の話に乗れば学費も免除だ。


 深井さんの両親は彼女が小学校5年生の頃に離婚していた。

彼女は母親にひきとられ、母親の実家にいる祖母と3人暮らしとなった。

深井さんの母親が養育費の受け取りを拒否したために、家はいつも貧しかった。

深井さんが中学校に入学すると同時に、彼女の祖母が亡くなった。

家に帰っても誰もいないのが寂しくて、彼女は部活動に没頭して寂しさを紛らわした。

深井さんはフルマラソンの選手だった。


「いつも気持ちがスカスカしていて、満たされない思いをしていたのに、走るとそれがだんだん消えていくの。身体中にアドレナリンがいきわたって、乾燥したスポンジみたいだった心が少しずつ潤っていく感じ。そうやって全力で走り続けていると、まるで世の中のことがなんでも自分の思い通りになるような、不思議で気持ちいい感覚が降りてくるのがとても好きだったわ。」


もっと長く走りたい。

いつまでも走っていたい。

この感覚をずっと味わっていたい。


 そう思っているうちに徐々に走る距離が長くなり、彼女はごく自然と県で№1のマラソンランナーとなった。

チームメイトは、深井さんは素晴らしい努力家だとか褒めたが、彼女は努力なんてしている自覚はなくて、ただ寂しさから逃れるように毎日走り続けていただけだったのだ。

そこには純粋とは言えないかもしれないが、勝ち負けを超越した走ることへの喜びがあった。

そんなふうにして練習量が圧倒的に他の選手より多かったので高校生になっても彼女は№1であり続けた。


「だけどわたしには才能がなかったの」


 彼女がそういった時、僕は走るのが好きだということが一番の才能なんじゃないかと思ったが、それだけでは駄目らしい。

彼女は他の選手からすれば気が遠くなるような練習量を知らずとこなしていた。

そのことに身体の方が耐え切れなくなったのだという。

彼女が◯◯大学に入学手続きを終えたまさにその週末に、彼女にとっては腕鳴らしにもならない小さな市民大会で事件は起きた。

いつものように圧倒的なストライドで、その日も彼女が一番最初にゴールテープを切ることは誰の目から見てもあきらかだったし、彼女自身も自分の勝利を疑う余地もなかった。

ところがゴールまで残り5kmの地点で彼女の脚は、突然に主人を裏切った。

ひざに激痛が走り、彼女は路上でのたうちまわった。

すぐに大会スタッフによって車で病院に運ばれたが、診断は絶望的だった。

治療をすることで日常生活にさほど支障はないものの、長年の無理がたたって、脚はもうぼろぼろだったのだ。

こうして彼女の選手として活動は唐突に終わりを告げることになった。



 年が明けて新年になったが、彼女は実家に帰らなかった。

僕からの無言電話のたびに、彼女はぽつりぽつりと自分のことを語った。

彼女は気付かないうちに同じ話を何度もすることがあったが、僕はそれを指摘することはできないので、ノートに整理しながら話を聞いていた。

彼女は教会で懺悔をする敬虔な信者のように、姿の見えない僕へ独白を続けた。

深井さんは雨が苦手だった。

僕は彼女の孤独サインを受信して、無言電話をかけるのだが、そんな時はたいてい雨なのだ。

雨の日は走ることができなくて、ひとりぼっちの家の中で過ごさなくてはならなかったと彼女は言った。

母親が仕事でいない貧しい家のなかで、彼女はひとり窓の外を眺めていたのだろうか。

僕は北向きの薄暗い部屋を想像する。

誰もいない静まり返った家の窓に雨粒が当たって、その音だけが執拗に繰り返される。

深井さんは雨がもたらす孤独に耐えようと、ひざを抱えてやりすごそうとしただろう。

彼女は嫌なことが起きたら、雨の日と同じようにうずくまって我慢することで乗り越えてきたのかもしれない。

しつこい雨雲が流れ去ったあとには太陽がいつもきちんと顔を見せてくれた。

だけど、我慢をしているだけではちっとも解決しない問題が、この世の中にはあるのだ。



「わたしにはどうしても◯◯大学で資格をとりたかった」



 深井さんからこの話を聞いたのは何回目の無言電話のことだったろうか。

僕は無言の中にもちゃんと聞いていますよ、という意思をにじませた。

伝わったかどうかわからないが、彼女はその日も語りはじめた。


 大学側からすれば入学直前に走れなくなった彼女の扱いに困ったことだろう。

自分たちが誘ったことは脇において、詐欺だとすら思ったかもしれない。

このままでは彼女の授業料の免除は承認できない。

だけど、貧しい彼女には授業料を支払うことなんてできない。

本来であれば入学を諦めなければいけない状況を救ってくれたのが陸上部の大門監督だった。

大門監督は彼女の経験値を活かして、コーチ兼マネージャーとして他の選手の育成や、陸上部の事務作業などで貢献させるという約束を大学の事務局側と取り付けてくれた。

それはかなり強引な手法だったが、実績を残しつつある大門監督の要求を事務局側も飲まざるを得なかった。

つまり深井さんは大門監督のおかげで、◯◯大学に入学してその特別な資格を取る道を残してもらえたし、授業料も免除されたままとなったのだ。


 そして大門監督は当然のように深井さんに肉体関係を強要した。

初めは言葉で性的なアプローチをしかけてきた。

冗談のフリをしながら、みんなのいる前できわどい下ネタを言う。

それは彼女への好意のようにも受け取れるし、どこまで言ったら深井さんが怒るかを探るような言い方だった。

大会や他校との合同練習のあとの打ち上げでは必ず隣に座るように言われて、徐々にボディタッチが増えていった。

腕や脚だけだったのが、次第にお尻や胸を冗談めかして触ってくるようになったそうだ。


「酔ったふりをして抱きついてくるなんて、あまりにもベタ過ぎて現実にそんな人がいるなんて信じられなかったわ」


 大門はそれを部員たちの前で冗談と受け取れるギリギリの範囲で続けたので、みんなはそれを笑った。

部員たちは大門を恐れていた。

彼自身も監督になる前は陸上選手として、輝かしい成績を残していた。

その実績を買われて監督に就任した大門は、徹底的に選手をしごいた。

弱音を吐く選手は大声で恫喝し、少しでも反発をみせると試合には出してもらえなかった。

また、彼は実業団にもコネクションを持っていて、毎年数人の選手を超大手企業へ推薦で送り込んでいた。

4年間、犬のように彼に従い続けていれば、その厳しいトレーニングで陸上選手としての実力も身につき、一流企業へと就職もきまる。

かれは飴と鞭を使い分けて、陸上部を完全に支配していたのだ。

その大門のやることに面と向かって非難できる人間などいない。

僕は彼女の話を電話口で聞いて体育会系陸上部の闇を見た気がした。


「あの時も雨だった・・・」


 彼女はまるで罪深い行いを地獄の裁判官に自白するかのようにゆっくりと重苦しく語りだした。

大会の打ち上げが終わったあと、部室に忘れ物をした深井さんは戻って取りにいこうとした。

大門監督が、夜は危険だから俺が車で送ってやろうと言ってきた。

深井さんはすごく嫌な予感がしたので、大門監督の申し出を断り続けた。

彼女はお酒も入っているし運転したら危ないと言ったのだが、俺が好意で言っているのにそれを断るのか、人として間違っていると逆に非難されてしまったという。

仕方がないので、彼女は監督に送ってもらうことにした。

運転中に助手席に座っている彼女の太ももや胸を触ってきそうな気がして、彼女は持っていたバッグを胸の前でぎゅっと抱きしめていた。

だけど何事も無く無事に大学についたのでホッとした。

警備員に事情を話して、車で構内にはいっていく。

夜の大学はあたりまえだけど人気がなくて、静まり返っていた。

陸上部の部室は、大学構内のはずれにあって、関係者以外はまず立ち入らない場所にあったし、何より時刻は夜の9時を過ぎていたので、そこには深井さんと大門監督の二人しかいなかった。


「ここからはわたし一人で大丈夫です」


 そう彼女は監督に告げて車を降り、部室へと急いだ。

選手として走ることはできないが、同い年の普通の女の子たちよりかはずっと早く走ることができた。

部室の鍵をあけて、忘れ物をバッグにいれてまた部室を締めて戻るだけ。

彼女は大門監督を待たせて、機嫌がわるくなっては大変だと、部室へ走りながら頭のなかで段取りをシミュレーションした。

部室に到着して鍵を開けたところまではよかったが、忘れ物が見あたらない。

ロッカーの中や、机の上を引っ掻き回して、ようやくトラック競技雑誌の束の中からそれを見つけた。

彼女がいつも各選手の記録や体調の変化を書き留めている大切なノートだ。

これを元に彼女は気づいたことを先輩や同期の選手にアドバイスをしていたのだった。

今日の大会の結果も書き込みたかったのに、部室に忘れてしまったことを思い出したのだ。

彼女がノートをバッグに入れた時、背後に誰かが立つ気配がした。

大門監督だった。


「あの人はお酒も入っていたし・・・すごく興奮して怖かった」


彼女はまるで言い訳をするように僕にそういった。


「大学を辞めることになってもいいのか!?」

抵抗する彼女に馬乗りになって大門監督はそう言い放ったという。

彼女はこんなことならもう大学なんてやめてもいいと思っていた。

だが・・・


「杉本を次の大会に出してやりたいんだろう?」


 この言葉で彼女の頭は真っ白になった。

3年生の杉本と深井さんが付き合っていることは部内でも誰もしらないはずだった。

それを大門監督に知られていたという驚きと、大門監督が大会出場の決定権をもっていることを今さらながら思い知らされた。

彼女は自分のことだったらいくらでも我慢できた。

だけど大好きな先輩の杉本にだけは絶対に迷惑をかけたくなかったのだ。


 大門監督はコトが終わると「誰にも言うなよ。お前のためにも杉本のためにもな。」とベルトの音をかちゃかちゃ立てながらそう言い残して、部室を立ち去った。

彼女は一人部室に残された。

窓にはやはり悲しい雨の音が響いていた。




 彼女は次の日に休部届けを提出した。

体調を崩したので実家に帰ると報告し、母親を心配させたくないので実際には部屋でじっとしていたのだった。

大門を怖ろしく思っていたし、部活に行けばまた肉体関係を強要されるのではないかと心配だった。

だけどそれ以上に深井さんは先輩の杉本と顔を合わせるのが嫌だったのだ。


「何も知らない先輩に優しくされたら、わたしはその場で泣きだしてきっと何もかも喋ってしまうと思ったの。そうしたら先輩の将来がめちゃくちゃになるかもしれないと思った。」

彼女の話によると杉本は駅伝メンバーに選ばれようと必死で練習をしていて、レギュラー争いのまっただ中だったという。

◯◯大学のレギュラーになれば、就職活動だって有利だし、何より推薦をもらえるかもしれないのだ。

深井さんは杉本の足手まといになりたくなかった。

だけど、ずっと部屋の中で休んでいるわけにはいかない事情が起きた。

・・・彼女は妊娠してしまったのだ。


 杉本と付き合ってはいたが、練習で忙しい彼とはなかなか会う機会がなかった。

お腹の子供の父親は大門以外に考えられなかった。

気が動転した彼女は、その日の夕方にグラウンドに訪れた。

練習が終わったばかりの時刻に大門のもとへ行き、小声でお話がありますと伝えた。

大門は無言で頷くと、部室の方へ一緒にくるよう彼女を促した。

部室の前にくると、彼女はあの夜のことを思い出して、中に入ることができなかった。

なかなか入ろうとしない彼女にしびれを切らした大門が彼女に用件を尋ねた。


「・・・病院に行ってきました。わたし、妊娠しています」

言った瞬間、彼女の中でそれが現実となった。

今まで心のどこかでこの事態が幻覚ではないか、夢ではないかと感じていたのだ。

自分がこの歳でこんなことになるなんて、想像もしていなかった。

顔が赤くなり、動悸が早くなる。

女性にとって妊娠は人生の一大イベントで、とても重たいものだ。


「杉本の子だろ?」


 大門はそう言い残してその場を去った。

動揺した様子は微塵もなかった。

まるで猫か犬の懐妊の報告を聞いたようなリアクションだった。

彼女はその日どうやって家までたどり着いたか記憶にないという。


 杉本から携帯電話に連絡があったような気がしたが、はっきり覚えていない。

彼女はその日ばかりではなく、そこから数ヶ月の記憶がとても曖昧だという。

大学には毎日きちんと通って授業を受けたが、部活には顔を出さなかった。

構内では杉本とは顔を合わせないようにし、ずっと深井さんは彼を避け続けた。

一体どんな顔で杉本と話をすればいいかわからなかった。

授業でチームメイトと一緒になることがあったが、彼らどこかよそよそしくて不自然だった。

自分が妊娠しているという事実を彼女はうまく認識できず、このまま普通に生活をしていれば、悪い夢から覚めるんじゃないかと思っていた。

そんな実態のない幽霊のような3ヶ月を過ごしていたある日、突然彼女は現実に引き戻された。


「あんたのせいで杉本先輩がやめたのよ・・・そうチームメイトに言われたとき、あたしは足元がぐにゃりと歪んで地面の中へどんどん呑み込まれていくように感じたわ」


 クラスメイトは彼女に問い詰められて、怯えたような表情で彼女の記憶の空白期間を説明する。

大門は深井さんから妊娠を告げられた翌日、チームメイトを集めて、杉本が深井を妊娠させた、とメンバーに告げたという。

その時、杉本や他の何名かは選抜メンバーに選ばれて、遠い他県に合宿にでかけていた。

伝統ある◯◯大学 体育会陸上部にあるまじきことで、他のみんなもそんなことがないように気をつけろといった訓示を垂れた。

そして、杉本には大門が直接話しをするので、このことで杉本と深井さんに連絡をとったり勝手な行動をとらないように部活のメンバーへ釘をさした。

チームの輪が乱れてしまうし、憶測で話が広がらないようにするためだと。

そして自分がみんなに正直に説明するのも、噂が噂を呼ばないようにするためだと言って情報封鎖を行った。

大門の言いつけをやぶる危険を冒すような選手などおらず、こそこそと事情を知るものどうしで話すものの、誰も杉本へこの件を話したり問い質したりはしなかった。

みんなはその頃はもう深井さんと杉本の交際を何故か知っていたので、大門の話をそのまま信じたのだ。

杉本はみんなから避けられていることを不思議に思いながらも、しばらく練習を黙々と続けていたという。

だけどあまりにもよそよそしい態度に我慢の限界がきて、杉本がチームメイトの一人を問い詰めたところ、深井さんの妊娠を知ったというのだ。

そのあと、杉本は退部届を提出し、大学にもこなくなった。

杉本から深井さんへの連絡は一度もない。



***


 彼女の長い独白を聞いたあと、僕はしばらく使っていなかった工具箱をあけた。

そして小型のGPSを取り出して、きちんと動作するか確認しつつ念のため電池も交換した。


 僕はシャワーを浴びながら深井さんの話を思い出していた。

とても苛立った気分だった。

苛立ちの原因はいろいろありそうだ。

彼女の妊娠の経緯を聞いてショックを受けたこと。

この世の中には救いようのない本当の悪人がいて、まじめに暮らしている人を食い物にしていること。

彼女のチームメイトは誰も彼女を救おうとしないこと。

それから・・・彼女にはやっぱり好きな男がいたこと。


 僕は、彼女は妊娠させた男を憎んでいて、この僕のことを好きになってくれないだろうか、などと都合よく夢想していた。

だけど彼女には好きな男がいて、妊娠させたひどい男は別の奴だった。

杉本という男は、どうして彼女に連絡ひとつよこさないのだろう。

自分が妊娠させてしまったと勘違いしているのだろうか。

卵子は24時間しか寿命がない。

絶妙なタイミングで受精しないと、滅多なことでは妊娠しないのだ。

ただ、社会人となっている僕だって、そんなことは調べるまで知りもしなかった。

まだしっかりとした知識もないであろう学生の彼がセックス=妊娠だと思っていても不思議ではない。

そうなると彼は深井さんを見捨てて逃げ出したことになる。

そんな無責任な男より、僕の方が深井さんにふさわしい男なんじゃないだろうか。


・・・きっとそうだ。

僕が深井さんを幸せにするのだ。

だけどその前に、僕と深井さんの二人の幸せの前にやっておくべきことがある。

大門という男は報いを受けるべきだった。



 シャワーを終えてモニターを確認するとなにやら深井さんの様子がおかしい。

お腹を抱えてうずくまっているのだ。

もしかして・・・でも僕の計算では妊娠8ヶ月くらいで、産まれるのはあと2ヶ月ほど先のはずだ。

彼女はモニターの中で苦痛に顔を歪めながらのたうちまわっていた。


「くぁ・・・うぅ・・・・」


 彼女は身体をくの字に曲げて悶絶していた。

顔は真っ青になっていて、いつも綺麗に整えている前髪が汗で額にくっついて乱れている。

尋常な苦しみ方ではない。

スイカを鼻の穴から出すような痛みだという喩えを聞いたことがあるが、モニターの彼女を見る限り大げさではなさそうだ。

本当に産まれてしまうのだろうか。

どうしてタクシーや救急車を呼ばないのだ!


 痛みはますます強くなっているようで、彼女の指の爪がカーペットをかきむしっている。

爪が指から剥がれてしまいそうなほど、彼女の手には力がはいっているように見えた。


 モニターを見ている僕もつい力が入ってしまう。

このまま自宅で産むつもりなのか。

へその緒はどうやって切るつもりなのだ。


 僕はふいに彼女が何度も手首を切ろうとしていた映像が蘇った。

恋人がいたにも関わらず、彼女は監督に強姦されてしまった。

肝心の恋人は深井さんの前から姿を消し、大門監督も責任を取ろうとする意思は皆無だった。

一人で育てようにも実家は貧しくて、学生の彼女には子供を育てる経済力がない。

何よりお腹の子供は十中八九で憎い大門監督の子供だ。

産まれてくる子供に罪はない・・・というのは強姦なんてされたことのない人のセリフだろう。


 彼女は誰にも相談できず、一人苦しんでいた。

八方ふさがりの彼女にとって、残された選択肢は命を断つということしかなかったのかもしれない。

無言電話の僕に彼女はなぜ何もかもを語ったのだろう。

普通は怪しい電話の相手など、ひどく警戒するのが当たり前じゃないだろうか。


 僕はそこまで考えてひとつの嫌な仮設に辿り着いた。

彼女はやはり死ぬつもりではないだろうか。


 あの電話での独白は彼女の遺言だったのではないだろうか。

自宅出産で母子ともに死ぬならそれも運命だと。

なんとか出産できたとしたら、赤ん坊だけでもこの世に残して自分は死ぬつもりなのかもしれない。

病院で出産すれば、母親にバレて迷惑をかけてしまう。

・・・彼女はこの出産を最後に命を断つつもりなのだ。。


「ああ!!・・・痛い!痛い!・・・お母さん・・・やっぱり痛いよ!・・・・あぁ!」

彼女の悲痛な声がモニターを通して僕の部屋に広がっていく。


 僕はふと神様のことを考えた。

有史以前から、たくさんの人間たちが神様の名前を叫びながら死んでいっただろう。

罪のない子供、か弱い女性や老人・・・彼らの死をはるか天空からどういう思いで見つめていただろうか。

目を覆いたくなるような残酷な仕打ちがそこで行われたとしても、助けたくても神様には手がだせない。


 彼女は孤独のうちに苦しみ続けている。

母親にも、杉本にも、チームメイトにも相談できず、誰にも迷惑をかけないようにと一人で苦しんでいる。

誰も彼女の苦しみに気付かない。

彼女に守られていることに気付きもしない。

いま、彼女の辛いを思いを知っているのは僕一人だった。


 僕が隣の部屋に飛び込めば、深井さんを助けることができるかもしれない。

だけど間違いなく僕は警察に捕まって刑務所行きとなるだろう。

彼女はいつも必ず部屋に鍵をきちんとかける。

そこへ合鍵を持った僕が突然部屋に入っていったら、盗撮の件も含めて言い逃れはできない。

深井さんを助けたい。

だけど僕は捕まってしまう。


 僕は相反する気持ちがグルグルと頭の中で追いかけっこをして、一歩も動けないでいた。

そうしている間にもモニターの中の彼女は苦悶の表情を浮かべて痛みに耐えていた。


「痛い!・・・あぁ・・・苦しい! ・・・助けて!・・誰か助けて!・・・・かみさま・・・」


 僕は気がつけば机の引き出しを開けていた。

そこには彼女の部屋の合鍵が入っている。

頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなっていた。

すっとその鍵を掴んで、玄関へと向かう。

こんなキャラだったかなぁと僕は思う。

もっとずる賢くて、冷酷で、他人のことなんて興味のない人間だと思っていたのに。


僕はドアノブを掴んで外に出た。


深井さんを助けることができるのは神様じゃなくて、この僕だ。


続く・・・

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